標記のようなタイトルの本を、以前代取をやっていた版元では看板商品のようにいくつも出していた。
この種の本の出版は一時途切れていたものを、私が復活させたのだが、それは自身が勉強したいためであった。
ただ決定版というような「くずし字」の参考書は、存在しない。
いかなる語学の世界もそうであるように、くずし字や古文書を読む「コツ」は、なんといっても慣れる以外にないからだ。
よい道具がそろっていても、それを常々使っていないかぎり、技は上達しない。
私自身があいかわらずこの世界の初心者であるのは、継続して読むことがないためだ。
しかし、多くの人が継続できる状態ではないからこそ、初心者向けの本は、「売れる」のである。
最近、必要に追われて、遅まきながら江戸図の「祖」(おや)と言われる、「新板江戸大絵図」の「刊記」をあらためて読んでみた。

原文は上掲の通りだが、「初心者」にはところどころ読めないため、図書館で参考書を探していたら、三田村鳶魚の『未刊随筆百種』に「江戸図書目提要」というのがあって、その380ページに同図の刊記が「附言」として活字化されていた。
鳶魚の解読は以下のようなものである。

しかし、これをみて驚いたのは、あきらかな誤読があったことである。
当方の「読み下し」は以下の通りである。
一 此絵図御訴訟を以て板行致し候間、他所にて類板有まじきものなり
一 此御堀之外、東西南北も仕り候様に、仰付なされ候間、追付板行仕出し申すべく候
一 遠方之方角御覧なられ候事、じしやく(磁石)次第に此絵図御直し置きて御覧なされ候はば、相違有まじく候
一 間積リ壱分にて五間のつもりに仕り候、ただし六尺五寸之間なり
一 ■ かくのごとく仕り候は、辻番所なり
一 《 かくのごとく仕り候は、坂なり
一 □ かくのごとく仕り候は、御屋敷之境目なり
一 此絵図此前より世間に御座候へども、相違のみ多し。今度板行仕り候は道筋一つもちがひなく方角間積り迄こまかに仕り候
一 御屋敷の名付相違仕り候ところ御座候はば、御知せ下さるべく候、随分あらため申すべく候
右此外、東は本庄(所)、西はよつや、南は大仏、北は浅草、残らず板行仕り出し申すべく候
さて、どこが違うか、較べてご覧ください。
旧知の今尾恵介さんから話があって、平凡社の標記のシリーズの『5mメッシュ・デジタル標高地形図で歩く 東京凸凹地形案内 2』(今尾監修)で、今尾さんとの対談を交えて、都内の3ヶ所の崖を案内した。
冒頭6ページは、その写真と対談内容である。
それだけでは意味も通じないだろうからと、1ページは書き下ろした。
題して、「崖が坂をつくり、坂が崖をつくる」という。
奥付は今月末になっているが、店頭にはもう出ている。
とりあえず書き下ろしの部分だけ、以下に掲げる。
(画像を2段階クリックすると、読めるように拡大)

書評紙から依頼があった本を、入院先で読んで、退院してから認めた文が掲載されました。
1週間先付の本日発売号ですが、私のところだけ、以下に掲げます。
画像をクリックして、拡大された画像をさらにクリックすると、読める状態になります。
言いたいことは、最後の2パラグラフですので、どうかそこまでお付き合いを。
退院後の体調は、歩けるけれども、あちこちが痛み、疲れやすくなりました。
一旦都心に出掛けると、次の日は家で休むという状態。
人の多いところは嫌ですね。
とくに、エレベータのない駅。
手押し車に依存しているものだから、階段はだめ。
まして、歩道橋なぞ。
エスカレータが中途半端な駅にも、どこぞの国の「情けなさ」が溢れている。
禁欲的に、一日でできることは限られているのを自覚しながらいくしかありませんね。

この3月はじめ、40年ぶりに腰痛再発。
すぐ近所の診療所でレントゲンを撮って、服薬したものの、一向に好転せず、
そのうち痛みで眠ることもできない状態に。
左腰と左足が痛くてどうにもならない。
右側を下に体を丸めていると、少しは痛みが軽減するけれど、それでも眠ることは不可能。
食欲はまったくなく、排尿だけですんでいたからなんとかなったものの、脂汗を流してただ寝ているだけ。
トイレにはようやく歩いて行けたものが、腰を下ろすことができなくなり、そのうち歩けなくなった。
医院に電話して、女房に座薬をとってきてもらったが、それもまったく効かない。
「救急相談」に電話したら、119番してよろしい、とのこと。
10分ほどで運転手も含めて数人が来宅、マグロ状態で運んでくれて、生まれて初めてピーポー・ピーポーに乗りました。
若いけれど、隊長さんはさすがにプロ。
的確な判断で、整形外科医が当直、ベッドも空いてた、比較的近い総合病院に搬送。即刻入院。
その晩は、痛み止めのブロック注射と入眠剤のおかげで、久方ぶりに眠れました。
お見立ては「腰部脊柱管狭窄症」と。
服薬とリハビリ(午前PT、午後OT)、何よりも安静が効いたようで、1週間ほどで車椅子(トイレに行く場合)から解放。
セラピストたちの意見では、姿勢良すぎるというか、反っていて、脊椎と骨盤に負荷がかかりすぎているらしい。
執筆したり、エクスカーション下見などの時は、過剰に集中してしまうのが原因かとも思い当たる。
背中と腰の筋肉が板状、ということは、崖になっていたのですな。
けれどもとにかく、仰向けでも寝られるようになったし、リハビリ体操も自分なりにレシピをつくったので退院を決め、結局12日間の入院で、本日シャバに出てきました。
さすれば、もう外気は妖しげな春。
こなさなければならない仕事は山積みですが、そろりそろりと行きますので、どうかよろしく。
「散歩の達人」という雑誌の、今月21日に刊行された号に4ページほど書いた。

