8月 2nd, 2020
定型短詩もしくはソネットについて ―その6
そのヴェルレーヌの、「詩法」(Art poétique)と名づけられた9詩節の短詩は、「何よりも先に、音楽を」という詩句で始まる。
De la musique avant toute chose,
Et pour cela préfère l’Impair
Plus vague et plus soluble dans l’air,
Sans rien en lui qui pèse ou qui pose.
何よりも先に、音楽を。
そのために、奇数を好むこと。
おぼろげで、大気に溶け込みやすく、
奇数の中には、重さも、固定した感じもない。
(https://bohemegalante.com/2019/06/16/verlaine-art-poetique/から引用)
上掲は冒頭から4詩節のみだが、原文は文字をみただけでも脚韻が踏まれているのがわかる。
フランス象徴詩は音楽性を重視し、なかでも「ヴェルレーヌ自身大変に音楽的な詩人であり、彼の詩は数多くの作曲家によって曲を付けられ、現在でもしばしば歌われている」(同前)という。
三好が「萩原朔太郎氏へのお答へ」で意図的に日本語詩の「音韻」と「音楽性」を否定したのは理由があった。
それは1935年4月に第一書房から刊行された萩原の『純正詩論』において、ヴェルレーヌが言うように詩の「音楽性」がとりわけ強調されていたからである。それは同書の一篇「和歌の韻律について」(1976年刊全集第九巻、pp.19-38)では、「音楽」という言葉が12箇所に使われているのでもわかる。
三好にとっては先輩大詩人の発表した「詩論」であったが、その先輩は「第五高等学校(熊本)第一部乙類(英語文科)浪人入学も翌年落第、第六高等学校(岡山)第一部丙類(ドイツ語文科)転校も翌年落第退学、慶大予科も中退」という「学歴」の持主であるから、フランス詩についてはもちろん三好のほうが圧倒的に「専門家」なのである。
『帝大新聞』において大詩人の新著の瑕疵を暴き、その説を貶めることによって自らの詩人としての地位上昇を謀るのはある意味で当然の所作であった。「萩原朔太郎氏へのお答へ」とは、その末文に「お需めにより、先日の拙文を細説した」とあるように、『帝大新聞』掲載文への萩原の疑問ないし質問に対応した再説明であった。
三好のこの手法は、戦時期をはさんで23年後に後輩たち(中村真一郎と福永武彦は東大仏文、加藤周一は同医学部出身)に再応用される。「マチネ・ポエティク」のソネット押韻の試み、すなわちその音韻、音楽性への否定である。それはまず冒頭において「同人諸君の作品は、例外なく、甚だ、つまらないといふこと。」と一蹴される。この三好の三番煎じ応用ハードブロウによって、彼らの試みは文学史において「エピソード」として葬られた。
しからば、三好の立論はまっとうなものであったのかと言うと、決してそうではなかったのである。
萩原の「和歌の韻律について」は、三好も「この論文は、本書中白眉のもの」(「日本語の韻律 萩原朔太郎氏著『純正詩論』讀後の感想」『帝大新聞』)と認めるように、今日においてもなお正鵠を射たきわめて重要な指摘として読むことができる。そこには日本語の伝統的な定型詩の音韻効果が具体的かつ実証的に示されているのである。
さらに言えば、三好自身の代表作「雪(太郎を眠らせ)」と「甃(いし)のうへ」が対句と対韻、脚韻による、極めて音楽性をもった詩篇であることも自己矛盾であった。
陸軍幼年学校から同士官学校に入学した経歴をもつ三好の軍人エトスは筋金入りで、三島由紀夫は三好の喧嘩は「文壇最強」と言っていたらしい。
自らを棚に上げ、冒頭においてとりあえず対象への攻撃に集中する手法は常套だったろう。
しかしその攻撃の拠って立つ堡塁は、先に紹介した「朗讀音」云々に似た経験則で、言語学的根拠薄弱にして牽強付会、しかしながら人口に膾炙し易い「日本語特殊論」だったのである。