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怪しい地図記号 その10

馬車鉄道の地図記号については手元にある陸地測量部系以外の地図調べが残されているが、新型コロナ感染症騒ぎに同調して国立国会図書館や公共図書館まで厳しい利用制限を課しているため、追跡は中止せざるをえない。
身体の免疫力を低下させるアルコール提供施設の制限等は一定限理解できるが、飛沫感染がメインである今回の新型コロナ感染症において、その恐れの希薄な諸文化施設を利用制限させるのは無意味で害悪ですらある。

とりわけ公共図書館の利用制限は、私に言わせればネットに跳梁する独りよがり亡霊言語に加担し増長させることにほかならないのだが、この列島の大衆言語(共同幻想)レベルはその程度なのかも知れぬ。
まして何万人というレベルで変異ウィルスの「国際交流」を促進するオリンピックを中止とせず、万単位の観客に蛇口を開くとするに至っては阿呆の仕業でなければ不正義そのものと言うほかないのである。
愚かのきわみというべき「第二第三の敗戦」を嘆いてもはじまらないので、本項主題を「鉄道用語」の一部に転じたい。

ステーションならぬステンショが「停車場」となって定着、使用されたのは明治期から大正の初期までだったように思われる。それが本来馬次場所を意味していた「駅」に変容したのは、計画されていた「東京中央停車場」が「東京駅」として開業(1914年)したのが決定的だったろう。この呼称変容に当時「国鉄」のどのような意図が働いていたのか知らないが、古代律令期の駅制にいささか興味をもつ向きとしてはぜひ知りたいところである。鉄道史家の解明に期待したい。

次に気になるのが「踏切」だが、こちらは言葉そのものが奇怪で、由来もわけがわからない。
英語は level crossing(水平交差)で、over crossing や under crossingに対し、鉄道と一般道路が平面で交わる地点の意である。
日本語の「踏切」は本来「ふんぎり」つまり決断の意だから、鉄道メカニズムには程遠い。
要はfooting(歩み入り)を一時遮断するということなのだろうが、この用語の成立についても初期はどのように「遮断」したのかあるいはそれができなかったのか、明治初期の鉄道文書およびその関連文書を渉猟してもらうしかないだろう。

もうひとつは、地名としての「停車場」「停車場前」「駅前」である。
これは実際に旧版地形図にそのように記載されているのであって、以下の図は最近刊行された『鉄道と地図』(須田寛・野々村邦夫著、2021年5月)の第3章地形図の中の鉄道の「鉄道が残した地名」の節に掲載、紹介されているものだが、
ここで指摘したいのはそれらの地名が指示するエリアは鉄道路線の一方の側であって、けっして両側にまたがっていたわけではなかった、という点である。
つまりとりわけ初期の鉄道の改札は基本的に一箇所であり、今日のような「自由通路」が設けられていたわけでもないため、図の立川や国分寺に顕著なように線路の一方(下の図では北側)のみに道路が通じ駅前集落が形成、発達したのであった。だから改札口を出て「駅裏」に向かうのに、「踏切」を越して大回りをしなければならなかった時代は結構長かったのである。そのことを理解していないと、「駅前」や「停車場前」などの地名が示す地域のイメージは正しく把握できない。

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