レヴィ=ストロースのこの本の第1部はLA FIN DES VOYAGES(旅の終わり)と名づけられ、その第1章のタイトルはDEPART(出発)、そうして最終部(第9部)がLE RETOUR(戻り)とされている。
この作品の全体がひとつのサイクル(回帰)を表しているのはその1で述べた通りである。
いまなぜレヴィ=ストロース、否『悲しき南回帰線』かと言えば、世界的なパンデミックのただ中にあって、ヒト(ホモサピエンス)の20万年にわたる歴史と、現在われわれひとりひとりの生きる姿あるいはその意味が、赤裸々に照り返されていると思うからである。
先にも触れたように、著者は1950年に短期間南アジア(現在のインド、パキスタン、バングラデシュ)を訪れた。
その経験と考察は上巻の後半の一部分、第4部LA TERRE ET LES HOMMES(大地と人間)の第14章 LA TAPIS VOLANT(空を飛ぶ絨毯)、第15章 FOULS(群衆)、第16章 MALCHES(市場)および下巻の末尾すなわち第9部LE RETOUR(回帰)の第39章 TAXILA(タクシラ)、第40章 VISITE AU KYONG(チョンを訪ねて)に反映されている。
この本に示された「新石器時代文化」を生きる絶滅直前のアマゾン地域先住者たちと、「熱帯の異常なかびの繁殖」(第39章)のごとき南アジアのヒトの群れの恐ろしいまでの「数」の対照は、今日さらに極限化しているといっていい。「新世界」についての考察は「旧世界」様相と対比され、新旧界が失われ時空が縮小した地表のヒト社会の未来が遠望される。
カラチで見た巡礼者用宿泊施設について作者は「捕虜収容所を除いては、人間がこれほどまで肉屋の肉と混同されたことは、かつてなかったことだ」(第14章)と記した。
繰り返すが、この作品が執筆されたのは1954年10月から翌年3月の間で、第二次世界大戦の終結から10年を経ていなかった。ユダヤ人家庭に生を受けた31歳の著者が、ブラジルでの調査の後ヴィシー政権のフランスを脱出してマルティニック諸島やプエルトリコを経由しニューヨークに着いたのは1941年のことであった。
この作品はどこにも、ナチスによる約600万人におよぶユダヤ人の計画的殺戮(ホロコースト)について記すところはない。しかし、自ら「根源的(ラディカル)な悲観論者(ペシミスト)」と称し(川田完訳本冒頭「二十二年のちに」の「対談」。ただし「対談」は「中公クラシックス」版では割愛されている)、その最終章に「世界は人間なくして始まった。そして人間なくして終わるだろう」という有名なaphorismをもつレヴィ=ストロースの人類史を望見するまなざしは、当然ながら明るいものではない。
以下は第14章の末尾の訳文対照である。冒頭は「カースト制度」についての言及で、訳文の一部については川田訳「人間による人間の価値剥奪」を至当とする。
「このインドの大失敗は一つの教訓を示している。あまりにも数が多くなると、その思索家たちの天才をもってしても、社会は隷属を分泌しながらしか永続できないと。人間が地理的、社会的、精神的空間に狭さを感じはじめると、簡単な解決策に誘惑される危険がある。それは人類の一部にその資格を拒むことである。それで数十年間は、それ以外の者たちは自由に振舞えるだろう。するとまた新たな放逐にとりかかる必要が生れよう。こうした見解からすれば、この二十年来ヨーロッパが舞台となったさまざまな事件は、人口が二倍になった一世紀間を縮尺しているのであって、一民族、一学説、あるいは人間の一集団の錯誤の結果とは、わたしにはもはや思われない。南アジアがわれわれより一千年あるいは二千年前に経験した、そして繰り返し一大決意をもって当らなければ、おそらくはわれわれも乗り越えることはできないであろう終末の世界の方への進展の前触れを、わたしはむしろそこに見るのである。なぜなら、人間によるあの人間の組織的な価値の切り下げが蔓延しているときに、一時の汚染という申し開きによって問題を遠ざけることは、あまりにも偽善であり、あまりにも無自覚でもあろうからである。
