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回帰線 その6

今日にわかに浮上し、この先おそらく長きにわたってその意を維持するであろう用語にsocial distancing(社会的距離)がある。

これについては、『かくれた次元』(E・T・ホール)に関連して触れたことがあるが、元来社会学用語として存在したのはsocial distance(社会距離)で、これはその限度を超えると個が群からの疎外感を感じるようになるか、または実際に疎外されてしまう距離のことで、その適用はヒトに限らない。social distanceとsocial distancingとでは、意味のベクトルは180度異なる。

WHOは意味を明確化するため、現在ではPhysical Distancing(物理的距離)の語を推奨、使用している。
日本語においては、この意の対極を「3密」と言うのが一般的である。
「密閉」「密集」「密接」のトリオだが、日本列島におけるその典型のひとつは、首都圏(東京)および準首都圏(大阪)の通勤電車内であろう。
しかしsocial distancingが周囲のヒトとの距離を2メートル以上開けるつまりひとりひとりが半径2メートルの空間円を確保することであるとすると、通勤電車がこの基準を満たすことは、ラッシュアワー以外でも不可能である。
電車内で措置が可能なのはせいぜい座席を一人分ずつ空席にすることくらいだろうが、それも至って難しく、またその結果確保できる距離はせいぜい数十センチである。
在宅勤務やテレワーク、時差出勤による「接触頻度の8割減」も、達成にはほど遠い現実がある。
このことが意味しているのは次の事実である。
すなわち人口が集中し「世界一」の規模までに膨れ上がった極東のメガシティにおいて、感染症を根源的に回避するにはその規模自体を変えること、すなわち解体と分散化以外に方法はない、ということである。
しかし幸か不幸かまたきわめて奇妙な現象として、列島の感染症蔓延の現状は例外的に小規模である。だから一般には感染回避の「自粛」は時間の問題だと、つまり波はあっても「一過性」の現象と思われている節がある。

ところでその5で引用した第1パラグラフ末尾「それに感染する危険は一時的なものに過ぎないといって問題を遠ざけることは、あまりに偽善的で無自覚なこと」(室訳)の「一時的なもの」とは、「この二十年来ヨーロッパが舞台となったさまざまな事件」という文脈を受けていることから、ナチスによるユダヤ人の、600万人におよぶ計画的大量虐殺(ホロコースト)を含意するのは明らかである。
レヴィ=ストロースは社会学者(民族学や文化人類学は社会学の一種である)として、ヒトによるヒトの大量虐殺は現代史の例外ではなく、必然的に生起すると予言しているのである。

人口が増加しヒト社会が「密」になった結果生起するのは「人間によるあの人間の組織的な価値の切り下げ」ないし「人間による人間の価値剥奪」であって、それはインドのカースト制度からホロコーストにまでおよぶ現実である。
「アジアが先行して示している、われわれの未来の姿」とは、今日の新型コロナ感染症パンデミックの姿でもある。テクノロジーによる時空の圧縮がその出現を加速したのである。

そうしてわれわれが「感染」するのは、ウィルスや細菌だけではない。
「経済」やスタンドプレーのポピュリズムに感染するほうが、実は災禍は桁違いに大きい。
その端的な例は、1929年の世界恐慌を背景として1933年合法的に政権の座にのぼりつめたヒトラーのナチス党であろう。Volksgemeinschaft(民族共同体)という言葉によってヒトを幻惑し、「経済」を回復させ、破滅的な侵略戦争と「民族浄化」につきすすんだのである。
人口も経済も、無限に成長、拡大できるものではない。
「これまで」を維持しようとするかぎり、ドイツの轍は極東の島国にも現前する。
実は「これまで」を変える契機は、極東の列島には以前にも出来した。
言うまでもなく、9年前3月11日の地震と津波、そして大規模原発事故である。
しかし、「経済」の神は依然として本尊でありつづけ、現在もなおその顕現が祈願待望されているのである。

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