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地図と権力 その3

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J・B・ハーリーの「地図と知識、そして権力」全15節(序節、第1節・理論的パースペクティブ、第2節・地図の政治的コンテクスト、第3節・地図と帝国、第4節・地図と国民国家、第5節・地図と私有財産権、第6節・権力の行使における地図内容、第7節・意識下の幾何学、第8節・地図における沈黙、第9節・表象のヒエラルキー、第10節・権力の地図学的シンボリズム、第11節・絵画における地図、第12節・地図装飾のイデオロギー、第13節・象徴としての地図的「事実」、結論・地図学の陳述内容とイデオロギー)のうち、いくつかにはエピグラフが添えられている。

序節冒頭は、クリストファー・マーローの『タンバレイン』第2部から

地図をかせ、あとどのぐらいのこっておるのか見たいのでな、
全世界を平定すrのにはじゃよ、・・・・・
ここからじゃよ、わしがペルシアに向けて進撃を開始したのは。
アルメニア、そしてカスピ海へと、
そしてそこからビチュニアへ、そこでわしはぶんどったのじゃよ
トルコとそこの畏き女帝どのの囚われ人たちをじゃ。
そののちわしはエジプトへ、そしてアラビアへと進撃した、
そして、ここはじゃ、アレクサンドリアから遠からぬところでな、
本土と紅海との出合いが、
百リーグにもならぬ距離じゃから、
わしは両地を結ぶ水路を切り開くつもりじゃった
家来どもがインドへ向けて速やかに航海できるようにと思ってじゃよ。
そこから、ボルノ湖の近くのヌビアへ、
引き続きエチオピア海に沿って進み、
南回帰線も越えた、
わしはザンジバルに達するまでのすべてを平定したのじゃよ。

第2節の頭には、プーシキンの『ボリス・ゴドノフ』から

皇帝
 息子よ、何をそんなに熱中しているのだ。これは何だ。
フョードル
 モスクワ大公国の地図ですよ。僕らの王国が
 まるごとわかりますよ。見てください、父上、
 ここがモスクワ、
 ここがノヴゴロド、そこがアストラハン。
 そこは海ですよ、
 ここがペルミの原始林、
 そして、そこがシベリアです。
皇帝
 では、これは何だ。
 曲がりくねったものが跡をたどっているのは。
フョードル
 それはボルガ川ですよ。
皇帝
 いや、これは素晴らしい。素晴らしい成果というものだわい。
 学問のなあ。
 これでは、まるで雲の上さながらに、一眼で見下ろせるというものだ。
 我らが国土全体を、境界も、町も、
 川も。

第6節にはF・G・ハットン『グッドモーニング、ダウ先生』が

「それは同じ地図なんですか?」と、ジンシーは尋ねた。彼女は、ダウ先生の後ろにある黒板の上の、この夏のために取りつけて吊るされている大きな世界地図を指さした。「中国はやっぱりオレンジ色なんですか?」「これは新しい地図よ」とダウ先生は答えた。「中国は紫よ」「私は古い地図のほうが好きです」とジンシーは言った。「私は古い世界地図のほうが好き」「地図作りは液体のように変わりやすい芸術なのよ」とダウ先生は言った。

第10節はG・K・チェスタートン「教育の歌 11地理学」から

地球とは、英国のみつかるところ、
いかに地球儀を回そうともそれは見つかる。
そこを示す場所はすべて赤くて、ほかはすべて灰色だから、
それこそが全英祝日の意味なのだ。

以上4エピグラフである。

しかしながら、「地図と権力」の記述にもっとも相応しいエピグラフは、実は日本語の文学作品に求めることができる。

あらたに三重の×印の家を三つ、二重の×を四つぼくはつくった。刑の執行をおえた家には斜線をひいて区別した。物理の法則にのっとってぼくの地図は書きくわえられ、書きなおされ消された。ぼくは広大なとてつもなく獰猛でしかもやさしい精神そのものとして物理のノートにむかいあった。ぼくは完全な精神、ぼくはつくりあげて破壊する者、ぼくは神だった。世界はぼくの手の中にあった。ぼく自身ですらぼくの手の中にあった。

