Archive for the '未分類' Category

JR中央線国分寺駅南の坂を下り、三叉路を左に曲ると、左手は「ブックショップいとう」である。そこで買ったセコハンの文庫本を手に、お向かいの「カフェ・スロー」で一休み。そのレジ手前のブックコーナーに並んでいた雑誌の表紙に「国分寺崖線を極める!!」とあってつい購入、そのまま自転車で研究室に向かう。
研究棟は、武蔵野面の開析谷斜面、新次郎池として知られたハケの際、つまり崖縁に立地しており、春の窓先はクヌギの新緑がまぶしい。それは黄緑というより金色に近い色相。たくさんの蘂が房状に垂れ、亭々たる木々の若葉とともに夕日を反射するからである。その向こう、立川面に展開する住宅地の屋根屋根と、多摩川沖積地を越えた彼方には多摩丘陵が横たわって(「多摩の横山」)いる。つまり、「国分寺崖線を極める」には恰好の場所。

img_1473_2755_edited-1.png

「東京時層地図」の段彩陰影図から、大田区・品川区の一部。ピンは下から、池上駅、大森駅、高輪プリンスホテルの位置。池上付近に「南北崖線」は存在しない

2014年10月刊のオールカラー雑誌『き・まま』4号の26ページから33ページまで、8ページが「第2特集 国分寺崖線を極める!!」に充てられていて、当誌の編集者諸氏は立川市から大田区までの国分寺崖線を文字通り歩き通し、「極めた」ことがよくわかります。私も実は、国分寺崖線を起発から終尾地点まで歩き通したことはない。記事をあちこち読みながら、フムフム、そうかここは行かなくちゃ、などと大変参考になりました。

ところでそのうち1ページは独立した記名コラム記事。冒頭に以下のような記述があって、こちらは大変驚きました。
「国分寺崖線は、古多摩川によって形成された河岸段丘のひとつです。/立川市砂川九番付近に始まり、最終的に大田区西嶺町から千鳥付近で南北崖線(こちらは海によって作られた海食崖)とつながっています。湧き水が豊富であったために古くから人々が住み、縄文時代の古墳があちこちにあります」

縄文時代に古墳は存在しない。古墳とは、古墳時代の特殊な埋葬遺跡に対する称だからです。正しくは「(崖線の上に沿って)縄文時代の遺跡や古墳時代の遺跡(古墳)があちこちにあります」でしょう。編集者も見過ごした、単純な誤記か。ちょっと歴史を勉強した人であれば、笑って済ませられることだから、それほど問題がないかもしれないけれど、もうひとつのほうはそうはいかない。

「南北崖線」というタームが、あたかもそうした地形が実在すると言わんばかりに使用されているのには困ったものです。
たとえば大田区のホームページ「05:池上」には「池上本門寺周辺は、南北崖線という起伏のある地形により、多くの坂道があります。また、崖線の緑は社寺の背景になっており、区の花である梅の名所である池上梅園もそれに連なっています」(https://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/sumaimachinami/machizukuri/keikan/18syoku/05_ikegami.html)
とあって、一般の人が読めば、大田区池上にはそんな崖線、つまり急勾配の連続した斜面が南北に連なっているのか、と考えてしまうでしょう。
しかしそれはまったくの誤りである。池上周辺は南北崖線どころか、呑川の谷を中心に入り組んだ谷が集中する複雑侵食地形地帯である。単純な海食崖の「南北崖線」なら、坂はほとんどが東に下る、あるいは西に向かって上る急坂でなければいけないが、そのような現実は存在しない。

この「南北崖線」という誤った用語の淵源は、1994年(平成6)年発表『東京都都市景観マスタープラン』に登場した「南北崖線軸」という言葉にあると思われます。
そこでは「景観基本軸の景観形成基本方針」として「11の景観基本軸」が挙げられ、「景観基本軸は、東京の景観構造の骨格となっている河川、崖線や幹線道路等を中心とした帯状の地域です。東京の景観づくりをすすめていく上で、特に重要と考えられるもので、積極的な景観形成をすすめていくことが重要です。/マスタープランでは、下町水網軸、隅田川軸、南北崖線軸、都心東西軸、臨海軸、玉川上水・神田川軸、多摩川・国分寺崖線軸、武蔵野軸、丘陵軸、山岳軸、島しょ軸の11の景観基本軸を設定しています」と謳うのでした。

