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木村信卿 その3

1973年『秩父困民党群像』で出発した井出孫六(1931-2020)はその翌々年、川上冬崖の最期を描いた『アトラス伝説』で第72回直木賞を受賞し、その作家生活を確たるものにした。
『アトラス伝説』の冒頭は以下の通りである。

明治十四年五月二日、陸軍参謀本部測地課長の要職にあった洋画家冬崖川上万之丞は急逝した。いま森鴎外の『西周伝』をみると、川上は狂を発して死に走ったことになっているが、ただ一つ「狂を発して」と修飾した以外、鴎外は彼の死について何のコメントも付していない。

西周近縁森林太郎の筆になる『西周伝』の上掲該当は、慶応2(1867)年9月の以下の個所である。

二十五日周真道と京師に至る。東町奉行組屋敷なる栗山荘蔵の家に居る。川上万之丞先づ在るを以て、周等と三人をなす。(万之丞は画師なり。冬崖と号す。曽て周と相識る。維新後製図を以て、職を参謀本部に奉ず。狂を発して死す。此時万之丞は浅井道博、黒田久孝と共に、家茂に招致せられ、慶喜其後を承くるに及びて、猶こゝに在りしなり〈略〉)

「真道」は津田真道。西と津田はともに幕命によりオランダ留学した仲間である。「京師」は風雲急舞台の中心京都で、この時最後の将軍慶喜もそこに在った。開成所教授であった西は慶喜のブレーンの一人として召し出され、川上万之丞冬崖は前将軍のときから同様だったというのである。引用の(  )部分は割注で、本文の中では小文字で記されている。
冬崖が「狂を発した」のはこの項目の時点から14年も後のことである。

『西周伝』はともあれ、『アトラス伝説』はその冒頭から歴史小説としては致命的な欠陥を伴っていた。
川上万之丞は「陸軍参謀本部測地課長」などではなかったからである。
その「狂を発して死に走」らされた契機も、作中に言う「製作中の五万分の一地図の原資料が紛失」はあり得なかった。
後年「誉の五万」とも称されたその地形図シリーズが整備されはじめたのは、1890年(明治23)以降なのである。
そうして、「事件」すなわち参謀本部内粛清の中心ターゲットとされたのは川上ではなく、少なくとも1874年(明治7)から1878年(同11)まで参謀局(1878年・明治11、参謀本部と改称)第五課長をつとめた(佐藤・師橋「明治初期測量史試論」4『地図』Vol.17, No.2, 1979。および『明治前期手書彩色関東実測図資料編』1991年、pp.11-15)木村信卿その人であった。
参謀局第五課は「地図政誌課」で、同第六課は「測量課」である(1873年・明治6「参謀局条例」)。
しかるに『アトラス伝説』には、同様に死に追いやられた他の3人の名も、木村の名すらも登場することはなかったのである。

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上掲は日本近代地図史の基本文献『測量・地図百年史』(1970年)の「年表・資料」のうち「資料14」表である。明治7年の項に「第5課課長 歩兵少佐木村信郷」とある。もちろん「信卿」の誤植である。ただし本文400ページに転記された「皇国各地方経緯度表」の「緒言」末尾には、「明治七年第五月 陸軍少佐 木村信卿」と正しく記載されている。しかしそれ以外に木村の名前は見出すことができず、巻末の「測量・地図百年史 年表」の明治14年(1881)の項に「事件」に関する記載はない(2022年刊行の続編『測量・地図百五十年史』の「年表」では、同年項末に「清国地図密売事件」の文字が付加された)。

小説は所詮フィクションすなわち言葉による架空の構築物である。
しかし歴史小説においては、史実調べが一定水準を尽くしたものでなければ土台なき構造物に等しく、作品がまともに評価されることはないのである。
土台朦朧作が受賞して怪しまれなかったのは、それだけこの「事件」の闇の深さつまり秘匿の度を示すものでもあった。
それを執拗に調べ上げ、闇をときほぐした人物がいた。
井出の「黄遵憲事件覚書」(「アトラス伝説遺文」)は、その人物が発掘した資料をそのまま用いた訂正文である。
したがって「アトラス伝説」と「アトラス伝説遺文」は不即不離、直木賞は返上したうえで、2者連名作として読まれるべきなのである。

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