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愚かしい「本」 その1

今月の木曜日は、早稲田大学エクステンションセンター中野校の東京微地形シリーズ第8回目、「江東区の微地形」講義にあてている。
13日はその2回目だが、話題のひとつは「カエル」であった。

何故微地形講義に「カエル」が登場するかと言うと、ひとつは埋立地の古環境、そうして高潮災害との関連からである。
講義は屋外の「巡検」との組み合わせなのだが、来週の巡検予定コースには芭蕉足掛け14年の故地である深川芭蕉庵跡が含まれる。
所謂蕉風確立期の芭蕉の住まいで、幕末以降その所在地の確かな場所は不明となっていたのが、1917年(大正6)9月の高潮の結果「芭蕉遺愛の石の蛙が出現」したので、そこを庵跡とし「芭蕉稲荷神社」が設けられたと言う。

参考までに「芭蕉庵の古跡」の記載のある嘉永5・1852年の江戸切絵図(尾張屋板「本所深川絵図」部分)を以下に示しておこう。
芭蕉没158年後の地図である。

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「古跡」は松平遠江守の下屋敷の「庭中に有」と記すが、遠江守は尼崎藩第6代藩主松平忠栄(ただなが)のこと。
『江東区史 上巻』(1997年)によれば、1711年に摂津国尼崎藩主となった松平忠喬の孫松平忠告が『続深川集』(1791年)の序文に「その池ハ今、予が別業の内に存して、ますます古池となれり」と書き、また松平家では文政2年(1819)池を補修し、青銅(あらかね)の蛙を中央に大小の石の蛙を並べたという。

もちろん貞享3年(1686)刊『蛙合』初出の、あまりに著名な「古池や蛙飛びこむ水の音」にちなむのである。

高潮で出現したという「石の蛙」が「芭蕉遺愛」であったか「尼崎藩下屋敷の置物」であったかはさておいて、ごく最近の話としてエッセイストの嵐山光三郎が《「カエルは飛び込まない」、したがって芭蕉の句はフィクションである》と断言している件をまず取り上げたい。

2022年10月3日の『東京新聞』(朝刊)の「本」の欄に「芭蕉研究の集大成」の見出しで嵐山の新刊『超訳芭蕉百句』が紹介されている。
「100句すべて現場検証」「句は足で読む」の見出しが目をひく。

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上掲はその記事の一部だが、これを読んで目を疑った。
急いで当の本にあたるべく公共図書館を横断検索するもすべて「貸出中」である。
買うつもりはさらさらないので、近くの大型書店で立ち読みしたが、《現地で見たカエルは飛び込まない。したがって芭蕉の句はフィクションである》以上の具体的な記述は見あたらない。

いずれにしても、この著者は近年まれにみる短絡思考の持主であるとあらためて感心した。

実は現在「江東区芭蕉記念館」(1981年開館)に展示されている「芭蕉愛好の石の蛙(伝)」もそうだが、そのモデルとなっているカエルは「ガマ」言い換えれば「ヒキガエル」なのである。
嵐山が清澄庭園で見たと言う「飛び込まないカエル」もヒキガエルである。

小野道風の逸話でもわかるように、一般にカエルは超訳ならぬ跳躍する動物として知られている。
農薬や殺虫剤普及以前、家庭の庭先にもよく見かけたカエルは小型のアマガエルで、都市近郊の水田の畔を歩けばトノサマガエルやアカガエルが次々と水面に飛び込んだものであった。アマガエルは手足の先に吸盤をもっていて木にも登るし、台風の夜など洗面所のガラス窓に貼り付いているのをよく見かけた。
小さなアマガエルのようなモリアオガエルは、池畔の木の枝に泡状の卵塊を産み付ける。孵化したオタマジャクシがそこから水面に落ちる仕組みである。現在では天然記念物とされているモリアオガエルだが、江戸の深川に棲息していなかったとは断言できない。
なにせ深川発祥の地名は「森下」、オールコック(佐野真由子『オールコックの江戸 英国公使が見た幕末日本』2003年)や川添登(『東京の原風景』文庫本1993年)が言うように、江戸は「江戸は世界最大の田園都市」だったのである。

カエルのジャンプ力は、後ろ足の長さとその水かきに秘密がある。
近年東京の公園を席捲するのは専らヒキガエルとウシガエルで、後者は「侵略的外来種ワースト100」の範疇に入る、つまり江戸時代には存在しなかった種であるが、体が大きい(重い)わりにはジャンプもする。
一方ヒキガエルは、カエルのなかでは珍しく跳ねることのなくのそりのそり歩き、大口を開けて何でも呑み込む特異なカエルである。
嵐山が「現場」とし足をはこんで見た清澄庭園の優占種はこれである。

330年以上前の深川芭蕉庵のカエル棲息環境と棲息状況が現清澄庭園のそれと同一で、一貫してヒキガエルが棲息の優占種であるならば、その「現場検証」は意味をもったであろう。
しかしご当人は棲息環境の変化もカエルの種別すらも顧慮することなく、「足で読む」を標榜し一度の知見で得意気に「フィクション」と断案する。これほど短絡な夜郎自大も珍しい。

著者も愚かだが、本の版元も同類である。
多少名の知られたエッセイストの、意表を突いた話題で売り出そうという意図が優先し、編集における校閲過程がすっぽり抜けているのである。
昨今流行りの、「本」の資格ゼロの「本」、というべきで、こんな「本」を取り上げる新聞書評欄も情けないかぎりである。

(つづく)

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地図文学傑作選 補遺

『十九歳の地図』が凡百の地図ものの地平を抜いて傑出しているのは、「地図」が暴力の意思を象徴し、「支配」そのものであることを劇的に示したからである。

我々が道をみつけ、それをたどり、また戻るために、地図は必ずしも必要ない。
従来唱えられてきた「認知地図」というモデルは、「地図の進化論」に収斂する一種のイデオロギーとみなされる。

あたりまえのことだが、我々が移動する場合は、時間をともなった一連の場所(場面)記憶のつながりに依存する。
それは「内なる地図」ですらないのである。

「地図」は、ヒトの歴史における最近1万年のなかで認知の主役と見做されるようになったにすぎない。
それは、実は国家の誕生と軌跡を同じくしたと言っていいのである。

だから忘れぬうちに、前回紹介した2冊につづけて以下を付けえて加えておこう。

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『失われゆくわれわれの内なる地図 ―空間認知の隠れた役割』(マイケル・ボンド、2022年白揚社)

