平田俊子の代表作のひとつ『(お)もろい夫婦』(1993年)には「荻窪風土記」という1節がある。
aとbの2パーツで、aはクモやコキブリ、ネズミにマムシ等々からミミズに至る「ムシ類」、bは胞子で殖えるヒトヨタケつまり「菌類」がはびこる。
もちろん井伏鱒二の同名の作品のパロディというよりは裏オマージュで、内容はいささかも「地図」にかかわるものではない。
本家『荻窪風土記』の方はもちろん回想地誌の名品で地図文学の資格十分だが、それ以上にこの作品の冒頭「荻窪八丁通り」には瞠目すべき記述をもつ。
関東大震災前までは、品川の岸壁を出る汽船の汽笛と、府中の「大明神」(大國魂神社)の大太鼓の音が、荻窪まで聞こえていたというのである。そうして震災後もしばらくの間は、(西新宿の)鳴子坂あたりまでは、汽笛の音は届いていたという。
これは東「音の地図」の断片が、文字に記録された例のひとつで、まことに貴重である。
なお、鳴子坂は青梅街道が神田川を渡る西向きの傾斜部で、対応する東向き斜面は中野坂上に至る中野坂である。鳴子坂はかつて荻窪から都心の市場まで野菜を積んだ大八車を曳いて行くときの最大の難所であった。
風の向きにも依るだろうが、汽笛は基本的に品川から同心円状に伝播し、弱まっていっただろう。その逆に、未明の郊外地から荷車は京橋などの「ヤッチャ場」を目指した。こうした音あるいは動きの「地図」は、東京にかぎらず地方都市にもおしなべて存在したはずで、調べをつくせば1920年前後の東京市の音の地図もつくれる可能性なしとは言えないのである。
冒頭の章は文庫本にして約30ページだが、地図の本質のひとつの「記憶」すなわち「過去」にかかる名作であり、余裕があれば抄録したい。
タイトルから男性作家の作に戻ってしまったが、女性作家の場所にまつわる作品として、最後に柳美里の『JR上野駅公園口』を挙げておきたい。
文庫本まるまる1冊の分量でとてもこの選集には入らないが、翻訳部門で2020年のNational Book Awards(全米図書賞)を受賞した記念碑的な意味をもつ。『JR品川駅高輪口』『JR高田馬場駅戸山口』と「山手線シリーズ」の1冊なのだが、いずれも著者自身の回想ではなく創作である。
この作品では綿密な取材をもとに、「場所」に託しホームレスとして死んだひとりの男の一生を描ききった。同年春、公園口は改修されて往時の様相は一変したが、在日作家の日本語作品が世界的な問題意識において評価されたことを嘉したい。
さて、本「地図文学傑作選」も分量のオーバーを気にしなければならない段階に立ち至った。そろそろ手仕舞いしないといけないのだが、そう思ってふりかえると、「選集」の出だしが気にかかる。すなわちいかに地図の本質が「権力性」にあるとしても、『十九歳の地図』のむきだしの暴力性は「地図ファン」の神経にいささか差しさわりをもつ面があるかもしれない。
そこで当アンソロジーの冒頭には地図のもうひとつの属性である、プランニング・メディアの側面に焦点をあてた作品を据えておこう。
タイトルはずばり「夢みる力」で、地図帳と列車時刻表があれば想像力の翼を存分に働かせることができる、という辻邦夫の作品である。
「もし私が運命の神の悪戯でかりに独房に入れられるようなことになったら」という前置きが少し不穏だが、主題は権力的暴力ではなく夢想の愉悦である。
丸谷才一と辻が企画した「楽しみと冒険」という叢書の第1冊目『地図を夢みる』(辻編、1979年)の冒頭に掲げられた11ページは、リルケの詩の引用で終わっていて、地図そのものというより「〈生きていること〉の不可思議」を触発する「場所」あるいはそこにあるモノを想像することが称揚されている。
図像学研究家にして地図にも造詣が深い杉浦康平が言うとおり「地図は決して“探検済み”のものではなくて、これから“探検を始める”という場所の顕現」(『is』Vol.8, 1980)である。つまり地図とは過去であり、かつ現在から未来にわたるものなのである。
先日知り合いの詩人に「地図文学傑作選」の話をしたら、「作者は全部男ね」と指摘された。
『話を聞かない男、地図が読めない女』のような俗論に与する気は毛頭ないが、そのタイトルの前半延長にあるレベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』(原題 Men Explain Things to Me)は、その通りと思う。
「女は地図が苦手」とはもちろんジェンダー・ステレオタイプの一種で、「社会的思い込み・思われ込み」にほかならない。
地図読み競技すなわちオリエンテーリングで、男たちを尻目にどんどん先に行く女性は一人二人ではない。
かくいう当方、長年地図を相手に仕事をしてきたのに、どういうわけかオリエンテーリングは不得手で、速さを競うことなどに無縁なソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』は癒される思いがして読んだものである。
さて詩人の指摘に対しては、候補選択途上の何人かの女性作家とその作品名から、とりあえず『金魚燎乱』の岡本かの子、『崩れ』の幸田文を例にあげ、考えていないわけではないが、それらは「地図文学」というよりは「地形文学」に近いため逡巡している、と言い訳したのであった。