中上健次の「十九歳の地図」(初出『文藝』1973年6月号)の一部である。
主人公は一人暮らしの新聞配達予備校生だが、物語の筋はここでは紹介しない。
短篇でもあり、文庫にもなっている(映画にもなった由)から興味のある向きは読まれるとよい。
しかしながら、人間の地図的認知の「構造」に関して、これほどみごとな、本質に迫った「陳述」(ステイトメント)は、寡聞にして他に知らない。
地図的認知そしてその想像力は、権力というよりもソフィスティケートされた征服的暴力と言っていい。
地図の絶対的な垂下視線は、そのまま爆撃視座にすり替え可能である。

地図は鳥瞰図ではない。
地図に「彼方」は存在しない。
地図は見下ろすところすべて「足下」である。
それは無数の垂直視線によって維持された、架空の視座なのである。

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地図と権力 その2

「地図は、非人間的な知識として、地図が表す領域を「脱社会化」する傾向がある。そのような地図は、社会的に空虚な空間の概念を育む。地図のもつ抽象的な性質は、現代のコンピューター地図学の画像にも、15世紀のプトレマイオスの平面図の経緯線にも形体化されているが、景観の中にいる人間についての良心の負荷を軽減してしまう。権力の行使に関わる諸々の判断は、直接に頭をつき合わせる接触の世界から切り離されることになる。/これらの考え方は、歴史的なコンテクストの中で、さらに探求される余地があろう。歴史家と同じように、地図製作者は、眼に見える景観の中で権力の編成が顕現化するのを記録する際にも、また社会において権力の編成が定義される際にも、常に修辞的な役割を果たしてきた。表象の政治的意義を無視するような地図の歴史学は、「非歴史的な」地図学へと自らを追いやってしまうことになる。」(出典前掲)

前回につづいて、J・B・ハーリーの「地図と知識、そして権力」の末尾を上掲する。

この文章が収録された書籍The Iconography of Landscape の刊行は1988年だが、その予言的正鵠性には、あらためて驚くべきものがある。

イラク戦争(2003)から今日につづく無人偵察攻撃機(UCAV〈Unmanned Combat Aerial Vehicle〉)の 「グローバル」な跳梁は、人間の認知装置としての地図の「非接触性」ないしは「ゲーム性」の直接的帰結である。

「地図的認知」は、その生成と原理において「権力性」と不可分である。
このことに無自覚のまま、能天気な表現とテクノロジーの系をモノマニアックに回遊するばかりであれば、「地図言説」や「地図学」はついに遊びであり、自覚はされずともその姿形は幼児的「奇形」なのである。

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地図と権力 その1

1987年にJ・B・ハーリーとD・ウッドワード篇のvol.1が刊行された大冊The History of Cartographyの構成は変形ながら以下の6巻である。

Volume 1:Cartography in Prehistoric, Ancient, and Medieval Europe and the Mediterranean.
Volume 2, Book 1:Cartography in the Traditional Islamic and South Asian Societies.
Volume 2, Book 2:Cartography in the Traditional East and Southeast Asian Societies.
Volume 2, Book 3:Cartography in the Traditional African, American, Arctic, Australian, and Pacific Societies.
Volume 3:Cartography in the European Renaissance.
Volume 6:Cartography in the Twentieth Century.