プラトンは、ソクラテス自身の代わりに、ソクラテスを主人公とした著作を多数ものし、今日にその言説を伝えた。
ソクラテスが書きものを残さなかった理由は、『パイドロス』の中で語られている。
ソクラテスがその知人パイドロスとの対話のなかで紹介しているのは、古いエジプトの王タモスと地方神にして発明の神にテウトの対話であるから、対話の入れ子なのだがが、それは「文字」の発明とその利害で、タモスは専らその害を指摘したのである。
すなわち「人々がこの文字というのもを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には忘れっぽい性質が植えつけられることだろう」(藤沢令夫訳『パイドロス』岩波文庫、p.164)と。

この予言は、文字のみならず記号そして地図の「発明」からはじまって、今日のデジタル世界の裏面に潜む危機にまで一直線につながる。
かつて人々は、メディアに依存しない「記憶」を基本としており、それを欠けば生き延びられなかった。
無文字社会のヒト(ホモサピエンス)の「脳力」とその記憶量は、膨大なものがあった。
地図というよりも空間に伴う膨大な記憶が、かつては個々のヒトの脳の中に蓄積された。
記号や文字そして絵や地図も、記憶の体外化を促進するものであった。
したがって、ヒトは時代が下るにしたがって「馬鹿になった」と言っても間違いではない。
その逆の例が、ヘレン・ケラーでありまた塙保己一と言えるかもしれないが、しかしその「学び」の基本は書物すなわち文字にあったと思われる。

その文字を読むスタイルの今日的変容については、以下が参考になる。

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『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳 ―「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる』(メアリアン・ウルフ、2020年インターシフト)

1年遅れのコロナオリンピックから無理やり酷葬まで、権力と金のソコノケ街道はつづく。「隠れて生きよ」をモットーとしているから標記の戯言以上は言わないが、さらに溜息は出る。

“嘘つきも国葬します芋煮会”

ブログで日記を公開するつもりもないのでまる2か月中断していた理由もとくに示さないが、この夏は結構忙しかった。
糸魚川から奥会津を経て佐渡へ、ほぼ1週間ほどのインパクトある遠出もしたし、これまでの見識を変えさせられた本との出会いもあった。

それはいずれも翻訳書で、次の2冊である。

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『反穀物の人類史 ー国家誕生のディープヒストリー』(ジェームズ・C・スコット、2019年12月みすず書房)

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『WAYFINDING 道を見つける力 ー人類はナビゲーションで進化した』(M・R・オコナー、2021年1月インターシフト)

「地図文学」に関連して「認知地図」に関する書物を図書館で漁っていたら、これらに出くわして吃驚仰天した。
地図にかかわってほぼ半世紀だが、「認知地図」どころではない「地図」そのものさらにはヒト(サピエンス)の来し方と現在に対する認識を文字通り転換させられたからである。

日本語には「地図学」という言葉があるが、それはCartographyの翻訳語で「地図作製学」と訳すのが本来的でかつ正確である。
だから「日本地図学会」は国土地理院以下の地図作成関係者と、それを道具とする地理学教師を主体とし、それに地図マニアが加わるというのが実態で、その基本的パラダイムは「地図の進化論」なのである。

生きものとしてのヒトの能力、そしてその脳の機能と構造に関する今日的な知見からみれば、Cartographyのみならず地図そのものが相対化される、というよりヒトのこの1万年の来し方は知的には「逆進化」ないしは「退行」の歴史だったのである。

現在では、ほとんどがGPSに取って代わられた「地図」は、これまでモノとして称揚されすぎたように思われる。
それは一種のフェティシズムであった。
フェティシズム自体否む必要はない。

しかしGPS、とりわけスマホナビは、生きものとしてのヒトの「脳力」を矮小化していくことは間違いない。
しかし、それはヒトの長い歴史において、国家と地図の出現時もほぼ同じような転換を示したのである。
生物としてのヒトは、ますます自己家畜(ドレイ)化の道を歩むものと思われる。

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「地図文学傑作選」 その17

この7月20日で夏期講座が終わった途端に発熱、数日寝込んでしまった。
そのことはいずれ触れるとして、ここで急に再開するのは「その16」で中途にしていたスティヴンスン『宝島』の地図話ではない。
それは措いて、横になっている間に読んだものの光の幾筋かをとどめておきたいからである。

前回のブログ7月10日の「モオゾレエ」では、建築史家の鈴木博之(1945‐2014)が自著(『日本の〈地霊〉』1999)において国会議事堂の意匠が「メメント・モリ(死を思え)」であると推理したことを述べたが、われわれの世代がこの言葉を意識するようになったのはむしろ藤原新也(1944‐)の写真エッセイ集『メメント・モリ』(1983)であったと思われる。
その写真とそのキャプション「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」が、当時のわれわれに与えた衝撃は大きかった。
だからほぼ同世代、1年ほど年少の鈴木が自著においてこの語を使ったとき、同語異相ではあるものの鈴木の念頭に藤原の著作タイトルの影が差したと推測しても間違いとは言えないであろう。

生に貴賤がないと同然、死神は貧富尊卑に関わりなく平等にヒトを刈り取る。
家族葬も社葬も国葬も、焼けば出るのは煙と骨灰だけである。
話が骨灰にまで飛んでしまったが、言いたいことは死神の話ではなく、もちろん「地図」である。
それも「猫地図」についてである。

数ある藤原の著作のうち、『丸亀日記』(1988)は新聞連載をまとめた文字だけのエッセイ集である。
「丸亀」とは戯作めかして執筆者自身を爬虫類の一種に擬しただけで、讃岐うどんを食べに四国に旅行したという話ではない。
新聞連載をもとに47項の短文が並ぶ。
そのうちもっとも長文(というより会話文が多くスペースを食っている)で味読に堪え、また忘れられない(法政大の田中優子も同様の感想をどこかで書いていた)のは、頭から5番目の「まぶたの猫」である。

老委託駅員ひとりが改札を預かる盛夏の内房線の竹岡駅で、「丸亀」は鈍行が去った向かい側のホームに2人の乗客と1匹の猫の姿を認める。
それが跨線橋の階段を上り下りした挙句、ベンチで上り列車を待っている自分の前を通り過ぎ、改札を出てゆくのだが、猫は駅前広場を横断し草むらに隠れてしまう。
猫が下りの列車に乗ってやってきて、ひとりどこかへ消えたのである。

晩秋になって「丸亀」は再び竹岡駅に降り立ち、件の委託駅員と話して判明したのは、かの猫が竹岡駅を根城に1駅(上総湊)どころか2駅(佐貫町)3駅(大貫)も先まで電車で行き来していた事実であった。
それは竹岡から通う人々、とりわけ女子高校生たちによって目撃されており、猫が内房線を上り下りしていたのは間違いないという。
駅員の推測は、「女子高生には人気があった。よく菓子なんかやっておりましたからね。それである日通学のときについて行ったんと違いますかねエ。そんなことを何度かくりかえすうちに、一人で勝手に往復するようになった。………」というのである。
そうして、その猫は竹岡駅にはもう戻ってこないという。