アジアでわたしを震撼させたものは、アジアによって先に見てしまった、われわれの未来のイメージだったのである。インディアンのアメリカとでは、わたしは、空間がその世界の調子と同じ速さであった時代の、そして自由の行使とその特色との間の十全の関係が続いていた時代の、そこでは束の間ではあったが、その反映をこの上なく愛する者である。」
(室訳)
「インドのこの大失敗は一つの教訓をもたらす。つまり、あまりに多くの人口を抱え過ぎたことによって、その思想家たちの天才にもかかわらず、一つの社会が隷従というものを分泌しながらでなければ存続できなくなったのである。人間が彼らの地理的・社会的・知的空間の中で窮屈に感じ始めたとき、一つの単純な解決策が人間を誘惑する怖れがある。その解決策は、人間という種の一部に人間性を認めないということに存している。何十年かのあいだは、それ以外の者たちは好き勝手に振舞えるだろう。それからまた、新しい追放に取り掛らなければなるまい。こうした展望のもとでは、ヨーロッパが二十年来[1935-55]、その舞台になって来た一連の出来事--それはヨーロの人口が二倍になった過去一世紀を要約している--は、私にはもはや一民族、一政策、一集団の錯誤の結果とは思えないのである。私はそこに、むしろ終末世界へ向う一つの進化の予兆を見る。その進化は、南アジアが一千年か二千年、われわれより早く経験したものであり、われわれも余程の決意をしない限り、恐らくそこから逃れられないだろうと思われるものである。なぜなら、この人間による人間の価値剥奪は蔓延しつつあるからだ。それに感染する危険は一時的なものに過ぎないといって問題を遠ざけることは、あまりに偽善的で無自覚なことと言わなければならないであろう。
アジアで私を怖れさせたものは、アジアが先行して示している、われわれの未来の姿であった。インディオのアメリカでは、私は、人間という種がその世界に対してまだ節度を保っており、自由を行使することと自由を表す標(しるし)とのあいだに適切な関係が存在していた一時代の残照、インディオのアメリカにおいてすら果敢ない残照を、慈むのである。」
(川田訳)
最近女房がみつけた古い講談社文庫『悲しき南回帰線 下』の奥付ページには、「1971年8月25日第1刷発行」の記載の脇に「1975.2.3 F.Q.」という私の書き込みがあった。「F.Q.」とはわが名の中国語発音表記イニシャルである。
室淳介の完訳は、単行本ではなくこの講談社文庫本で上梓されたようだ。
その完訳が出て3年半後、つまり45年前に私が通読したことは確かで、大学を中退後焼肉屋の皿洗いや宿直警備員を経て、事実上倒産した教科書会社の電話番のようなことをしていた頃である。
それから後は歳月茫茫、気が付けば古希をまたぎ1年を経た。
世界パンデミックのただ中に半世紀ちかくを経て再読、ふたたび感動をたしかめることができたのは、全9部計40章のうち、第7部「ナムビクワラ族」第27章「家族生活」の最終パラグラフ、レヴィ=ストロースがブラジルの奥地で懐中電灯の光をたよりに手帳に書きつけたという、次の箇所である。
両訳を並べるが、ここではもはや不明瞭な部分は存在しない。訳文の次元を遥かにこえて、描写と受感の圧倒的な差し潮に身を委ねるしかないのである。
「薄暗い草原の中で、キャンプの火が幾つか輝いている。やがて来る寒気に対する唯一の保護であるその火を囲み、雨風の吹き込みそうな側の地面に急いで建てた小枝とやしの葉のか細い衝立のうしろで、地上の富のすべてである憐れなものの入った笊籠を横に置いて、敵意と恐怖とを持ち合っている他の集団につき纒われているその周辺に広がる地面に身を横たえ、しっかりと抱き合った夫婦は、日々の生活の苦しさと、ときおりナムビクワラ族の魂の中に入ってくる夢想と憂愁に対して互いの支えであり、慰めであり、唯一の救いであることを思い知るのである。初めてインディアンと共に草原の中に露営する訪問者は、このあまりにも食物を取り上げられてしまっている人類の姿を眼の前にして、憐みと苦悩とに捉えられるのを感じる。まるで、ある遁れ得ない大変動によって、敵意を持つ大地の地面に圧しつけられ、瞬く火の側で裸で寒さに慄えているようだ。訪問者は焚火の光の暖かい照り返しでそれとわかる手や腕や胴に突き当らないように、茨の茂みの間を手さぐりで歩きまわる。しかし、このすべてを奪われた世界も囁きや哄笑で賑わっている。夫婦は失われた結合を思い懷しんでいるかのようにひしと抱き合っている。そこには測り知れぬ優しさと、深い呑気さと、素朴で魅力的な動物のような満足感とが感じられ、これらのさまざまな感情が集って人間的愛情の最も感動的な、最も誠実な表現のような何ものかが感じられる」