それこそ自分の専門の領域だが強制でもされないとなかなか読む機会がない、というより恥ずかしながら英語に不自由な身、Volume 1を拾い読みというのが正直なところ。

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その篇者の一人、ジョン・ブライアン・ハーリーは1932年イングランドのアシュリー生まれで、バーミンガム大学にまなびウィスコンシン州大学の地理学教員だったが 1991年12月20日59歳の若さで亡くなった。
まことに惜しまれるのは、以下のような文章にも明らかである。

「地図がより幅広い政治的象徴システムの一部になるに至った道筋は、主にエリートや権力者集団、権力者個人と地図の関わりによって、方向づけられてきた。そしてこのために、地図による対話は不平等性を拡大してきた。イデオロギーの矢は、たいていの場合、社会の権力者から弱者へと一方的に飛ぶ傾向があった。文学や芸術、音楽の場合とは異なり、地図の社会史には、本当の意味での大衆的、代替的、あるいは破壊的な表現様式はほとんどないように見える。地図はあくまでも権力者の言語であり、権力に異議申し立てする側の言語ではない。我々は地図によるマスコミュニケーションの時代に入ったが、地図生産の手段は、商業的なものであれ、公的なものであれ、いまなお支配者集団によって統制されている。実際、コンピュータ技術によって、メディアの権力は、このような集約の度合いを高めている。そして地図学は、権力を具現化し、「現状」を補強し、図示された線引きの中に社会的相互関係を凍結させながら、目的論的な陳述内容を保ちつづけている。」(山田志乃布訳「地図と知識、そして権力」の末尾近く。『風景の図像学』収録。原著はThe Iconography of Landscape, 1988)

当方は、人間の認知様式としての地図的俯瞰の生成に関心があるのだが・・・。

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白泉抄14 紅蓮の國

秋の日やまなこ閉づれば紅蓮の國

『疾走する俳句 白泉句集を読む』(中村裕)によれば、「昭和四〇年代」の作と言ふ。
ただちに想ひ起こさるは三橋敏雄の いつせいに柱の燃ゆる都かな なり。

中村氏白泉は敏雄の句を「当然、読んでいただろう」と記す。後者は『まぼろしの鱶』(敏雄、一九六六・昭和四一年)収録と言ふ。一九四〇・昭和一五年の逮捕、執筆活動停止命令以降、俳壇に疎隔、戦後も孤立の途を歩みし白泉なるも、同書出版記念会(同年一〇月)は参席せる故然るべきことなれども、これ等いずれがいずれを参照したるか或は触発されしか、句作時期のまへあと明らかなりと言ふべからず。

白泉死後未発表の戦後句を含むその自筆稿印影本、敏雄の尽力にて発刊されしは一九七五・昭和五〇年にて、白泉敏雄親交薄からざるものありき。敏雄句の白泉句に触発されし可能性なしと断言し得ぬなり。

とまれ冒頭句「秋の日」は八・一五にして瞼裏の回想なり。所謂終戦記念日における、列島の主要部に投下されし核爆弾を含む大規模にして広範な都市空爆の想起なり。然して大戦末期の米軍空襲により、一時なりとも「紅蓮」と化したるは「國」そのものなりき。

対して敏雄句の描くは「一都」すなはち東京なり。朱塗柱の列せし平城、平安に繋がる「帝都」の木造家屋、開発されしナパーム弾効果の極めて高かりしこと掲句の描くごとく、電柱も併せ「いつせいに」燃焼、劫火となりて旋風を生じたり。白泉「國」を詠み、敏雄「都」を描く。視座の落差明らかなり。

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傾城之墓 西国分寺

JR中央線西国分寺駅改札北北東約260メートル、開析谷壁斜面すなはち恋ヶ窪の窪地西端に、真言宗豊山派、武野山広源院、東福寺あり。

寺伝に鎌倉時代初期および享禄元年(1528)開創とあり、元和7年(1621)享保10年(1725)中興と伝ふ。
多摩八十八ヶ所霊場二十八番なりといふ。
旧鎌倉街道に面し、さらに300メートル北に熊野神社ありて東福寺その別当寺なりき。
其の鎌倉街道東200メートルほどには、並行せる古代官道東山道武蔵路の遺構あり。