一般の猫の行動範囲、つまりテリトリー地図については、今泉吉典・今泉吉晴『ネコの世界』(1975年初版)のpp.72-73に「ネコの生活圏」というカラー図版があってわかりやすい。それは「ハイムテリトリー」を中心に、それをとりまく「ハンティングテリトリー」の2重・3重の円圏であって、野生のオオヤマネコのハンティングエリアの場合は直径80キロメートルにもおよぶ広大なものであるという。
つまり野生のオオヤマネコは、直径80キロメートルの認知地図を脳の中に刻み込んでいると考えられる。
したがってその方法を一旦憶えてしまえば、電車で2、3駅先まで行き来することは、ネコにとって難しい技(わざ)ではないはずだ。
そうしてその場合、ネコの脳内には電車を利用するルートがしっかりと組み込まれていると考えるほかない。

さてしかし、「まぶたの猫」の冒頭2行目には「いつだったか、日本海側で行方不明になっていた猫が本州を横断して飼い主宅に戻って来たという話が伝わった」とある。
こうなると話の次元が異なってくる。
村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』(2020年)というイラスト付小品の冒頭のエピソードは、父親と自転車でネコを棄てに行って帰ってきたら、当の猫が玄関先で出迎えたという、著者得意のミステリアスめかした書きぶりだが、実話とすれば(父親にかかわる思い出話なのだから実話なのだろう)これまた「電車猫」の次元とは別の話である。
猫にかぎらず、生きものの空間認知能力すなわち脳内地図は、ヒトがぼんやり思っているほど単純ではなく、往々にして人の平均能力を超える面があるとみられる。

以前、ロンドンのタクシー運転手と伝書鳩の「海馬」の大きさについて触れたが、ヒトがメディアとして地図をもって以降、促されたのは生物としての脳力の退化ではなかったのか、というこれまた次元の異なる疑問が頭をもたげるのである。
S・ミズンによれば、ヒトの歴史において心の構造と機能が最大限の発達を示したのは狩猟採集時代の後期であるという(『心の先史時代』1998年)。農耕はヒトの自己家畜化を強制し、都市化はその退行進化を加速した。
「スマホNAVI」がヒトの生物的空間能力をどれほど損なうものか、結果が明らかになるのはそう遠くない時期であろう。

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モオゾレエ

協力会議といふものができて
民意を上通するといふ。
かねて尊敬してゐた人が来て
或夜国情の非をつぶさに語り、
私に委員になれといふ、
だしぬけを驚いてゐる世代でない。
民意が上通できるなら、
上通したいことは山ほどある。
結局私は委員になつた。
一旦まはりはじめると
歯車全部はいやでも動く。
一人一人の持つてきた
民意は果して上通されるか。
一種異様な重圧が
かへつて上からのしかかる。
協力会議は一方的な
或る意志による機関となつた。
会議場の五階から
霊廟(モオゾレエ)のやうな議事堂が見えた。
霊廟のやうな議事堂と書いた詩は
赤く消されて新聞社からかへつてきた。
会議の空気は窒息的で、
私の中にゐる猛獣は
官僚くささに中毒し、
夜毎に曠野を望んで吼えた

上掲は髙村光太郎の『暗愚小伝』(1947年)中の一節(「協力会議」)である。
『暗愚小伝』は日本文学報国会詩部会長も務めた光太郎の敗戦後のいわば懺悔文で、「協力会議」とは太平洋戦争突入の1年前、1940年(昭和15)12月に髙村が委員となった「中央協力会議」のことであるが、ここで目を惹くのは「霊廟(モオゾレエ)のやうな議事堂」という表現である。

議事堂とはもちろん1936年(昭和11)に完成し、東京都千代田区永田町1丁目に所在する国会議事堂を指したものだが、それが霊廟のようだというのはとりわけその中央頂部のピラミッド状構造とその上の塔屋であろう。
霊廟 mausoleum の語源は紀元前350年頃に小アジア西部のギリシャ都市国家の王であったマウソロスとその妻アルテミシアのための墓所の謂いにあり、それは巨大さと壮麗さから世界七不思議の一つに数えられたという。
小アジア・ハリカルナッソスのそれはすでに遺跡でしかないがそれを範とした建造物には、ワシントンD.C.のハウス・オブ・テンプル、メルボルンとピッツバーグの戦没者慰霊塔、ロサンゼルス市庁舎、そして永田町の国会議事堂などがある。

2014年2月に満68歳で亡くなった鈴木博之は、その著『日本の地霊(ゲニウス・ロキ)』(1999年)で、議事堂の実質上の設計者とされる吉武東里(とうり)の師武田五一(京都帝国大学工学部建築学科創立者)が設計した神戸の大倉山公園の伊藤博文の銅像(1911年:明治44完成も銅像は戦時供出で湮滅)とその台座にアプローチしつつ、次のように書いた。

「この意匠は国会に集まる議員たちに、無言のうちに先人伊藤博文の、命をかけた国政への参画の道を示そうとしたのではないか。それはいわば国家的スケールでの「メメント・モリ(死を思え)」というメッセージではないか。」

鈴木は伊藤について、1882年の渡欧と憲法調査以前は触れていない。その「死」についても同様である。
伊藤の出生と幕末の「活躍」は一般には明らかにされていないのだが、その死はよく知られている。
1909年(明治42)10月26日、伊藤はハルビン駅において、韓国(朝鮮)独立の義士である安重根にピストルで狙撃され、間もなく死亡したのである。

国会議事堂の「意匠」と伊藤の死を想起するのは、もちろんこの7月8日の前総理大臣安倍晋三狙撃死亡を受けてだが、それにしても110年前と今回の「狙撃死事件」には落差がありすぎる。

一方には明確な政治的動機すなわち植民地からの独立の義に立つが、他方は特定のカルト的宗教への怨恨が動機とされ、極端に言えば34年前の厚生事務次官宅押入り殺傷の「愛犬チロ仇討」事件にも似て政治性は希薄である。

しかし政治はいかなる「事件」をも利用し、それを契機に「大衆の雰囲気」は大きく変容することがありえる。
なにせ安里屋ユンタの囃子詞「マタハリヌ チンダラカヌシャマヨ」(八重山古語で「また逢いましょう、美しき人よ」の意)の後半を、「死んだら神様よ」と意図的に曲解するような風潮がいまでも支配的なのである。

今回の事件の結果は、大昔に読んだ「憎悪の哲学」「暗い戦慄」「暗殺の美学」「大量殺人と国家」などの埴谷雄高のエッセイをひっぱり出しては目を通す仕儀となった。
そのなかであらためて瞠目するのは、「憎悪の哲学」にアドルフ・ヒトラーの次のような箴言めいた「洞察」が引用されていたことである。

