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法痴国家・東京国家

アベおぼっちゃま政治があきらかにしたのは、この列島に存在するのは近代国家にはほどとおい政治体制、つまり法治国家ではなく、官治国家であった、という事実であろう。
法治国家や法治主義が、タテマエにすぎないのはお隣の中国も同様であって、所詮は官すなわちマンダリン・システム(アジア官僚制)の手のひらから抜け出せていないわけである。

沖縄の辺野古の事態は、国家が地方行政法をも当然のごとく踏みにじる。
「戦争法案」は、国家がその憲法を無視、破壊した典型である。
国家自らが、率先して不法行為を行う。
その尖兵は官鬼や官畜と化す。
明治の御世に谷中村の村民の目や口に、文字通り泥を押し込んだ光景は、いま沖縄で展開されている。
なぜそのようなことが、この国においてまかりとおるのか。
つまりは近代法の根源が、まったく理解されていないのである。

法のもっとも重要なはたらきは、交通信号のごとき「ルール」にあるのではない。
近代法の第一の意義は、権力の恣意を防ぐことにある。
それが社会の公共性やバランス、平等や正義を破壊するからである。

中国の赤い独裁者毛沢東は法を嫌った。
それは、自己の独裁力、つまり恣意が、法によって縛られるのを肯んじなかったからである。
毛(マオ)の中国は、巨大な数の暴力と飢餓による死者を生んだ。
彼の功罪は、罪過のほうがはるかに大きい。
北朝鮮の王朝については、触れるまでもない。
法に掣肘されない権力は社会に塗炭の苦しみをもたらし、あちらこちらに血にまみれたハイウェイを敷設する。
権力をもたない個人の罪と、国家権力のそれを較べれば、罪過は後者のほうが、はるかに、桁違いに大きい。
だから、それを制御するために、近代法が存在する。
近代法は、官を掣肘するために存在するのだ。

しかし日本人が一般に官を掣肘するものとして扱わず、逆にそれに追従するのは、中国とはまた別個の、総ぐるみのごときぶらさがり構造(結局のところ、それはドレイ制の現代形なのだが)が貫徹しているからである。
この前の戦争の教訓が、一般に学習されていない所以である。
3・11という第二の敗戦も、一般には学習されないのである。

現代は平成の御世であるが、平成時代ではない。現代は東京時代であり、東京マンダリン政府が日本国家ならざる東京国家を支配している。
カール・レービットの言う自己批判の学習には、東京そのものが崩壊し、大量のレフュジー(難民)が発生する日を待たなければならないのかもしれない。

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