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怪しい地図記号 その8

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こちらは先に挙げた「五千分一東京図測量原図」の印刷版で、1883年(M17)測量、1885年製版、1887年(M20)8月出版「東京南部」の中央部分。
「源助町」と「柴井町」間の旧国道1号の路面中央を走る線分記号(破線)がより鮮明である。
しかし、よく見るとその西に平行して走る道の西寄りにも(先の彩色原図にも、よくよく見るとこの場所に破線が記載されている)、さらには「源助町」の左上「同(日影町)二丁目」に突き当たる逆L字型の路面中央にも、同様の破線が走っている。そうして、これらの線分記号には表現上の区別がない。つまり記号としては同一の事物を表象しているとみられる。
馬車鉄道がこれら破線部分を同じように走った事実はないから、結論として言えることは、この破線記号は馬車鉄道の路線をあらわしたものではない、ということになる。
新橋停車場に隣接した東京馬車鉄道の社屋を描きながら、そうして馬車鉄道開通(1883:M16)後であるにもかかわらず、目抜き通りの真ん中を走っていた馬車鉄道路線はなぜか描かれなかった。
しからば、この破線はいったい何を表したものか。

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