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怪しい地図記号 その9

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上は前掲図の北、新橋を中心としたエリアである。
前回見た「源助町」「柴井町」を貫通していた通町筋が北上して新橋を渡り、現在の銀座通り(中央通り)の銀座八丁目と七丁目にかかる部分であるが、道の中央を走る破線はご覧の通り新橋を渡らない。
北上(あるいは南下)せず、橋の手前で東西に分かれてしまう。
さらにその破線は「芝口一丁目」の南の通りにもみられ、現在の銀座エリアに至っては主要な道の中央にはおおむねそれが走っている。破線が渡るおもな橋は一石橋、神田橋そして四ツ谷見附の土橋などごく一部の橋で、日本橋や京橋、浅草橋のほか大概の橋は渡らない。
この破線の橋わたりと分布状況はきわめて特徴的である。

もちろん馬車鉄道は新橋や日本橋をわたり、上野山下や浅草まで走行していたのである。
以下は当時の通町筋とそれに架かる新橋で、右上が北になる。
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江戸前期(玉川上水の通水は1654年〈承応3〉)から約250年にわたって巨大都市民の生活を支えてきた神田および玉川の2上水は、江戸東京市街中心部の給水範囲を南北で分け合っていた。
この破線記号は市民生活にとって馬車鉄道よりもはるかに根源的な、路面地下に埋設された上水施設を表示したものと推量される。東京市で旧上水が廃止されたのは1901年(M34)だが、地下水路の地図記号自体はその後も結構な長きにわたって存在したのである(『地図記号のうつりかわり』p.23「地下流水及樋」p.78「地下水樋」p.90「道路下の樋」)。

鉄道馬車路線はその軌道が路面に物理的に刻印されており、馬車鉄道の地図記号が存在したにもかかわらず、1880年代までの陸地測量部系の東京の地図表現においては、表示個所および表示記号の近似から、馬車鉄道より「地下流水及樋」が優先された。
馬車鉄道は鉄道だったとはいえ、停車場ないし停留所をもたなかった。それは途中、どこでも乗客の発声に応じて停車した。そのためもあったろうが、馬車鉄道と上水の対比で言えば、上水は江戸幕府から江戸占領軍が引き継いだ基幹インフラでいわば「官」有財産、方や「民」間会社の施設にすぎない。「官」の地図がいずれを優先するかは論を俟たないだろう。旧上水廃止から馬車鉄道の廃止つまり路面電車走行までには2年ほどの短い間だったから、結局のところ東京の馬車鉄道は陸測系の地図には記載されなかったのである。

ところで本項その7およびその8に掲げた地図に登場する「梯子状」の鉄道記号は、現在の「旗竿」式に至る鉄道記号のイノベーション上大変重要な存在である。つまり梯子がなければ旗竿は誕生しなかった。であるにもかかわらず、梯子記号は5千分1地図以外では用いられた形跡がない。
梯子式鉄道記号の寿命は一瞬だったが、地図記号史上マイルストーンとでも言うべき存在であることは確かなのである。

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