そうして「南北崖線軸」については、「城北から都心を通り城南に至る武蔵野台地東端の崖線に沿った緑の多い軸」とし、「南北崖線軸では、公園緑地や樹林地などをネットワーク化した緑の回廊づくりを中心に崖線の緑をつなぎ、地形や自然を重視した景観づくりをすすめます。/あわせて歴史的・文化的背景を生かした街並みづくり、眺望点の確保など、緑ゆたかな歴史と文化の薫る街を育成していきます」としている。

結局のところ、「南北崖線」ならざる「南北崖線軸」とは、「マスタープラン」作文中の仮用語であったにすぎない。まして「南北崖線」には、地形学的あるいは地質学的な見識は不在でした。
なぜならば、地形・地質上の固有名詞には、模式地を指定した後、対象域のうちもっとも知られ、また適切な地名を選んで命名するのが正しいのであって、場所を特定できない普通名詞、この場合は単なる方位語は、避けるべき第一のことがらであるからです。つまり、「国分寺崖線」や「立川(府中)崖線」に対応できるような地形地名としては、「南北崖線」はそもそも存在し得ないのです。

だから、それは「景観」を言葉として恰好つける文章のなかに、「軸」を付けて用いられただけである。「南北崖線」などという無神経な用語がまかり通るとすれば、それは「東京」以外は目に入らない、「東京人」の蒙昧の故でしょう。武蔵野台地東端の海食崖ラインは、数多くの開析谷によって侵食され、まとまった形として「崖線」をなしているところはごく一部である。だからさすがの都官僚作文にあっても、「崖線」とは言わずに「崖線軸」とゴマ化している。

「崖線」という言葉は、残念ながらまだ一般語として市民権を得ているわけではない。だからこそ、現実対応としては混乱してしまう「南北崖線」なる語は用いるべきではない。
「景観」を大切にしたいのなら、おおざっぱな「線引」用語で「ケリ」をつけるのではなく、遺された「場所」を大切にするためにも、ティピカルな地形とよく知られた地名を用いて、「大森崖線」とか「赤羽崖線」とか、「日暮里崖線」「高輪崖線」とするのが望ましい。それをまとめて言いたいのなら、誤解を避けるために「赤羽―大森崖線ライン」と、少々複雑な言い方は避けられない。それは「日本語」に対する、「東京人」としての最低限の「作法」であるからです。
大田区は、都のナントカ局あたりの作文を鵜呑みにしないで、地元の矜持をもった認識を基本とすべきでしょう。またモノを書く若い人にも、クリティークはオリジナルな思考に欠かせないことに思い至ってほしいものです。

今月初め、東京の主要紙訃報欄は3月4日に鈴木理生(まさお)氏が亡くなったと伝えました。
享年88。死因は肺がんとされましたが、諸方大分弱っておられるとは仄聞していたところ。元来は著者と編集者という関係のお付合いでしたが、自宅が比較的近隣ということもあって、数年前までお互いの行き来もありました。鈴木氏には拙著『江戸の崖 東京の崖』が出たとき、書評で「迷著のような名著である」とお褒め(?)いただき(「図書新聞」2013年2月2日)、まことに恐縮したものです。
氏のいくつかの著作のなかでも『江戸の川 東京の川』(1978)は繰り返し読みました。その「川」と私の「崖」本に、「東京の坂本」の嚆矢となった『江戸の坂 東京の坂』(横関英一、1970。続1975)を加え、そのタイトルの形式から、私は冗談半分にこれらを「江戸・東京地形三部作」と言ったものです。
ご厚誼いただいたことに謝し、あらためてご冥福をお祈りいたします。

