大岡信は「押韻定型詩をめぐって」(『現代詩手帖』1972年4月号)において、現代詩上葬り去られた感のある「マチネ・ポエティク」の試みを、委細をつくし再評価した。
なかでも注目すべき指摘を以下に掲げる。

「三好達治が押韻不可説の根拠とした、日本語では少数の動詞が文の末尾にこなければならない宿命をもつという考え方について、『口語プロソディ試論』という貴重な労作(私家版タイプ印刷、都下南多摩郡多摩町桜ヶ丘二-二〇-六、梅本方、昭和四十一年刊)をまとめて口語定型詩の可能性を立証しようとした神奈年遅は、「安易な固定観念」だとし、文法的特質からの制約は、「かなり根拠が薄弱なのである」という。
 『なぜならば、「そうしなければならない」という強い文法的要求は、日本語の場合、無く、文章の末尾にいわゆる体言止めとして名詞を持ってこようと、動詞の中止法を使おうと、副文章を置こうと、一向に差支えない(後略)』」

神奈年遅の『口語プロソディ試論』という本は、残念なことに国立国会図書館にも所蔵がなく、原文を確認できないため肝心のところは部分的で孫引きしかできないが、体言止めや中止法以外にも、倒置法なども詩歌には多用される。三好が日本語の「措辞法」が押韻の「最大の難関」であり、過去現在未来にわたって致命的であるとする主張はもともと誇大で「根拠が薄弱」であることは確かである。
そもそも語順がSOV構造の言語は、琉球語、アイヌ語や韓国・朝鮮語、モンゴル語のみならず、ウズベク語やチベット語、ビルマ語、ペルシャ語やイラン語、チベット語、さらにアムハラ語からアルメニア語、古代シュメール語まで存在し、世界的にはSVO構造より多いという説もあるほどで、ひとり日本語が孤立して特殊なのではない。調べればそれぞれの言語のそれぞれの時代において、詩歌の押韻は工夫され、産み出されているはずである。なんといっても詩歌(うた)の骨格は「韻律」(プロソディ)に存するからである。

三好のもうひとつの「根拠」とする「日本語の聲韻的性質」つまり「常に均等の一子音一母音の組合せ」が押韻を「甚だしく貧弱」にするという主張もまた同様で、基本母音が日本語同様aeiouの5つしかないラテン語とそれを祖語とするイタリア語やスペイン語なども音としては近しいものがあるし、日本語同様、ポリネシア諸語がいわゆる開音節を特徴としていることは、ハワイ語などの例でよく知られている。「我らの單語が、押韻的資質に缺けてゐるといふ、一大事實」(三好)などと息巻く必要はさらさらないのである。

ただここで触れておかなければならないのは、日本語は措辞法上末尾に位置するのが名詞に比べて種の少ない動詞で、しかもそのうち一部のものが頻出する、という三好の指摘についてである。

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