「元来大多数の民衆は、性質も物の考え方も極めて女性的であつて、冷静な理性よりも感情に動かされ易い。しかもその感情は極めて単純である。彼等の感情にはほとんど陰影がなく、ただ対立があるのみである。即ちこれが半分、あれが半分といつたものではなくて、愛か憎しみか、正か邪か、真か偽かといつたものだけがあるにすぎないのである。」
したがって、「大衆の無知を認識し、純粋に心理的な理由から、大衆には二種の敵を与えず、ただ一種の敵のみを与えなければならない」「ただ一種の敵のみが押しつけられなければならぬ。そして万人の憎悪が、この一つだけの敵に集中されていなければならない。多方面に拡がつた敵すらも、たた一種のカテゴリイだけに属するように見せかけることは、真の指導者の才能の一部分である。」
「大衆は、その指導者が反対派を倒すことを躊躇すると、それによって、彼等自身の目的が正しくないしるしだとは思わないまでも、彼等自身の目的がはつきりしていないしるしに違いないと感じる。」「自己の宣伝において、たとえばいかに僅少な部分であれ、相手の正義を認めたが最後、そのことは自分自身の立場に関して疑惑させる種を播くことになる。」

真偽ないしは適否ではなく、「見かけ(見せかけ)」とそれによる「敵の創出」およびその徹底的打倒が大衆政治としてのナチズムの要諦であると言っているのである。
大衆政治とはポピュリズムである。
ポピュリズムの実態は指導者専制政治であり、それは参加型の奴隷制にほかならない。
そうして民主主義とポピュリズムの、制度としての違いは実際上は存在しないのである。
ナチズムの政治手法に倣うべきと公言したのは、安倍晋三の盟友麻生太郎であった。
安倍晋三が政治の当否を検証されぬままその遺志とともに大衆のモオゾレエに祀られるとすれば、虚偽ではなくファクトにもとづく政治としての「民主主義」は地下に埋葬される。
旧統一教会スキャンダルを直接のトリガーとした今回の銃撃事件の結果が「国葬」なら、「国」という文字が泣くだろう。

7月は早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校で何回か古地図の話をするため、その準備にかまけてブログ更新まで手が回らない。
ただし『武蔵野樹林』2022年夏号掲載の拙稿連載「武蔵野地図学序説 その6」5ページのうち最初の2ページ分を以下に掲げてお知らせとしたい。
今回は武蔵野の南端から出土した線刻縄文土器の話で、その線刻画はいわば世界文化遺産級の「日本列島最古の地図」なのだが、報告(『考古学雑誌』第67巻4号、1982年3月、浅川利一報告)が残るのみで、土器自体は現在は確認できない、いわば「幻の地図」なのである。
ご興味のある向きは同誌拙稿4-5ページをご覧いただきたい。

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「地図文学傑作選」 その16

このシリーズもそろそろ一区切りとするが、それにあたっては本項その5で予告したスティヴンスンの『宝島』(1883年)について書いておかなければならない。

前回登場した堀辰雄の『美しい村』の「地図」は、作者が婚約に至る少女のために、色鉛筆と万年筆で「丹念に」描いたのであった。
方や不朽の名作『宝島』誕生の契機となった「地図」も「念入りに」「美しく色どられ」ていたとは、作者自身が「私の第一作「宝島」」で書いている通りである(阿部知二訳『宝島』付編、岩波文庫、1963年初版)。
前者は当面の役割を果たした消耗品だったとは指摘した通りだが、もし遺されていれば「文学アルバム」の格好の素材であったろう。
『宝島』の発端となった地図も同様に失われてしまったのだが、それは作者によって逸失放念されたからではなかった。

「物語が本として出版されることに決まったとき、私は原稿について地図もともどもに、カッセル社に送った。校正刷りはきて手を入れたが、地図については何の音沙汰もなかった。手紙を送ってたずね、地図を受取ったおぼえはないと告げられたときには茫然自失してしまった」(同前)のである。

出版のために、地図は描きなおされなければならなかった。
つまり本の誕生には「出まかせに地図をえがき、思い付きで片すみに標尺をしめし、それに寸法を合わせて物語をかきあげ」た最初の段階と、「一巻の書物を調べ、そこにあるすべての地点の表をつくり、その細目に適合するように、コムパスを利用しつつ地図を苦心してつくりあげ」た、もうひとつの段階が存在したのである。
下掲は『宝島』初版本(1883年)の口絵地図だが、「父の事務室において、汐を吹く鯨や帆船の飾りもろとも書き直され」たもので、「諸種の字体」の特技のあった父親は「フリント船長の署名」を書き、そこに「ビリー・ボーンズの航海指示」まで加えた。
そうして出来上がった二つ目の地図は、「何とはなしに私にとっては、それは「宝島」ではないのだった」。

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失われた最初の「宝島」の地図については、前述の「私の第一作「宝島」」(「アイドラー」誌、1894年8月)にはたしかに「私は一つの島の地図をかいた」とあるのだが、スティヴンスン全集(The Works of Robert Louis Stevenson, Tusitala Edition. vol.2, 1923)に収録された義理の息子オズボーン(Lloyd Osbourne)の ‘note’ によれば下記のように元図はオズボーンで、スティヴンスンはそれに手を入れ「宝島」と書き込んで持って行ったのだという。以下少し長いが、その該当部分を掲げる。

‘one rainy morning, busy with a box of paints, I happened to be tinting the map of an island I had drawn. Stevenson came in as I was finishing it, and with his affectionate interest in everything I was doing, leaned over my shoulder, and was soon elaborating the map and naming it. I shall never forgot the thrill of Skelton Island, Spy-Glass Hill, nor the heart-stirring climax of the three red crosses !. And the greater climax still when he wrote down the words ” Treasure Island ” at the top right-hand corner ! And he seemed to know so much about it too-the pirates, the buried treasure, the man who had been marooned on the island. ” Oh, for a story about it,” I exclamed, in a heaven of enchantment, and somehow conscious of his own enthusiasm in the idea. / Then after writing in more names he put the map in his pocket, and I can recall the little feeiing of disappointment I had losing it. After all, it was my map, and had already become very precious owing to its association with pirates, and the fact that it had been found in an old sea chest which had been lost and forgotten for years and years. But my step-father took it away, and the next day at noon I wad called up mysteriously to his bedroom (he always spent his morning writing in bed) , and the first thing I saw was my beloved map lying on the coverlet. Still wondering why I had been summoned so specially, and not a little proud and expectant, I was told to
sit down while my step-father took up some sheets of manuscript, and began to read aloud the first chapter of Treasure Island.

