1年遅れのコロナオリンピックから無理やり酷葬まで、権力と金のソコノケ街道はつづく。「隠れて生きよ」をモットーとしているから標記の戯言以上は言わないが、さらに溜息は出る。

“嘘つきも国葬します芋煮会”

ブログで日記を公開するつもりもないのでまる2か月中断していた理由もとくに示さないが、この夏は結構忙しかった。
糸魚川から奥会津を経て佐渡へ、ほぼ1週間ほどのインパクトある遠出もしたし、これまでの見識を変えさせられた本との出会いもあった。

それはいずれも翻訳書で、次の2冊である。

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『反穀物の人類史 ー国家誕生のディープヒストリー』(ジェームズ・C・スコット、2019年12月みすず書房)

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『WAYFINDING 道を見つける力 ー人類はナビゲーションで進化した』(M・R・オコナー、2021年1月インターシフト)

「地図文学」に関連して「認知地図」に関する書物を図書館で漁っていたら、これらに出くわして吃驚仰天した。
地図にかかわってほぼ半世紀だが、「認知地図」どころではない「地図」そのものさらにはヒト(サピエンス)の来し方と現在に対する認識を文字通り転換させられたからである。

日本語には「地図学」という言葉があるが、それはCartographyの翻訳語で「地図作製学」と訳すのが本来的でかつ正確である。
だから「日本地図学会」は国土地理院以下の地図作成関係者と、それを道具とする地理学教師を主体とし、それに地図マニアが加わるというのが実態で、その基本的パラダイムは「地図の進化論」なのである。

生きものとしてのヒトの能力、そしてその脳の機能と構造に関する今日的な知見からみれば、Cartographyのみならず地図そのものが相対化される、というよりヒトのこの1万年の来し方は知的には「逆進化」ないしは「退行」の歴史だったのである。

現在では、ほとんどがGPSに取って代わられた「地図」は、これまでモノとして称揚されすぎたように思われる。
それは一種のフェティシズムであった。
フェティシズム自体否む必要はない。

しかしGPS、とりわけスマホナビは、生きものとしてのヒトの「脳力」を矮小化していくことは間違いない。
しかし、それはヒトの長い歴史において、国家と地図の出現時もほぼ同じような転換を示したのである。
生物としてのヒトは、ますます自己家畜(ドレイ)化の道を歩むものと思われる。

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