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回帰線 その4

最近女房がみつけた古い講談社文庫『悲しき南回帰線 下』の奥付ページには、「1971年8月25日第1刷発行」の記載の脇に「1975.2.3 F.Q.」という私の書き込みがあった。「F.Q.」とはわが名の中国語発音表記イニシャルである。
室淳介の完訳は、単行本ではなくこの講談社文庫本で上梓されたようだ。

その完訳が出て3年半後、つまり45年前に私が通読したことは確かで、大学を中退後焼肉屋の皿洗いや宿直警備員を経て、事実上倒産した教科書会社の電話番のようなことをしていた頃である。
それから後は歳月茫茫、気が付けば古希をまたぎ1年を経た。

世界パンデミックのただ中に半世紀ちかくを経て再読、ふたたび感動をたしかめることができたのは、全9部計40章のうち、第7部「ナムビクワラ族」第27章「家族生活」の最終パラグラフ、レヴィ=ストロースがブラジルの奥地で懐中電灯の光をたよりに手帳に書きつけたという、次の箇所である。
両訳を並べるが、ここではもはや不明瞭な部分は存在しない。訳文の次元を遥かにこえて、描写と受感の圧倒的な差し潮に身を委ねるしかないのである。

「薄暗い草原の中で、キャンプの火が幾つか輝いている。やがて来る寒気に対する唯一の保護であるその火を囲み、雨風の吹き込みそうな側の地面に急いで建てた小枝とやしの葉のか細い衝立のうしろで、地上の富のすべてである憐れなものの入った笊籠を横に置いて、敵意と恐怖とを持ち合っている他の集団につき纒われているその周辺に広がる地面に身を横たえ、しっかりと抱き合った夫婦は、日々の生活の苦しさと、ときおりナムビクワラ族の魂の中に入ってくる夢想と憂愁に対して互いの支えであり、慰めであり、唯一の救いであることを思い知るのである。初めてインディアンと共に草原の中に露営する訪問者は、このあまりにも食物を取り上げられてしまっている人類の姿を眼の前にして、憐みと苦悩とに捉えられるのを感じる。まるで、ある遁れ得ない大変動によって、敵意を持つ大地の地面に圧しつけられ、瞬く火の側で裸で寒さに慄えているようだ。訪問者は焚火の光の暖かい照り返しでそれとわかる手や腕や胴に突き当らないように、茨の茂みの間を手さぐりで歩きまわる。しかし、このすべてを奪われた世界も囁きや哄笑で賑わっている。夫婦は失われた結合を思い懷しんでいるかのようにひしと抱き合っている。そこには測り知れぬ優しさと、深い呑気さと、素朴で魅力的な動物のような満足感とが感じられ、これらのさまざまな感情が集って人間的愛情の最も感動的な、最も誠実な表現のような何ものかが感じられる」
(室訳)

「暗い草原の中に幾つもの宿営の火が輝いている。人々の上に降りて来ようとしている寒さから身を守る唯一の手立てである焚火の周りで、風や兩が吹き付けるかもしれない側に、間に合せに椰子の葉や木の枝を地面に突き立てただけの壊れやすい仮小屋の陰で、そして、この世の富のすべてである、貧しい物が一杯詰った負い籠を脇に置き、彼らと同じように敞を意識し、不安に満ちた他の群れが散らばる大地に直かに横だわって、夫婦はしっかりと抱き合い、互いが互いにとって、日々の労苦や、時としてナンビクワラの心に忍び込む夢のような侘しさに対する支えであり、慰めであり、掛け替えのない救いであることを感じ取るのである。初めてインディオと共に荒野で野営する外来者は、これほどすべてを奪われた人間の有様を前にして、苦悩と憐みに捉えられるのを感じる。この人間たちは、何か恐ろしい大変動によって、敵意をもった大地の上に圧し潰されたようである。覚束なく燃えている火の傍で、裸で震えているのだ。外来者は手探りで茂みの中を歩き回る。焚火を熱っぽく反映しているのでそれと見分けられる手や、腕や、胴にぶつからないようにしながら。しかしこの惨めさにも、囁きや笑いが生気を与えている。夫婦は、過ぎて行った結合の思い出に浸るかのように、抱き締め合う。愛撫は、外来者が通りかかっても中断されはしない。彼らみんなのうちに、限りない優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、満たされた生き物の心があるのを、人は感じ取る。そして、これら様々な感情を合せてみる時、人間の優しさの、最も感動的で最も真実な表現である何かを、人はそこに感じ取るのである」
(川田訳)

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