標記の拙著の見本が送られてきた。

本体価格は1900円ではなくて、1800円だった。
税込で1890円になる。
刊行日は本には8月31日と記載しているが、8月早々主要書店に並ぶと思われる。

自分で言うのもおかしいが、カラー地図のボリュームと解説の密度が半端ではなく、この値段では大変「お買い得」と思う。
帯付カバージャケットの写真と、「はじめに」と「目次」をとりあえず以下に掲げておく。

img502.jpg

◆はじめに

必要もなしに地図を見るのは楽しい。
R・L・スティーヴンスンの「宝島」は、妻の連れ子が描いていたいたずらがきのような地図に、自分が手をくわえるうちにインスピレーションが湧いてきたのだと、作者は物語の発端を解き明かしていますが、地図はたしかにイメージを、そして物語を誘い、立上らせる力をもっています。
その物語においては、地図は宝の在り処を指し示す暗号のような記録物でしたが、現代ともなると、地図そのものが宝に転じる場合があります。とりわけ、その地図が古いもので、美しく、しかも地域のディティールまで描きこんでいたとすれば、それは宝飾品以上の価値をもつと言わなければなりません。
地図が、そして古地図がブームであると言われるようになったのは今から三十年以上前からのことですが、振幅の違いはあるもののその波はずっと続いてきたようです。
しかしその古地図ブームの中身は、二〇一一年三月一一日を転機に大きく変容したのです。それまで、骨董趣味にも似た秘かな楽しみの対象であった古地図類は、津波や液状化の可能性をチェックする記録物として世間の耳目を集め、あるいは重要視されるようになったからです。
ここにお目にかける古地図ないし旧版地形図類は、見ることそれ自体が楽しみでもある華麗詳細図で、「本物」であることを基本としていますが、それだけではなく、私たちが日々の生を託す「地面」そのものの素顔にアプローチできるものを選んだつもりです。
だから、この本を手に取って必要もなしにページをめくり、視線のランブリングをたのしみながら、しかしそこに何らかの「気づき」を得、さらにすすんで一種の警告を読みとっていただくことができたら、この本の筆者としては以て瞑すべしとするのです。
筆者は昨今流行の景観論やトリビアめいた地形談義に与(くみ)するものではありません。しかし、そうした話の「ネタ」も、また、地名、鉄道等々に関する話題も、この本にはぎっしりつまっているでしょう。筆者がつけくわえた文章も、地図をみるヒントの一部にすぎません。
しかしながら江戸時代二百六十年、東京時代百四十年、日本列島最大平野部の「物語」はなお進行中であって、喜劇におわるか悲劇に転じるか、いずれにしてもわたしたちはそのただなかにいることを忘れてはいけないでしょう。
そうして、そこに読みとるものが何であるかによって、地図は宝石にも、媚薬にも、劇薬にも、そして紙屑にもなるのです。

◆目次

はじめに

一、水道橋(寛永19年《1642》頃/明治16年《1883》頃)
   吉祥寺と水道橋の謎
   水道懸樋以前
   懸樋移転の謎
二、丸の内・日比谷(慶長7年《16o2》頃/明暦3年T657》頃/明治42年《1909》頃/平成14年《2002》頃)
   海に洗われた江戸城
   「僧正殿」と日比谷
   逆転した「ハ重洲」の謎
   「八重洲」の起源と転位の謎
三、神保町(寛永19年T642》頃/平成14年《2002》頃/卒水3年《1850》頃/廷宝年間の図/明治20年《1887》)          
   「小川町」の謎                      
   二本の小川                      
   小川町最深央部                    
四、銀座(寛永19年《1642》頃/安政6年《1859》頃/大正10年《1921》頃/平成14年《2002》頃)                  
   「西銀座駅」はどこへ?                 
   消えていた「銀座」                   
   「下町」の変容                    
   銀座半島
五、人形町・元吉原(寛永19年《1642》頃/明暦3年《1657》頃/安政6年《1859》頃/平成14年《2002》頃)   
   葦・蘆・葭                
   元吉原                           
   水路と河岸                      
   町と人と地形と
六、西片・白山・小石川(寛永19年T642》頃/明暦3年《1657》頃/安政6年《1859》頃/平成14年《2002》頃) 
   指ケ谷町はどこに
   台地と坂
   小石川谷と下水
   丸山福山町と菊坂の谷
七、赤坂(寛永19年《1642》頃/明暦3年《1657》頃/安政6年《1859》頃/平成14年《2002》頃)                 