(室訳)
「暗い草原の中に幾つもの宿営の火が輝いている。人々の上に降りて来ようとしている寒さから身を守る唯一の手立てである焚火の周りで、風や兩が吹き付けるかもしれない側に、間に合せに椰子の葉や木の枝を地面に突き立てただけの壊れやすい仮小屋の陰で、そして、この世の富のすべてである、貧しい物が一杯詰った負い籠を脇に置き、彼らと同じように敞を意識し、不安に満ちた他の群れが散らばる大地に直かに横だわって、夫婦はしっかりと抱き合い、互いが互いにとって、日々の労苦や、時としてナンビクワラの心に忍び込む夢のような侘しさに対する支えであり、慰めであり、掛け替えのない救いであることを感じ取るのである。初めてインディオと共に荒野で野営する外来者は、これほどすべてを奪われた人間の有様を前にして、苦悩と憐みに捉えられるのを感じる。この人間たちは、何か恐ろしい大変動によって、敵意をもった大地の上に圧し潰されたようである。覚束なく燃えている火の傍で、裸で震えているのだ。外来者は手探りで茂みの中を歩き回る。焚火を熱っぽく反映しているのでそれと見分けられる手や、腕や、胴にぶつからないようにしながら。しかしこの惨めさにも、囁きや笑いが生気を与えている。夫婦は、過ぎて行った結合の思い出に浸るかのように、抱き締め合う。愛撫は、外来者が通りかかっても中断されはしない。彼らみんなのうちに、限りない優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、満たされた生き物の心があるのを、人は感じ取る。そして、これら様々な感情を合せてみる時、人間の優しさの、最も感動的で最も真実な表現である何かを、人はそこに感じ取るのである」
(川田訳)
前回とり挙げた最終章の一部の室訳と川田訳比較では、まず章タイトルの「チョン」と「チャウン」の違いが目立つ。
「チョン」よりは「チャウン」のほうがそれらしく思われるが、知人の教示によって確認しえた原文の章タイトルはVISITE AU KYONGである。
グーグルマップでチッタゴンの範囲をしらべると、KYONGは見あたらないがChinkyongの地名は確認できる。
ChinkyongとKYONGの関係がどのようなものか、仮にChinkyongがKYONGにあたるとしても、いまそこに旧ビルマ系住民や仏教寺院の存在をみとめることができるのかどうかは、不明というほかない。
ミャンマー(旧称ビルマ)とバングラデシュが隣り合うエリアの仏教系とイスラム系住民の抗争は、イギリス植民地時代に端を発し、旧日本軍の侵入もそれに輪をかけ、現在のロヒンギャ難民問題にまで直結しているからである。
さて、とり挙げたところは比較的理解し易い箇所で、両訳もそれほど違いは目立たない。
しかし部分的にみると、ともに難解であったり、一方が文字通りの拙訳と思われるところが指摘できる。
前者の例は次の個所である。
「すべて根本的な批判に帰着するが、人類は批判が永久に可能であることを示すはずがないので、批判の窮極において、仏教は物と存在の意味との拒否として悟るのである。」(室訳)
「そこでは、すべては一つの根源的な批判に還元される。人間は、その批判の力が自分に具わっていると主張することがもう永久にできないとされているので、批判の果てに、聖賢が事物と人間の意味の拒否へと道を拓いてくれる。」(川田訳)
後者の例は、
「結局、精神と、迷信も生命を吹き込むことのできなかった亡霊とは、すでにあまりにも現実的な祭司たちにとって代られ、彼らはこの下界の圧しひしぐ重みに、さらに天界の重みを加えて、天国の一手販売を許される。」(室訳)