雨の朝だったけれど、私が描いた島の絵の彩色に熱中しそれが終わろうというとき、たまたまスティヴンスンが部屋に入ってきた。いつも私がしていることには心から興味をもってくれるのだが、その時は私の肩に手をのせ、それからすぐにその地図に入念に手を入れはじめた。スリリングな骸骨島、遠眼鏡丘という地名が書き込まれ、そしてどきどきするような3つの赤い×印が入れられたときのことを、私は決して忘れないだろう。そのクライマックスは、地図の右上隅に「宝島」と書きつけられたときだった。彼は海賊たちや埋められた宝、置き去りにされた海賊のことをよく知っているようだった。私は彼が構想に熱中しているのにやっと気が付いて、夢みるような気分で「あっ、それ物語になるのね!」と叫んだ。/さて、それからいくつか地名を書き込まれた後、彼はその地図をポケットに入れた。だから今でも、地図が私の手を離れた時のちょっとした後悔を思い出す。結局のところそれは私の地図だったが、海賊とかかわり、何年もの間置き忘れられていた船乗り用衣装箱に発見されたという事実のため、きわめて価値ある地図となった。けれども私の義理の父がそれを持って行ってしまったのだ。次の日のお昼だったが、妙なことに私は寝室に呼ばれた。彼はいつも午前中は寝床で書きものをしているのだが、部屋に入ると私の大事な地図がベッドカバーの上に載っているのが目に入った。そうして、特別に呼び出された理由をつかめないでいるのに、さらにびっくりすることには、腰を掛けるように言われ、父は原稿を何枚か取り上げて「宝島」の第一章を大きな声で読み上げたのだった(拙訳)。

これに対して、スティヴンスン自身の説明(「私の第一作「宝島」」)は次の通りである。

しかし私は時としていささか羽目をはずして、その画家(というべきだったろう)と画架をならべ、彼とともに彩色の画をかきながら心たのしい競争のうちに、午後の時を過ごした。そうした時のいつか、私は一つの島の地図をかいた。それは念入りに、そして(私の考えたところでは)美しく色どられた。島の形が、いいようもなく私の空想を魅してしまった。そこには私を十四行詩(ソネット)のように楽しくする港があった。そして節理にうごかされているものの持つ無意識性によって、その作品に「宝島」という名称を付したのだった。(「私の第一作「宝島」」の一部。阿部知二訳)

対応する原文は以下。

But I would sometimes unbend a little, join the artist (so to speak) at the sasel, and pass the afternoon with him in a generous emulation, making coloured drawings. On one of these occasions I made the map of an island ; it was elaborately and (I thought) beautifully colourd ; the shape of it took my fancy beyond expression ; it contained harboures that pleased me like sonnet ; and with the unconsciousness of the predestined, I ticketed my performance Treasure Island.

両者比較するに、真相はオズボーンの言に近いと思われる。しかしスティヴンスンの頭の中では、地図はすっかり自分の創作になってしまっていた。その結果それこそ枚挙にいとまのない訳本や解説では、「地図」誕生話はとりどりとなってしまったのである。

それがどのようにとりどりであるかは、かつて「地図のファンタージエン」(Libellus, No4, 1992年)にかいつまんで記した。またその続編「児童文学の地図物語」のサブタイトルを付した「『宝島』再考」(Libellus, No10, 1993年)では、現代日本児童文学に新段階を画すと言われた上野瞭の『日本宝島』を紹介した。併せて参照していただければ幸いである。

さて、本項その5では『宝島』がなぜ「地図文学」であるか後述すると書いたが、物語の発端に地図が存在する構造を、スティヴンスンの述懐に沿って、もう少し探ってみよう。

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「地図文学傑作選」 その15

前回は澁澤龍彦の「ミニアチュール・フェチ」に寄り道したが、「ミニチュア」で思い出されるのは、その7・その8で言及した前田愛が「『美しい村』という作品は、『失われし時を求めて』を、その何十分の一かに縮小したミニチュアであるかのように思われてくる」と書いていることである(「堀辰雄『美しい村』」『幻景の街』1986年。初出は『本の窓』1984年新春号)。

堀辰雄は「プルウストの文体について」という小文の付記に「私はいくたびかプルウストを読み、そのつどこの大いなる作家に対する敬愛を深めて来た。今年の夏も私は一月ばかりプルウストを読んでゐた。このごろの私にとつてはこの比類のない作家が彼独自の新しい方法で絶えず人生の姿を明らかにしてゆく――その見事な過程のみならず、そこに漸次見出されてゆく人生の業苦のやうなものがひしひし胸に迫つて来るのである」と述べて、その傾倒ぶりを示した。しかし『美しい村』が『失われた時を求めて』の「ミニチュア」であるかないかは判断しかねる。

入院でもしないかぎり、20世紀を代表すると言われるプルーストの大長編を通読することはまずないだろう、と言うよりはその機に選ぶのはこの冗長な翻訳書ではなく、まずは中里介山のこれまた大長編『大菩薩峠』のほうだろうからである。
前田は『失われた時を求めて』の最終編「見出された時」に描かれたサン・ルー嬢と、『美しい村』の「夏」の章冒頭に登場する、向日葵に譬えられた黄色い麦藁帽子の少女を対応させた。
しかしその麦藁帽子の少女はその後堀と婚約し、サナトリウムで起居を共にするもほどなくして死別する矢野綾子(「風立ちぬ」の「お前」節子)その人の姿であって、「見出された時」は瞥見したかぎりだがサン・ルー嬢の描写とはとても比重が釣り合わない。そもそもプルーストは同性愛者だったのである。

さて、1933年(昭和8)に執筆された『美しい村』は堀の「軽井沢小説」のひとつで、野薔薇や躑躅の茂み、落葉松の小径やいくつかの「バンガロオ」などの描写とともに、作品の終盤に描かれた少女の面影が読者を魅了するのだが、その少女との「媒介物」として「地図」は次のように出現する。

或る日のこと、私は自分の「美しい村」のノオトとして悪戯半分に色鉛筆でもって丹念に描いた、その村の手製の地図を、彼女の前に拡げながら、その地図の上に万年筆で、まるで瑞西(スイス)あたりの田舎にでもありそうな、小さな橋だの、ヴィラだの、落葉松の林だのを印つけながら、彼女のために、私の知っているだけの、絵になりそうな場所を教えた。その時、私のそんな怪しげな地図の上に熱心に覗き込んでいる彼女の横顔をしげしげと見ながら、私は一つの黒子がその耳のつけ根のあたりに浮んでいるのを認めた。その時までちっともそれに気がつかないでいた私には、何んだかそれはいま知らぬ間に私の万年筆からはねたインクの汚点(しみ)かなんかで、拭いたらすぐとれてしまいそうに思えたほどだった。/翌日、私は彼女が私の貸した地図を手にして、早速私の教えたさまざまな村の道を一とおり見歩いて来たらしいことを知った。それほど私の助言を素直に受入れてくれたことは、私に何んとも言いようのない喜びを与えた。

