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木村信卿 その1

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木村信卿は「きむらのぶあき」と読む。
上掲はその若き日の風貌。
憂いを帯びた俊秀のまなざしは、今言う「イケメン」のそれである。

以下の2つの人名辞典の記事を較べられたい。


キムラ・シンケー
木村信卿
将校。初め大三郎と称す。天籟また柳村と号す。仙台柳町通に生る。
夙に独逸学を修め、江戸に遊びて洋兵を講ず。維新後兵部省に出仕し、陸地測量官となり、陸軍歩兵少佐に任ず。
明治十四年事を以て免ぜられ、下獄二百余日にして其冤枉明白となる。
後ち復た世事に関せず、詩を賦し棋を圍み、優遊老を養ふ。
明治三十九年九月四日東京に歿す。享年六十七、東京谷中天王寺に葬る。(仙台風藻)
〔菊田定郷『仙台人名大辞書』1933年〕


木村 信卿
元陸軍歩兵少佐従六位。陸前仙台藩士にして通称大三郎。天保十一年生る。
明治の初め横浜太田町に至り高橋是清と同居、仏蘭西学を修め、五年、別役成義、渡辺義通、飯高平五郎等と陸軍省七等出仕を拝命。
六年四月飛鳥井雅古等と少佐に任じ、五月兵語辞書編纂を兼ね、六月従六位に叙し、八年頃参謀局第五課長たり。
十一年十二月散官と為る。十四年一月陸軍省蔵版の日本全国図を清国公使館に密売せしとかの嫌疑を蒙りて獄に下り、八月閉門、
十五年二月廿二日官位を褫奪せられ、丗九年喉頭癌に罹り九月廿四日歿す。
年六十七。配は伶人多摂津守忠善の女にして、長子を恵吉郎といふ(谷中墓地)
〔大植四郎『明治過去帳』1935年〕

①は木村に関するもっとも基本的な情報において誤っている。
その「独逸学」は、②の言うように「仏蘭西学」でなければならい。
何といっても木村は、幕末明治初期の「フランス学派の筆頭」(『NHK歴史ドキュメント⑧』1988年、p.55)だったからである。
そうでなければ、「朝敵」であった旧仙台藩士が明治政府の中枢に迎えられるはずがない。
旧陸軍はドイツ式であったとばかり思われているが、大村益次郎が率いたその初期からしばらくは、フランスに範をとって近代化を図っていたのである。
『NHK歴史ドキュメント⑧』の「地図は国家なり」の章においては、その前半生について次のように記されている。

木村信卿は天保11年(1840)に仙台に生まれた。蘭学、フランス学を修め、明治2年には大学南校(後の東京大学)の中得業生、翌年には大得業生から大学少助教に進んでいる。この年、川上冬崖も大得業生で、二人の交友はこのころからはじまったとみられる。明治6年(1873)、木村信卿は従六位陸軍少佐に補され、やがて参謀局の組織がために参画するようになる。
木村信卿が陸軍の中枢に進むことができたのは、彼のフランス学の造詣に負うところが大きい。当時陸軍はフランス式の兵制を採用していたため、幼いころより兵学を修め、フランス人直伝の語学を身につけた木村は、陸軍にとってかけがえのない人物だったに違いない。川上冬崖がフランス流の地図図式を導入したことにもうかがえるように、この時期、フランス学は学問の主流であり、フランス学派はその絶頂期にあった。かつてフランス兵制を採用していた幕府側から優秀な人材が新政府に流れていったのも、当然のなりゆきであったろう(pp.75-76)。

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