「結局のところ人は、迷信も生命を与えることができなかった精霊や幽霊を、すでに現実的すぎるほど現実的な師たちで置き換えたのである。その上、この師たちに人は来世の専売権を認め、その結果、すでに圧倒的なこの世の重みに、さらに来世の重みをも付け加えたのである。」(川田訳)
こうした対比から、川田訳が訳者自らが理解し、さらに読者の理解を促そうと努力工夫している様子はたしかにみとめることができる。
川田順三(1934―)訳は着手から完成まで12年が過ぎてしまったという。その完訳本は中央公論社から1977年に上下2冊としてリリースされたが、実はそれに先立つこと10年前の1967年、「世界の名著」シリーズ第59巻に全体の半分以下ではあるものの川田の初期訳が収録されていた。
一方室淳介(1918-2000)訳は、大日本雄弁会講談社からシリーズ「世界の人間記録」の1冊として1957年に刊行された単行本(278p 図版14p)が最初であるが、それは全体の3分の2ほどでしかなかった。この版は筑摩書房の「世界ノンフィクション全集」の1冊(第4)に「カチン族の首かご」などとともに抄録(第7部「ナムビクワラ族」全6章のうち5章、1960年)された。
1985年に文庫本化されたものの訳者あとがきによれば、室完訳本は1971年に刊行されたらしい(未確認)。
いま、室訳の講談社学術文庫2分冊に対して、川田訳は中公クラシックスの新書判(2001年、2分冊)で読むことができる。
新型コロナウィルス感染症パンデミック巣籠り直前、まだ青春をひきずっていた時代に読んで「ナムビクワラ族」という名前を印象深く記憶していた『悲しき南回帰線』(室訳)の文庫本上下2冊を古書店で見つけ、買いもとめた。
この機会に、頭からじっくり読んでみた。往時も「ひどい訳だ」とは思ったが、今回はデジタル翻訳のほうがまだましではないか、という感想が付け加わった。
しかしながら、おそらくかつてと同じ個所で、感動はまたあらたに湧き上がったのである。そしてまた、今回は別の個所でも。
いずれにしても、この作品は20世紀世界思想の到達点であると同時に、21世紀思考の出発点に位置する書物であると思われた。
以下重要と思われる箇所をいくつか挙げてみる。
「人間は死者の執拗さや、彼方の世界の悪意や、魔術の苦しみから自由になるために、三度の大きな宗教的な試みを行った。およそ五百年の間隔をおいて、人間は相次いで仏教、キリスト教、回教を思いついた。そしてその各段階が先のものからの進展であるどころか、後退であったことは心打たれるものがある。仏教には彼方の世界がない。すべて根本的な批判に帰着するが、人類は批判が永久に可能であることを示すはずがないので、批判の窮極において、仏教は物と存在の意味との拒否として悟るのである。それは宇宙をないものとする教理であり、宗教として教理そのものもなくなるのである。再び恐怖に負けたキリスト教は彼方の世界と、それへの希望と脅威とを、そして最後の審判を復活させた。回教には俗界と精神界をつなぐことしか残っていない。そしてまとめられる。社会秩序は超自然の秩序の栄光で装われ、政治は神学になる。結局、精神と、迷信も生命を吹き込むことのできなかった亡霊とは、すでにあまりにも現実的な祭司たちにとって代られ、彼らはこの下界の圧しひしぐ重みに、さらに天界の重みを加えて、天国の一手販売を許される。
この例は常に源流に遡ろうとする民族学者の野心を正当化するものである。人間は発端においてしか、真に偉大なものを創造しない。いかなる領域においても、最初の踏み出しだけが全体的な価値をもつのである。(略)」
(室訳。第九部「回帰」、40「チョンを訪ねて」、下巻pp.352-353)
最終章第40のタイトル「チョンを訪ねて」の「チョン」とは、本文に「一九五〇年九月、わたしはチッタゴン管区のビルマ族の部落にいた」とあり、仏教系の村落であったと考えられる。