   どこでも赤坂
   成り上がり赤坂
   古街道と水の風景
八、麻布(寛永19年《1642》頃/明暦3年《1657》頃/明治16年《1883》頃/平成14年《2006》頃)
   坂・橋・水流
   姫下坂と牛啼坂
   谷と坂の変容
九、六本木・元麻布(寛永19年《1642》頃/明暦3年《1657》頃/安政6年1859》頃/平成14年《2002》頃)    
   麻布の善福寺                     
   台地の一本松                     
   黄金餅の坂                      
   ヒルズとタウン
十、芝・三田(寛永19年《1642》頃/明暦3年《1657》哨/安政6年《1859》頃/平成14年《2002》頃)
   熱機関以前
   海の寄り幸
   記号の波長差
十一、上野(寛永19年《1642》頃/明暦3年《1657》頃安政6年《1859》頃/平成14年《2002》頃)
    山檄魚の頭
    「ニッポリ」の謎
    動物園の五重塔
    大僧正町
    「松平肥前守」の謎
    偉大なる崖の消えた坂
十二、日本橋(寛永19年《1642》頃/明暦3年T657》頃/安政6年《1859》頃/平成14年《2002》頃)
    「橋」より先にあったもの
    日本橋川「へ」の字曲りの出現
    浮世小路
    入堀の夢跡
十三、八丁堀(寛永19年T642》頃/明暦3年《1657》頃/安政6年T859》頃/平成14年《2002》頃)
    運河開削の謎
    江戸湊
    初期の海岸線
    江戸前島を横断していた入堀
十四、深川(寛永19年《1642》頃/明暦3年《1657》頃/大正10年《1921》頃/平成14年《2002》頃)
    江東のタテとヨコ
    母なる運河
    謎と誤認
十五、浅草・新吉原(寛永19年(1642》頃/明暦3年T657》頃/大正10年《1921》頃/平成14年(2002》頃)
    「三社様」のはじまり
    日本堤と柳原土手と
    「付け根」の謎
    田んぼの中の不夜城
    富士と馬場の謎
十六、新宿(寛永19年《1642》頃/明暦3年《1657》頃/安政6年《1859》頃/平成14年《2002》頃)
    谷と分水嶺
    中野の塔
    「新宿」以前
    玉川上水と新宿湖
十七、早稲田・高田馬場(寛永19年《1642》頃/明暦3年T657》頃/安政6年《1859》頃/平成14年《2002》頃)
    馬場と御殿
    台地の大学・低地の大学
    低地・台地・台地の凹部
    文豪のいた場所
    水のなかで
十八、御茶ノ水・湯島(寛永19年《1642)頃/明暦3年T657》頃/平成14年《2002》頃/明治16年(1883》)
    神田明神と湯島天神
    御茶ノ水・湯島・本郷
    古石神井川谷と実盛坂
    岬地形と切通し
十九、目黒(明暦3年《1657》頃/安政6年T859》頃/大正10年《1921》頃/平成14年《2002》頃)
    目黒のさんま
    「目黒の崖」の謎
    目黒と品川
    非対称谷
二十、渋谷(寛永19年《1642》頃/明暦3年《1657》頃/安政6年《1859》頃/平成14年《2002》頃)
    渋谷村のアイキャッチ
    消えたV字谷
    鎌倉道
    中世城館のロケーション
二十一、雑司ヶ谷・池袋・板橋(寛永19年《1642》頃/安政6年《1859》頃/明治13年《1880》頃/平成14年《2002》頃)
     一里塚の谷地の謎
     知られざる谷
     根津山とメビウスの輪
     池袋村近在の謎
二十二、千鳥ケ淵・番町(寛永19年T642》頃/明暦3年T657》/明治16年《1883》頃/平成14年《2002》頃)
     怪談「五番町の帯坂」
     番町・町屋・城下絵図
     破れ堀と幽霊谷

