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しかし折角曲の付された「さくら横ちょう」ではあるが、「歌曲」となっては韻律や律動を楽しむことは難しい。
音数律も音韻律も、二つながらにアーティフィッシャルな(わざとらしい)旋律(melody) のなかに埋没してしまうからである。

埋没してしまうといえば、和歌である。
かるた取り(百人一首)や宮中歌会などでよく耳にする歌の読み(吟詠)は、儀式化され、高音を旨とし、やたら母音が引き延ばされて韻律は音としてはほとんど奪われ、無意味化している。
声明などの仏教経典披唱の影響であろうが、この音式が高位規範とされた結果、日本の詩歌は大きな変容を被ったとみなければならない。
つまり音として生き残ったのは、辛うじて音数律だけだったのである。

一方、近代における詩歌は、出版つまり紙と活字印刷の掌(たなごころ)の上にあった。音はせいぜいが目と脳の内側で視認されたにすぎない。
近代から現代にかけての日本語詩歌の栄光も虚像も、すべて紙の上のできごと、あるいは視覚の音であった。現代詩が意味ないし字像主体となって音声や律動を疎外したのは当然の成り行きであった。
そのいわば究極の到達点に、次のような作品が屹立することになる。

イエスは蒼白の顔を痙攣させて「枯れよ」とののしつた
紀元三十年四月三日月曜日の朝、痩せた一本の無花果に
弱者を鞭打つ冷ややかな言葉のまかりとほるのが神の國
ならば無花果に代つて、私が見事受けて見せうこの叱咤

あなたは果して實つたかベタニヤの無花果よりも疾くに
枯れねばならぬ不毛性を、マリアとともにこのとき知つた
あなたの母は虚妄を寝かしつけ續ける孤獨な留守番子守(ベビーシッター)
更に孤獨な男、ヨセフの名を猩猩緋で書かう鈍色の幕に

無花果は枯れた振りをする。四月七日昏い午後三時まで
佯狂にも陽死にも馴らされたからその鮮やかな枯やう
微笑しつつ眺める煉獄の夕映とその世界の終りの空模様

それ以後あなたの手はこの世の憎しみを掻きよせる熊手
無花果は蘇つて創口から乳白の液をとめともなく滴らす
ありもしないあしたが見えながら言葉の凍りつくテラス
(塚本邦雄、無花果 Ficus Carica L.)

脚韻を シッタ・クニ・クニ・シッタ、クニ・シッタ・シッタ・クニ、デ・ヨウ・ヨウ、デ・ラス・ラス と踏んだ4聯14行詩(ソネット)である。
しかしその韻よりも鮮やかなのは1行25文字、旧漢字で揃えた視覚性であって、鈴木漠は「音数律に代わるものとしてタイポグラフィーが採用された」と評し、さらに「従来のソネットがおおむねその風味とした抒情に代えて、稠密な物語性と、青酸の味をひそませた風刺を核とする、当代の押韻定型詩が現前している」と絶賛した(「押韻の木陰で」『鈴木漠詩集』2001)。
しかしながら、折角のソネット押韻は25文字の末尾、音としては離れすぎて韻律は視覚以外には無意味化し自己満足に終わっている。それは見た目の虚飾すなわち文字通りの「格好付け」にほかならないのである。

戦後詩の主流は目玉を肥大化させ、イメージないし観念の王国と化した結果、身体を失ってしまったのである。
もちろん、詩の朗読会などの試みもある。しかしそれは紙のオフ会とでも言うべき一種の補填行為ないし懇親会の様相が強い。
それに対して「マチネ・ポエティク」が、翼賛詩全盛の戦時下においていわば密かに、意識的に敢行された定型押韻試作朗読会であったことはあらためて想起されてよいだろう。

和歌における吟詠と、日本近代詩歌における印刷文化の規定性を端的に指摘したのは、ゆきゆき亭こやん「日本語と押韻(ライミング)」(第35回詩人会議《新人賞》評論部門受賞作、『詩人会議』2001年5月)であった。
ゆきゆき亭は漢詩、短歌、俳句、近代詩を並行して制作しつつ「韻を踏むことを勧むる者」であった正岡子規に拠り、1980年代以降のヒップホップからラップまでの歌詞変容を概観し、日本現代詩における押韻(rhyming)の復活を前提として「今、その刺激剤の役割を果たしているのが、俳人でも歌人でも詩人でもなく、ラッパーなのである」と主張した。

