今月初め、東京の主要紙訃報欄は3月4日に鈴木理生(まさお)氏が亡くなったと伝えました。
享年88。死因は肺がんとされましたが、諸方大分弱っておられるとは仄聞していたところ。元来は著者と編集者という関係のお付合いでしたが、自宅が比較的近隣ということもあって、数年前までお互いの行き来もありました。鈴木氏には拙著『江戸の崖 東京の崖』が出たとき、書評で「迷著のような名著である」とお褒め(?)いただき(「図書新聞」2013年2月2日)、まことに恐縮したものです。
氏のいくつかの著作のなかでも『江戸の川 東京の川』(1978)は繰り返し読みました。その「川」と私の「崖」本に、「東京の坂本」の嚆矢となった『江戸の坂 東京の坂』(横関英一、1970。続1975)を加え、そのタイトルの形式から、私は冗談半分にこれらを「江戸・東京地形三部作」と言ったものです。
ご厚誼いただいたことに謝し、あらためてご冥福をお祈りいたします。

ところでインターネット百科事典Wikipediaの「鈴木理生」の項は「日本の歴史学研究者・歴史学者。本名は鈴木昌雄。江戸を対象にした歴史研究をすすめ、地質学や考古学の知見をも活かした実証的な都市史研究をおこなった。とくに、徳川家康が幕府を開く以前の江戸について、あらたな歴史像を提示した」としています。
たしかに「江戸」をメインフィールドとはしていたものの、鈴木氏は歴史学者ではありません。本領は地理学で、また「実証的」というところも正確ではない。「地形」や「都市」の事象をフィジカル(地形的・土木技術的)な面から考究すれば実証的かといえば、そうではないからです。

氏の「業績」は、ともに東京の地方公務員であった菊池山哉のそれにつながる「素人学」あるいは「民間学」の系譜に位置づけられるべきものでしょう。「素人」とは言っても、「番町」に育ち、海軍を経て法政大学に学び、千代田区職員となって「区史」編纂主任に抜擢され、江戸東京史の中心を「勉強」しつつ飯塚浩二や貝塚爽平、前島康彦や杉山博といった著名な「玄人」達と渡り合った方。
数々の「工事現場」にまで臨む旺盛な好奇心と経験に裏付けされた著作は、たちまち人口に膾炙します。
そこには、近世と近代の間で分断されていた学問枠に納まりきれない「素人談義の強み」があったからです。もちろんその「強み」は、「弱点」と表裏の関係をなしていたのです。顧みれば、鈴木理生氏の著作の魅力とは、奔放な「放言」の魅力だった、とも言えましょう。

「学問」と「素人談義」の区別は、論理的批判に堪えうる根拠、および仮説や推測の類をそうであると明示するか否かという点にあります。
江戸時代初期の江戸に関しては、一次史料は皆無と言っていい状態で、その史料空白地帯には、幕末に執筆された諸地誌や菊池山哉の著作など、推論、臆説が乱立します。鈴木氏の著作にも根拠をたどれないもの、仮説をそうとは断らずに言い切ったものがすくなくありません。そのかぎりにおいて、それらは「時代小説」にかぎりなく近いのです。
また素人をして「へえー」と言わしめる氏の「卓見」の一部、たとえば神田川などの都市中小河川が河川改修を経て河床低下したのは、流路のショートカットにより下方侵食が進んだため、といった言説はあきらかに誤りでした。それは洪水対策として人工的に掘り下げられた結果だからです。
学者としての基本を外さない北原糸子氏の著作(『江戸の城づくり』『江戸城外堀物語』)など、実証を重んじる歴史学の周辺に、鈴木氏のさまざまな所説を引用あるいは典拠とする例は見当たりません。

けれども、若い人々、とりわけ都市工学系の「都市史」の徒にあっては、現在流通している鈴木氏の説のうち、根拠を示さない推断や、後に大きく変じた初期の説に依存して、新説というより珍説を展開する例が跡を絶たないのです。「小説」と「学説」を区別すること。鈴木理生氏の棺を覆ったいま、「三部作」者の端くれとして、また出版人のひとりとして、反省、自戒すべきことは少なくありません。
文系アカデミズム一般の閉塞している現在、「民間学」は「学」としての作法を学びなおし、あらたな地平に歩をすすめなければなりません。
その意味で、鈴木氏の著作はあらためて点検され、学び直される必要があるでしょう。

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