江戸図とその謎 ―解説にかえて
  現代の古地図
  古地図と「同時代」
  最古の江戸図
  手描き図と版行図
  江戸の地形図
  江戸図描図の三段階
  もうひとつの手描き図
  谷戸田都市
  版行絵図と江戸図の記号
  江戸図最大の謎

あとがき

考文献抄
 《江戸図》
 〈複製地図》
 《古地図一般》
 《江戸東京地誌地形関係》

使用地図一覧

                

                    

                       

collegio

散歩の達人 8月号

標記の雑誌(No.209)は「リニューアル第1断! 大特集/夏の東京さんぽ術100」を表紙に謳っていて、そのうちの1ページだが、依頼があって書いた。

とくに夏だからではないけれど、やはり「水辺」は忘れがたく、櫓漕ぎ舟上の世界に焦点をあてたものにした。
しかも、中身は「崖話」。

すなわち、武蔵(東京)の「日暮里崖線」に対峙する、下総(千葉)の「国府台崖線」という、直径十数キロから100キロメートルにわたる巨大「スリバチ」の話。

「地形」をトリビア話にして喜んでいるのは程度が低い。
われわれの「足下」は、これくらいのスケールで考えないと、意味がないのだ。

img500.jpg

collegio

5刷と新刊

例の「崖本」が「5刷になります」と編集者から連絡があったのは先月の半ばころか。
本日、その5刷本が送られてきた。

269289-1.png

初刷りが去年の8月30日だから、1年たらずだけれど、まあこれでようやく書物としては「一人前」かな、と思う。
あちこちの書店では、まだ平積みになっているし。

その平積みの横に、また拙著が並ぶことになる。
二見書房から、この8月1日に出るのは『古地図で読み解く 江戸東京地形の謎』というタイトル。
これもカラー地図をふんだんにつかった、A5判240ページほどの本。

51iz6zpjnol__sl500_aa300_.jpg

少し厚い分、本体価格は1900円だけれど、アマゾンはすでに書影(本の写真)付で予約販売を受け付けている。
通常配送無料で1890円というから、アマゾンで買うほうが安いことになる。
どういう仕組みになっているのか、自分も出版界にいながら、からくりがよくわからない。

初刷り部数も、版元としてはだいぶ頑張ってくれているようだし、これも版を重ねてくれればありがたいと思っている。

書影は、帯をとってしまっているけれど、デザインは帯と一体でおこなっているし、いずれ手元に本がくれば、帯付の写真を再掲する。

collegio

東京人 8月号

退院して間もなくだったが、前々から神保町の三省堂本店で予定されていた《芳賀ひらくさんと歩く 駿河台崖めぐり》という、私の「崖本」のプロモーション企画実施の折、参加してくれた方の中に、雑誌『東京人』の副編集長の田中紀子さんがいて、「〈古道〉特集を考えているので、相談にのってください」とのこと。

忘れたころに連絡があって、話をしていたら、結局書く羽目になった。
思い返せば、中央公論社から独立して『東京人』を主宰していた粕谷一希氏と話する機会があって、その時「書いてみないか」と言われたのを、忙しくてそのままにしていたのはもう20年以上前のような気がする。
その時は、中沢新一にも話した「アースダイバー」のネタのようなことを話したのだから、書いていればもちろん中沢は珍説を披露しないで済んだのだ。

今回は2本の文章を寄稿したのだが、1本は長すぎ、短いもう1本は掲載見送り。
見送り分は、当ブログに「ミチについて ―小平市の後出しじゃんけん」としておいた。
一方、長すぎたほうは長短2つに分けて、6ページの本文と2ページだてのコラムになった。

ここに掲載するのは、それぞれの冒頭1ページである。

img404.jpg

img405.jpg

collegio

情けない駅 その4

JR【中野駅】

用事で、中野駅乗換東西線神楽坂駅と飯田橋駅に出掛けた。

JR中野駅で気が付いたのは、エレベーターがなかった、という事実。
もちろん、例によって、エスカルとかいうしょうもない「アリバイ施設」はある。
エスカレータは上りも下りも設置されているから、快適だと思っていたけれど、これでは車椅子の人は中野駅を使う気にはなれないわけだ。