なにせ、地元の特集だし、ハケをとりあげるというから、ほかの仕事を中断しても断るわけにはいかない。ただ、できてみると、まず最初のページで見落としがあった。

マップの右上に「姿見の池」とあるけれど、それは「日立中央研究所の大池」としなければならなかったもの。姿見の池はもっと西側。
また、段丘の模式図もつくってもらったけれど、その訂正が十分ではなく、せっかく図をつくるのだから、後でも使えるようなちゃんとしたものにしておけばよかったなと、いろいろ後悔点は残る。ただし、これを契機にあちこちの「東京のガケ」と「ハケ」の現況をつたえることはできる。
都内に残された「宝石」のような、青柳ガケ線下の「ママ下湧水」や「城山公園」下の湧水の流れも、今や安泰とは言えない状況になっているのだから。
硬派の週刊書評紙「図書新聞」に、ようやくまともな拙著の評が出た(2013年2月2日付・写真を2段階でクリックすると読めるうように拡大されます)。

拙著は現在4刷りだが、初刷りから数えて5ヶ月目ということになる。
『江戸の川 東京の川』以降、江戸東京の歴史・地理・地形を横断した旺盛な著作で知られる、鈴木理生さんの執筆である。
「迷著のような名著」という、過分な評価をいただき、恐縮している。
現在の「東京地形ブーム」が、その本質を「テレビ流れ」のトリビアリズムにおいていて、写真や図版をならべ、知ったかぶりをして面白がっている「景観論」の亜流にすぎないという指摘はまったく同感である。
危機意識や、倫理性がまるで欠如しているのである。
そこまでは触れていただけなかったが、拙著の献辞を「フクシマの地霊に」としたのは、「伊達」ではないことを、ふたたび強調しておきたい。
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(テオドール・W・アドルノ「文化批判と社会」)に倣えば、「3・11」以後、「東京」を〈味わい〉もしくは〈楽しむ〉などという心性はそもそも「阿呆」か「能天気」以外の何ものでもないのだ。
「廃〈都〉」こそ、21世紀の列島の未来図である。
その権力志向を買われて、石原ナントカに釣りあげられたイノセ某という元物書き男は、「オリンピック」を連呼するピエロにしかなりえないのだ。
私が、『江戸の崖 東京の崖』に秘めた「毒」、つまり究極のメッセージは、実は「廃〈都〉」にある。
そこまで読んでいただけた人がいたとしたら、物書き冥利に尽きる。
ベアテ・ゴードンさんが、12月30日に亡くなった。
いま日本の「政界」で、「憲法」が岐路に立たされているような観があるが、彼女が、65年つづく「戦後の日本」に大きな貢献をしたことは、消えることのない事実である。
そのことに、あらためて感謝し、ご冥福をお祈りする。
多言は無用であろう。
ニュースは下記のサイトを参照されたい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130101-00000003-asahi-soci
また、ベアテさんがいかなる人物であったかは、次のサイトが詳細に語っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3
私は、以前の会社で編集長をしていたときに、下の本のタイトルを考案しただけであった。