この主張が詩壇、歌壇、俳壇と蛸壺化した日本現代詩歌界にどれだけ受け入れられたのか寡聞にして知らないが、実質上ほとんど無視されたと思われる。
しかしながら近年の巨大なメディア変容が、この主張を予言化するであろうことは疑いない。
文字以前「うた」はまず音律として存在したであろうし、出版(紙)文化以後、それは映像として一般化するからである。
そのかぎりにおいて、詩歌の「身体性」が復活するのである。

ところで現代詩から出発して『ことばあそびうた』(1973年)『ことばあそびうた また』(1981年)など、音律を身体表現上の可能性として実現した谷川俊太郎は、次のように発言している。

「現代詩は終わっているんですよ、でも詩は残っています。私小説が終わったのと同じようなものじゃないか」
「もう詩人じゃなくなりつつあるというのがおれのうまい転身の仕方だと思うね。もう芸人になってるんだもの。活字に頼らないで声に頼ってやっているわけでしょう」
(谷川俊太郎・高橋源一郎・平田俊子『日本語を生きる』21世紀文学の創造・別巻、2003年、pp.241-242)

ヴェルレーヌや萩原朔太郎は詩の「音楽性」にこだわったが、谷川俊太郎はまずひらがなだけの作品でイノセントな言葉の身体表現の扉を開いてみせた。
その詩人の出発が、かの三好達治の推薦による(『文学界』1950年12月号)ものであったとはアイロニカルな話である。

「ソネット」拙作は音数律のみの14行詩で、押韻したわけではなかった。
それは音楽性以前の、律動であった。
そこに目指されていたのは詩の音楽性ではなく、詩の身体性である。
しかしながら昨今頻りに頭に浮かぶのは、交互韻(クロス・ライム)をもつ次の4行である。

Are you going to Scarborough Fair
Parsley, sage, rosemary and thyme
Remember me to one who lives there
She once was a true love of mine

わが短詩と音律は「行ゑもしらすはてもなし」ではあるけれど、短詩あそびとラップが流入し合う地平を夢想してもいる。

残菊やニッポン混血すればよい (『天軆地圖』2020、p.181)

話をもとにもどして、三好達治によって三番煎じついでに「私にはいつかうつまらなかつたといふこと」と切り捨てられた「マチネ・ポエティク」の試みだが、私には結構おもしろかった。
それはとりわけRONDELSと脇付け題された、加藤周一の「雨と風」そして「さくら横ちよう」の2篇である。

雨が降つてる 戸をたたく
風もどうやら出たらしい
火鉢につぎ足す炭もない
今晩ばかりは金もなく

食べるものさへ見当らない
飢ゑと寒さのていたらく
雨が降つてる 戸をたたく
風もどうやら出たらしい

どうなることかと情けなく
つらく悲しく馬鹿らしい
どうせ望みも夢もない
道化芝居のそのあげく
雨が降つてる 戸をたたく
風もどうやら出たらしい
(雨と風, 1943)

春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちよう
想出す 恋の昨日
君はもうこゝにゐないと

あゝ いつも 花の女王
ほゝえんだ夢ふるさと
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちよう

会ひ見る時はなからう
「その後どう」「しばらくねえ」と
言つたつてはぢまらないと
心得て花でも見よう
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちよう
(さくら横ちよう, 1943)

三好は日本語詩における「音楽」の不可能を強弁して止まなかったが、「マチネ・ポエティク」の試みのいくつかは、実は中田喜直によって曲がつけられて立派に「音楽」となっていたのである。
すなわち福永武彦「火の鳥」、加藤周一「さくら横ちょう」、原條あき子「髪」そして中村真一郎「真昼の乙女たち」の4歌曲である。
このうち「さくら横ちょう」だけは、別宮貞雄および神戸孝夫も作曲しているから、音楽家にはずいぶんと入れ込まれた詩と言えよう。
ただしいずれも「歌曲」であって、残念ながら素人が口ずさむというわけにはいかない。

