前掲の三好達治の文章、すなわち日本語詩歌における韻(rhyme)の否定は、直接には中村真一郎や加藤周一、福永武彦らが戦時下に試みた日本語定型押韻詩の戦後の発表(『マチネ・ポエティク詩集』1948年)に対する批判である。

日本語の単語と文法の構造上、詩の押韻は無理無謀とするその主張の核芯は、しかし20年以上前の書きものの二番、否、三番煎じであった。
その初回は1935年5月6日号の『帝国大學新聞』に発表した「日本語の韻律 ー萩原朔太郎著『純正詩論』讀後の感想」であり、次は同年11月号『四季』に掲載された「燈下言」(後、「萩原朔太郎氏へのお答へ」と改題)であった。
1935年と1958年、ほぼ四半世紀の間に存在したのは、国家国民の「総力」をあげて遂行された15年間にわたる戦争とその結果としての敗戦であることは注意されてよい。

中村らの『マチネ・ポエティク詩集』は、ヨーロッパのソネット形式を範として、日本語14行詩での押韻を試みたのだが、wikipediaの「ソネット」の項は、その末尾で「近代日本では蒲原有明が初めて紹介したが、音韻体系が全く異なる日本語とはうまく合わず、立原道造らが行数を取り入れたにとどまる。その後は福永武彦らのマチネ・ポエティクが本格的な日本語ソネットの創作を試みたが、三好達治による厳しい批判を受け、日本語ソネットの試みは頓挫した」と書いている。
「本格的」というのは、それまでの日本語の「ソネット」が、おおむね単に4+4+3+3=14という行数あわせにとどまっていたのに対し、実際に脚韻を踏む詩作を行ったことを指している。wikipediaの書き手が三好の説を「厳しい批判」と言うからには、それが当を得ているという判断が前提だろうが、果たしてどうであろうか。

そもそも三好達治の「萩原朔太郎氏へのお答へ」は、萩原の唱える「日本詩歌の音楽性」に対し、それを「無用の要素」と退けるものであった。
マチネ・ポエティク批判はその焼き直しにすぎないが、注目すべきは「お答へ」の冒頭に披瀝されている自説の「具体的な動機」で、それは日本語詩朗読の放送やレコードの「悉くが、文字通りの意味で、聞くに耐へない、非藝術的な、醜陋な感銘を與へるのを、爭ふ餘地のない確かさで實感」したが、それに対して「フランスあたりの俳優が、ヴェルレエヌやボオドレエルの詩を朗讀してゐる、そのレコードを時折聽いてみますのに、決して、我が諸君子の朗讀を聽く場合のやうな、嫌惡を感ずることはないやうです。もともと、唐人の藝術は解りにくいもの故、自主的に、好惡の感情を働かせる境にまで、たち到り難いのかもしれません。だがとにかく、それらの朗讀によつて、それらの詩歌の、意味なり價値なりを、補足され深められたやうに覺えることが、一再ではありません。總括していつて、耳に聽きながら、樂しいのです」というのである。

三好説の根拠には、自身の対照的な二様の「音の経験」があると言う。
それらをまともに聴く機会をもたない者にも、三好の言う「経験」は想像できないものではない。日本の詩歌はたしかに音としては平板であろう、と肯ずる者が大半だろう。
それは何故だろうか。

結論を先に言ってしまえば、それは我々のほとんどが、もっぱら日本語の音と意味の中に浸かり、その音と意味をあたりまえ(平俗)として疑わない島国の日常に生きているからである。そうして「規範」は常に島の外、海外にあって、いくつかの周期波長を以て拝外主義と排外主義を繰り返してきたからである。さらに言えば、拝外主義と排外主義周期の動源には、常に「日本語」による「日本(語)特殊論」ないしは「日本(語)特殊意識」が横たわっているからである。

日本における詩の規範は、かつては漢詩であり、近代にあってはフランス象徴詩であった。
三好は「マチネ・ポエテイクの試作に就て」の末尾近くで次のように言っている。

「最後に斷つておく、定型押韻詩を以て、詩型の至上完璧なものと考へるのは、私と雖もマチネ・ポエテイクの諸君子と共に同感だ。これを邦語に移して可能と考へない點で諸君と異なるのみ」

東京帝国大学文学部仏文科に学び、卒業研究にヴェルレーヌを選んだ三好にとって「詩型の至上完璧なもの」とはフランス象徴詩にほかならなかった。

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