巻末のストロース年譜に「一九五〇年 昭和二十五年 四十二歳 東パキスタンのチッタゴンに短期間滞在」と書いているが、東パキスタンは1971年バングラデシュとして独立した。しかしバングラデシュはそもそもイスラム教国として1947年にインドから分離した(東パキスタン)のだった。
その一地方チッタゴンの先住民族ジュマやビルマ系つまり仏教系の住民が、独立後の「チッタゴン丘陵地帯紛争」と呼ばれた戦乱どのようにかいくぐったのか、そもそも「チョン」の村がいまなお存在しているかどうか、わからないのだが。
さて、同部分の川田訳は以下の通りである。
「死者に嘖まれること、あの世での邪悪な処遇、そして呪術の責め苦――それらのものから解放されようとして、人間は三つの大きな宗教的試みをした。およそ五百年の間隔で隔てられて、人間は仏教、キリスト教、それからイスラム教を次々に考案した。そして、各々の段階が、前者との関係で進歩を記すどころか、むしろ後退を示しているのは驚くべきことだ。仏教には来世はない。そこでは、すべては一つの根源的な批判に還元される。人間は、その批判の力が自分に具わっていると主張することがもう永久にできないとされているので、批判の果てに、聖賢が事物と人間の意味の拒否へと道を拓いてくれる。それは宇宙を無と観じ、自らをもまた宗教として否定する一つの修練である。再び恐怖に屈したキリスト教は、来世を、その希望、脅威、最後の審判を作り直した。イスラムには、現世を来世に繋ぎ合せる道しか残されなかった。現世と精神界とは、ひと纏めにされることになった。社会秩序は超自然の秩序の威光で身を飾り、政治は神学になった。結局のところ人は、迷信も生命を与えることができなかった精霊や幽霊を、すでに現実的すぎるほど現実的な師たちで置き換えたのである。その上、この師たちに人は来世の専売権を認め、その結果、すでに圧倒的なこの世の重みに、さらに来世の重みをも付け加えたのである。
この例は、根源に遡ることを常とする民族学者の野望を正当化する。人間は、初めにしか本当に偉大なものは創造しなかった。それがどんな領域であれ、最初の遣り方だけが全き意味において有効なのだ。(略)」
(川田訳『悲しき熱帯 下』1977。第九部「回帰」、40「チャウンを訪ねて」、pp.347-348)
熱帯は英語でtropicalだが語尾のicalは接尾辞にすぎず、意味はtropにあってそれはtrophy(トロフィー:戦利品)と同根の「回転」であるという。
戦利品ないし獲物は、往って捕ってくるものである。
いずれも往復行為を前提とし、その行為の両端には身体動作としての回転が存在する。
語源は異なるが、英語のfetchという動詞もその動線をイメージさせる。
さてtropicalが「熱帯」を表すのは、傾斜した地軸による地球の公転が、見かけの上で赤道を中心とした一年を周期とする太陽の往復運動をもたらしているからである。
その往復運動の両端つまり回転の場所を「北回帰線」および「南回帰線」といい、その往復運動の範囲を熱帯という。
だから、クロード・レヴィ=ストロースがブラジルでの調査から15年を経て、1954年10月12日から書き始め翌年3月5日に擱筆した自著に Tristes Tropiquesすなわち「悲しい熱帯」と題したのは、tropiqueに持ち帰り品(民族具のみならず調査ノートも)採集者でもある民族学者(現在では文化人類学者というが)の悲傷と、新大陸原住者の広範囲な絶滅をもたらして莫大な富を持帰った感染症媒介者(白人)の裔であることのそれをも重ねてのことだった。
それはたとえば上巻「第三部 新世界」の「8 無風帯」において、「第二の罪」(第二の「原罪」?)および「人類はかつてこれほど悲痛な試練を経験をしたことがなかった」と記している(室淳介訳)ことでも明らかである。
ただし、原著作権が有効である期間内に、その作品に対して珍しく『悲しき南回帰線』(室訳)と『悲しき熱帯』(川田訳)の2種類の翻訳書が存在するにもかかわらず、原タイトルのニュアンスを日本語で表わすことはできないのである。
いまこの列島で読まれるべきことばとして、藤原辰史「パンデミックを生きる指針 ―歴史研究のアプローチ」以上のものを知らない。