結局、中央線の乗換駅である中野も、「バリアー駅」だった。

けれどもむしろ、一般にはこうした事実に気づかれていないということのほうが、重要だろう。

点数を付ければ、100点満点でせいぜい50点のいわゆる「赤点」、つまり不合格駅である。

地下鉄【神楽坂駅】

こちらはエスカレータで東西線に乗り換え、神楽坂駅で降りたわけだが、この駅もまたエレベータが1基も存在しない。
ホームに降りれば、一応上りエスカレータはあるものの、下りはない。
そのエレベータも改札まで。

そこから地上には階段しかない。
そこは三つに折れた階段で、計44段ある。

バギーに子どもを乗せたお母さんは、44段をバギーごと運んでいた。

p6167077.JPG

下りの場合は、合計100段を超えると思うが(いわゆる上りと下りホームではまた大違いだが、いずれにしても100段は超える)、どうするのだろう。

体力と腰椎が御無事でありますように。
お子さんも、無事でありますように。

点数を付ければ、15点駅だな。

collegio

情けない駅 その3

フェイスブックを通じてくださった、OSさんのコメントを、ご本人の了解を得てここに掲げます。

情けないのは「駅」というより、東京という都市そのものであることが、よくわかります。
東京を「世界都市」とか言う人がいるが、こんなものが「世界標準」になってほしくない。

【その1】

我が息子は肢体不自由児なので、バギー型車椅子。
山手線新大久保駅も階段しかありません。

戸山の都立児童相談所&障害者支援センターなど、都の児童・障害福祉機関が多いエリアなのに、ちょっと前までは大久保駅が一番近い駅でした。
にも関わらず、都バスの利用や、やっとEVついた総武線大久保駅を案内する…というのですが、山手線から総武線に乗り換えると、たしか、一駅でも2本線を利用した事になり、少々値段上がりますし、距離もやはり遠くなります。
最近は、大江戸線と副都心線の東新宿駅が出来たので
案内する方々は迂回させられる辛さ知らないからだと思います。明日は我が身ですがね〜

【その2】

渋谷駅は当分ひどいバリア駅になってます。
JRから地下鉄に乗る為に同じエリアを三次元的たてジグザグに距離は3往復以上、EV6台以上乗り換えて歩くはめになります…
因に、新橋駅は夕刻などのラッシュ時に車椅子で行くと
「時間架かりますよ」と駅員は乗降客の安全確認最優先で、放置、、、
お手伝いヒトきておろしてくれるまで5往復以上電車見送る…この時間帯混み込みのサラリーマン駅に車椅子の子ども連れてきたヒト悪い…
ぐらいの態度でした…

【その3】

バスに乗る時に、「障害が有るのでバギー(まだ2歳で、専用車椅子バギーではなく普通のバギー)を折り畳まず乗っていいか?」ときいたら、「好きにすれば…」と言われたり、

保育園時代は2つ先の駅で6年間電車で通園。
毎日使う駅で、まだevも設置無く、車椅子の場合、エスカレーターを反転させて、乗り降りする対応していました。腰も痛め始め、もう階段を独りで持って降りれない重さになったので、降りる時の反転対応をお願いしたら、「バギーだと、他のバギーのお客さんも反転させてくれというから...このマーク(車椅子マーク)もっと大きくならないかな?(それは嫌だといったら)皆言って来るから困るんだよね。」
一時、JRを諦めて、帰りはバスで帰ってましたが、バスも低床バスでは無く、高いステップからよいしょと独りで乗り降りしていましたが、腰がもう駄目。

仕方なく、JRお客様相談室で交渉し、階段降りる時は駅員さん呼びだしブザーを押し、二人掛かりで階段でおろしていました。
ヒトによっては、間が悪いと「ちぇっ」と舌打ちされたことも有りますが、優しく対応してくださった方もいらっしゃいます。
その駅にev設置が決まったときに、優しい駅員さんが嬉しそうに3月末には付くからね、良かったね!ていってくださったのですが、4月から小学校に行く事になったから、もう保育園に通わないんです…

collegio

情けない駅 その2

フェイスブックやツイッターでも、見出しだけは発信しているのだが、
フェイスブックでは「その1」に、思いがけなくも複数のコメントをいただいた。
めったにないことである。