ところでインターネット百科事典Wikipediaの「鈴木理生」の項は「日本の歴史学研究者・歴史学者。本名は鈴木昌雄。江戸を対象にした歴史研究をすすめ、地質学や考古学の知見をも活かした実証的な都市史研究をおこなった。とくに、徳川家康が幕府を開く以前の江戸について、あらたな歴史像を提示した」としています。
たしかに「江戸」をメインフィールドとはしていたものの、鈴木氏は歴史学者ではありません。本領は地理学で、また「実証的」というところも正確ではない。「地形」や「都市」の事象をフィジカル(地形的・土木技術的)な面から考究すれば実証的かといえば、そうではないからです。

氏の「業績」は、ともに東京の地方公務員であった菊池山哉のそれにつながる「素人学」あるいは「民間学」の系譜に位置づけられるべきものでしょう。「素人」とは言っても、「番町」に育ち、海軍を経て法政大学に学び、千代田区職員となって「区史」編纂主任に抜擢され、江戸東京史の中心を「勉強」しつつ飯塚浩二や貝塚爽平、前島康彦や杉山博といった著名な「玄人」達と渡り合った方。
数々の「工事現場」にまで臨む旺盛な好奇心と経験に裏付けされた著作は、たちまち人口に膾炙します。
そこには、近世と近代の間で分断されていた学問枠に納まりきれない「素人談義の強み」があったからです。もちろんその「強み」は、「弱点」と表裏の関係をなしていたのです。顧みれば、鈴木理生氏の著作の魅力とは、奔放な「放言」の魅力だった、とも言えましょう。

「学問」と「素人談義」の区別は、論理的批判に堪えうる根拠、および仮説や推測の類をそうであると明示するか否かという点にあります。
江戸時代初期の江戸に関しては、一次史料は皆無と言っていい状態で、その史料空白地帯には、幕末に執筆された諸地誌や菊池山哉の著作など、推論、臆説が乱立します。鈴木氏の著作にも根拠をたどれないもの、仮説をそうとは断らずに言い切ったものがすくなくありません。そのかぎりにおいて、それらは「時代小説」にかぎりなく近いのです。
また素人をして「へえー」と言わしめる氏の「卓見」の一部、たとえば神田川などの都市中小河川が河川改修を経て河床低下したのは、流路のショートカットにより下方侵食が進んだため、といった言説はあきらかに誤りでした。それは洪水対策として人工的に掘り下げられた結果だからです。
学者としての基本を外さない北原糸子氏の著作(『江戸の城づくり』『江戸城外堀物語』)など、実証を重んじる歴史学の周辺に、鈴木氏のさまざまな所説を引用あるいは典拠とする例は見当たりません。

けれども、若い人々、とりわけ都市工学系の「都市史」の徒にあっては、現在流通している鈴木氏の説のうち、根拠を示さない推断や、後に大きく変じた初期の説に依存して、新説というより珍説を展開する例が跡を絶たないのです。「小説」と「学説」を区別すること。鈴木理生氏の棺を覆ったいま、「三部作」者の端くれとして、また出版人のひとりとして、反省、自戒すべきことは少なくありません。
文系アカデミズム一般の閉塞している現在、「民間学」は「学」としての作法を学びなおし、あらたな地平に歩をすすめなければなりません。
その意味で、鈴木氏の著作はあらためて点検され、学び直される必要があるでしょう。

collegio

斎藤実の手紙

昨年9月9日のブログ「仙台の話 ―須藤正衛の肖像画によせて」で触れた「斎藤実」の手紙だが、斎藤実文書に通じた方にみていただいて、以下のように活字に直した。
とりあえず公開しておく。

これは、私の祖父の長兄である須藤義衛門の書簡に対する返信である。
封筒の消印の昭和4年(1929)9月といえば、斎藤が再度朝鮮総督(第5代)として赴任して1月あまりの時だ。

この手紙とそして義衛門の父の須藤正衛(私の曾祖父)の肖像画が何故私の実家の所持するところとなったのか、読んでみてさらに疑問は深まる。
東京にいるという須藤の本家に何らかの伝えがあればそれを聴き、水沢や仙台になんらかの関係資料が残されていないか探す、という作業が残されているが、それはまだ果たされていない。
もちろんその時間がないためでもあるが、何もしていないわけではない。昨年10月には須藤の菩提寺である仙台の寿徳寺には住職宛の書簡を送った。こちらの素性を名乗り、返信用封筒を入れて東京に移った本家の連絡先の教示を依頼したのだが、半年にならんとするもいまだナシのつぶてである。世の中には理解し難いことがいろいろあるが、これもそのひとつか。寺の奥にはユンボが複数台が入り、斜面を整地して墓域を拡張、「大売出し」に専心している様子であるが。