https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic
敗戦の第一は言うまでもなく、第二次世界大戦における日本である。
ただし今日ではその実像を知らない、夢・キラキラの若年層が人口の半分以上を占めている。
さて、その第二は2011年3月11日の東京電力核発電施設の電源喪失に端を発する危機とその結果(現在進行中)であり、第三は新型コロナウィルス罹患者と死者が急激に増大しつつある、今日の日本列島の現実である。
これら三つの敗戦は、すべて因子を同じくする。
それは「属人主義」である。
「属人主義」に対するのは「属事主義」である。
属事主義、属人主義という2つの用語は、岡本浩一氏の『無責任の構造』(PHP新書、2001)から借用するのだが、属事主義は、ことにあたり、ことの実際とよってくる理をつきつめ、理にしたがって対処せんとするエトスをいう。
それに反して、属人主義ではまず人、つまり空気を読むのである。
それが日本列島における世間や常識あるいは見えざる規範である以上、人は不可避的に忖度人形でなければ風見鶏、ないしはヒラメと化さざるを得ない。
属人主義の典型は、成文法なき、あるいはおのれに不都合なそれを無視・無化もしくはそれに逆行させる王政である。
お隣の20世紀民話皇帝毛氏が法を嫌い科学を無視し権力に執着した結果、中国史上最大規模の死者を出したことはよく知られている(大躍進、文化大革命)。
『貞観政要』などが「名君の手本」として喧伝されることがあるが、結局のところ専制つまり「属人主義」の一見本にすぎないのである。
一方、王の臣下にして黒子は、時に王より猛々しく毒害を流すことがある。
「首相と心中する」と公言してはばからない現列島内閣の総理大臣補佐官などは、その典型かも知れない。
しかし形式的にもまともな法が存在し機能する場合、属人主義の下では隠蔽や改竄があたりまえとなり、嘘つきが隠れたコード(法)にまで一般化する。
本音と建て前の構造はこうして成立した。
なんらかのきっかけでそれが露見し問題化された場合、自殺や刑死にまで追いつめられるのは端末であって(B・C級戦犯)、嘘つきの元凶は吊るされることがないかぎり生き延びる。
日本列島無責任の構造はこうして成立した。
しかし人が神でない以上、属人主義では結局のところ事態に対処することは不可能である。すなわち敗けを運命づけられているのである。これを悲劇や美の高揚感にすり替える(ひとりよがり=日本浪漫派)としたら、茶番(阿Q正伝)というほかない。
「属事主義」は、科学と言い換えてもよい。
しかし内閣官房や厚生省おかかえの「専門家会議」は、空気を読み、議事録をつくらず、結論をやわらげ、スピードを落とし、感染症対策の検証を不可能として、学者ですらないことを暴露した。
もっともそれ以前に、わが裸の王すなわちことにあたって責任をとる覚悟も意志もなく、(改憲を)夢見るだけのお坊っちゃまの存在こそが最大の敗け因子である。
お坊っちゃまアベ某の「首相」在任時期は、日本憲政史上稀にみる属人主義つまり隠蔽と忖度が蔓延(法治否定)し、列島の未来を拘束するさまざまな毒種(法令と官僚体制)が蒔かれた時代で、「合理化」(感染症ベッド数極少化)と確信犯としての検査不作為が招いた「医療崩壊」は「政治崩壊」の結果にすぎない。
「王」も、その権力維持のため「理」ではなく、右顧左眄して「空気」を読む。
だから感染症蔓延状態においても、科学的な根拠と予測に従って、人びとの命をまもるため「説得」ようとするのではなく、一方的な「宣言」か及び腰の「発令」に終始する。
もっとも肝要な感染検査や医療従事者の防護体制も確保できないのに、マスクや現金を全国にばら撒くのは同構造による。
官と民に染みついた「属人主義」は、それ自身が滅びきるまで敗戦をくりかえすほかないのである。
そのまっすぐ水道ミチに対蹠するのが玉川上水路である。
標高約128mの羽村取水堰から同約33mの四谷大木戸まで全長43km。
こちらは武蔵野台地の微高地(尾根筋)を探しあて、そこを流下させたのであるから地形ミチにほかならない。