東福寺境内斜面下に傾城之墓および傾城墓由来二碑あり。
以下由来碑読み下し、またその写真を添ふ。
●一字不詳なり。
教示を乞ふ。

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白泉抄13 桐一葉

桐一葉あるいは一葉、桐の秋、初秋の季語とさる。
「見一葉落、而知歳之将暮(一葉落ツルヲ見テ歳ノ将ニ暮レントスルヲ知ル)」(淮南子)に拠るといふ。

落葉広葉樹「桐」に、シソ目のキリ科のキリ(Paulownia tomentosa)とアオイ科アオギリ属のアオギリ(Firmiana simplex)の二種あり。いずれも東アジアの産なるもアオギリは南方の木なり。

北魏の『斉民要術』前者を白桐、後者を青桐また梧桐に書く。両者広卵型落葉なるも梧桐は掌状三~五に浅裂す。連歌時代は桐ならざる落葉含む例ありとしも「一葉」は次第に桐に定まると。ちなみに『日本大歳時記』(講談社、一九九六)には「柳散る」を仲秋、「銀杏散る」を晩秋に分く。

桐箪笥の桐、鳳凰の桐、紋章五三の桐、これらの桐はキリ科のキリすなはち白桐なるも、古来中国にて季節感を表現せしはアオイ科アオギリ属の梧桐にて、「秋雨梧桐葉落時」(白居易「長恨歌」)その端例なり。

如何あれども一葉は広葉なり。掌ほどに広くかつ重く、葉柄を付したるまま、ガサリ音たてて落下す。
桐一葉落ちて心に横たはる(渡邊白泉)。

昭和四〇年代の句作てふ。心底に横たはるもの、柳や柞(ははそ。コナラ・ミズナラなど)の小落葉にあらず。

「桐一葉日当りながら落ちにけり」(虚子)、「桐一葉月光噎(むせ)ぶごとくなり」(蛇笏)。この二句いづれもつくりごとの感否めず。枯広葉のガサツと落下速度を知らず、「つりがねの肩におもたき一葉かな」(蕪村)も同然也。

「螺線まいて崖落つ時の一葉疾し」(久女)よし。

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謬説wikipediaと出版文化の凋落

学生ならずとも、ほとんどの「説明」はwikipediaでこと足りるとする時代となった。
ネット時代の圧倒的な利便性の賜物である。
紙文化世代末尾としてのわれわれの役割は、せいぜいがその落とし穴への注意喚起であろう。

授業ではとりあえず日本語wikipediaの明白な誤りや矛盾、ないし根拠薄弱やその欠落を指摘したら、成績評価のポイントに加えることにしている。
履修期間、レポートのときどきで、結構反応があるから面白い。

以下は「wikipediaの誤りないし矛盾」の一例である。
昨今巷に流行の都市地形や都市地誌に関連して、ここでは「神田上水」をとりあげる。
神田上水は近世江戸草創期に創設された江戸市中の給水施設であるが、wikipediaでは以下のような定義ないし概括としている(2017年8月31日閲覧)。

「神田上水(かんだじょうすい)とは、江戸時代、江戸に設けられた上水道で、日本の都市水道における嚆矢である。江戸の六上水のひとつであり、古くは玉川上水とともに、二大上水とされた。」

この後に「天正日記」からの引用とそれをもとにした記述が並ぶのであるが、「天正日記」自体が偽書とされていることについて、つまりその引用の当否はここでは云々しない。いま問題とするのは「日本の都市水道のおける嚆矢である」と断言している点である。