20150305094726_00004a.jpg

〔封筒表〕東京市四谷区南伊賀町八 須藤義衛門殿 貴酬   〔消印〕京畿 4.9.27 后1-3

20150305094726_00005a.jpg

〔封筒裏〕京城倭城台 斎藤実

web3_edited-1.jpg

〔本文〕
 拝啓 益御清勝奉大賀候。陳は先般来度々御懇書ヲ辱クシ難有仕合ニ奉存候。着任已来頗ル繁忙ノ為メ乍思御無沙汰申上何共御申訳無之候。偖木村中将ノ発病ヨリ逝去ニ至ル迠ノ状況御通知被下誠ニ明瞭ニ其経過ヲ知ルヲ得候段感謝申上候。遺憾無涯次第ニ御坐候。又菅原君ノ儀ニ関シ御懇示ノ趣拝承、予テヨリ考慮罷在候問題ニ付当地ニ於ケル四囲ノ状況ハ実際ニ更迭ヲ行フコト頗ル困難ナル場合ニ付、先以此侭ニ致候積リニ候間御含置被下度候。詳細ハ拝晤ニ譲リ申候。
 松井子爵家御什器御処分ノ儀ニ関シテモ御内報被成下難有仕合、少シテモ良好ノ方ニ御処理成候様御配慮奉希望候。
 時局秘気相催候折柄御自愛専一ニ奉被候。 敬具

    九月二十七日                                実

  須藤尊台
     虎皮下

collegio

多摩東部編 補訂版

長らく「品切れ」状態にあった、『川の地図辞典 多摩東部編』ですが、この度「補訂版」を上梓しました。
ついでに東京新聞(2015年3月23日朝刊1面下)にも広告を出しました。

以前のブログで触れた(2015年1月11日)なぎら健壱さんは銀座のご出身ですから、東京は下町がお得意ですが、多摩地域はながらく江戸・東京の生命線である「水」を供給してきた地元。
その水の新旧の姿を、この本を片手に、足で確かめたいものです。

img766s.jpg

『川の地図辞典 多摩東部編』(補訂版、2015年3月25日刊)、360ページ、本体2800円

img767_edited-1.jpg

同書裏見返しから、1888年(明治21)頃の多摩地域とおもな川の図

collegio

秋山豊の漱石

前回に引き続き、秋山さん追悼である。
とは言っても、必要に迫られて棚を整理していたら、かつて複写した新聞の書評が出て来たという偶然があったためだ。
しかし、こうした偶然らしからぬ、暗示的な「出現」は、ひとのよく経験するところかも知れない。
だから、取り上げられた本は他社のものだが、敢えてここに掲げておく。
小社刊『石や叫ばん』の書評はこちらである。

棺を覆いて事定まる、という。
日本の戦後出版界における、秋山氏の仕事の意義は、いくら強調しても強調しすぎることはないと思われる。

img695_edited-1.jpg

collegio

秋山豊という生き方

朝から雪が降っている。
大雪となりそうだ。
今朝の東京新聞の訃報欄は以下のように伝えた。

秋山豊氏(あきやまゆたか=元岩波書店編集者)21日、すい臓がんのため死去、70歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は信子(のぶこ)さん。
93年に刊行が始まった「漱石全集」(岩波書店)の編集を担当した。著書に「漱石という生き方」「漱石の森を歩く」など。