「悪戯半分に」と「怪しげな」は韜晦の措辞である。その「地図」は実際に、明らかな意図のもとに、細密に描かれたのである。色鉛筆と万年筆を用いたというのだから、作品と言ってもいい。
しかしその「ノオト」が遺されることはなかった。それは、地図が役割を果たし終えたからである。ありていに言えば、一般に地図はまずもって当座の伝達メディア、すなわち「消耗品」としてこの世に出現するのである。

ところで堀の『美しい村』は1930年代もはじめに発表されたものだが、それから10年ほど前の1919年(大正8)、雑誌『改造』の8、9、12月号と都合3回にわたり掲載された相似形のタイトル作品は佐藤春夫の『美しき町』である。
方や「村」、こちらは「町」でしかも「美しき」と文語調である。サブタイトルに「画家E氏が私に語った話」とあるように、この作品は作中話の形式をとっているのだが、E氏の語りでは一貫して「美しい町」である。文語調のタイトルは、作品が「入れ子」であることを明示するもののようである。
1919年は「都市計画法」と「市街地建築物法」がはじめて制定された年で、佐藤の作品はそれをある意味で戯画化したものであった。すなわち「美しい町」は東京市中の一区画の建設計画で、プランニングに従事した画家E氏と老建築家、そしてそのプランナーであるE氏の旧友にしてアメリカ人の父親から莫大な遺産を継いだとする詐欺師の話なのである。
つまりそれは当初から「画餅」ならざる「絵に描いた町」にすぎなかったのだが、その旧友のプランは都市の理想と美に満ちていたがゆえに「美しい町」であった。3年がかりでできあがったのは「その家のなかにはそれぞれ一つ一つのかすかな光があって、それがそれらの最も微細な窓から洩れ出して、我々の目の下には世にも小さな夜の町が現出していた。その窓という窓からこぼれ出す灯影は擦りガラスの鏡の静かな水の面へおぼろにうつった」卓上のミニチュアの町であった。
地図文学の枠外ではあるけれども、ひとつのエピソードないし『建築文学傑作選』が外した重要作品としてとどめおく。

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「地図文学傑作選」 その14

前回の末尾で、地図認知の基本システムと言うべき「視座の転位と「Cosmic View」的な漸移のスケール移動」について触れたが、視座の転位については「その3」の「地図的観念と絵画的観念」(正岡子規)で一通り述べた。

一方の「スケール移動」だが、まず説明しておかなかればならないのは「Cosmic View」だろう。その発端は1957年にドイツで刊行されたキース・ブーケによる同名のグラフィック書籍で、サブタイトルに「the Universe in 40 Jumps」とあるように、猫を抱いた一人のオランダの少女を起点として外界が宇宙大から原子のスケールまで拡大縮小する、画期的な教育絵本であった。これに触発された映像も少なくなく、今日では Cosmic Eye-Universe Size Comperisionといったタイトルのyoutube画像を目にすることが可能である。

こうしたサイズ変容ないしスケール移動に触れた書き物として、澁澤龍彦の「胡桃の中の世界」(1974年、『澁澤龍彦全集 13』pp.203-217)を挙げることができる。そのタイトルは、本文中でも触れられているようにシェイクスピア作品『ハムレット』の第二幕第二場におけるハムレットの科白から採られている。
すなわち旧学友ローゼンクランツの「なるほど、望みある身には、この国はいかにも狭すぎましょう」に対する返答、「なにを言う! このハムレット、たとえ胡桃の殻のなかに閉じこめられていようとも、無限の天地を領する王者のつもりになれる男だ。悪い夢を見なければな」(福田恒存訳)の一部なのである。

しかしその科白原文は「O God, I could be bounded in a nutshell and count myself a king of infinite space, were it not that I have bad dream」である。つまり、それは ‘nutshell’ (堅果の殻)であって、「胡桃」(walnut)とは言っていない。
しかし近隣の図書館でいくつかの訳本をあたった限りだが、この「胡桃」は福田訳にかぎらず次の坪内逍遥訳以来踏襲された語とみられる。「おゝ\/! 胡桃の殻に押籠められてゐようと、無辺際の主(あるじ)とも思はうものを、悪い夢をさへ見なんだら」。

英語でnutを含むおもな語には、walnut(クルミ), chestnut(クリ), hezelnut(ヘーゼルナッツ), peanut(落花生)があり、要は殻のある食用果実のことで堅果と訳されるが、日本語の堅果にはacorn(ドングリ)を含むから、概念的にはズレが生じる。
ヘーゼルナッツや落花生は近年の外来種だから除外するとして、クリ、ドングリ、クルミ(オニグルミ)は日本列島には縄文時代から存在し、またそれらは当時の人々の主要食糧の一種で、栽培されてもいたのである。もちろん殻を除去して食用にしたのだが、ドングリの場合はタンニンを抜く水晒し行程が不可欠であった。
いずれも語音に ‘kur’ を含み、殻に包(くる)まれた木の実の意であって、語源が「包(くる)む」にあることは、各地の方言をチェックしても明瞭である。

つまり ‘nutshell’ を「クリの殻」などというよりは「クル(包)ミの殻」としたのは極めて的確で、それが意識されたか否かは別として、また坪内以前の訳は当面未詳として、語が踏襲されてきたのにはそれなりの理が存在した。そこからさらに「殻」が省略されて「クル(包)ミの中」となっても何ら不都合はない。さらに言えば「包み:殻」とその内部の構造は、図らずもフッサール現象学の超越と内在の関係を示唆して意味深い。それは外界認知の構造そのものだからである。

さて澁澤の「胡桃の中の世界」は、ミシェル・レリスの「無限」(『成熟の年齢』所収)と題された幼時体験、すなわちココアの箱に描かれた少女が同じ少女の絵があるココアの箱をを指さしている画像が惹起する「一種の眩暈」の感覚と、「メリー・ミルク」の罐の絵やキンダー・ブックの表紙絵から受けた澁澤の幼時体験がほとんど同一であることへの想起からスタートする。
合わせ鏡双方の奥につづく像のように、入れ子の絵は無限を開示する。それを初めて目のあたりにした子どもは眩暈と恐怖に襲われる。しかし澁澤の筆先は無限の恐怖に向うことなく、「大きなものと小さなものとの弁証法を楽しむ想像力」の諸説諸例を経巡る。ただしその展開はピエール・マクシム・シュールの書き物(谷川渥訳『想像力と驚異』1983年)を骨子また素材とし、当書のタイトルもシュールの本の第5章「ガリヴァーのテーマとラプラスの公準」のエピグラム(ハムレットの科白)に由来するのである。