「嚆矢」は「ものごとのはじめ」であるが、「日本の都市水道」をどのように定義するかで話はまったく別になる。
すなわち古代の飛鳥、奈良の都からあたりから話をはじめなければならないかも知れないのだが、関西の話はさておいて、関東にかぎってみても都市水道のはじまりが江戸でなければならない必然性はないのである。

wikipediaの「小田原早川上水」の項を見てみよう。

「小田原早川上水(おだわらはやかわじょうすい)は、早川を水源とし、神奈川県小田原市内を流れる上水である」と概括し、その後に「正確な成立時期は不明だが、北条氏康(1515年 - 1571年)が小田原を支配した頃に小田原城下に水を引き入れるために成立したものと考えられている。1545年2月に小田原に立ち寄った連歌師の紀行文『東国紀行』中にこの上水に関する記述が見られることから、それ以前には成立していたものと推測される。それ以前にこの上水以外の上水の成立が日本国内で見られないことから、日本最古の水道とされる[1]」(同前)としている。「1 石井啓文『小田原の郷土史再発見』夢工房、2001年」の文献根拠付である。

神田上水の草創につては前述のように根拠(文献)は薄弱で一次史料としては無に近く、しかも徳川家康の江戸入府(1590年)以後であることは確実であるから、すくなくとも小田原早川上水が神田上水より半世紀近く前に設けられた小田原城下上水施設で、中世末期から近世にかけての日本都市水道の「さきがけ」であることは明らかである。

江戸言説もいい加減に道灌伝説や家康伝説から抜け出して、正当に江戸氏時代や北条氏時代をさぐるべきであろう。神田上水以前の「小石川上水」が、北条氏の江戸城下の水源であったかも知れないのである。「水道橋」がなぜあの位置、つまり神田三崎町下に存在するかについて触れたものも寡聞にしていまだ知り得ない。
いずれにしても現今のwikipediaの神田上水の記述は「正しさ」にはほど遠く、「東京一極ジャーナリズム」に影響されたひとりよがり話と笑われても致し方ないであろう。

「誤り」という範疇からは外れるが、「百科事典」記述上問題となる不適切文例もひとつ挙げておこう。これも地名がらみであるが

「お花茶屋/地名の由来[編集]/江戸時代、江戸幕府八代将軍の徳川吉宗が鷹狩りに興じていた際に、腹痛を起こした。その時、名をお花という茶屋の娘の看病により快気したとの言い伝えがある。この出来事により、現在の地名を賜ったとされている。」(同前)

この文章では、「お花」というのが「茶屋」の名なのか「娘」の名なのかが判別できない。
常識的には、「お花」という名の娘がいた茶屋であろうが、それを確たるものとするためには「その時、茶屋の娘お花の看病により快気した・・・」と書かなければならない。

wikipediaが具体的にどのようなしくみで運営されているのか承知しないが、私もその利便に与っていることは確かである。だからそのシステム維持のための寄金には僅少ながら協力している。しかしウラの取れていない謬説が大きな顔をしていたり、権力意志やおおきな金が裏で動いていると推測される姿にしばしば遭遇する。顔の見えないネット情報は、基本的に無責任であり、闇世界であり得る。

これに反して、紙の出版文化は一般的に著作者名やその略歴を記載し、場合によってはその顔写真さえ掲載される。だから「顔が見える」。一見して、責任の所在が明らかである。
ところが昨今ではテレビ・雑誌はおろか書籍においても、ウラのとれていないネット情報をもとにしながら、適当な参考文献名を並べて体裁をつくろった「本」、あるいは先行研究を切り貼りしながら、典拠を示さずカラー図版付でオリジナルを装った「駄本」のたぐいが次から次にプロダクツされている。
書店店頭は、業界諺「柳の下にドジョウ6匹」どころか1ダース以上のドジョウが常に棲息している様相である。だから書籍も「文献」ないし「根拠」たりえるものとそうではないものとに二分され、前者は圧倒的に少数で書店で見かけることもあまりない。現代日本の出版文化の「主流」は、緩慢な自殺に向かっていると言っていいのである。

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農耕牧畜と国家の終焉

農耕牧畜と国家の起源は近接しているか一致している。
国家の定義によって大分異なる面が出てくるだろうが、いずれにしても農耕牧畜社会以前の狩猟採集社会に国家が存在し得なかったことは確かであろう。

