ここで山下和正コレクションの一部である当該地図の全体を概観しておこう。
大型本の見開きに収められてはいるものの、原図自体は573×778㎜(紙寸)の大きさである。

図の脇に添えた山下氏の解説は「江戸近郊図は幕末に大小10種類近く刊行された。この図の墨刷単彩版(天保13年・1842、中村氏版)は数種類の版が刊行されているが、多色刷は珍しい。江戸市民は日帰りか、せいぜい1・2泊で花見、釣り、寺社参りなどの行楽のためよく郊外へ出掛けた。江戸近郊図はこのような行楽のための案内図で、「江戸近郊名勝一覧之図」(弘化4年、三河屋甚助・三河屋善兵衛版)と題した美しい多色刷図には、小金井の桜並木図などが描かれている」とする。
江戸期からそうだったのであろう「柳の下に泥鰌六匹」とは日本の出版界の常套句で、これが売れるとなったら類本がどっと出まわる。
タイトルまで紛らわしいものも少なくない。
当該図にも「東都近郊全図」と、「全」の字を加えた類本が存在する。
愛知県西尾市の岩瀬文庫所蔵本がデジタル公開されているので、それを見てみよう。
まずは全体図であるが、書誌データには「69.2/92.7」 とあるから「東都近郊図」よりひとまわり以上大きい。
そうして刊年は弘化元年、1844年である。

ところで、独歩の『武蔵野』の冒頭の鍵括弧引用は以下のようにさらにつづくのであった。
そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。
これに該当する地図の書き込みは以下の通りである。

読み下し「小手指原久米川は古戦場なり。太平記、元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦ふ事一日が内に三十余度、日暮れば平家三里退て久米川に陣を取る、明れば源氏久米川の陣へ押寄せる、と載たるは此あたりなるべし」。
これまた原文と独歩の引用は細部異なるが、独歩が見、メモまでしていたのであろう地図はこの図の異版すなわち文政年刊図とは、誰しも推量するのが自然である。
なお、ここで源平の戦いになぞらえられているのは、北条氏が平家に連なり、新田氏が源氏の裔であるためで、そもそもは北条氏の監視下におかれていた源氏の遺児頼朝と、北条政子の「若さ」に端を発していたのである。
筆者が最初にこれが『武蔵野』の古地図かと思ったのは、前述のように山下和正氏の本(『地図で読む江戸時代』1998)の編集に際して下掲のような書き込みを見つけたためだが(以下、画像は同書から)、それは独歩の言う「文政年間にできた地図」ではなく、弘化4年(1847)の年記をもつものであったため、当座は疑問のままとしていたのである。

読み下し「武蔵野地名考に曰く、上世武蔵野の原と称せし地は十郡に跨り、西は秩父嶺東は海浜に至り、北は川越南は向が岡都築が岡に連なると記せり。そもそも武蔵野は数百里の平原にして日光万里玉川に及び富士の嶺を照し、無双の勝景なりしと言。承応年中玉川上水武蔵野を通せしより、農民水利の便りを得て年々開発し田畑ひらけ或は林木密比せり。元文の頃に至り新田四拾余村となりて、武蔵野の跡は今纔に入間郡に残れり」。
読み下し文の2行目にある「向が岡」は文京区本郷のそれではなく、川崎市に複数残された向丘ないし向ヶ丘(むかいがおか)と記す地名で、大方には小田急線駅名向ケ丘遊園で名を知られるエリアを指すと思われる。
そうして、末文の「武蔵野の跡は今纔に入間郡に残れり」と独歩の『武蔵野』の冒頭「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」は、たしかに「わずかに」だが異なっていることに気づかれるだろう。
「東都近郊図」と題簽に記されたこの図の刊記は、以下の通りである。

読み下し「此図は江戸を中として、東は小金舟橋、南は羽田神奈川、西は府中日野、北は大宮岩槻を限り、山川原野神社仏寺名所古跡の類、数日を費やさずして遊覧すべきものを図して、遊行をこのむ者の便とす。元是大概をしるせし図なれば、堂社の方位川流の広狭其の真景を得ず。小社或は用水の如きに至ては略せしものあり。観者宜しく斟酌すべし。弘化四年丁未年。東都 馬喰町 菊屋幸三郎」。
弘化4年とは文政年間よりも十数年以上後である。
しかしそこには十数年ほどの径庭しかないとも言えるのである。

小社発行『Collegio』は2005年8月、A4判1枚両面刷り三折簡易型出版PRリーフレット誌として月刊で出発し、2008年春32号より四六判中綴じの季刊メッセージ小冊誌に変更、この体裁で約10年間継続してきましたが、このたび発行の第72号・終刊特別号をもって一区切りとすることにしました。
総目次は当ホームページにも掲載しています。
バックナンバーは欠けているものも少なくありませんが、お問い合わせには応じます。
上掲は終刊特別号の付録とした「武蔵野とその周辺の主な縄文遺跡」図です。
この図については、同号安孫子昭二氏執筆解説をお読みいただければ幸いです。
なおこの図の画像解像度は、印刷物よりもかなり粗くしていることをお断わりしておきます。
国木田独歩が見た古地図について報じたメディアの嚆矢は、1965年6月21日の「朝日新聞」東京版と思われる。
「文学散歩」シリーズの執筆者として知られる野田宇太郎氏の談話が主体で、同年8月9日の「日経新聞」(夕刊)にはその考証を主体とした簡略記事が掲載されている。