それでも、ベアテさんとご主人やお子さん夫婦が来日した時も親しくさせていただいたし、日本でたびたび講演なさった時も何度かお邪魔したことがある。
いつ接しても、彼女の人間的な温かさに触れて、穏やかな気持ちになれたものだ。
扇ナントカという宝塚出身のタレント政治家が、参議院議長だったときだったか、ベアテさんに、「あなたのおかげで日本の女性は、美徳を失ったのではないかという意見もあるが・・・」と質問にもならない愚問を発したとき、ベアテさんはにっこり笑って、「でも、別の憲法だったら、あなたもこうしてはいられなかったかもしれませんね」と返事したと(詳細は忘れたが)いうエピソードを直接聞いたおぼえがある。
いま、わたしたちができることがあるとすれば、「ベアテ基金」のようなものを設立することだろう。
それが、「今の世にある」、わたしたちの、精一杯の「自己表示」なのだ。
ヨーロッパの最果ての国アイスランドは、数少ない海洋プレートの陸上生成現場であり、
北アメリカプレートとユーラシアプレートの狭間、つまり双璧の崖を見ることができる。
その狭間、つまり裂け目をgyao(ギャオ/ギャウ)といい、世界初の民主議会「アルシング」の舞台でもあるという。
西暦930年に、移民たちがこの裂け目の崖下に集まり、直接議論を交えたと。
つまり、その場は崖の岩壁が音響板となって、谷底を「声」が走り合ったわけだ。
日本列島は、海洋プレート現象としては、アイスランドとは正反対の「沈み込み帯」に位置していて、その反動で地震がおきるとは、よく説明される事柄でもある。
この場合、日本列島は海溝という巨大な崖っぷちにあって、人間はその縁の上に起居している構図になる。
「断崖絶壁」という言葉がある。
断崖と絶壁はどう異なるか。
断崖は、崖の上から崖下を覗いた謂いで、絶壁とは崖下から見上げた場合だという人がいる。
そうかもしれない。
けれども実際の使用例は、かならずしもそうなってはいない。
しかし。
崖下に生まれた民主議会と、崖上崖っぷちの日本の政治はきわめて対照的だ。
ちなみに、ウィキペディアによれば、アイスランドはエネルギー政策の先進国で、水力と地熱発電のみだそうで(核発電=原発はもちろん、火力発電所もない)、燃料電池バスや水素燃料自動車が運行されているらしい。
また、「常備軍」を保有せず、「タラ戦争」(第一次~第三次)でイギリス軍と戦ったのは沿岸警備隊だった(アイスランドが勝利)。
米軍基地も撤収することで合意ができており、実際に米国空軍基地が閉鎖されたという。
こうなると、政治的にも日本とは、賢愚ほぼ真逆の国がアイスランドということになる。
日本のような、中途半端なスケールと、旧「帝国」の神話が、崖っぷちの危険度をますます大きくしているようだ。
政治的にも、経済的にも、「分節」すること。
日本列島上に人間が生きのこる知恵は、おそらくそこにしかないのである。
そうして、「分節」こそが、「民主主義」の本質なのだ。
テレビと新聞・雑誌は、この何ヶ月か、極力見ないようにしてきた。
その予感はあたっていた。
「選挙」の結果である。
自民党の大勝、猪瀬の圧勝、「改憲」の現実化という結果である。
「民主主義」というものは、日本においてはかくも愚かな結果を現出する。
ペットが弱腰の主人を侮り、専制的な「飼い主」を崇める構図によく似ている。
この場合の「ペット」とは、もっとはっきりした言い方をすれば「奴隷」である。
民主党は、「オタオタした素人政治」で、閉塞のイメージしか残すことができなかったのだ。
国家官僚を中核とする、「利権共同体」の高笑いが聞こえてきそうだ。
巨大な金のもとに、とりわけテレビの裏側で、電通や博報堂が暗躍した結果でもあろう。
かつての魯迅と竹内好の指摘は、現在の日本にも、そして中国の現在にも、
それぞれ異なったニュアンスはあれ、もちろん有効なのだ。
ゆめゆめ、「あの国とはちがう」なとど言うことなかれ。
(cf.竹内好「中国の近代と日本の近代」『日本とアジア』所収)
これで「日本」の「国家」的体裁は一見強固となるだろうが、実は長い目でみれば
亀裂と解体、そして動乱のはじまりであったことが、明らかとなるだろう。
地下の、見えない活断層のズレが、一段と大きく成長したのである。
拙著『江戸の崖 東京の崖』刊行後3ヶ月を過ぎた。
『日経新聞』や『東京新聞』での紹介はあったが、本格的な書評はまだ出現していない。
一昨日、仙台地方の友人から、日曜日(2012年12月10日)の『河北新報』で紹介記事が出ていたと知らせてきた。
「東北の本棚」のコーナーだという。
東京のことを書いたのに、「東北の本棚」とはこれいかにとは思ったものの、取り上げてくれたのはありがたい。
著者が仙台出身ということで、文化部の記者が着目したようだ。
記事は手際よくまとめてある。
河北新報のサイト(ブックレビュー)にも掲載されている。
http://flat.kahoku.co.jp/u/bookreview/7GydCSPtnF04vhpHUZQL
しかしやはり、本書をじっくり読み込んで評価してくださる、記名入りのの書評が待たれる。
何度も繰り返すが、拙著の精髄は、最近流行の、マニアックな「地形景観カタログ」にあるのではない。
オープニング・ページに、「フクシマの地霊に」(To The Genius Loci of Fukushima, A Happy Island)と献辞を置いたのは伊達ではない。
東京の、そして日本列島の「現、存在自体」が、「崖」だと言っているのだ。