部分的ではあるが、そのことがよくわかる略図を下に掲げる。

絶妙なカーブをもって、石神井川と仙川の二つの谷を避けた尾根筋を通していることがわかるだろう。
これは前近代における土木技術の高度な「水準」を示してもいるのだが、輸入一辺倒の近代測量技術と地図学は前代技術の「実際」を掬い上げる前に、それを不明の闇に葬ってしまったのである。
さて、この微妙なカーブに対してまっすぐミチの多摩湖自転車道は、以下のように石神井川谷の低地を土手(「馬の背」)とし、目的地までまっすぐ突き進むのである(以下図は「スーパー地形」から)。

「おふろの王様花小金井店」付近から右下へつづく直線がそれである。
玉川上水と比較するために、ほぼ同範囲の地図を見てみよう。

玉川上水は、左下「小金井サクラ」から右手に延びるゆるいカーブのブルーラインで、多摩湖自転車道は左上から右下へ走る、破線にふちどられたイエローラインである。
いずれも基本的には標高の高い台地の西側から、標高の低い東に位置する都市部に水を供給する施設であるが、地形に沿ったかたちと、それを無視あるいは局所改変したかたちの、2様の対照を見てとれるであろう。
実は、見えないけれどもこの対照はかたちだけでなく、地形の「時間」にも顕現する。
たとえば前回見た「馬の背」であるが、それは本来「馬の背のように両側が深い谷となって落ち込んでいる山の尾根伝いの道」(『大辞林』第三版)を言う。
すなわち侵食過程にありながらその過程から取り残されている、あるいはその過程が遅れているところなのであって、自然地形としては岩盤を主体とし本来強靭な部分である。神戸市須磨区のハイキングコース「馬の背」などはその典型例であろう。
石神井川谷底低地にか細く架け渡した土手は、すがたかたちとしては「馬の背」に似るがそれは速成の盛土ミチであり、降雨と地震には圧倒的に脆弱で、人間による恒常的な点検とメンテナンスが欠かせない「偽馬の背」にすぎないのである。

拙著『古地図で読み解く 江戸東京地形の謎』(2013年初版、二見書房)が出てから6年半。
2刷の際にいろいろ訂正もしたのだが、その後の研究の進展もあって、近年この本は絶版とし自分のところではじめからつくりなおすつもりでいた。
しかし版元としては書店に置けばコンスタントに売れる本の絶版は回避したいらしく、増補改訂も可の意向を示したため、先月は何日かかけてその改定差し替え部と増補部の原稿を作成した。
それがどのようなものであるかは仕上げを御覧じろというほかないが、増補部は「ミチとサカ」「まっすぐミチ 地形ミチ」「江戸のサカイ」「ガケの構造とサカの5類型」などの私見エッセンスとし、さらに「23区微地形分類表」の付録もつけたいと思っている。
そのうち「まっすぐミチ 地形ミチ」については、『東京人』(2013・8)に「道の権力論」として活字化し、その前後からあちこちで触れてきたので繰り返すことはせず、ここでは付けたりとして「多摩湖自転車歩行者道」と「玉川上水路」の2者比較を紹介しておきたい。
両者とも巨大都市に飲料水を供給するためのインフラストラクチャーであるが、前者は近代につくられたまっすぐミチで、後者は前近代の地形ミチの典型である。
一般に「多摩湖自転車道」として知られる前者は、行政名を東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線といい、多摩地区は東村山市の西武多摩湖線武蔵大和駅付近(標高約84m)と同西東京市新町(同約63m)の間21.9 kmをむすぶ都内最長の直線道路である。
ちなみに国内最長の直線道路は、明治初期樺戸集治監収容政治犯を酷使して開通した札幌と旭川をむすぶ国道12号の、美唄-滝川間29.2km、世界一の直線道路はオーストラリア南岸のEyre Highway(エアー・ハイウェイ)146.6kmという。
東京の最長直線道路が自動車を通さないのは地表下に水道幹線を埋設しているからだが、世田谷区喜多見と杉並区梅里をむすぶ23区の荒玉水道道路8.979kmが同様のまっすぐ水道道路であるにもかかわらず自動車通行可(ただし重量制限などあり)としているのとは対照的である。