農耕牧畜(業)社会から工業社会へ、そして情報業社会へと、社会変容は単純化してとらえられる。
このプロセスモデルのいずれにおいても、国家は存在している。
しかしながら、ホモサピエンスの出アフリカは約20万年前。
農耕牧畜が開始されたのは約1万2千年前とされるから、「人類史」のなかでそれは圧倒的に短い時間である。
国家も同様に、まったく最近の発生体に過ぎないのである。

そうして、農耕牧畜に基盤を置いた(今なお基本的にはそうであるが)人類史の「歴史時代」は、例外的に温暖で安定した気候の賜物だった。

この安定期が破られるとすれば、それは近年の人為がなせる「地球温暖化」の結果ではない。
自然は、いかなる人為をも凌駕する。

かつて人類史の圧倒的な時間を覆っていた氷河期。
それは激烈な寒冷と温暖が交代する「異常気象」の常態期を意味していた。
平野はたちまちのうちに海面下となり、それは幾度も繰り返される。
豪雨も旱魃も、豪雪も間断なくやってくる。
「異常気象」の常態期に、農業も牧畜も存立することはそもそもあり得ない。
生存できる人間も、多様な生物に紛れ、そのなかで許容された数でしかあり得ない。
そこでは国家はもはや意味をなし得ない。

農耕牧畜文明社会は、人類史の「発達」によって誕生したのではない。
それは、「たまたま」の条件のもとで発生した、つかの間の「繁栄」にすぎないのである。

中川毅『人類と気候の10万年史』(2017)を読んで、そう思った。

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評林 白泉抄11

「敗戦」を「終戦」、「占領」を「進駐」、果ては「事故」を「事象」と糊塗するごとき「精神勝利法」(『阿Q正伝』)の亜流に異ならず、大陸はいざ知らず斯くの如き欺瞞今日の列島に通用せること怪しき様なり。然れども当1945年(昭和20)、32歳の白泉「終戦」と前置し次の句をものしたり。

新しき猿又ほしや百日紅

此の句につき、銅版画家にして詩人なる橋本真理その著『螺旋と沈黙』(1978、大和書房)に「埒もない木登りをしては失墜する猿に天皇制を託した暗喩」の誤読を認(したた)む。而して中村裕氏「その読みも可能だ」と誤釈を肯んぜり。曰く「「猿又」は、「猿股」と「猿、又」の両様の解釈ができるようにこれをつくったのではないだろうか」と(『疾走する俳句 白泉句集を読む』2012年、70頁)。

然(さ)り乍(なが)ら此れ全くの誤読なり。敗戦当座列島世相は「神州無敗」「大日本帝国教(カルト)」崩壊に茫然自失、解離症に陥りしこと、俳壇の大ボス高浜虚子の「秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみぞ」てふ無惨なる終戦句に明らかなり。そも「新しき猿」とは何ぞ、新種の猿人ならんか。「国体」すなはち「天皇制」護持され、退位もせず、「失墜」もとよりなし。白泉斯の如き政治少年少女の「深読み」と元来無縁なり。

「猿股」は江戸時代より列島に着用ありし男子の短ももひきにて、当句においては「娑婆」の象徴なり。その対極にありしは陸海軍入営時1人3本給さる「制服」越中褌(ふんどし)にて、当褌を含め官品紛失は営倉ものにて候ひき。「猿又」(=猿股)は、1944年6月横須賀海兵団に応召入隊、函館黒潮分遣隊にて敗戦の「玉音」を耳したる白泉の胸中に湧き上がりし「物象」に他ならず。

然してサルマタよりサルスベリに直行する駄洒落諧謔、日本教(カルト)の愁嘆場を無化、脱化、茶化して余りあり。これひとり生理或は生活上の皮膚感覚を梃に「終戦」に対し得たりと言はざるべからず。「大衆の原像」(吉本隆明)なるものありとせば斯かる諧謔にこそ其の裳裾を見ん。「8・15」を率直と卑近に現前せしむ名句と存じ候。 