その章のはじめでシュールが述べている「ガリヴァー(あるいはミクロメガス)コンプレックス」は、地図的認知の構造を言い当てた趣きがある。澁澤もその語を用いつつ『後漢書』(「方術伝」)中の「壺中天」の譬え話から「ミニアチュールの戯れ」に触れ、またオーソン・ウェルズの『市民ケーン』のラストシーンを想起する。すなわちかつての新聞王の孤独な最期の手に握られていたのは、揺らすとミニチュアの家に雪が降るガラス球(「スノードーム」)で、それは「薔薇の蕾」という名の橇とともに少年時代の「世界」、つまり場所と時間の「クルミ」にほかならなかったというエピソードである。
澁澤はまた、G・バシュラールの『空間の詩学』(岩村行雄訳、1969年)の第7章「ミニアチュール」のⅠの一節を引用した後で、「私たちはそれぞれ、想像力の働きによって、いとも容易に論理を超越し、ミニアチュールの世界に跳びこむ」とも言う。それを地図の属性に引き付けてみれば、プランニングの想像力ということになる。同7章Ⅸでバシュラールは「遠距離もまた地平線のすべての地点にミニアチュールをうみだす」とし、さらに「われわれは遠方から所有する」の言葉も提示する。水平、垂直を問わなければ、これも地図の構造と言うほかない。

ミニアチュールとは「苔の茎が樅になる」(バシュラール、7‐Ⅴ)を典型とするスケール変容で、澁澤がこの著で展開したのはもっぱらこの「小ささ」のイメージなのだが、筆者の場合はその反対に高熱を発して寝ている折など、体が宙に浮いて宇宙大となる幻覚にとらわれることがある。カフカの『変身』ではないが、つげ義春作品の主人公も「死なんて真夜中に背中のほうからだんだんと……/巨人になっていく恐怖と比べたら/どうってことないんだから」(『ねじ式』1968年)と呟いた。これも想像上のスケール変容の例であることを補足しておく。

澁澤の「胡桃の中の世界」は、地図の原理を参照できるこうした著作(『ねじ式』を除く)への格好の案内文と位置付けられるだろう。

なお、いささか牽強付会の面があるが「入れ子構造」の地図の例として、本項その7で触れた「近代測量地図の最高傑作」参謀本部陸軍部の「五千分一東京図」(1883年3月測量「東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍)から、当時神田錦町に所在した華族学校(学習院)校庭の地図画像と、その開校を報じた『郵便報知新聞』1877年(明治10)10月17日の記事の一部を以下に掲げる。この校庭地図が「日本地図並びに琉球地図」と言われたのは、明治政府による琉球併合(「琉球処分」)が1879年(明治12)だったためである。

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「十七日、神田錦町華族学校親臨開業式の次第を拝見するに、表門及び南北の二門何れも西洋飾り美々敷日章を掲げたり。広苑及び各室の周囲には数百の紅灯を結び列ね、正面には紅白の幕を張り、馬立場には第一方面二分署の消防夫出張し、巡査は三門へ詰め柵内外を警護す。表門右方仮屋の中には海軍の楽隊伺候せり。庭面は日本地図並びに琉球地図を象(かたど)れり。廻廊には数種の盆栽を陳ね設け、玉座には百花を金瓶に雑挿せり(略)」

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「地図文学傑作選」 その13

本項の手仕舞いにあたっては、短歌と俳句作品から目についたものを掲げることにする。

短歌と地図ということになると、石川啄木の次の作品がすぐに思い浮かぶだろう。

「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」

言うまでもなく1910年8月の日本による韓国併合を詠じたもので、自国領を中心に置きそれを赤く塗る近代地図の一般原則を裏返し、「亡国」の印として朝鮮半島部に墨汁塗布したのである。日清日露両戦争後ナショナリズムに浸った日本人のなかでも、啄木の特異な位相がうかがわれる。
もちろんその2月前には大逆事件と俗称される幸徳秋水らの逮捕があり、処刑は翌年1月とはいえ「時代閉塞の現状」は頂点に達していた。啄木が現在の文京区小石川の寓居で26歳の生涯を閉じるのは1912年の4月であった。
併合前の韓国の国号は「大韓帝国」であるが「併合条件の綱要」において、明の洪武帝から下賜された「朝鮮」の呼称が復活された。「くろぐろと」否定されたのはその呼称でもあった。なお「大韓帝国」の「帝国」とは、領土にかかわるというよりは自前で暦がつくれることを意味したという。

時代は大分とぶが、1985年に78歳で亡くなった「幻視の女王」葛原妙子の「地図」の語を含む歌は次のごとくである。

「黒峠とふ峠ありにし あるひは日本の地図にはあらぬ」

二句目と三句目の間を一字空け、三句目を字余りとした破調である。
「或いは」を「あるひは」と書くのは歴史的仮名遣いとしては誤用とされるが、それを承知で意図的になされた節がみえる。つまりこの歌のテーマは「異界」へのpass(越境点=峠)であり、「地図」とはそれを記載した図である。日本であろうと外国であろうと、幻視者にとって異界への分水界はどこにでも存在しうるが、それは視ようとして見えるものではない。作者にとって黒峠という言葉は、その言葉だけが頭の中で不意に出現したのである。だから「あるひは」なのである。
今日「黒峠」と入力すれば、Google Mapはただちに島根県との境に近い広島県山形郡安芸太田町横川の内黒峠を指し示す。一方Black Passでは世界地図のどこにも該当しないようである。つまり「黒峠」という地名は現実にはどこにも所在しない。
葛原のもっとも代表的な歌として「他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水」がある。それと同作「高きよりみし白昼に人群は大いなる魔のごとくながるる」を並置してみると、地図の原理である「視座の転位」が顕著であることがわかる。すくなくとも古代においては、地図とは一種の「空間幻視」の賜物でもあったのである。

より直接的な空間幻視の歌は、北原白秋の

「大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも」

であろう。

若山牧水の

「幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく」

は幻視ではなく平明な旅情歌だが、その視点はやはり上空にあり、地図的であることに変りはない。
地上視点であるが、古代の「国見」のごとく崖上(現在の東京は千代田区の駿河台男坂上)から見下ろした巨大都市を、近代詩のかたちで「野の獅子の死」にたとえたのは上京した石川啄木(「眠れる都」、『あこがれ』所収)で、1904年11月21日のことであった。

これらに対して地図現物が登場するのは、天台宗僧侶にして歌人および詩人、というよりも日本野鳥の会の創立者として知られる中西悟堂の次の歌である。

「槍ヶ岳のいただきに来て見放(さ)くるは陸測二十万図九枚の山山」(「安達太良」)

いわば「山頂歌」であるが、ただちに思い出されるのは斎藤茂吉の

「陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳(そび)えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ」(「白桃」)