そうして「さくら横ちょう」は、歌曲のみならず詩碑としても存在するのである。
渋谷区東1丁目、金王(こんのう)神社前の八幡通りから東南に分岐し常盤松小学校へ下るゆるい坂露地の左手ビル前に、それは2016年4月に建立された。
下の写真は現在の「桜横丁」で、写真奥の電柱と電線が被る高層ビルは國學院大學の校舎。
当の詩碑は写真1枚目では左下、羊をかたどったという繭型の花崗岩碑である。

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加藤の生家は金王町にあり、この横丁が常盤松尋常小学校への通学路にあたっていた。
桜並木は一掃され面影もないが、横丁の突き当り、八幡通り沿いの「魚玉」は現在四代目によって維持されている、この地で百年以上つづく魚屋である。
また金王八幡境内は中世城郭跡、その前の八幡通りは北は勢揃(せいぞろい)坂につづき南は目切(めきり)坂を経て目黒川に架かる宿山(しゅくやま)橋に向かう、古鎌倉街道と目される経路で、中世の今様に通う味わいの詩にはまことに相応しい場所だったのである。

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書家の石川九楊著『日本語とはどういう言語か』(2006年)のp.209の見出しは「漢字によって阻まれた動詞の成長」となっていて、「なく」という日本語の動詞の例が挙げられている。
古代日本における漢字の移入にともない、日本語の動詞、たとえば「なく」は、泣、鳴、啼、哭といった文字表記に依存することによって、それ自身の発達が阻害されたと言う。
英語では猫が鳴くのをmewという動詞を使って表現するが、日本語では「にゃあとなく」と副詞を添えざるを得ず、「みゃあなく」「わんなく」などといった独自の動詞が誕生することはなかったと言うのである。

これは三好の言う「少數の動詞」に関連した、日本語の形成および生成変容に象形文字(漢字)が果たした役割の大きさとその結果生じた和語動詞の少なさの指摘である。
けれども既述のように、詩歌の構成上そのことが「工夫の餘地なく」「宿命的」(三好)に押韻を妨げることには、ならないのである。

しかし、この本のタイトルはかの三浦つとむの名著とうり二つで、現在では両者とも講談社学術文庫に収まっているのは苦笑を禁じ得ない。
石川は、自著と同書名の先達の達成について片言も触れることはないのである。
レベルが違うと言えばそれまでだが、たとえばタレントの武田鉄矢がラジオのレギュラー番組で石川のこの本をとりあげて長々紹介しているのは、俗受けし易いが故の今日的現象にほかならない。

「日本語の動詞」に関連して、今日的現象をさらに端的に示す次の例を一読されたい。

YAHOO!JAPAN知恵袋(2012/11/17)
〔質問〕
日本語(大和言葉)ってひょっとして動詞の数が少なくないですか?
例えば、日本語の「かく」は漢字を当てると、「書く」「描く」「掻く」ですが、 日本語本来の概念としてはすべて「かく」ですよね。
英語では「Write」「Draw」「Scratch」、全部別です。
他にもいくらでも例があると思いますが割愛します。
日本語って動作の概念がかなり未分化のままなんじゃないでしょうか?

ベストアンサーに選ばれた回答(2012/11/17)
その発想は西洋的です。
概念にごく自然な形で言葉に分化しています。概念として似ている物を、似たままそのままのイメージで言葉に仕立てた日本人の知恵です。
(略)
日本語では、子供は「かく」という平仮名の言葉を教えられ、やがて漢字を覚える頃、漢字に合わせ無理なく概念を高度化・複雑化させられます。個人の言葉の習熟度に関わらず、子供から大人までなんとなく言葉が通じるのも、日本語の優れた体系化のお陰でしょう。極めて優れた特徴として、人間が使う言葉の理想形だと私は思っています。

もちろん「ベストアンサー」に選ばれたこの回答は、石川の言うように日本語形成史からしても明白な誤りである。
それ以上に問題なのは、質問者は適切な具体例を示して推論しているのに対して、回答者は頭ごなしに質問者の疑問を否定し、実証も論証も抜き、つまり「回答なし」で、空疎な日本語優秀論のお説教を垂れていることである。