それだけ、多くの方が常日頃感じていることなのだと思われた。

都の福祉施設が集中している山手線の新大久保駅にも、エレベーター、エスカレーターともにないという指摘があった。
「JR東日本:駅バリアフリー設備のご案内」というサイトで、「山手線」の駅別設備一覧表をみたら、本当に新大久保駅だけ空欄が並んでいる。
エスカルとかいう、階段脇に付けた車椅子用のリフトはあるらしいが、あんな面倒なものは、車椅子利用者も、駅員も、ともに使いたがらない。
そもそも使用規定が2月前から2日前まで事前に申し込んで、当日はナントカ証明書を提示して・・・、とおよそ「優しい」のとは正反対。
実際に申し込めば、「朝晩のラッシュ時や催し物が予定されている場合はご遠慮ください」とでも言うのだろう。
安っぽく、不安定で、扱いにくい「アリバイ設備」であることは明白だ。
「株主利益」や「内部保留」以前に、エレベータ―を設置すること、駅員補助なしでも車椅子が乗降できるようにするのが、本来の「仕事」というものだろう。

ところで、ひとつわかったのは、インターネット検索でひっかかるこうした設備情報も、原発と同じで、基本的に「事業者」や「お上」情報が主体だということだ。
「自分の身は自分で守る」ためには、基本情報を、おためごかしの「当局」なぞに頼っていてはダメだということは、いやというほど知らされたはずだ。
新聞やテレビなどのマスコミもその3分の2ほどは「当局」だから、あてにはならない。

「設備」でいえば、それらをシティズンの側から具体的に点検して、問題点を集約して発信しなければ、本来のシティズン社会にはなりえないのだ。
お上や当局に依存したままでいれば、ますますつけあがるだけである。

権力あるものは誰でも、権力と恣意を維持増大することが仕事となるから、社会にはそれを牽制するものが不可欠だ。
権力者の恣意を掣肘する役目が、成文法であり、その根本である憲法である。
しかし、その法の実体を維持する根本のところは、自立したシティズンの情報と判断である。
そのところがわかっていない社会は、ついに専制者と官僚、そして奴隷の「3猿社会」を脱し得ない。

お上・当局情報は「てがかり」にすぎない。
「駅 バリアフリー 地図」のキーワードで検索した「てがかり」は、

ITC 東京都障害者IT地域支援センター
Tokyo Imformation Technology Regional Suport center for persons with desabilities
の「都内交通情報・バリアフリーマップ」(2012年10月現在)というものであって、以下案内を羅列すると

事業者主体では
●東京都交通局:都営地下鉄の各駅立体図、都バスの種類
●東京バス案内WEB:都内の「路線バス・高速バス・空港連絡バス・深夜急行バス・貸切バス」案内
●らくらくおでかけネット:車いすでの駅利用情報、車いすで乗り換えやすい順の検索が出来る
●えきペディア(地下鉄全駅ガイド):全国の地下鉄の路線図とバリアフリー情報を中心とした駅案内図、駅周辺の案内サイト

行政体別では

特別区
◆いたばしバリアフリーマップ
◆江戸川区バリアフリーマップ
◆おおた おでかけまっぷ(大田区バリアフリーマップ)
◆かつしか電子マップ
◆みんなの北区ささえあいマップ
◆やさしいまちガイドブック(品川区)
◆新宿らくらくバリアフリーマップ(新宿区)
◆バリアフリーマップ杉並 いってきまっぷ
◆港区バリアフリータウンマップ
*Map未整備区:千代田区・中央区・文京区・台東区・墨田区・江東区・目黒区・世田谷区・中野区・豊島区・荒川区・練馬区・足立区・葛飾区

多摩地区
◇昭島市バリアフリーマップ
◇西東京福祉マップ
◇多摩市バリアフリー福祉マップ
◇八王子ナビゲーター
◇がいどまっぷ府中
◇町田市バリアフリーマップ
◇みたかバリアフリーガイドおでかけ情報
◇バリアフリー情報FROM武蔵野
*Map未整備市:立川市・青梅市・調布市・小金井市・小平市・日野市・東村山市・国分寺市・福生市・狛江市・東大和市・清瀬市・東久留米市・武蔵村山市・稲城市・羽村市・あきる野市