ただただ悲しい。
昨日、棺を覆う直前、酒飲み友達何人かで、一升瓶の酒を少しずつ遺体の周りに注いだ。
驥尾に付し、私も酒を注いだ。

img_9292_0216_edited-1.jpg
遺影となった写真は高桑宏氏撮影

秋山さんが漱石全集の編集で行ったことは、戦後出版界におけるひとつの「事件」であった。
『グーテンベルクからグーグルへ』(ピーター・シリングスバーグ)という本の巻末、「編集文献学の不可能性 ―訳者解説に代えて」のなかで、明星聖子という人は、秋山さんの文章(「ここにおいて、私は、実務の伴わない著名な作家や学者・評論家を名目だけの全集編集者として奉るのはやめたいと思った」『漱石という生き方』)に触れて、「これは〈反乱〉といっていいだろう」と言っている。
しかし、その「反乱事件」の実相を知る人は少ない。

それはこれから、少しずつ明らかになるだろう。

ちなみに、秋山さんはその父、母、叔母の半生をたどった、『石や叫ばん 一九二〇年代の精神史』を著してもいる。

友人から知らせがあって、今朝の朝日新聞読書欄を見たら、「思い出す本 忘れない本」のコーナーで、なぎら健壱という人が、小社刊『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』をとりあげて紹介していた。ありがたいことであるが、文末に「4104円」とありました。定価4000円を超えないよう本体3800円としたのに、「どんどん上がる消費税」にはあらためて腹が立つ。
ところでこの本は、「消えた川」も記録した本であることは確かだけれど、「出版」という観点からは、実はおそらく世界でもはじめての、「地図付地名辞典」なのです。

img672s.jpg

最近、『地図中心』誌(508号、2015年1月)の連載冒頭に、この本のことを書いたけれど、この折に以下それを抄録しておきましょう。

『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』の初版が出て7年が、『川の地図辞典 多摩東部編』(いずれも菅原健二著)では4年半が経過しました。
本邦はもちろんのこと、世界的にも稀な「地名辞典+地図(新旧対照地形図)」の誕生がなにをきっかけとしていたかと言えば、それはとりわけ日本列島の大都市部を中心に、地表の河川の多くが高速道路に覆われ、かつ次々に埋立ないし暗渠化されたという世界的にもマイナーな現実が存在したからにほかなりません。それは、視界から川が消去されてしまったがゆえに、過去および現在の川の存在を明示した地図が必要になる、という逆説でした。
都市河川の所在と地形、言い換えれば地表の凹凸が日常的にはほとんど意識されなくなり、「地形図」にすら明瞭な形では描かれなくなった現実の底からは、振り払っても消えることのない一種の危惧というか、危機感が浮上してきます。
これは現代日本において極端に現われていることとはいえ、大げさに言えば人類の歴史上はじめての事態でもあって、先行業績や類書もすくなく、ために信頼できる個々のデータに依拠しながら、それを水系ごと、地域ごとに割り振り、地図に概括して立項し、個別説明してゆくという作業は、ほとんど個人的営為に終始せざるを得ませんでした。組織力や機械力の一般的となった現在では、しかしこうした、独力でひとつの価値を創造する労作物はまことにすくなくなったとも言えるのです。
惜しむらくは前者は現在三訂版が刊行されているけれど、また後者は初版がほぼ完売に近いけれど、出版事業として類例のないものであるにもかかわらず、逆にそれだからというべきか初版部数自体が少なく、著作者出版社ともにまったく利益を得ているわけではない。
何故ならばこの種の情報は地表の変化や新しい情報に対応して常に「補足・訂正」が加えられ、改版したものが、また世の公に示される必要があるのですが、地域の公共図書館は初版を入れたら2版といえども購入しないのがあたりまえらしい。予算がないからという。世の中には情けなく、愚かなことが多いけれども、これもそのひとつ。
しかしその一方で、ぜひわが地域にもこのような本が欲しい。つくってくれとおっしゃる向きは絶えない。
そうして、その要望が一番多かったのは、横浜地域でした。
もちろん、横浜市の人口は日本の市町村としては最大で、また世界最大の巨大都市(メガシティ)の一部として東京と一体という現実があるからですし、また近世末期からだけれども、都市としての歴史と役割も大きかったからなのでしょう。
 そのため本稿では、とりあえず『川の地図辞典 横浜編』の準備として、日本地図センターの「東京時層地図 for iPad版」の横浜中心部を用いながら、川の所在と地形のありようを、紙幅のゆるすかぎりでみてみることにしましょう。
 なぜならば、横浜は開港やモダン都市にちなむ観光地ではあっても、「それ以前」に目を向ける人は多くはなく、まして「地形」や「川」は地元においても意識されているとはかならずしも言えない状況があるからです。(略)