そうなのだ、「地図」の属性の核である「権力性」の開析を女性作家の作品に求めるのは確かに難しい。
1558年にエリザベス1世が戴冠した時、英領地図の上に立っているつまりそれを踏みつけている画像があったはずだが、それに匹敵する文学作品は寡聞にして知らない。
その一方で、「場所」をひとつの主題とした作品はほかにもすぐ挙げることができる。
矢田津世子の『神楽坂』は第3回芥川賞候補作(1936年)となった短編で、鴎外の『雁』と同じく高利貸しとその妾の話だが、現在の大久保通りを境としたケとハレの空間対比がストーリー全体の構図におよんでいる点が地図文学の資格たりえる。
さらに直截に『場所』というタイトルは、2021年11月に99歳で亡くなった瀬戸内寂聴の短編集である。2001年に第54回野間文芸賞を受けたが、郷里の墓地訪問から出家直前までの作者の足跡を顧みた14編で、とりわけ最後の「本郷壱岐坂」が井上光晴との死別を描いて感慨深い。
タイトルに「地図」がつく女性作家作品の代表として、佐多稲子の『私の東京地図』と須賀敦子の『地図のない道』がある。
これらは瀬戸内の作同様「回想」であるが、両者とも文庫本として流通していまだ手に入りやすい。「地図文学傑作選」では解説に触れておくだけとなろう。
「回想」で想起するのは、石井桃子の『幼(おさな)ものがたり』である。
2007年4月に101歳で亡くなった石井は日本児童文学における巨星の一人と言ってもいいと思われるが、中山道は浦和宿の金物屋の末っ子として誕生した。その幼時の思い出なのだが、そのなかでもとくに「大水」そして「スミレ」の項が忘れがたい印象を残す。
この作品については『「幼ものがたり」探査 ―浦和・中山道の端で』(並木せつ子、2015年)という解説(?)冊子まで存在する。その巻末に私が貼り付けた手書き地図(並木作)の複写は、銀座のナルニア国で購入したときにもらったのだったか。
石井の幼時回想は全体が300ページを超すが、その地図を添えて「大水」と「スミレ」を中心に抄録できればと夢想する。
地図付きの自伝は大岡昇平の『幼年』『少年』が著名で、大岡の地理考証には定評があるが、これらも世に普及している作品でしかも著者は男性である。
女性の地図付き回想では、石牟礼道子の「水俣の栄町での日々」も捨てがたい。
『石牟礼道子全集 不知火』別巻自伝(2014年)のpp.10-11には「自筆絵地図」「わたしの栄町通り」が掲げられているが、1927年3月の誕生の地は天草上島の下浦だから、選集に入れるとすれば地図に対応するp.18の「花売りの声で夜が明けた」から「鍛冶屋と染め屋」のp.26までか。
これらに対して、地図を掲げずしかも記述はすべて平仮名、文庫本で17ページにわたる生育の地の回想詩は、伊藤比呂美の「岩の坂」(1982年、『子どもの館』2月号)である。
いきなり「かんななをつっきる」でスタートして、「きゅうなかせんどうはいわのさかをのぼりそれからさきは/こくどう十七ごうせん(なかせんどう)と/こうさしたりへいこうにはしったり/からみつくようにつづいている」で終わる。
「そうぎや」「のみや」「くすりや」「おちゃや」「たばこや」「でんきや」「さぎょうふくや」「こめや」「こうばん」「おふろや」「げしゅくや」、そして「さかのひだりがわにえんきりえのき」なのである。
これは、読む者に地図を描くことを強要しているのかも知れない。
伊藤と親しい平田俊子の「ひ・と・び・と」全34行(アキを含む)は「あなたの生まれた町の/地図を描いてください/いつかいっしょに行けたらいいね」という3行を含み珍しく毒気も傷も露出の少ない詩なのだが、もし「岩の坂」が地図付きであったとしたら、むしろ詩のもつ疾走感は減殺されたと思われる。
恒例の某有名大学社会人春講座が一段落したので、本項を再開する。
最初に言及しておくべきであったかも知れないが、そもそも「地図文学」とは何を指すのか、その1で触れた青木淳の「建築文学傑作選」は自らをとくに説明していないが、こちらは以下少し敷衍してみる。
「地図」とはしばしば「紙ないし液晶板等に描き出された地表画像」などと説明されるが、それは文字通り表面的説明もしくは理解にすぎない。
「地図」のより本質的な定義は、地図学の大家 John Brian Harley(1932-1991)の ‘As mediators between an inner world and an outer physical world, maps are fundamental tools helping the human mind make sense of its universe at various scales.’ (”The Map and the Development of the History of Cartography” The History of Cartography, Vol.1, 1987) を参照するまでもなく、「一定空間すなわち場所の一定時間における事物・事象配置の認知と記憶、およびその伝達メディア」である。
つまり空間認知それ自体がすでにして地図であり(頭のなかの地図)、言葉で表現される地図もありえる(電話で道案内)。