【関東造盆地運動 Kanto basin-forming movement】
 関東平野の中心部が第三紀末以後、とくに第四紀に盆状に沈降し、平野周辺が隆起してきた地殻運動。1925年に矢部長克は関東平野の段丘面の高度分布や平野周辺の鮮新世―更新世の地層の傾きから関東平野は一つの構造盆地と考え、関東構造盆地(Kanto tectonic basin)の名を与えた。これは日本の陸上では最大の曲降盆地であり、それを埋めた堆積物により関東平野が形成されている。
 地質学的研究によると中新世の沈降帯は関東平野の西縁を南下して三浦半島・房総半島南部に続いていたが、鮮新世には黒滝時階の変動以後沈降の中心が房総半島中東部に移り(上総層群の堆積で示される)、その後さらに北西に移動して更新世中期には東京湾の東北部に位置し、関東造盆地運動とよぶのにふさわしい形となった(下総層群の堆積で示される)。下末吉面の高度分布によると、更新世後期には沈降の中心が東京湾北部と古河付近に生じたことがわかる。どうしてここに造盆地運動が生じたのか、またどうして沈降中心が移動したのかは明らかではないが、ここが東北日本弧と伊豆―小笠原の夾角にあたることや、この地域の南のプレート境界とみられる相模トラフがあることと関係があると思われる。なお関東造盆地運動による中心部の沈降速度は、更新世を通じてほぼ1m/1000年であった。(貝塚爽平執筆項目。町田貞ほか編『地形学辞典』1981)

「盆地」ねえ。
「地形」は地表を見ていただけではわからない。
 建築系の景観論者のダメさ加減は、「見えている」「現在」への依存度に拠る。
 地形は地下にもとづき、さらに海につづく。否、海からつづく。
「関東造鉢(ぞうはつ)運動」のほうが、言葉のイメージとしては適切だ。
「基盤岩」をたどれば、関東平野全体が浅鉢のかたちを成していることがわかる。
逆に言えば、最深部で地下3キロほどにある基盤岩の層をイメージできないと、この概念は理解できないことになる。
 今日放映のテレビ番組(テレビ東京「車あるんですけど」2017年7月30日)の「絵」を見ていてそう思った。
「盆地」では、イメージは地表の「凹凸」で止まってしまって、肝心のところまで思考が及ばないのである。
 ただし「東京の地下3000メートル」は沈降の中心部の基盤岩までの深さなのであって、その上に乗る「上総層群」や「下総層群」はずっと浅いところにある。番組では説明不足でした。
 江戸・東京は沈降の中心だから岩がない。崖があるとしても窪みにたまった土の崖だから、岩に彫り付ける「磨崖仏」も存在し得ない、というメッセージは伝わったかな。

 もっとも、番組中最大の失態は「アカテガ二」のことを「ベンケイガニ」と言ってしまっていたことだが。
 彼女、あがっていたのかな。
 車のなかでは耳にタコができるほど「アカテガ二、アカテガニ」と言っていたのに、どうして間違えるかな。
 収録後の「編集」でトチッたかな。
 他のカニとくらべて標高が高いところに棲息するアカテガニこそ、「猿蟹合戦」の主役なのです(これは私の説)。

 番組の最初のほうで私が言った「崖は動く」というテーマは、日暮里と銚子屛風ヶ浦で説明する仕掛けを考えていたのだけれど、屛風ヶ浦に車が着いたときはすでに日が暮れていた。
 投光器を使って撮影はされたが、結局カットされてしまった。
 まあいいか、そこまで言うと私だけが「立ちすぎる」からな。

 今度は単独でアカテガニに会いに鵜原まで、またちょっと足をのばして、崖地形の名勝「おせんころがし」まで行ってみよう。安房勝浦はおもしろいな。隆起と侵食でできた「風隙」(wind gap)もたくさん見られるようだし。

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