JR中央線国分寺駅南の坂を下り、三叉路を左に曲ると、左手は「ブックショップいとう」である。そこで買ったセコハンの文庫本を手に、お向かいの「カフェ・スロー」で一休み。そのレジ手前のブックコーナーに並んでいた雑誌の表紙に「国分寺崖線を極める!!」とあってつい購入、そのまま自転車で研究室に向かう。
研究棟は、武蔵野面の開析谷斜面、新次郎池として知られたハケの際、つまり崖縁に立地しており、春の窓先はクヌギの新緑がまぶしい。それは黄緑というより金色に近い色相。たくさんの蘂が房状に垂れ、亭々たる木々の若葉とともに夕日を反射するからである。その向こう、立川面に展開する住宅地の屋根屋根と、多摩川沖積地を越えた彼方には多摩丘陵が横たわって(「多摩の横山」)いる。つまり、「国分寺崖線を極める」には恰好の場所。

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「東京時層地図」の段彩陰影図から、大田区・品川区の一部。ピンは下から、池上駅、大森駅、高輪プリンスホテルの位置。池上付近に「南北崖線」は存在しない

2014年10月刊のオールカラー雑誌『き・まま』4号の26ページから33ページまで、8ページが「第2特集 国分寺崖線を極める!!」に充てられていて、当誌の編集者諸氏は立川市から大田区までの国分寺崖線を文字通り歩き通し、「極めた」ことがよくわかります。私も実は、国分寺崖線を起発から終尾地点まで歩き通したことはない。記事をあちこち読みながら、フムフム、そうかここは行かなくちゃ、などと大変参考になりました。

ところでそのうち1ページは独立した記名コラム記事。冒頭に以下のような記述があって、こちらは大変驚きました。
「国分寺崖線は、古多摩川によって形成された河岸段丘のひとつです。/立川市砂川九番付近に始まり、最終的に大田区西嶺町から千鳥付近で南北崖線(こちらは海によって作られた海食崖)とつながっています。湧き水が豊富であったために古くから人々が住み、縄文時代の古墳があちこちにあります」

縄文時代に古墳は存在しない。古墳とは、古墳時代の特殊な埋葬遺跡に対する称だからです。正しくは「(崖線の上に沿って)縄文時代の遺跡や古墳時代の遺跡(古墳)があちこちにあります」でしょう。編集者も見過ごした、単純な誤記か。ちょっと歴史を勉強した人であれば、笑って済ませられることだから、それほど問題がないかもしれないけれど、もうひとつのほうはそうはいかない。

「南北崖線」というタームが、あたかもそうした地形が実在すると言わんばかりに使用されているのには困ったものです。
たとえば大田区のホームページ「05:池上」には「池上本門寺周辺は、南北崖線という起伏のある地形により、多くの坂道があります。また、崖線の緑は社寺の背景になっており、区の花である梅の名所である池上梅園もそれに連なっています」(https://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/sumaimachinami/machizukuri/keikan/18syoku/05_ikegami.html)
とあって、一般の人が読めば、大田区池上にはそんな崖線、つまり急勾配の連続した斜面が南北に連なっているのか、と考えてしまうでしょう。
しかしそれはまったくの誤りである。池上周辺は南北崖線どころか、呑川の谷を中心に入り組んだ谷が集中する複雑侵食地形地帯である。単純な海食崖の「南北崖線」なら、坂はほとんどが東に下る、あるいは西に向かって上る急坂でなければいけないが、そのような現実は存在しない。

この「南北崖線」という誤った用語の淵源は、1994年(平成6)年発表『東京都都市景観マスタープラン』に登場した「南北崖線軸」という言葉にあると思われます。
そこでは「景観基本軸の景観形成基本方針」として「11の景観基本軸」が挙げられ、「景観基本軸は、東京の景観構造の骨格となっている河川、崖線や幹線道路等を中心とした帯状の地域です。東京の景観づくりをすすめていく上で、特に重要と考えられるもので、積極的な景観形成をすすめていくことが重要です。/マスタープランでは、下町水網軸、隅田川軸、南北崖線軸、都心東西軸、臨海軸、玉川上水・神田川軸、多摩川・国分寺崖線軸、武蔵野軸、丘陵軸、山岳軸、島しょ軸の11の景観基本軸を設定しています」と謳うのでした。

そうして「南北崖線軸」については、「城北から都心を通り城南に至る武蔵野台地東端の崖線に沿った緑の多い軸」とし、「南北崖線軸では、公園緑地や樹林地などをネットワーク化した緑の回廊づくりを中心に崖線の緑をつなぎ、地形や自然を重視した景観づくりをすすめます。/あわせて歴史的・文化的背景を生かした街並みづくり、眺望点の確保など、緑ゆたかな歴史と文化の薫る街を育成していきます」としている。

結局のところ、「南北崖線」ならざる「南北崖線軸」とは、「マスタープラン」作文中の仮用語であったにすぎない。まして「南北崖線」には、地形学的あるいは地質学的な見識は不在でした。
なぜならば、地形・地質上の固有名詞には、模式地を指定した後、対象域のうちもっとも知られ、また適切な地名を選んで命名するのが正しいのであって、場所を特定できない普通名詞、この場合は単なる方位語は、避けるべき第一のことがらであるからです。つまり、「国分寺崖線」や「立川(府中)崖線」に対応できるような地形地名としては、「南北崖線」はそもそも存在し得ないのです。