同時に地図は「空間」のみならず「時間」をも付帯したもの、つまり時間の記録であることにも留意されなければならないのである。
ヒトは基本的に移動を生存与件とし、哺乳類としての分布は地表最大面積におよぶ。そのため、空間認知は「スケール移動」を伴う「視座の転位」構造をもたざるを得ない。
「視座の転位」は地表に対する垂直視線を得るためには不可欠なシステムで、一般的には目視を基礎とした個的想像力に依存するが、やがてメディアとして離陸し、組織的な地表測量から空中写真を経て人工衛星を駆使する現代測量のプロセスにまで至るのである。
この「視座の転位」構造が必然的にもたらすのは、「プランニング」と「支配」の双方に特化する地図の属性である。
つまるところ「地図文学」とは、①作品中に地図が大きな要素として登場する、②場所の認知・記憶の記述が著しい、もしくは記述から地図化が可能である、③地図の構造(視座の転位・スケール移動)およびその属性(プランニング性、支配・権力性)を描いた、またはそれが顕著な作品の謂いである。
したがって、視覚を遮断されたため体感を基礎とした空間認知を発現する谷崎の『秘密』(本項その5)が、人類史上決定的な時間とその空間の記録という意味で原民喜の『夏の花』(同その4)が、言葉やモノとして「地図」が一切登場しないにもかかわらず、ともに「地図文学」の資格をもつ。
一方、「刑罰を受ける家」に×印を付していく物理ノートの地図はリアル地図であり、さらにその行為についての記述が地図の属性すなわち権力性を抉るものであるがゆえに中上健次の『十九歳の地図』(その1)は地図文学の傑作なのである。しかしその影響下につくられた尾崎豊の『十七歳の地図』(Seventeen’s map)には「心の地図」というフレーズが何度か登場するにもかかわらず、地図文学とは言い難い。それは都会の若者の情態をちりばめたのみで、上記条件の埒外にあるからである。
一方で前田愛が鴎外の『雁』を評した「地図小説」という言葉があるが(その7)、それは「地誌小説」と言い換えることも可能である。つまり現実に存在する場所と地名(固有名詞)をベースとして、そこに展開する物語の謂いである。
その6でも指摘したように、ユーラシア大陸東端、狭い海と海峡を隔てただけの列島にあって、個々の地霊はいまだその霊力を発揮しているらしく、歌枕は言うにおよばず、名字の8割は地名に由来、道路名はなくともその傾斜部にはしばしば固有名詞を付し(「坂名」は特殊「日本的」である)、地名や坂名を織り込んだ歌謡曲等は枚挙に暇がなく、近・現代小説にあっても地名(固有名詞)をイメージ展開の基盤におくのがオーソドックスな手法であって、それは架空の小説においても同様である。すなわち表現一般が、場所に依存しあるいはそれを揺籃とする傾向が強い。
例えば時代小説の類であるが、それらの多くは場所と時間の俗情すなわち過去の風俗に結託していて、地図的認知にかかる識見は稀である。逆に近代になって地名が変わったことに無知なあるいはそれを無視した作品まで存在する(山本一力『あかね空』)。それらを「地図文学の傑作」に含めるわけにはいかない。
カフカの『城』は、図化つまり地図化が不可能である。
そこに登場する固有名詞は人名がほとんどで、具体的地名は28ページ(新潮文庫、2005年改版)に「白鳥通り」、331ページに「ライオン通り」とそれぞれただ1回登場するのみである。頻出するのは普通名詞の「城」と「村」であるが、その境界は不明で城は村に滲出しているように描かれる。「縉紳館」と「橋屋」のふたつの宿屋名もしばしば登場するが、その位置関係は特定できない。
固有の場所性を排除したこの小説においては、不可視、不可解な悪霊の如き「城」が村をそして作品全体を覆っている。『城』は個々の地霊を圧殺ないし追放した「反地誌小説」であって、作品の舞台つまり作品地図は濃厚な単一色に塗りこめられている。
それは見えざる専制すなわちファシズム支配空間の見事な寓意として成立しているがゆえに、「地図文学の傑作」なのである。
日本語作品「地図文学の傑作」の『十九歳の地図』(中上健次)にも地名は稀である。
主人公は「みどり荘」に住み込みで新聞配達をしている十九歳の予備校生である。そうして主人公が列車を「爆破する」と脅迫電話を架ける先は「東京駅」である。この2つが場所性に関わる言葉で、それだけであるとはいえ舞台設定は「東京」にほかならない。
したがって、『十九歳の地図』は『城』よりも作品の抽象度はひとつだけ低いと言わざるを得ないのである。
「フェイクとファクトの間」で想起される「地図」作品は、今年3月はじめてマンガのジャンルから日本芸術院会員に選ばれて話題となったつげ義春の作品「不思議な絵」である。