collegio

ヴィーナスとケンタウロス

img_9103_0108_edited-1.jpg

Happy New Year! 孫は男の子2人 4歳半とほぼ2歳

・・・自然の営為の痕跡は、「水蒸気爆発」と「岩なだれ」という二つの「著しく爆発的な《風景の始まり》」が、「輪廻」のごとく存在したことを告げている・・・
・・・伊豆大島においては、地殻プレートの移動に起因する褶曲運動の結果としての、「正断層」の発生が一連の《大噴火輪廻》の端緒となる・・・

志して現地に転じ、調査を続けて60年。
伊豆大島の地形と地質を解き明かし、火山噴火のメカニズムと実相に迫る、
在野研究者のエッセンスが、35年の歳月を経て、あらたに描き直された。
カラー口絵を含む約70点の描画とその解説が語る、「火山の原像」とは?

img661.jpg

田澤堅太郎(たざわけんたろう)著 ISBN978-4-902695-25-0  C1644
B5判 111ページ 本体2315円+税

田澤堅太郎:1927年、小樽市に生まれる。1948年、札幌管区気象台に勤務し、地上・高層気象観測を担当するも、1年後地震係に転属。1954年、希望して大島測候所に転勤。以来休日を野外の地形・地層観察にあてる。1987年、退職。

collegio

詩 集

小社はじめての詩集を、過般同時2冊刊行しました。
以下その概要と「あとがきのかわり」を紹介掲載します。

仙台に棲息せる稀有の「タダイスト」詩人
はじめての詩集同時2冊刊行!!
―40年にわたる詩作の結晶 ここに公刊―

sayama.jpg

「佐山則夫の詩1 イワン・イラザール・イイソレヴィッチ・ガガーリン」ISBN978-4-902695-22-9  C1092 B5変型判 76ページ 本体925円
「佐山則夫の詩2 ウマーノフはぼくじゃない」ISBN978-4-902695-23-6  C1092 B5変型判 80ページ 本体925円

img580.jpg

あとがきのかわり
はじめての作品活字化同時二点刊行ながら、作者が用意したあとがきはひとつ。いたしかたなきこと、後輩にして編集子であるやつがれが、二作目あとがきは勝手に作文いたしまする。僭越ながら、半世紀に垂んとするお付合い。作者はまことに詩人であって、ほかに言いようがありませぬ。お互い地上に生を得て幾星霜、よくぞここまで生き延びてきたものと来し方を顧みする。元神童やらかつて秀才やらどこぞのお坊ちゃまやらが蝟集した、新設県立高校は宮城県仙台第三高等学校。「一」「二」は進学校としてつとに名を馳せるが、「三」はまだ海のものとも山のものともつかない。いずれも当時は男子校であって、そのなかでもとりわけマージナルな文芸部に属す。作者は早生まれの二回生、当方三回生。文芸部担当教員の一人に、幾許もなく東北工業大学に転じた菅野洋一先生がおられた。月一、二回だったか宿直室をつかって当時刊行開始された日本古典文学大系本とアーサー・ウェイリーの英訳本を並べ、面皰面黒制服に身を包んだ男子どもに源氏物語の講筵をのべられたのは先生であった。不肖弟子共、病を得てお亡くなりと仄聞したものの、その御嬢さんが復興ソング「花は咲く」の作曲者菅野よう子さんとはつい最近まで知らなかった。有名人ついでに言えば、二回生には元日本赤軍の和光晴生、三回生にドクトル梅津ことサックス奏者梅津和時の両氏がいる。同窓ではないけれど、作者名は永山則夫氏と頭一字違い。皆旺盛な「仕事師」でもあり、仙台在住有名人の極北ダダカンこと糸井貫二氏に親炙せる作者の続投が注目されまする。(2114年某月某日、売りものにもするのっ社(之潮))

« Prev - Next »