となるようだ。
肝心のJRは

JR東日本:駅バリアフリー設備のご案内

というのがある。

以上を「てがかり」に、ひとつひとつチェックしていく必要がある。

collegio

情けない駅  その1

「歩道橋」は、小学校などの近くに多い。
ホドーキョーとはそもそもが、「車優先」「人はそこのけ」社会が、「子供には配慮してます」というアリバイ施設のようなもので、鉄鋼会社とゼネコンとその下請けが多少商売になったのだろう。

子どもなら、「足腰を鍛える」効果も多少あるかも知れないが、「車が主で、人間が従」構造があたりまえ、と頭に刷り込まれるだけの話。

車にやさしく、人に情けない列島社会の典型のひとつが、世界に名高いホドーキョーである。

子どもではなく老人ないし老人予備軍にとっても歩道橋は論外だが、それでも、大きく迂回して、それを使わないことは不可能ではない。

その一方、腰痛持ちで、仕事上重いカートを押しながら歩いている身にとって、エレベーターやエスカレーターのない都心の駅ほど腹立たしいものはない。

エスカレーターがあっても上りだけ。
しかも、中途半端で、途中が階段となっている場合に出くわすと、笑うほかない。

エスカレーターも、エレベーターも付いていない都心の駅というのは論外だが、それが結構あるのだ。

先日、東京メトロ虎ノ門駅で、重いカートを押して改札口に向かっていたら、「バリアフリー」通路の入口と出口が太いクサリで「バリアー」されていて、
「お使いの方は駅員にお声をお掛け下さい」と貼紙がある。
バリアフリーにバリアーとは、と呆れるほかなかった。
要は、「健常者」以外は特別扱い、「やってやる」というおためごかしの魂胆がみえみえなのだ。

そんな都市で、「キャッシュで金がある」だから「オリンピックをトーキョーで」などと絶叫する人間がいるとすれば、これまた笑うほかない。

こころ覚えのために、つまり慌ててその駅で降りたりすることのないために、気づいた「エレベータなし駅」をとりあえず以下に掲げる。

JR環状山手線で囲まれた範囲で、エレベータもエスカレーターもなくて有名なJR線の「情けない駅」は、

【御茶ノ水駅】
【神田駅】
【新橋駅】
【代々木駅】

だが、

【新宿駅】

などの大きな駅では、連絡通路次第では階段しかなく立往生する場合が結構ある。大きな駅でも、「東京駅」はさすが「帝都中央ステーション」だけあって、にエスカレーターもエレベーターもよく設置されている。
けれども、さらに乗降客数の多い、「新宿駅」や「渋谷駅」などは、エレベーターやエスカレーターがどこにあるのかわからない、というのが普通のケースで、出掛けるには事前によほどしらべる必要がある。

インターネットは便利なメディアだが、こうした「情けある情報」は見かけない。

だから気づいた範囲で、「情けない駅」情報を、これから時々、心覚えに書きつけておくことにする。

collegio

肥田先生

知って驚いた。
今日午後、あるところから講演を頼まれて、出掛けて行ったのだが、その講師控室で高齢のご老人と一緒になった。
とくに紹介もいただかなかったので、地域の昔の話をなさる方だろうと思っていた。

私の講座と、そのご老人の講座の時間帯は同じだったので、参加者はいずれかを選んだわけだ。

2時間の話を終わって、控室に戻って話を聞いていて、おやどこかで聞いたお名前と思ったら、肥田舜太郎先生だった。
これには驚いた。

私の話なぞは聞かないでいいから、いまから皆でそちらの講座に行きましょうと、私は言うべきだったのだ。

御年96歳。
元軍医。
広島で、原爆症の治療に実際にあたった、最後の生き残りの方だ。

その方が、いまの日本の、3・11後の低線量被曝の現実を語ったのだ。

東京でも、足立区であきらかな被爆の症例が、すでに出ているという。
3・11の後で、仕事で雨の中、街を走り回った人がいて、その結果が「ぶらぶら病」となって表れた。
フクシマだけではない。