つげの代表作「ねじ式」は、1968年6月『ガロ』のつげ義春特集号に掲載されたが、この作品はその2年前の同誌1966年1月号発表である。ちなみに今日「傑作」として知られるつげの作品群は、「沼」(同年2月)からはじまって「海辺の叙景」(1967年9月)、「紅い花」(同年10月)、『長八の宿』(1968年1月)、「オンドル小屋」(同年4月)、「ほんやら洞のべんさん」(同6月)そして「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」(同7月)、「もっきり屋の少女」(同8月)と、66年から68年に集中しているため「奇跡の2年間」(実際は2年半、30か月)というらしいが、そうなると1894年(明治27)の「大つごもり」から翌年の「たけくらべ」「にごりえ」「うらむらさき」までを「奇跡の14か月」と称される樋口一葉とは「奇跡の」男女ペアである。このペアは生年に半世紀以上の差(1937年と1872年)があり、しかも一方は男性で寡作、すでに現代の平均寿命年齢を越えるのに対し、片方は女性にして集中連作しつつ24歳で夭折、ただし1世紀以上を経て五千円紙幣に復活し、対照的である。
「不思議な絵」は前述のように「沼」の前月にリリースされた16ページの小品である。
上掲は「不思議な絵」の1カット。
貧乏長屋に住む独り者の浪人陣十郎が路上で軸絵を拾い、持ち帰って吊るして見ているうちに地図に見えてくる。何やら印も付いている。無聊ついでにその道筋を歩いてみるとアクシデントに遭遇して思わぬ酒にありつける。それに気をよくしてなお地図見立てして行くと郊外の一軒家に至り、軸絵はそこに隠棲する絵師の悪戯心の産物だったことが判明してまた酒にありつけるというドラマで、オチもある。貸本マンガのドラマ性から離脱し、つげ独特の世界つまりヒトではなく「背景」が前面に押し出してくる、直前の作ある。
移動起点は八丁堀の長屋、水天宮から人形町にすすみ、蛎殻町にズレながら、どこかの町はずれの原っぱのなか、一軒家で終わる。舞台は江戸市内、人家の密集した下町も隅田川河口に近い。
話の中身は「フェイクとファクトの間」というよりも、その間に所在する偶然が導く怪我の功名ならざる戯画の効能がテーマである。
スティブンスンやポーの宝の地図は「本物」であったが、ここではそれが思い切りパロディ化され、描いた本人(作中画家そして作者)によって笑い飛ばされている。宝の埋蔵場所を思わせる「印」は、主人公によって「黒いハナクソみたいなの」と表現される。
結局のところ絵は地図(ファクト)ではなく、贋地図(フェイク)ですらなかった。しかし主人公陣十郎は巧まずして伝統に則り、「見立て」手法によって都合3ヵ所で酒というお宝に行き当たる。しかし酒は飲み干されその場で消えるだけのもので、宝(恒産)にはほど遠い。古典落語「芝浜」ではないが、一般に酒(飲酒)と宝(資産)は対極に位置し合うのである。
ところで存在やシュール、不安や脅迫感などという言葉で語られることの多いつげ作品だが、この作品の主人公は着流しに団子鼻の呑気者風、本歌取りならざる文学作品下取りの脱力感が支配する。しかし作中の「でたらめをかいて捨てたのよ」「これを地図に見たてるなんざ夢があるね」という絵師の科白は、地図の否認に裏打ちされている。そこは脱地図の領域で、無用者の系譜に地図はない。世捨て人は地図捨て人でもあって、そうでないとしたら地図にとりつかれた地図だけ人なのである。
この作品が描かれたのは紙の地図最後の全盛期であったが、半世紀を経ていまや地図は液晶画面にほぼ置き換えられた。
現代地図の実体はデジタルデータとそれを開析する数式の巨大な塊りであり、目的地を入力すれば即座に現在地からの最短経路と時間および距離が表示される。頼みもしないのに、近くのラーメン店やカフェが出現する。液晶画面は文字と記号で満たされていて、表面は従来の地図と変わりはないように見えるが、その実態は人工衛星からの電波を基盤としたGISすなわちGeological Information System(地理空間情報)である。
それは固定されたものではなく変化と必要に応じて更新すなわち上書きされている。だから今日の地図は常に最新(のはず)である。
それは現代都市の一角でビルが更地になり、新しい建造物に変わって数日もしないうちに人はそこにかつて何があったか忘れてしまうのと軌を一にしている。すなわち「空間情報」とは基本的に常に現在であり、記憶と記録は剥奪されている。そうしてモノの裏付けのない「情報」は、瞬時のうちに消滅する可能性を常に孕んでいるのである。
デジタル情報の世紀には、紙の地図が宝を示すのではなく、それ自体が宝となる。
なぜならばそれは人の「記憶」の基盤だからである。
しかし無用者にとって宝は記憶ですらない。
世界は一幅の戯画に等しいのである。
前回は森鴎外の『雁』に関連して前田愛の「森鴎外「雁」ー不忍池」(『幻景の街 ―文学の都市を歩く』所収)を取り上げたが、その初出誌(『本の窓』1981年春号)を確認したところ、当該篇は「連載/幻景の町③ 『雁』」というタイトルであった。
「町」は単行本とするにあたって「街」に訂正されたのである。
しかし訂正されなかったのはその冒頭の写真で、初出誌から単行本、著作集、岩波現代文庫に至るまで、トリミングこそ多少ちがうものの同一のカモの群れ写真に対し、同一の誤ったキャプション(「不忍池の雁」)が付されていた。
前田愛が満56歳で亡くなったのは1987年7月で、著作集までは自ら目を通していたと思われる。
写真にクレジットの記載はないから、著者自身の撮影である可能性が高い。
