1月 28th, 2023
木村信卿 その4
川上冬崖(1827-1881)の墓は、東京は台東区の谷中霊園に所在する。
棹石の向かって左面に刻された墓誌は以下の通り素っ気なく、「事件」には一切触れない。
先生諱寛字子栗姓川上氏通称万之丞冬崖
其号世事征夷府文久三年為開成所画学校
授 王室中興擢大学助教尋陸軍省八
等出仕編修地誌兼内国勧業博覧会審査官
以文政十年丁亥六月十一日生以明治十四
年辛巳五月三日卒享年五十有三葬于東京
谷中天王寺 明治十四年八月建
この墓は、東京都谷中霊園案内図(東京都公園協会)裏面の「谷中霊園・著名人墓碑(50音順)」に、川上音二郎と菊池大麓の間にはさまれて所在場所が紹介されている(甲8号20側)。
木村信卿の墓も同じ谷中霊園に所在する(甲9号15側)が、案内図に記載はない。
しかし、『言海』の著者大槻文彦(1847-1928)撰文のその墓誌は、同じく旧仙台藩士後進の手になるだけあって、次の通り情理を尽くしたものである。
以下、向って左、裏面、向って右の順に碑文を書き起こす。ただし行頭にナンバーを付加し、旧字は常用漢字に改めた。
左
1 君諱信卿初諱長信通称大三郎号柳外藤姓木村氏考諱長茀称栄治仙台藩世
2 臣母名生氏君八歳入藩学養賢堂以俊秀称安政二年受命入同藩士真田喜
3 平太門学洋兵術四年出江戸就下曽根金三郎更究其術受漢学於安積艮斎和
4 蘭学於大村益次郎戸塚静海仏蘭西学於村上英俊入江文郎慶応二年移横浜
5 就仏蘭西公使館書記官加頌学明年帰郷其学習皆出藩命給学資明治元年奥羽
6 役起六月奉命率土工隊一百人築国境南口砲台二年十月蒙徴命任大学南校
7 中得業生累進三年五月任大学少助教十一月改名信卿時陸軍用仏式海軍用
8 英式以君長仏蘭西学転任兵学中助教四年三月移造兵大佑命築造書翻訳八
9 月補兵部省八等出仕十二月巡視忍城等九城五年三月補陸軍省八等出仕
10監宇都宮城高崎城兵営建築之事九月進七等出仕十月為参謀局地誌課兼務
11六年四月任陸軍少佐五月兼兵語辞書編纂六月叙従六位尋長於編纂地図二
12課十一年十二月為散官先是撰亜細亜東部輿地図当時世乏善図以此撰精確
裏
1 盛行於世又将翻刻清人王韜撰普法戦記就清国公使館随員楊枢質其書中
2 地名人名支那字音因與参賛官黄遵憲交黄氏著日本誌欲付日本地図及君為
3 散官嘱製其図君諾託之陸軍地誌課属員某々氏黄氏約書中有拠官文書加鎮
4 台電線等之語某氏示之新課長時朝廷廃琉球藩為沖縄県清国有違言於是君
5 蒙嫌疑下獄実明治十四年一月也然其図絶無渉陸軍秘密冤白八月閉門半年
6 後停官位其在獄也清公使何如璋欲救其冤竊就人有所課而遂不達其志云君
7 或詩曰才疎性鈍見機遅危禍一朝将咎誰耿々寸丹炳如日此心唯有碧翁知自
8 是謝絶世事深自韜晦明治三十九年病喉頭癌以九月二十四日没年六十七法
9 謚曰玄道院実如柳外居士葬東京谷中墓域配多氏伶人摂津守忠寿女長子恵
10吉郎承後工学士次曰隆吉郎季曰修吉郎長女雅適長谷川敬三君性恬淡如
11水嗜酒愛客自中年一跌日夕親麴蘖託懐風月遣興詩賦方其淋漓酣暢不復知
12毀誉得喪為何物放浪吟嘯初明治四年君買神田錦街一廃邸一千九百歩後為
右
1 熱閙市街収地子銭年数千円優是送生涯好漫遊跋渉山川畿内東海東山北陸
2 無所不至遊必有記戸口之多寡殖産之盛衰山河港湾之位置無所漏宛然輿地
3 誌也在官所著有共武政表佐賀征討戦記亜細亜東部輿地図朝鮮全図退官後
4 私撰有中外輿地図坤輿方図君精支那字音地名皆充填以漢字以故大行於清国
5 地図受禍地図得名以有宿因者詩集則柳外遺藁二巻紀行則柳外遊記六巻與
6 君同藩少而親善君之遭厄余有所周旋君就閒後花晨月夕無不共詩酒之歓
7 今也幽明異境哀哉嗣子恵吉郎請表其墓因拭涙掲其梗概如此
8 明治四十三年九月 文学博士 大槻文彦 撰
9 高田忠周 書 田鶴年刻
10 孝 子 恵吉郎 建
11配多氏従四位上摂津守忠寿第二女母山田氏諱好子昭和十年九月二十五日
12没年八十三法謚日光寿院恭如春好大姉