報道されないけれども、列島のあちらこちらで、深刻な状況が進行している。
そのなかで、生きていくには、おとなは自分自身と家族を守る、ある種の自覚と営為が不可欠であると。

それを知っていたら、私自身が聞きに走ったはずなのに。

以下は、2012年10月2日の沖縄での肥田先生の講演から。

「私は広島で助ける方法が分からない。毎日毎日死んでいく。大事な大事な命の重みに向き合いながら、何で死んでいくのか、どういう症状で何の病気なのか、まったく分らないまんま、本当に医者であることが悲しくて苦しくて、しかしやっぱり立場上私が診て、病名を付けて、死亡診断書を書くより仕方がない。その苦しみを私は30年続けました。」

「医者に頼ってもダメ、学者に頼ってもダメなんです。だから最後は命を持っている皆さん自身が、命の主人公として自分の意志で生きていく。皆さん毎日毎日目を覚まして、自分が今日こうやって生きている、これを明日から続けていこうと思えばただ漠然と生きていたんじゃダメなんです。していけないこととするべきことを自分で決めて、それを守って、どんなにつらくても健康を守って生きるということを意識的に続けなければ。自然に生きている恰好では放射線に負けます。」

漢字の道・路・途・径は、和語ではすべてミチという。ミチの「ミ」はミコ(御子・巫女)やミタ(御田)、ミホトケ(御仏)と同じく、また、オシロ(御城)やオウマ(御馬)の「オ」と同類の、接美辞ないし敬辞だから、語の本体は「チ」である。
これをトチのチと言ったらそれはもちろん誤りで、土地は漢語だから除外して考えなければならない。
語幹のチが共通するのはチマタ(巷・岐・衢)である。チマタはチが交叉したところ、すなわちツジ(辻)である。チを語幹とする言葉には、ほかにマチ(町・街・区・襠)やウチ(内)、オチコチ(遠近)、アチコチ(彼方此方)があって、すべて場所ないし空間をあらわす。
「チ」が「道」の意で用いられるのは、アヅマヂ(東路)やシナノヂ(信濃路)のような接尾辞的な例で、『古事記』(下巻・歌謡)には、タギマチ(当芸麻道)とある。
ここから推認するに、地表の交通経路をあらわす古い和語には、「チ」と「ミチ」の二種類があったようだ。
現代は、ほとんどすべての地表空間が切り分けられ、それぞれ領有ないし所有が主張されるが、二百年もさかのぼれば領域は曖昧となり、さらに古くは、むしろ地上における人の場所はごく限られたものであった。
そうして、狩猟と採集に生存を依存していた人類の長い時代、集落はひらけた場所にあったとしても、一旦その場を離れれば、周囲は原野であり、森林であって、そこは野性と霊威の支配する異界であった。だから、そのなかを通じる「チ」とは、人間の領域の属性を延長しつつも、野性や霊威とも親密な過渡的ないし曖昧なエリアであったのである。
その過渡的なエリアが人間意志の顕現のような様相に転じるのは、灌漑農耕が成立して社会が内部分化し、また征服被征服の外部的な階層性をも抱え込むようになって以降である。
すなわち、敬称を冠したミ・チが誕生する。
霊威は人間領域の外部から内部へ仮託され、やがてそれは威令にとってかわった。奴隷労働にせよ、徴用にせよ、農閑期雇用にせよ、かつては「威令」として動員された、人間の労力がつくりだした交通経路がミ・チなのである。
そうして、すべてのミ・チは、「お馬」がミヤコから走り出、またそこに向かう「軍用道路」だったのである。
最近の東京都小平市の、後出しじゃんけんそのものの住民投票条例改変例でも判るように、トーキョーの道も、一旦計画決定されたら問答無用に通すのが、「軍用」ならざる「自動車用」のミ・チだったのだ。だから、ミ・チはそこに「住む者」を無視し、むしろ「そこのけそこのけ」と排除するのである。このようなことが「あたりまえ」の列島には、いまだ「人間の道」は不在であると言わなければならない。

« Prev - Next »