疑問に「西欧的」も「日本的」もない。
自分が使う言語の特徴に興味を持った、そのこと自体が貴重である。
つまり質問者は、日本(語)とそのなかにいる自らを対象化する視座の契機をつかんだのである。
回答者はその視線をいきなり遮り、そんな質問は「非国民」だとばかりに視界を地上に引き戻させる。
夜郎自大というよりも、あきらかに「ネット地回り」の振舞いである。
内閣官房機密費に与った、電通あたりの「ニッポンすごい」世論工作の末端露出を疑うが、いずれにせよこのようなトンデモ回答をベストアンサーとするならば、日本列島の住民は総体として再び衰亡の途をたどるしかないのである。

大岡信は「押韻定型詩をめぐって」(『現代詩手帖』1972年4月号)において、現代詩上葬り去られた感のある「マチネ・ポエティク」の試みを、委細をつくし再評価した。
なかでも注目すべき指摘を以下に掲げる。

「三好達治が押韻不可説の根拠とした、日本語では少数の動詞が文の末尾にこなければならない宿命をもつという考え方について、『口語プロソディ試論』という貴重な労作(私家版タイプ印刷、都下南多摩郡多摩町桜ヶ丘二-二〇-六、梅本方、昭和四十一年刊)をまとめて口語定型詩の可能性を立証しようとした神奈年遅は、「安易な固定観念」だとし、文法的特質からの制約は、「かなり根拠が薄弱なのである」という。
 『なぜならば、「そうしなければならない」という強い文法的要求は、日本語の場合、無く、文章の末尾にいわゆる体言止めとして名詞を持ってこようと、動詞の中止法を使おうと、副文章を置こうと、一向に差支えない(後略)』」

神奈年遅の『口語プロソディ試論』という本は、残念なことに国立国会図書館にも所蔵がなく、原文を確認できないため肝心のところは部分的で孫引きしかできないが、体言止めや中止法以外にも、倒置法なども詩歌には多用される。三好が日本語の「措辞法」が押韻の「最大の難関」であり、過去現在未来にわたって致命的であるとする主張はもともと誇大で「根拠が薄弱」であることは確かである。
そもそも語順がSOV構造の言語は、琉球語、アイヌ語や韓国・朝鮮語、モンゴル語のみならず、ウズベク語やチベット語、ビルマ語、ペルシャ語やイラン語、チベット語、さらにアムハラ語からアルメニア語、古代シュメール語まで存在し、世界的にはSVO構造より多いという説もあるほどで、ひとり日本語が孤立して特殊なのではない。調べればそれぞれの言語のそれぞれの時代において、詩歌の押韻は工夫され、産み出されているはずである。なんといっても詩歌(うた)の骨格は「韻律」(プロソディ)に存するからである。

三好のもうひとつの「根拠」とする「日本語の聲韻的性質」つまり「常に均等の一子音一母音の組合せ」が押韻を「甚だしく貧弱」にするという主張もまた同様で、基本母音が日本語同様aeiouの5つしかないラテン語とそれを祖語とするイタリア語やスペイン語なども音としては近しいものがあるし、日本語同様、ポリネシア諸語がいわゆる開音節を特徴としていることは、ハワイ語などの例でよく知られている。「我らの單語が、押韻的資質に缺けてゐるといふ、一大事實」(三好)などと息巻く必要はさらさらないのである。

ただここで触れておかなければならないのは、日本語は措辞法上末尾に位置するのが名詞に比べて種の少ない動詞で、しかもそのうち一部のものが頻出する、という三好の指摘についてである。

そのヴェルレーヌの、「詩法」(Art poétique)と名づけられた9詩節の短詩は、「何よりも先に、音楽を」という詩句で始まる。

De la musique avant toute chose,
Et pour cela préfère l’Impair
Plus vague et plus soluble dans l’air,
Sans rien en lui qui pèse ou qui pose.

何よりも先に、音楽を。
そのために、奇数を好むこと。
おぼろげで、大気に溶け込みやすく、
奇数の中には、重さも、固定した感じもない。
(https://bohemegalante.com/2019/06/16/verlaine-art-poetique/から引用)

上掲は冒頭から4詩節のみだが、原文は文字をみただけでも脚韻が踏まれているのがわかる。
フランス象徴詩は音楽性を重視し、なかでも「ヴェルレーヌ自身大変に音楽的な詩人であり、彼の詩は数多くの作曲家によって曲を付けられ、現在でもしばしば歌われている」(同前)という。

