1月 28th, 2023
木村信卿 その5
前回その原文を掲げた木村信卿(1840-1887)の墓誌に句読点を施し、適宜改行、行頭にナンバーを付した。
以下がそれだが、一部( )で読み等を補い、また書名、図名に「 」を付した。改行等誤りもあるかと思われる。お気づきの点はご指摘いただければありがたい。
1 君、諱(いみな)信卿、初諱長信。通称大三郎、号柳外。藤姓木村氏。考(こう:父)諱長茀、称栄治。仙台藩世臣(せいしん)。母名生氏。
2 君、八歳入藩学養賢堂、以俊秀称。安政二年、受命入同藩士真田喜平太門、学洋兵術。
3 四年、出江戸、就下曽根金三郎、更究其術。受漢学於安積艮斎、和蘭学於大村益次郎戸塚静海、仏蘭西学於村上英俊入江文郎。
4 慶応二年移横浜、就仏蘭西公使館書記官加頌(カション)学、明年帰郷。其学習皆出藩命給学資。
5 明治元年奥羽役起。六月奉命、率土工隊一百人、築国境南口砲台。
6 二年十月蒙徴命、任大学南校、中得業生累進。三年五月、任大学少助教。十一月改名信卿。
7 時陸軍用仏式、海軍用英式。以君長仏蘭西学、転任兵学中助教。
8 四年三月、移造兵大佑命、築造書翻訳。八月補兵部省八等出仕、十二月巡視忍城等九城。
9 五年三月、補陸軍省八等出仕、監宇都宮城高崎城兵営建築之事、九月進七等出仕、十月為参謀局地誌課兼務。
10 六年四月、任陸軍少佐。五月兼兵語辞書編纂、六月叙従六位、尋長於地図二課。
11 十一年十二月為散官。
12 先是、撰「亜細亜東部輿地図」、当時世乏善図、以此撰精確、盛行於世又将翻刻。
13 清人王韜撰「普法戦記」、就清国公使館随員楊枢、質其書中地名人名支那字音因。
14 與参賛官黄遵憲交。黄氏著「日本誌」、欲付日本地図。
15 及君、為散官嘱製其図、君諾、託之陸軍地誌課属員某々氏。
16 黄氏約書中、有拠官文書加鎮台電線等之語。某氏、示之新課長。
17 時朝廷廃琉球藩、為沖縄県、清国有違言。
18 於是君、蒙嫌疑下獄。実明治十四年一月也。
19 然其図、絶無渉陸軍秘密、冤白。
20 八月閉門半年、後停官位、其在獄也。
21 清公使何如璋、欲救其冤竊、就人有所課而遂不達、其志云君。
22 或詩曰、才疎性鈍見機遅、危禍一朝将咎誰、耿々寸丹炳如日、此心唯有碧翁知自是。
23 謝絶世事、深自韜晦。
24 明治三十九年病喉頭癌以、九月二十四日没年六十七。
25 法謚曰玄道院実如柳外居士、葬東京谷中墓域。
26 配多氏伶人摂津守忠寿女。長子恵吉郎、承後工学士。次曰隆吉郎、季(末子)曰修吉郎。長女雅適(正妻)長谷川敬三。
27 君性恬淡、如水嗜酒、愛客。自中年一跌、日夕親麴蘖、託懐風月、遣興詩賦方其淋漓酣暢。不復知毀誉、得喪為何物、放浪吟嘯。
28 初明治四年君買神田錦街一廃邸一千九百歩、後為熱閙市街収地子年数千円、優是送生涯。
29 好漫遊、跋渉山川、畿内東海東山北陸、無所不至。遊必有記、戸口之多寡、殖産之盛衰、山河港湾之位置、無所漏、宛然輿地誌也。
30 在官所著有「共武政表」「佐賀征討戦記」「亜細亜東部輿地図」「朝鮮全図」。
31 退官後、私撰有「中外輿地図」「坤輿方図」。
32 君精支那字音、地名皆充填以漢字。
33 以故大行於清国地図、受禍地図得名似有宿因者。
34 詩集則「柳外遺藁」二巻、紀行則「柳外遊記」六巻余與。
35 君同藩少、而親善、君之遭厄余有所周旋。
36 君、就閒後花晨月夕、無不共詩酒之歓今也。
37 幽明異境哀哉、嗣子恵吉郎請表其墓、因拭涙掲其梗概如此。
38 明治四十三年九月 文学博士 大槻文彦 撰
高田忠周 書 田鶴年刻
孝 子 恵吉郎 建
39 配(つれあい)多(おおの)氏従四位上摂津守忠寿(ただのぶ)第二女母山田氏諱好子昭和十年九月二十五日没。年八十三。法謚日光寿院恭如春好大姉。