そうであれば、カワウの群れの不気味さに気づきながら、本人は湖面に群れなすカモをガンと疑わなかったわけである。
ヒトも地表の一画に生を営むいきものの一種にすぎない。
「地図的思考」にとりわけ今日的な意義があるとすれば、そのことに気づき、認知することをもって第一とする。
不忍池を含む「首都圏」のヒトと造営物ベッタリ、巨大な地滑りの如き生態系変化が想像の視野に浮上するには、地図化すなわち視座の転位を必須とする。転位は現存在への懐疑を契機とする。その契機を含まない文学評論や都市論、記号論は、天動説的なヒト文明時代の空談義に終わるだろう。
「森鴎外「雁」ー不忍池」を選に収めるとすれば写真は不採用としても、解説には『雁』本文の不備とガンカモ話に触れないわけにはいかないのである。
さて次は「その6」でとりあげた『日本の名随筆 地図』収録の「未知の土地(テラ・インコグニタ)を求めて 「ファンタジイ・マップ」より」(種村季弘)だが、こちらの初出誌にも大幅な発見があった。
『日本の名随筆』の出典記載には『箱の中の見知らぬ国』(1978年)とある。
『箱の中の見知らぬ国』では当該の文は全4章計15節のうちの冒頭節で、そのタイトルは「ファンタジイ・マップ」。中身は『日本の名随筆』と同一であるが、その巻末出典には『芸術生活』1973年1月と記されていたのである。
当該『芸術生活』をひもとけば、特集「ファンタジー・マップ 失われた土地を求めて」、カラー図版と文章が巻頭絢爛。図版は扉を含めて21図16ページにおよび、3段組4編の文章は計15ページ、すべて種村季弘のなせる業であった。
その執筆4編は、A「未知の土地(テラ・インコグニタ)を求めて」、B「アンチデボスの冒険家」、C「神秘家と革命家の地図」、D「巨人伝説とミニチュア」で、『日本の名随筆』『箱の中の見知らぬ国』ともに収録したのはAのみ、つまり残り4分の3は割愛されていたのである。
種村季弘は一見温顔、にもかかわらず稀代の博覧強記をもって戦後日本の知の一角に盤踞した。2004年8月に71歳で亡くなったが、真鶴駅からタクシー10分ほどのご自宅でお目に掛かったのは1998年頃だったか。何を話したかは忘れたが、畳の間の欅材だかの長火鉢と陶の酒燗器、それに相応しい奥様の様子が脳裏に残る。
その時すでに四半世紀前、B5判の雑誌都合30ページ以上にわたり目眩く種村「地」の世界は開陳されていたのであった。それを知らずして今日に至った不明を恥じるしかない。
その後何度かお会いする機会があったが、後に『江戸東京《奇想》徘徊記』(2003年)として1冊にまとめられた文章について「あれはね、実際にそこに行きもしないで書いているのだから、インチキですよ」と笑い話にされたのは如何にも「タネラムネラ」最晩年の風貌であった。
図版はともかくとして、「地図文学傑作選」に上記4編を一括収載できれば、種村ワールドがフラグメントではなくひとつの「地平」として眼前するだろう。もちろんその「地平」とは、ヒト世界の幻視と韜晦、フェイクとファクトの「皮膜」、まさしく文藝にして文学である。そのとき、タイトルに「ファンタジー」を用いるか「ファンタジイ」とすべきかは、判断に迷うところではあるのだが。
今日は休日だった。
人に聞いて知った。
「昭和の日」というのだそうだ。
「昭和」という語感に高度経済成長期前の懐かしさを感じるとすれば、それは自分も含めてお人好しだからである。
歴史に確認できるなかで、「昭和」という元号の一時期ほど酸鼻を極めた時期はなかった。
15年間に「日本人」だけで300万人以上が、戦争のため死に追いやられた。
列島史上最大の死者数である。
さらに言えばいまロシアがそうしているように、理屈をつけて「侵攻」した先の戦死、病死、餓死者の合計数は桁ちがいに大きい。
奈良時代から江戸時代までの間なら、「昭和」は敗戦をもってただちに「改元」されていたはずである。
前の世代が「進め一億火の玉だ」(大政翼賛会・軍歌)と踊らされ、死を覚悟し、暴力と飢えにさらされ、またさらしたのは、実に「昭和」だった。
神に擬し、敗けた途端人間に鞍替えしたその最高責任者の誕生日を、みどりの日とごまかして休日とし、挙句の果てが「昭和の日」である。
我々はよほどのお人好しか破廉恥者である。
この日目出度く「国旗」を掲げるとすれば、それは無知と無恥の掲揚である。
そうして今日は、外出を阻むほどの強い雨が降り続いた。
実に「自然は水際立ってゐる」(髙村光太郎)のである。
「地と物語の親和」というより、さらに「地についた」作品の典型としては、前田愛が「森鴎外「雁」ー不忍池」(『幻景の街 ―文学の都市を歩く』所収)で「見事な地図小説」と称揚した森鴎外の「雁」(初出『スバル』1911-1913年)が挙げられるかも知れない。
鴎外は自らを『青年』の冒頭近くで「竿と紐尺とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人」と戯画化したし、おそらくはドイツの旅行案内書「ベデカ」シリーズの折込地図をヒントにしたのであろう、地名索引を備えた「東京方眼図」(1909年)なる都市地図まで案出もしたから、地図はいわば自家薬籠中のものだった。