三好が「萩原朔太郎氏へのお答へ」で意図的に日本語詩の「音韻」と「音楽性」を否定したのは理由があった。
それは1935年4月に第一書房から刊行された萩原の『純正詩論』において、ヴェルレーヌが言うように詩の「音楽性」がとりわけ強調されていたからである。それは同書の一篇「和歌の韻律について」(1976年刊全集第九巻、pp.19-38)では、「音楽」という言葉が12箇所に使われているのでもわかる。
三好にとっては先輩大詩人の発表した「詩論」であったが、その先輩は「第五高等学校(熊本)第一部乙類(英語文科)浪人入学も翌年落第、第六高等学校(岡山)第一部丙類(ドイツ語文科)転校も翌年落第退学、慶大予科も中退」という「学歴」の持主であるから、フランス詩についてはもちろん三好のほうが圧倒的に「専門家」なのである。
『帝大新聞』において大詩人の新著の瑕疵を暴き、その説を貶めることによって自らの詩人としての地位上昇を謀るのはある意味で当然の所作であった。「萩原朔太郎氏へのお答へ」とは、その末文に「お需めにより、先日の拙文を細説した」とあるように、『帝大新聞』掲載文への萩原の疑問ないし質問に対応した再説明であった。

三好のこの手法は、戦時期をはさんで23年後に後輩たち(中村真一郎と福永武彦は東大仏文、加藤周一は同医学部出身)に再応用される。「マチネ・ポエティク」のソネット押韻の試み、すなわちその音韻、音楽性への否定である。それはまず冒頭において「同人諸君の作品は、例外なく、甚だ、つまらないといふこと。」と一蹴される。この三好の三番煎じ応用ハードブロウによって、彼らの試みは文学史において「エピソード」として葬られた。
しからば、三好の立論はまっとうなものであったのかと言うと、決してそうではなかったのである。

萩原の「和歌の韻律について」は、三好も「この論文は、本書中白眉のもの」(「日本語の韻律 萩原朔太郎氏著『純正詩論』讀後の感想」『帝大新聞』)と認めるように、今日においてもなお正鵠を射たきわめて重要な指摘として読むことができる。そこには日本語の伝統的な定型詩の音韻効果が具体的かつ実証的に示されているのである。
さらに言えば、三好自身の代表作「雪(太郎を眠らせ)」と「甃(いし)のうへ」が対句と対韻、脚韻による、極めて音楽性をもった詩篇であることも自己矛盾であった。
陸軍幼年学校から同士官学校に入学した経歴をもつ三好の軍人エトスは筋金入りで、三島由紀夫は三好の喧嘩は「文壇最強」と言っていたらしい。
自らを棚に上げ、冒頭においてとりあえず対象への攻撃に集中する手法は常套だったろう。
しかしその攻撃の拠って立つ堡塁は、先に紹介した「朗讀音」云々に似た経験則で、言語学的根拠薄弱にして牽強付会、しかしながら人口に膾炙し易い「日本語特殊論」だったのである。

前掲の三好達治の文章、すなわち日本語詩歌における韻(rhyme)の否定は、直接には中村真一郎や加藤周一、福永武彦らが戦時下に試みた日本語定型押韻詩の戦後の発表(『マチネ・ポエティク詩集』1948年)に対する批判である。

日本語の単語と文法の構造上、詩の押韻は無理無謀とするその主張の核芯は、しかし20年以上前の書きものの二番、否、三番煎じであった。
その初回は1935年5月6日号の『帝国大學新聞』に発表した「日本語の韻律 ー萩原朔太郎著『純正詩論』讀後の感想」であり、次は同年11月号『四季』に掲載された「燈下言」(後、「萩原朔太郎氏へのお答へ」と改題)であった。
1935年と1958年、ほぼ四半世紀の間に存在したのは、国家国民の「総力」をあげて遂行された15年間にわたる戦争とその結果としての敗戦であることは注意されてよい。

中村らの『マチネ・ポエティク詩集』は、ヨーロッパのソネット形式を範として、日本語14行詩での押韻を試みたのだが、wikipediaの「ソネット」の項は、その末尾で「近代日本では蒲原有明が初めて紹介したが、音韻体系が全く異なる日本語とはうまく合わず、立原道造らが行数を取り入れたにとどまる。その後は福永武彦らのマチネ・ポエティクが本格的な日本語ソネットの創作を試みたが、三好達治による厳しい批判を受け、日本語ソネットの試みは頓挫した」と書いている。
「本格的」というのは、それまでの日本語の「ソネット」が、おおむね単に4+4+3+3=14という行数あわせにとどまっていたのに対し、実際に脚韻を踏む詩作を行ったことを指している。wikipediaの書き手が三好の説を「厳しい批判」と言うからには、それが当を得ているという判断が前提だろうが、果たしてどうであろうか。

