秋山さんの最初の印象は、よくなかった。

男でも女でも、酒場で大きな声で話している人は嫌いである。理屈を言う手合いはもっとイヤだし、何人かと連れ立って酒場に来ているヤツも基本的には警戒し、敬遠する対象である。
秋山さんの第一印象は、これらすべてにあてはまった。以後、新宿ゴールデン街「ナベサン」の傾斜角48度13段の合板階段を上る途中でその声が聞こえたら、警戒警報であった。

ナベサン主人渡辺ヒデツナ氏も大きな声を出したが、理屈は強くない、というより弱い。それで無理に強がりを言うから、逆にくみ易しの印象を与えた。
私がナベサンに通うようになったのは、人というよりは、物質と空間のテイスト、つまり場所に魅入られたからだ。そこにその場所を維持する強がり男(ヒデツナ)が存在したからだ。かような場所を他に知らない。
東京に出てきて半世紀近く、酒を飲みだして同年間、しかし、通った酒場は、甘えた場所は、ナベサン以外はない。

秋山さんに対する印象が変わったのは、漱石全集の編集者としての仕事を知ってからである。私も編集者であった。しかし、彼の仕事ぶりは文句なく第一級であった。その仕事の背後には、まれに見る不羈、そして緻密の性(さが)がとぐろを巻いていたのである。
彼は雑誌や書籍の編集経験を語る際に、自分の片手を握り他方の手の平に叩き付けるようにして、よく言った。「そんなものに、コレが捺(お)せますか」と。
コレとは、岩波書店の本の裏表紙や背にあった、ミレーの「種まく人」の印である。ああそうか、と思った。岩波書店の出版物の「水準」は、このような自負心と不羈の魂によって辛うじて維持されているのだな、と。
仮に「漱石全集」の編集過程が彼のほとんど孤独のたたかいに支えられていたとしても、その淵源は「岩波」の自負心であり、最終的に編集者のこだわりを許容する社の器量が存在したこともたしかである。
かくして日本の近代出版においてひとつの「事件」というべき「(秋山)漱石全集」は誕生した。私はそのことに深く感じ、羨望もしたのである。私は三流の出版社の三流編集者であった。のちに社長と呼ばれるようになっても、その自認に変わりはなかった。

三流出版社の軛(くびき)を脱し、自前のひとり出版社をつくったのはいいけれど、その出発点から蹉跌であった。
ようやくまともな本を世に送れたかなと一息ついたとき、資金は既に払底していた。以来、口に糊するその日暮らしの態であったけれども、そしていまもそうであるけれども、秋山さんの目にはどう映ったのだろう。
批判がましいこと、まして皮肉な言葉も、聞いたことがない。逆に秋山さんから、「上井草通信」の連載を本にしたいが、出してもらえないか、と声掛けられた。製作資金は用意するという。まことに有り難い話であるけれど、すぐに返事が出来なかった。
私のようなところでいいのだろうか、という疑問もあったが、もっと懸念されたのは、秋山さんのような人とさらに付き合うには大変な「制動」が必要だと直感していたからである。
平たく言えば、深い関係となるほどに、喧嘩別れの臨界に近づく予感があったのである。敬しつつ、就かず、が正しい関係と思われた。私は悩んだ。けれどもしかし、私がその申し出にすぐ応諾しなかったことに対し、彼が不満とも不安ともつかない言葉をもらしていたと聞いたとき、引き受けることに決めた。こうして『石や叫ばん』は之潮から刊行された。
しかし私が秋山さんと喧嘩別れすることはなかった。死に別れるとは、予想外であった。

病名が明らかになり、秋山さんが「上井草通信」を終刊と決め、しかし誰か代わって発行を引き受けてくれる人がいないか、とその通信の最後にあったのを目にしたとき、それは私に向かって告げられた言葉だと思った。
通信の発行に必要なものをいただきに上井草のお宅にうかがったとき、秋山さんはそれまでの秋山さんとほとんど変わらない様子であった。お宅にはほかに誰もいなかった。
帰り際、門を出て、生け垣の角で坂を下っていく私を見送ってくれたあの姿を、忘れることができない。

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