陸軍軍医総監までのぼりつめた人である。1870年(明治3)の普仏戦争の結果、1884年(同17)に旧日本陸軍の軍制はドイツ式に改変され、それは地図作成規範にも及んだ。測量と地図は陸軍の専管領域で、鴎外はよく知られているように軍医任官後ドイツに留学して1888年(明治21)に帰朝したのである。
前田愛が「地図小説」と言うときの地図はここでは近代測量地図の意味で、この短い評論のなかで「近代の都市図の歴史をとおして最高の傑作といわれている」参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図」(全9面、1887年刊)のうち2図幅の一部を図版とともに紹介し、さらに「国土地理院に所蔵されている手彩色の特製図」を「地図の宝石」とまで持ち上げ、地図を素材に鴎外の作品をひもといていく。
「最高傑作」とは誰がどこで最初に言い出したものか寡聞にして知らないが、ネットなどでは二万分一「迅速測図」の原図についてもそのように喧伝している例がある。しかし近代測量地図の「最高傑作」とは、前田の言う「地図の宝石」すなわち1883‐84年(明治16‐17年)に測図されたフランス式の五千分一図東京図「原図」以外にはあり得ない。
地図そのものについてはそうだとして、「地図文学」に相応しいのは鴎外の作品よりむしろ文庫本で10●ページの前田のこの文章かも知れない。
鴎外の『雁』は文庫本でも130ページ前後、「地図文学傑作選」に収録するにはそもそも分量過多である。
しかし念のためかいつまめば、高利貸しの囲い者となっている女性と、卒業を間近にした大学生との間の淡い交情が、ちょっとしたことからすれ違いに終わるという話で、1880年(明治13)つまり約150年前の不忍池の低地とその西側の台地にかかるエリアがその舞台であるが、なかでも旧岩崎邸に接する無縁坂が象徴的な場面を提供する。現在も残る旧帝大医学部の鉄門から東に300メートル坂を下れば不忍池は池の端。「地図小説」ということは無論「地誌小説」でもある。
前田は「鴎外の「測量師」の眼」が「街並の特性をおどろくばかりの精密さでとらえてしまう」例として、「五千分一東京図」を引き合いに高利貸しの末造が歩き回る神田界隈の描写を一例として挙げ、さらに作品舞台を点検した末に、この評論を「鉄筆で刻んだような正確無比の描写」という言葉で結んでいる。
筆者は鴎外のこの小品の結末近くにおかれた、不忍池のガンを石で仕留める逸話に疑念をおぼえ、大型の水鳥が水に浮いているのを投石で斃すのは無理ではないかと書いたことがあったが、それは実話で江口渙の『少年時代』(1975年)に記載があると、知人から教示を得た。余程あたり所が悪かったと見える。
それを料理して食べたのはいいが、脂こく大味でうまくはなかったという。幕末上野戦争で官軍の拠点とされた上野山下の料亭「雁鍋」の創業は不忍池に群れ成して渡り来たガンがそもそものきっかけだったろうし、そこはプロとアマ、料理のしつらえ、味付けの違いだろう。
問題は鴎外の筆が「正確無比」とする点にかかわる。この作品の終末近く、「三人は岩崎邸に付いて東へ曲がるところまで来た」という箇所である。これを地図に照らせば、無縁坂をのぼってきたのなら東では辻褄が合わず、「南へ曲がる」でなければならない。無縁坂を通らないなら、女主人公のお玉が「無限の残り惜しさ」で「坂の中ほどに立って」いるわけはないのである。
初出誌『スバル』を閲するまでは至らないが、誤植が見過ごされて今日に至ったものか、鴎外自身の誤記なのか。
いずれにしても鴎外神話には倚りかからないほうがよい。文学作品のなかで見過ごされているこうした初歩的な錯誤は、存外に少なくないのである。
ついでに言うならこれも初出誌『本の窓』はチェックしていないが、前田愛のこの評論をおさめた単行本『幻景の街 ―文学の都市を歩く』(1986年)も、『前田愛著作集 第5巻』(1989年)でも、さらには「岩波現代文庫」本(2006年)すらも、等しく当編の冒頭に「不忍池の雁」とキャプションを付した同一の写真を掲げたが、そこに写っているのはすべて小型のカモ類、それもオナガガモを主体とした群れである。
上掲は『幻景の街 ―文学の都市を歩く』(2006年 p.20)から。
東大震災前後から、不忍池は大型水鳥の塒(ねぐら)ではなくなっていた。ガンは大型草食の水禽である。彼らにとってそこはまたとない水域だったが、日暮里や三河島などの水田地帯が失われた東京に羽を休めるのはできない相談であった。
20年ほど前、都市史や江戸東京学などで著名な某氏が編隊飛行している鳥の群れを指さして「東京にもガンが戻ってきました」と言うのを聴いたが、それは肉食のカワウの飛列であった。雁行するのは、ガン類に限られるわけではない。前田愛は正しくもこの評論の末尾で、不忍池に群れをなして営巣するその大型の黒い鳥を「ヒッチコックの名作『鳥』を連想させるグロテスクな印象」と認めていたのである。
地図にかかわる文章のアンソロジーとしては、今なお図書館の棚に見ることができる「日本の名随筆」シリーズの別巻46『地図』(1994年)が想起される。2017年に91歳で亡くなった物理学者堀淳一氏の編である。