であろう。こちらには地図の名は登場しないが、奥羽山脈の分水嶺が足元に踏まえられ、歌の構図が地図である。しかしここで注意すべきは「陸奥」(みちのく)の語がつかわれている点である。蔵王は現在の宮城県と山形県にまたがる山塊であるから、ただしくは陸奥と出羽すなわち奥羽でなければならない。山形県は現在の上山市出身の茂吉にこの語遣いをさせたのは、「みちのく」が「東北」に対応する語として逆にイメージされるようになっていたからであろう。「東北」は明治初期に方位称から地域称として転用された新語で、歴史的経緯から言えば「差別語」である。したがって「東北学」は、すくなくとも明治以降の時間幅にしか該当しえないのである。こうしたことに無関心ないし無神経な言説は学問とは言えない。

ところで悟堂歌にある「陸測二十万図」といえば、日本近代文学の白眉のひとつでもある泉鏡花の代表作『高野聖』(1900年)の冒頭次のように登場するのである。

「参謀本部編纂の地図をまた繰開(くりひら)いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣(ころも)の袖をかかげて、表紙を附けた折本になってるのを引張り出した。/飛騨から信州へ越える深山(みやま)の間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立(こだち)も無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸ばすと達(とど)きそうな峰があると、その峰へ峰が乗り、巓(いただき)が被(かぶ)さって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。/道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午と覚しい極熱(ごくねつ)の太陽の色も白いほどに冴え返った光線を、深々と戴いた一重の檜笠に凌(しの)いで、こう図面を見た。」

「参謀本部編纂の地図」とあるからには、少し地図に詳しい向きは旧陸地測量部「誉の五万」、つまり5万分の1の地形図と思うかも知れないが、さにあらず。こうした内陸の地にあっては当時は5万や2万分の1(2万5千分の1図ではなく、当初の迅速ないし仮成および正式2万分1図のこと)図はおろか、伊能図すら作成されてはおらず、資料を搔き集めはじめての日本列島142面が整備されたのは1893年。それがこの「参謀本部編纂の地図」すなわち「輯製二十万分一」図であった。この件についてはかつて一文を草したことがあるので、詳しくはそちらを参照されたい(「峠と分水界」,『地図中心』2012年6月)。

茂吉歌のほかに、「地図」の語を使わず地図的なイメージを示した歌として

「切り傷は直線をなすアフリカの幾つもの国境(くにざかひ)にも似て」(山田航)

がある。現役歌人の歌である。
アフリカの「傷跡」国境はもちろんヨーロッパ植民地政策の結果だが、そのもっとも古くまた長大な「傷跡」は、アフリカではなく南アメリカのブラジル国境である。南アメリカではブラジルだけがポルトガル語を公用語とし、他はスペイン語なのである。これは15世紀末から16世紀にかけて、ポルトガルとスペインが「新大陸」の領土獲得を争っていた時分のローマ法王裁定「世界分割線」(Meridian Demarcation)の名残りである。分割線より西側に不定形に突き出した部分は、その後アマゾン川をさかのぼって領域をひろめたポルトガル人の足跡を示している。直線でない「国境」も地表の傷跡には違いないのである。

さて、俳句にあらわれた地図としては

「大白鳥地図のあちこち消してくる」(杉野一博)

がまず一押しであろう。
大型の渡り鳥のゆっくりとしつつも力強い羽ばたきの動きが目に見えるようで、それを「地図を消」すと表現したのは、国境や軍事境界線そしてヒトがつくった構造物の類を眼下にパスしてほぼ一直線に飛んでくるからである。それが「あちこち」とはいくつかの群れが同時に飛翔してくることを示す。越冬に適した湿地や水辺が極端に減少した今日、それはかつて存在した幻想的な渡りの光景なのである。

一方で

「寄生虫己れの地図を持っており」(山本桂子)

は「地図認知」の始原を直截に表現して比類ない。無季であるが、地図そのものにも一般的には季節は存在せず、強いて言えば「通季」である。いかなる動物も場所を認知するそれぞれの能力を備え、各自の環境世界(ユクスキュルでは「環世界」)に生きる。「ミミズだって、オケラだって、・・・」(やなせたかし「手のひらを太陽に」)なのである。

「月と眠る/地図の一点に横たわり」(江里昭彦)

も、「地図」を使って秀抜である。そこには月に照らされて眠っている自分を見下ろしている、もう一人の自分がいる。「月」は秋の季語とされている。先の杉野の作品に「箱庭を出る足取りの確かなり」という作もあって(「箱庭」は季語としては夏とされる)、こうした句作の背景にスケールアップ、スケールダウンという、ベクトル向きの反対な想像力の動きが潜んでいることを垣間見させる。スケール移動は地図の構造原理のひとつである。

「地図」の語を使わず地図的なスケール移動を示した端的な例は

「渡り鳥みるみるわれの小さくなり」(上田五千石)

である。
俳句の季語すなわち歳時記や季寄せの分類では、「渡り鳥」や「鳥渡る」は秋、「鳥帰る」「鳥雲に」は春とする。ただし「燕帰る」逆に秋となる。「渡り鳥」には夏鳥もいれば冬鳥もいるから、それだけでは季節は弁別できないはずだが、歳時記では無理やり秋とするのである。
「みるみるわれの小さくなり」には、飛び去る鳥と地上に取り残された自分と、二つの視点つまり二人の自分が同時に存在する。
「渡り鳥」を季語の制約から外してみると、遠ざかる鳥の群れは何千キロも離れた繁殖地に戻る姿にほかならず、季節は春である。
しかし作者は「『渡り鳥』が『みるみる』うちに『小さくな』って秋空のかなたへ遠ざかって行ったのが事実」で、「それをみつめて立っている自分が『みるみる小さくな』っていくように感じられたのは真実」という。そうであれば、鳥たちは最終越冬地の少し手前で休憩していただけなのだから、北に帰る姿よりも景としてはずっと小規模、短詩としての感動も小粒なのである。
つまりこの句の「妙味」は、遠ざかる鳥を見ていた作者の頭のなかで「視座の転位」が一瞬のうちに自動的に起動した、というその一点にかかるのである。

季語の有無、季感の矛盾にかかわらず、これらの句は視座の転位と「Cosmic View」的な漸移のスケール移動を併せ持つ最短の「地図文学」といっていい。
ただし『日本の俳句はなぜ世界文学なのか』(ドナルド・キーン/ツベタナ・クリステワ、2014年)というタイトルの本があるにもかかわらず、「渡り鳥」や「月」「箱庭」「祭り」「踊り」等々に代表される「ひとりよがり季語」に依存するかぎり、「俳句」は「世界文学」はおろか奇形にしてお家芸の「島国文学」に甘んじるのである。

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