だから、それは「景観」を言葉として恰好つける文章のなかに、「軸」を付けて用いられただけである。「南北崖線」などという無神経な用語がまかり通るとすれば、それは「東京」以外は目に入らない、「東京人」の蒙昧の故でしょう。武蔵野台地東端の海食崖ラインは、数多くの開析谷によって侵食され、まとまった形として「崖線」をなしているところはごく一部である。だからさすがの都官僚作文にあっても、「崖線」とは言わずに「崖線軸」とゴマ化している。

「崖線」という言葉は、残念ながらまだ一般語として市民権を得ているわけではない。だからこそ、現実対応としては混乱してしまう「南北崖線」なる語は用いるべきではない。
「景観」を大切にしたいのなら、おおざっぱな「線引」用語で「ケリ」をつけるのではなく、遺された「場所」を大切にするためにも、ティピカルな地形とよく知られた地名を用いて、「大森崖線」とか「赤羽崖線」とか、「日暮里崖線」「高輪崖線」とするのが望ましい。それをまとめて言いたいのなら、誤解を避けるために「赤羽―大森崖線ライン」と、少々複雑な言い方は避けられない。それは「日本語」に対する、「東京人」としての最低限の「作法」であるからです。
大田区は、都のナントカ局あたりの作文を鵜呑みにしないで、地元の矜持をもった認識を基本とすべきでしょう。またモノを書く若い人にも、クリティークはオリジナルな思考に欠かせないことに思い至ってほしいものです。

One Response to “《南北崖線》という「ネーミング」について  ―『き・まま』4号に寄せて”

  1. 木村on 26 4月 2015 at 16:46:31

    芳賀さん、
    日曜の午後の徒然に、……

    縄文時代に古墳は存在しない。古墳とは、古墳時代の特殊な埋葬遺跡に対する称だからです。

    何気なく読めば、ムンクのない論理的文の並列に思えますが、ちょっとモジリ屋~ニなって読み返すと、何となくトートロジーの文が並んで見えます。

    江戸時代に東「亰」は存在しない。東亰とは、東京時代の特殊な時期の表記だからです。

    これと同じでしょう。
    これに触発されていろいろなことば遣いが想起されます。
    まずは、各たこつぼのディシプリンでのみ通用する用語として、例えば「言文一致」(ケータイメール文ではない)、「プロレタリア文学」、「戦前・戦後」(安倍の政策を「戦前」と評する)など、文学史家が勝手に定義している語群があります。
    「石器」は狭義の石器時代以降の鉄器時代にも使われているが、「鉄器」が石器時代に使われたことは無いらしい。
    「縄文」時代の次が「幾何文」時代とか、「弥生」時代の前が「加曾利」時代ならわかりますが、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土・桃山・江戸と続いた万世一系の呼称が突如「明治」に王政「復古」したのは誰のせいでしょう。
    日本語を話すのが日本人か、日本列島に住むのが日本人か、日本国に帰属するのが日本人か、日本民族の血を分かっているのが日本人か、網野善彦・田中克彦のテーマは単一民族論も絡んで、なかなか解決しません。
    本題に戻って、それでは「古墳」って何でしょう? 貴定義「古墳時代の特殊な埋葬遺跡」から出発しましょう。まず、同義反復回避のため、「古墳時代」を時空で「3~7世紀、大和を中心に現東北から九州まで」のカタチにしましょう。次いで、さりげなく絶妙に挿入した「特殊な」は残してここに「王・豪族等有力者の」「一定規模の墳丘を有し」「前方後円形等の類型的形状で」といった面倒な属性を込めましょう。最後の「埋葬遺跡」の「遺跡」、ここが譲れない「イデオロギシュー」です。例えば縄文時代から代々続く「芳賀家の墓」は第127代当主啓氏が存在する限り、第三者が公的許可によって発掘することは不可であるように、あの堺にある大きな丘は、仁徳天皇陛下の墓である限り、発掘の対象にはなりえない、つまりティピカルな「古墳」で在りながら「遺跡」ではない、つまり、「死んだ墓」は遺跡たり得るが、「生きている墓」(←パラド形容!)は遺跡扱いできないのです。
    グレーゾーンにあったのが徳川将軍家菩提寺の芝増上寺で歴代将軍たちの遺骨が「発掘」され、軟らかいものばかり食っていた将軍家はわずか300年15代ほどで、これほど顎骨の退化を示すと、お気に入りの鈴木理生ならぬ尚が畏れ多くも東大の権威で発表したケースです。鈴木にとって学術的には骨のデータさえ採れればよいことで、祟りは怖くなかったでしょうが、多分手続き的には、遺跡発掘の埋文法でなく火埋法により、墳墓の移動に伴う改葬に際しての付随調査というような理屈をつけてやっていると思います。芳賀さんならすぐわかると思うので調べてみてください。木村としては、私墓と公墓を分けて、徳川家の墓でなく将軍職の墓として、公式に遺跡の発掘調査にしておけば、「天皇陵」調査に道が開けると思うんですが……。
    そろそろ結論。
    「古墳」というのを「古墓」と同義の「古い墓」を示す一般大衆用語とすれば、「縄文時代の古墳があちこちにあります」で何ら差し支えないと思います。学問界だって、今や学術文庫入りした藤森栄一『古道』や古代学協会の『古代文化』にケチを付けてもしょうがないことですから。

    付記)冒頭「研究室に向かう」って書いていますが、芳賀さん、研究室を持っているんですか?

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