27の作品を収めているが、そのなかで「文学」に関わる作品は多くはなく、永井荷風の『日和下駄』から第四「地図」、太宰治「地図」、塚本邦雄「悪意のフィヨルド/珍説不知火航路」、種村季弘「未知の土地(テラ・インコグニタ)を求めて 「ファンタジイ・マップ」より」、谷川俊太郎「道順の話」の5編。他は地理学者や物理学者などのエッセイである。
5編中「地図文学傑作集」候補にまず上げられるのは永井荷風の「地図」と太宰治の「地図」かも知れないが、前者は近代測量地図と開かれた新景観を呪詛し、切絵図と江戸の名残りを懐かしむいわば「憂さ晴らし文」で、江戸切絵図の本質に迫る考察を望むべくもない。後者も島嶼(琉球)の王の征服事績と異国人のもたらした地図を「衝突」させた思い付きがすべてで、「地図文学傑作」にはほど遠い。
むしろ「未知の土地を求めて」は8ページのエッセイだが、「地図の魅力」の根源を「まだない場所の想像力による現前化」であると喝破し、「サドの食人国」から「コメニウスの世界迷宮」まで文学作品や絵画、挿絵、20点以上の名を挙げ、地図の歴史にも説き至って飽きさせない。「地図文学」の案内としても収録資格十分と言えよう。
しかし「地図文学傑作選」にこうしてエッセイを含めるとすると、「地図の神話と歴史」(大室幹雄、1980年)を外すわけにはいかなくなる。3段組み、図も含めて14ページの見出し「道具としての地図」「世界の見えかた」「馬王堆の地図を読む」「相対地図と絶対地図」でも分かるように、「地図文学」から種村エッセイよりもさらに「地図論」寄りである。しかしながら「未知の土地を求めて」以上に「地図文学」にアクセスするための重要な橋頭保であり、そのことは『十九歳の地図』を開析するに不可欠な「地図はなによりも権力への意思の表現なのだ」という至言が証明している。「未知の土地を求めて」はいまでも容易に図書館で読めるものだし、そうであればむしろ同著者の「地図の敵あるいはリベルタリアの地図」(1978年)か、もしくは巖谷國士の「架空の地図について」(同)か、さて。
アンソロジーに関連して思い出されるのは、町案内や商店会誌、散歩雑誌、そして地図業界関連誌の類は省くとして、それ以外の多少専門的(?)な雑誌では「企画に困った時の(古)地図特集」という申し送りがあったらしい。実際思い付くままに挙げてみても、『芸術生活』1973年1月、『太陽』1976年9月、『美術手帖』1980年11月、『みずゑ』1980年11月、『別冊サイエンス』1982年4月、『太陽』1982年5月、『旅別冊』1984年12月、『目の眼』1985年11月、『言語』1994年7月、『たて組ヨコ組』2001年No51、『母の友』2015年1月、『AERA』2017年2月20日、『山と渓谷』2019年9月、『ユリイカ』2020年6月等々、企画に困ったかどうかは別として雑誌の地図特集は結構組まれてきたようだ。また、雑誌か書籍か一瞬判断に迷うが、1978年に刊行された大判の『イメージの冒険 1 地図 ―不思議な夢の旅』は意欲的なシリーズの第一冊目で、グラフィックな編集が魅力であった。
ところで、小説でも、ミステリーやファンタジー、はたまたゲーム作品でも同じだが、すべてのストーリーは空間に展開するから、どのような作品もその舞台、言い換えればそれぞれの地図を持たざるを得ない。だから極端に言えば、すべての作品は「地図文学」と見なし得る。井上ひさし氏は作品を書き出す前にその物語の地図と年表を作成した、とは本人から直接聞いた話である。
しかし例えばカフカの長編『城』では固有の地名は登場せず、もちろん地図に言及されることもなく、描かれるのは城に近づくことのできない情況、すなわち従順で不気味な住民との延々としたやりとりである。そうでありながら主人公が城の主に呼ばれた測量士という設定は、存在の不能と逆説を直接に示して余りある。カフカの『城』は、「非地誌・非地図」文学の極に位置するのである。
しかし「日本文学」においてはこのような硬質な違和や疎隔を描く例は稀で、逆に歌枕に象徴されるように固有の地ないし地名にかかわる作品は、いまなお枚挙に暇ない。東アジアの列島弧においては、「地」と物語の親和度は相対的というより圧倒的に高い傾向をもつようだ。
筆者はかつて「井上ひさし氏にみる作家の方法 ―地図・年表・名鑑」と題した小文を日本地図学会(当時は日本国際地図学会)の『地図』に寄稿したことがある(2011年、49巻1号)。
井上氏の創作上の「秘密」についてはその文を直接参照してもらうとして、そのなかでR・L・スティブンスンとE・A・ポーの作品に触れた。
言うまでもなく「地図文学」の古典である『宝島』と『黄金虫』についてである。
それらがなぜ「地図文学」であるか、前者について後述するとして、後者についてはいささか説明が必要かもしれない。
推理小説ないしは探偵小説の創始者と目されるポーの『黄金虫』は同時に暗号小説でもあり、その暗号は海賊の宝の埋蔵場所を示した、言葉の地図であった。紛れもなく『宝島』とともに「地図文学」の最高傑作のひとつであるが、外国ものであるからここでは割愛せざるを得ない。ことのついでに記しておくと、ポーの作品と実際の地図(『メエルシュトレエムに呑まれて』におけるオラウス・マグヌスの地図の影響、『瓶のなかの手記』の末尾注におけるメルカトル地図への言及)については、谷川渥が簡単に紹介している(「幻想地図」,『is』No.80, 1998年)。