そもそも三好達治の「萩原朔太郎氏へのお答へ」は、萩原の唱える「日本詩歌の音楽性」に対し、それを「無用の要素」と退けるものであった。
マチネ・ポエティク批判はその焼き直しにすぎないが、注目すべきは「お答へ」の冒頭に披瀝されている自説の「具体的な動機」で、それは日本語詩朗読の放送やレコードの「悉くが、文字通りの意味で、聞くに耐へない、非藝術的な、醜陋な感銘を與へるのを、爭ふ餘地のない確かさで實感」したが、それに対して「フランスあたりの俳優が、ヴェルレエヌやボオドレエルの詩を朗讀してゐる、そのレコードを時折聽いてみますのに、決して、我が諸君子の朗讀を聽く場合のやうな、嫌惡を感ずることはないやうです。もともと、唐人の藝術は解りにくいもの故、自主的に、好惡の感情を働かせる境にまで、たち到り難いのかもしれません。だがとにかく、それらの朗讀によつて、それらの詩歌の、意味なり價値なりを、補足され深められたやうに覺えることが、一再ではありません。總括していつて、耳に聽きながら、樂しいのです」というのである。

三好説の根拠には、自身の対照的な二様の「音の経験」があると言う。
それらをまともに聴く機会をもたない者にも、三好の言う「経験」は想像できないものではない。日本の詩歌はたしかに音としては平板であろう、と肯ずる者が大半だろう。
それは何故だろうか。

結論を先に言ってしまえば、それは我々のほとんどが、もっぱら日本語の音と意味の中に浸かり、その音と意味をあたりまえ(平俗)として疑わない島国の日常に生きているからである。そうして「規範」は常に島の外、海外にあって、いくつかの周期波長を以て拝外主義と排外主義を繰り返してきたからである。さらに言えば、拝外主義と排外主義周期の動源には、常に「日本語」による「日本(語)特殊論」ないしは「日本(語)特殊意識」が横たわっているからである。

日本における詩の規範は、かつては漢詩であり、近代にあってはフランス象徴詩であった。
三好は「マチネ・ポエテイクの試作に就て」の末尾近くで次のように言っている。

「最後に斷つておく、定型押韻詩を以て、詩型の至上完璧なものと考へるのは、私と雖もマチネ・ポエテイクの諸君子と共に同感だ。これを邦語に移して可能と考へない點で諸君と異なるのみ」

東京帝国大学文学部仏文科に学び、卒業研究にヴェルレーヌを選んだ三好にとって「詩型の至上完璧なもの」とはフランス象徴詩にほかならなかった。

音楽の発生は「音の律動」にあり、詩歌の根源には「ことば(音)の律動」がある。
律動とはリズムであり、リズムとは音の長短、高低と強弱(アクセント)を含む同音ないし類似音の繰り返しである。

個の魂の震えが先であったか、共同性の効用ないしは必要(婚姻や狩猟、祭祀や戦いなど)に発したかは措くとして、「うた」はまずもって「音」であり、その律動であった。

日本語詩歌における律動の基本は音数律(正確には音節数律)であり、漢詩および欧米詩におけるそれは押韻律である。
いずれにおいても「定型詩」とは、この律動の伝統的な形式に沿ったものを言う。
しかしながら、定型詩における音数律と押韻律の違いはどこに起因するか。

三好達治は次のように言っている(「マチネ・ポエテイクの試作に就て」『三好達治全集』第四巻、1965年、pp.130-141から。初出は『世界文學』1958年4月号)。

「(日本語の)押韻そのものの、聲韻的價値が、ヴァルールが、甚だしく貧弱にすぎるからだと見たい。由來日本語の聲韻的性質が、さういふ目的のためには困つた代もので、單語の一語一語に就て見ても、母音が常に小刻みに、語の到るところに、まんべんなく散在してゐて、常に均等の一子音一母音の組合せで、フィルムの一コマ一コマのやうに正しく寸法がきまつて、それが無限に單調に連續する、――かういふ語の聲韻上の性質を、言語學の方ではどう呼ぶか、とにかくその點、徹底的に平板に出來てゐる。子音の重責集約が語を息づまらせるといふ障碍作用もなければ、母音の重疊纍加が語の發聲をその部分で支配的に力づけるといふ特色もない。」

