5月 30th, 2020
「日本モデル」
2020年5月25日「新型コロナウィルス感染症」に関する記者会見で、アベソーリは「日本ならではのやり方で、わずか1か月半で、今回の流行をほぼ収束させることができました。正に、日本モデルの力」と自画自讃した。
「虚言」とは、まさにこのような言葉づかいを言うのである。
「日本モデル」とは何か?
強制力のない行政担当者(お上)の「要請」に、大多数が素直に従って「よしよし、いい子だ」と言いたい図式なのだが、「王」であるならいざ知らずそれを「モデル」と言うのは政治を担当する人間としては失格である。
なぜなら、「ほぼ収束」はこの列島においては依然として「謎」以外の何ものでもないからだ。
今日のNewsWeek日本版は、東京居住10年、現ロンドン在コリン・ジョイス氏の記事を掲載している。
彼によれば、ロンドンよりも「東京のほうがウイルスの広がる条件はそろっている」。
すなわち、都市の規模(首都圏3000万人超)、人口密度(満員電車=「地球上にこんなシロモノは(他に)存在しない」)、仕事・ライフスタイルにわたって、東京は世界に冠たるものがあるという。
そのうち、ライフスタイルについて以下引用する。
「日本人はより長い距離を通勤し、より長い時間をオフィスで過ごし、より多くの会議を行い、そしてコーヒーショップや居酒屋、パチンコ店では隣の人と肩が触れ合うような席で座る。僕がいつも東京について強く感じるのは、イギリスの常識よりもかなり、人々が至近距離にいるということだ(東京での10年間、僕は自分の「パーソナルスペース」が侵害されていると感じていた)。
会社員は常に睡眠不足状態で(免疫系に悪影響だ)、日本人は体調が悪いときも何とか仕事に行こうとする悪い癖がある。イギリスに比べ、80代や90代の高齢者の数が格段に多い。学校では1クラスの人数も多い。」
言われるまでもなく、東京(圏)が(つまり「日本」が)感染症蔓延の社会的条件「世界一」であるのは歴然たる現実である。
しかしながら新型コロナウィルス感染症対応では「検査数」も「集中治療室ベッド数」も圧倒的に不足であるにもかかわらず、膨大な感染者と死者を出し医療崩壊に直面した(している)各国に比べれば、(いまのところ日本列島は)はるかに「うまくいっている」。
これはまったく「奇妙」なこと(米誌「フォーリンポリシー」電子版、5月14日)で、マスク好きとか握手しないとかいろいろ理由が推量されてはいるものの、海外では「不思議」「謎」の評が大勢を占める。
地球表面をほぼ「開発」し尽し、さらに時空を極端に縮めた現代の人間社会が、大都市を舞台に未知の感染症パンデミックにさらされるのはひとつの必然である。
こうした事態は今後も波状に継続し、別型ないしは新規のウィルス・細菌を因子としてもしばしば起こりうる。
トーキョーの惨状が世界のトップニュースを飾る日が来ないとは誰も言い得ず、むしろその条件はダントツに「揃って」いる。
現在の「奇妙」な結果オーライ現象を科学的解明なくして自讃するのは、元寇「神風」の短絡同様、ひとりよがりの「日本モデル」脳回路なのである。
昨今の報道によれば、この感染症に責任をもつ政府の専門家会議は「議事録をつくらない」と言う。
何につけ隠蔽を旨とする「アベ流」に倣ったのであろうが、これは科学者たちが「権力のお飾り」でしかないことを自認し、科学的方法論すなわち「万人による検証」の否定を宣言したに等しい。
こうした「日本モデル」も、列島の「これから」にとって「百害あって一利なし」というほかない。
もしなんらかの「モデル」なるものが存在するとすれば、とりあえずは今年の冬が、その最初の検証場となろう。
ところで昨今のニュースでは、この感染症蔓延を契機として学生の就職希望先に東京や大阪などの巨大都市圏から地方都市へのシフトがみとめられるという。
そうであれば、ささやかな希望である。
望むべくんば、就職しない生き方が「日本モデル」とならんことを。