翻って日本文学の地平を見渡せば、小林秀雄や宮永孝が指摘しているようにとりわけ谷崎潤一郎は早くからポーの影響を受け、未完に終わったとはいえ「アッシャー家の崩壊」(谷崎訳は「アッシャア家の覆滅」)を翻訳までしており、耽美的、探偵的、推理的あるいは病的といった形容がなされる「ポー的」なものは谷崎作品のなかにいくらでも指摘できよう。ちなみに弟の谷崎精二は英文学者で、その業績のひとつに『エドガア・アラン・ポオ小説全集』がある。
谷崎潤一郎が滝田樗陰の依頼を受けて、はじめて『中央公論』(1911年11月号)に執筆した「秘密」という文庫本26ページ相当の短編は、暗号地図ならざる身体感覚地図とでも言うべき作品である。
女装にとりつかれた主人公が、映画館のなかでかつて交わりをもった美女と再会し、逢瀬を重ねるのであるが、女は自宅の所在を明かさないために主人公に目隠しをして往復の車(人力車)に乗せるのを常とする。
しかしその乗車感覚と一瞬目隠しを外して見た町の看板を手掛かりとして、後日その家を発見し、女を捨てるという話である。
女装という、人によっては病的とも異常とも言うかも知れない耽美趣味からはじまって、推理ないし探偵の要素で練り上げられた本作はまさに日本のポー的小説の典型と言って過言ではない。
かつては「点字地図」という言葉で知られた視覚不自由者のための地図は、今日では「触地図」の称が一般的とされる。
この作品の主人公は視覚を遮断されるが、身体感覚の残照を動員し、向きと移動継続速度とその時間からついに目的の家を見出す。途中一つの視覚ヒントが与えられているとはいえ、果たしてそれが実際に可能かどうかといえば、はなはだ心もとない。ルートを手探りする様相はそれらしくいくつか配置されているが、現実には不可能と言っていいだろう。
けれどもユクスキュルの『生物から見た世界』を参照するまでもなく、視覚に頼らない移動や目的地到達は、生きものの世界で普通に行われていることである。
今泉吉典・吉晴共著『猫の世界』(1975年)は、周知のテリトリーの範囲では、視覚を失った猫も危険を察すれば障害物を飛び越えて逃走する例を挙げている。盲目の猫は、認知地図を日々更新しているのである。ヒトにあっても、コウモリのような反響定位(エコー・ロケーション)の方法を広めている視覚障碍者の例が報道されている。
「文学地図」が視覚以外の感官を動員する「生物地図」をなぞると言ってもいいのである。
文語調の俳論の後には、一生涯青年といった印象のある辻まことが幼年時代を回想したエッセイ「多摩川探検隊」が相応しいだろう。
それが「地図文学」である所以は、その冒頭「地理付図という教科書らしからぬ本が魅力的だった。小学校五年生の新学期だった」からして資格十分、まして「多摩川探検」である。地図とは即自的な関係にある。
「地理付図」とは今の「学校地図帳」のことで、教科書らしからぬとは当時としてもカラー印刷、文字をつらねて小難しい理屈や説教を満載しているのとは訳が違うからである。
単行本に収録は5ページに満たないが、回想とは言え「探検実話」である。
水源探し5人の賛同者のうち、集合地点に実際に現れたのは3人。
隊長は悲壮な決意を秘めて2人の隊員を励まし、二子玉川から歩き始める。
夜道である。
警官に呼び止められて尋問、駐在所兼自宅に連れていかれて晩飯と宿泊を提供された挙句、五万分一と二十万分一地図の実物教授まで受け、翌朝は握り飯と共に送り出される。「いい時代だった」と言うべきか。
八王子の書店で件の地図を購入したのはよいとして、第3日目に立ち至ったのは「小仏峠へでるすこし手前」、上流へたどって行けば出くわすと思っていた水源は、行けども「石ばかりの沢」。
結局は八王子から電車で帰る羽目となったのだが、ところどころに出てくる地名を現在の地図におとしてみれば、少年たちの彷徨ルートが浮かび上がってまことに興味深い地図散歩である。
読みものと地図の組合せは学校の授業でも使える手法で、本作を地図がらみ、地図漬け文学の一作として推奨する所以である。
しかし実際に大学の授業で使用したのは、地図文学ならざる核時代現代文学の原点とも言うべき原民喜の「夏の花」であった。
以下、話は夏の多摩川べりから、グローバルに転調する。
「夏の花」は文庫本26ページほど、末尾が突然切断された様相をもつ短編である。
その切断感は「言語化不可能」な人類史的体験を、それでも文字に、記録に遺そうとした結果である。
それを読み返しながら、作中点在する地名や地誌的記述を手掛かりを拾い出し、当時の五万分一、二万五千分一地図の複写に作者の位置と視点を二次元的に追うのは、今を生きる我々の精一杯の「手向け」であり、現世界の確認作業でもあるだろう。
「地図のない」とか「地図を燃やす」といった言葉を冠した作品は少なくないが、現代とは地図どころか人間そのものが、都市ごとあるいは広域エリアごと気化する「可能性」に裏打ちされた時代である。
そうして、核弾頭を発射する装置は地表の其処此処に配置され、その位置を明示した秘密の地図は彼我ともに大方入手済みなのである。
それを人類が到達した愚劣と言わないとすれば、そのこと自体が惚けの極みである。