2004年5月に之潮から発刊した『多摩地形図』(清水靖夫編)は、都市計画東京地方委員会による大戦末期の極秘大縮尺地図(162図幅、1942‐44、原図は1:3000)という類例のないもので、索引と解説、対比せる現代地図も付け加え資料的にも万全を期したが、収録域に資料未発見のための空白域を残していた。

この度入手できたのは、このシリーズを引き継いだ戦後まもなくの13図幅で、そのうち4図幅は『多摩地形図』未収録地域、すなわち「5-4通南」「5-5高山」「5-8新川」(以上、三鷹南部)、「18-2国分寺西南部」(国分寺西部)である。13図幅のうち8図幅の左欄外に「昭和二十八年三月測量」「東京都建設局」とあるので、作成年は1953年、作成主体は東京都である。

13図幅ともに用紙は製図用の厚紙で、それぞれに1942‐44年段階の測量図を薄藍のインクで印刷している。その上に、戦争末期ないし敗戦直後の空中写真(米軍撮影情報が提供されたものであろう)から読み取られた情報、地形、地物が墨色で乗っている。一見、墨色の加刷とみえるが、何箇所かホワイトで修正した痕があり、製図インキングと判断される。薄藍は製版用フィルムに感光しないため、その上に墨で新たな測量結果を清絵製図した改測製版原図であろう。

4図幅以外は『多摩地形図』収録範囲であるものの、敗戦直後の情報であらたに描き改められており、また「戦時改描」のため空白部とされていた部分についても情報を得ることができ、『多摩地形図』を補う以上の意味をもっていると言える。

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上に『多摩地形図』未収録の18-2「国分寺西南部」の一部を掲げる(2段階拡大可)。

左端の南北道路は府中街道。上辺でそれに斜めに交差しているのは多喜窪街道。下辺でそれに並行する等高線の束が国分寺崖線である。

多喜窪街道と国分寺崖線の間に「逓信住宅」が整然と並んでいる。ここは現在では2004年に開園した都立武蔵国分寺公園西元地区となっている。
右半中央付近八幡神社脇の「国分寺」は国分寺薬師堂で、右下の寺記号付きが国分寺本堂になる。
国分寺本堂の北東で国分寺崖線を抉(えぐ)って小さな池が描かれているが、これが「ハケ」地形のひとつで「お鷹の道・真姿の池湧水群」最奥水源である。

国分寺崖線が西側で大きくM字型に陥入している。現在では住宅地となってこの地形は曖昧であるが、これは「ハケ」の侵食谷壁を利用した「東山道武蔵路」の段丘崖傾斜部、すなわち切り通し坂の跡であると思われる。すなわち、私の言っている「坂の5類型」のうち「谷道坂」を利用した「切り通し坂」で、第5類型の「複合坂」のひとつである。

この「M」字の出現は、「M」の左(西側)のタテ筋が本来の侵食谷であり、その「谷裾」を利用して切り通し坂(「M」の右側のタテ筋)が開削された結果であろう。発掘保存された「東山道武蔵路」はこの右筋の延長にあたる。

(『季刊Collegio』No.66、2017年秋号掲載。一部訂正追加)

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