近代の水道道路がまっすぐであるのは、中央集権国家がその権力と資力をもって地形を無視、というよりそれを局所改変することが可能であったからである。
この多摩湖自転車道でそのことがもっとも明瞭に視認できる場所は、「馬の背」と俗称される小平市花小金井南町3丁目の石神井川谷底低地との交差部(上掲photo)である。(次回につづく)
「経済 vs 生命」の場合の「生命」は本来「人間」で、また「経済」も「利潤」ないし「資本」とするのが正確だが、理解し易いように上掲とした。
2020トーキョーオリンピックを念頭に、アベ某とその一派は新型コロナウィルス検査不作為をもっぱらとし平静を装ってきたが、世界情勢はそれを許さず、ついにオリンピックは1年先延ばしとされた。しかしその「来年」があるとは誰も確言できず、むしろ中止となる可能性が高い。
さてアベらがこだわったのは、結局のところオリンピックは「経済」だったからである。
ついで「緊急事態宣言」に至るわけだが、海外の評は「すでに(ジャパンは)手遅れ」が圧倒的である。
その「宣言」に踏み切るにあたって、アベの盟友アソーは「経済がガタガタになる」として最後まで牽制した。アベも本来見識(らしきものはもともとないが)はアソーと同然であった。
そのことは、トーキョー知事で野心家パフォーマンサー、知事再選を狙うカイロ大学卒業論文疑惑のコイケ某との「自粛要請」をめぐる攻防に端的にあらわれている。
すなわち「経済か、危機管理か」の2項対立である。
アベvsコイケの対立にかぎって言えば、決して「経済か、人の命か」ではないのである。
「経済」は資本主義勃興期の三角貿易すなわち奴隷交易を典型として文字通りヒトを喰いものにしてきた(’Amazing Grace’ !)し、近年では「貧困(者)と人間の命」こそがグローバル経済の好餌と見做されている。
それは「医療保険」であり、「水道法改正」であり、コロナどさくさ紛れに提出された「種苗法改正案」であり・・・と、直近の実例も限りない。
「経済」という、無限成長怪獣が地表においてヒトの命を喰いあらしている、というイメージが浮上するとしたら、それは正解である。
「社会距離」(Social Distance)に関連して『かくれた次元』(E・T・ホール)を読み返し、あらためてその確信を強くした。
ただしそこで言われている「社会距離」とは、「その限界をこすと動物があきらかに不安をはじめる心理的な距離のこと」で、現在の使用法とはベクトルが逆なのである。
つまり、その「間」をを維持しなければ社会そのものが崩壊する可能性のある距離、というふうに意味が逆転したといえる。
これは都市生活を基本とする文明社会史においては巨大な逆転だろう。
ホールはおもにヒトの住環境にかかわる「文化」を強調したが、文化というよりはさらに切迫した生物種としての生存条件と言い換えた方が適切であったろう。
「経済」はこの生存条件を餌として、さらに世界を呑み尽さんとしている。
極限まで縮められ、侵食されるのは「時間」と「距離」そしてヒトである。
ホールが著書の冒頭でレミング(の死の行進)の例を挙げているのは象徴的で、予言的である。
現在の世界お籠り状態は、「経済」による距離と時間そしてヒト侵食の一時的停止とみることができるだろう。
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quarantine(クアランティン、検疫)がラテン語の「40」に由来するとはよく言われる話である。
すなわち中世アドリア海交易における伝染病対策、つまり入港後40日間の離島隔離の意である。
武漢のロックダウンは、その倍の約2ヶ月半を必要とした。しかしわれわれの感染のピークはむしろこれからである。実質quarantine状態がこの先何週間、何か月間つづくか誰もわからない。
ただ市中感染が衰え隔離が一段落したとき、アメリカに重心をおいた世界のgeo-politicsの様相が、それまでとはまったく異ったものとなっていることだけは確かなのである。