簡単に言えば、日本語の母音は5つしかなく、音節の基本はその数少ない母音によって成り立っていていわば母音が遍在するため、韻を踏もうにもその効果がなく、詩歌にそれを用いるのは適さないとする。

さらに日本語の構造の面から、日本語詩脚韻の試みに対し、次のようにたたみかける。

「問題は措辭法に関聯する。邦語に於ける措辭法は、主語客語の後に、命題の末尾に到つて動詞を以て修束する。これを語法の通則とするが、通則は散文韻文を通じて原則と見なしていい。措辭の轉置はもとより許されるにしても、これは例外で、本來雅正でなく、奇警膚淺の弊があつて、特に連用を忌む。これ位のことは誰しも承知のこととして、さて、命題の末尾(原則として脚韻の位置)を占める動詞の数は、中國語や歐羅波の場合當然その位置を占めるべき名詞の數に比して、比較にもならぬ位その語彙は少數だ。しかもその上いけないことに、その少數の動詞中、極めて少數の數箇のものは、排他的に、壓倒的の頻度をもって必ず常に顔を出す。邦語における語尾(文章語口語を通じて)の單調は凡そ筆をとるほどのものの常になやまされているところで、我々はその點でほとんど鈍磨した神經を以て平素文章を草してゐるといつてもいい位だ。/この語法を以て詩に於ける脚韻を押さうとするのは、無理だ。一言にいつて、元来が無謀だ。/私は詩に於ける押韻、――脚韻を踏まうとする試みの前途をはばむ障碍として、過去にも現在にも、また未來にも、この點を最大の難關と考へる。この宿命は致命的だ。改革の餘地がなく、工夫の餘地がない。」

日本語の基本センテンスの末尾は外国語に比べて類の少ない動詞や形容詞・形容動詞となるが、それは脚韻を踏むには致命的な構造である。したがって日本語の詩歌に押韻を試みるのは無謀であると言うのである。

前回「出来はよくない」と言ったのは、苦心惨憺しても情景を適切に構成し得ないからだが、一方では「音」の選択と排列に満足を得ていないからでもある。
31音(短歌)部に限定し、ローマ字表記にして見ると、「アブラナハーー」の音は

aburanawa kinotadanakani hashiariki dotenokodakaki nawatachimachiki

と第2句目から4句目の末尾の母音がすべて i、しかも第3句から第5句の尾音節はみな ki 音で揃えている。
つまり1首5句中、第3、4、5句で韻を踏んでいるのである。

また全体を通して使われているもっとも多い母音は a で16、次に多いのは i 母音 で9、それぞれ63文字中25パーセント、14パーセント強を占める。
しかしながら、この1首中もっとも強い音韻上のアクセントは2句首部におかれた ki にあって、それは音のみならず、文字(漢字)としてもカラーイメージとしても、もっとも強烈に全体を統御している。
最多 a 母音は、喉を拡げ外に向かう強い外向性をもつ。すなわち対象へのデザィアを象徴し、次に多い i はその反対向きのベクトルを特徴として、閉じ、制止する。未知の領域へ踏み出す恐れを反映した母音である。
憧憬の下に不安が盤踞している、幼い恋情のかたちを描きえたと思う。

こうした音韻上の細工は「愉しかりしーー」の場合、第3句目の末尾「消ゆ」と第5句末尾の「梅雨(つゆ)」で押韻したこと、また第4句頭と第5句末に連続する u 母音を置いたことである。
u 母音はくぐもり、停滞性を暗示する。長雨のなか、消失した時間と空間の間に佇む抒情を表わし得たとは言えるだろう。
しかし「アブラナハーー」の a 母音とそれを制動する i 母音、そして ki 音連打のリズムには到底及ばないのである。

失敗は当然として、20年前の拙著で「言語表現の実験」の挙句「軽みのある定型に到達」、とは今回上野千鶴子さんからいただいた葉書の評言である。
『短詩計畫第二 天軆地圖』は平仮名書きとし、 5 7 5 を1篇とする表現が圧倒的に多い。つまり「俳句」が卓越する。
また前作では旧字や片仮名を原則としたため、今度の本とは印象がだいぶ異なるのである。だから「軽みのある定型」つまり俳句に「行った」と思われるのは致し方ないことかも知れない。しかし僭越ながらよく眺めていただければ、軽みとは対極の情念を将来する17音が1つや2つでないことはすぐわかるはずである。

これも今度の本を差し上げた結果いただいた黒田杏子さんからの郵送物だが、「句集拝受」とメモがあって、「藍生(あおい)俳句会」の会誌『藍生』と投句用紙が同封されていた。主宰される結社へのご招待に与かったわけで、恐縮の至りである。
しかし、この「第二」は句集ではなくあくまでも詩集で、ただし日本語の 5音と7音を主体とする、定型短詩の「実験」であるのは前著と変わりはない。

俳句であれ短歌であれ、それをプロパーとしてやっている自覚も、これからやるつもりも実はない。
世話役を担っている仲間内句会の行きがかり上、17音形が多くなってしまったが、わが表現の領域に俳句も短歌も川柳も、区別はない。
それらは日本語に拠る定型短詩のヴァリアントにすぎないからである。

48音節1篇の試みは、現在もときどき手掛けることがある。
出来はよくないが、「アブラナハーー」の幼時初恋の記憶に対となる、近時認めた結婚直後の回顧は以下のとおりである。

「愉しかりし露地奥小家跡は消ゆ

 古き直道(ひたみち)駅見えぬ梅雨

 新婚の線香花火二袋」

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画像は2000年8月に刊行した『短詩計畫 身體地圖』の函のおもて面である。
深夜叢書社版で、社主の齋藤愼爾氏が過分の帯文を書いてくださった。

また氏の奨めにより、幾人かの方々にこの本をお送りした。
そのようなものをいただけるとは思ってもいなかったのだが、礼状というか感想というか、何人かの方々から葉書や手紙を頂戴した。
哲学者の木田元さんや社会学者の上野千鶴子さん、漫画家のみつはしちかこさん、そして先だって蛇笏賞を受賞された柿本多映さんなどであった。

木田さんの葉書には具体的にこの句がいいと書いてくださって、感激した。
しかししばらくして鬼籍に入られてしまい(2014年)、先般刊行した『短詩計畫第二 天軆地圖』をお目にかけることは叶わなかった。

上野千鶴子さんからは、今回も葉書をいただいた。
20年前の拙著を憶えていてくださって、あれは詩の「実験」とあった。
なるほどそうか、勝手な試みのつもりだったが、実験ととらえたほうが明晰だなと感心した。

この『短詩計畫 身軆地圖』では、すべてにわたって1ページに3聯から成る短詩1篇を掲げ、全110篇を収めた。たとえばp.120は次のごとくである。

「アブラナハ 黄ノ只中ニ 木橋(ハシ)アリキ

 土手ノ小高キ 汝(ナ)ハ立チ待チキ

 息ツメテ 木橋目指シケリ 六ツノ春」

ご覧のように、5 7 5 / 7 7 / 5 7 5 の3行、計48音節で構成される。
つまり31音の短歌1首と17音の俳句1句の組合せなのである。
「短詩計畫(第一)」は全体を通してこの「短歌+俳句」を通した。
この形式は、長歌(5 7 5 7 5 7 ・・・・5 7 7)に対して反歌(5 7 5)を添える形式にヒントを得、仮名はすべて片仮名としつつ、短歌にも俳句にも与せぬ方途を試みたつもりであった。別の言い方をすれば、古典である「長歌+31音反歌」形式に対して、「短歌+17音反歌」を1セットとする俳句でも短歌でもない、新しい日本語定型短詩の「実験」であった。

ちなみに上記の1篇は、今月8日の本欄「春暈」とほぼ同舞台であるが、同じ「木橋」とは言ってもこちらは170mほど離れ、用水のいわば本流(七郷堀)の高土手の間に設けられた、大きいほうの橋を指している。

さてこの「実験」が失敗、成功いずれに帰したかといえば、世上流通する俳句、短歌および現代詩の3潮流の狭間に零れ、どこからも一顧だにされなかった、つまり当然ながら失敗したとしか言いようがないのである。

 

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