逆に、もっとも近年の出版物は、2009年3月に刊行された『小金井市史 資料編 小金井桜』で、その80‐81ページに小金井市教育委員会が所蔵する「東都近郊図」(文政8年)を紹介し、「解説文の「武蔵野ノ跡ハ今纔ニ入間郡ニ残レリ」は国木田独歩が『武蔵野』の冒頭で引用する有名な文章である。」と記している。
この「東都近郊図」の現物は、十数年前小金井市の「浴恩館」跡の資料館(現小金井市文化財センター)に展示してあり、「独歩の地図」と気付いた時のちょっとした興奮はいまも思い出される。今回その刊行年を確認しに出向いたところ、展示替えで見ることができなかった。そのため文化財センターの展示担当者に問い合わせた結果、小金井市史の記載も併せて回答があったのである。
新聞報道と市史の間に位置して、『武蔵野』の古地図についてもっとも詳細な発表物は、雑誌『地理』1978年11月号に当時獨協大学教授であった井荻村生まれ東京文理科大学(後の東京教育大学)系の地理学者矢嶋仁吉(やじまにきち)が書いた「国木田独歩の『武蔵野』と文政版『東都近郊図』について」(pp.33-44)である。
こうした情報を下地にしたのであろう、学研の大型ビジュアルシリーズ「明治の古典」は、その第7巻『武蔵野 平凡』(1982年、篠田一志編)の16‐17ページにカラー図版「東都近郊図」を掲げ、「「武蔵野」の冒頭にでてくる文政年間発行の地図「東都図(ママ)」(部分)。文政八年乙酉上梓、同十三年庚寅改正とある。(国立国会図書館蔵)」とキャプションを付した。
「さだかには確認されていない」どころではないのである。
いわゆる古地図は、日本列島においては「江戸図」を第一とする。
それは、遺存例が多く、種類も多岐にわたり、需要すなわち現市場も大きいためである。
またそれは時間と空間の双方に渉る。
つまり江戸時代と江戸府内である。
ただしここで留意すべきは、それぞれに欠落部が存在することである。
前者においては江戸時代初期の図はほとんど残らず、後者においてはおおむね現山手線内側以外の江戸図は稀にして粗である。
現日本列島の首都「東京」は、江戸の遺産のうえに成り立つとは言え、地域空間としてそれを直接引き継ぐエリアは都心部のみであり、したがってたとえば「武蔵野の古地図」などというものはきわめてかぎられた例しか存在しないのである。
「参謀本部編纂の地図をまた繰開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣の袖をかかげて、表紙を附けた折本になっているのを引張り出した。」
「「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。」
近代日本語の文学作品の冒頭で「地図」が登場する著名なものに2例あって、上掲のうち前者は1900年(明治33)発表の『高野聖』(泉鏡花)、そうして後者はその2年前に発表された国木田独歩の『武蔵野』(当初のタイトルは「今の武蔵野」)である。
鏡花の「参謀本部編纂の地図」がどのような種類のものであったか、その図名は何であったかについてはかつて調べて書いた(「峠と分水嶺」『地図中心』2012年6月)から繰り返さない。
独歩が見た地図は、上述のようにかぎられた例しかなく、特定が比較的容易であり、筆者もかつて企画編集した書籍に掲載した(山下和正『地図で読む江戸時代』1998年」)こともあったし、鏡花の地図とは対照的に、もの書きなどの間ではいわば常識の部類に属するものと思っていた。
独歩の見た古地図については、かつて複数の新聞報道がなされ、雑誌掲載記事もあり、上記も含めてすくなくとも3種以上の書籍に掲載紹介され、それと謳った復刻版さえ発行されているからである。
しかしその思い込みは外れていた。
最近、タイトルに「武蔵野」を掲げ、国木田独歩の「エクリチュール」をさぐった本(赤坂憲雄『武蔵野をよむ』2018年)のページをめくっていたら、その本文2ページ目には「文政年間といえば、一八一八年から三〇年までの、「武蔵野」からは七、八十年をさかのぼる時代である。この時期に刊行された地図のいずれかであるが、さだかには確認されていない。」と書いていたのである。

この「さだかには」という書き方は曲者である。
それは、当該地図特定の不確かさを匂わせながら、実はおのれの調査怠慢と資料軽侮を韜晦しているにすぎないからである。

奥州仙台詩魂の尽きせぬ泉、実験の饒舌 第4弾!
もう/与太話の種火が消えかけようとしておる/大円団は間近いですぞ/眼をこすりつけて読み下されたい 読者諸氏!
禊済ませて待っていなされ/口をクチャクチャ孔をペチャペチャ/暇に飽かせて月に吠えるとは/兄チャンいい度胸してるね/もうもう 藻王
(第3部お転びの巻 場の17から)
佐山則夫詩集4『台所』
ISBN978-4-902695-32-8 C1092
B5変型上製函入 170ページ
本体2000円+税
限定150部
目次
始まりの場外
第1部 お起抜けの巻
第2部 お承り候の巻
第3部 お転びの巻
第4部 お結びの巻
お終いの場外

旧来流布してきた英仏系探検と世界発見の物語に
あらたにロシアの征服と拡張の道筋を加える
高等学校地理教育者の労作
佐々木路子著『ロシアの地理的「探検」と「発見」』
ISBN978-4-902695-33-5 C1025
A5判 290ページ
上製 本体2400円+税
目次
第1章 17世紀ロシアの「探検」と「発見」
その1 ロシア人の東進
その2 バイカル湖へ
その3 ゼーヤ川からアムール中・下流へ
その4 レナ川を下って北氷洋へ
その5 カムチャツカへ
その6 ロパトカ岬へ
第2章 17世紀シベリアの地図化過程
その1 レーメゾフのシベリア地図帳
その2 『ゴドゥノフのシベリア全図』(1667)
その3 『1672/73年のシベリア全図』
その4 スパファーリのシベリア地図(1678)
その5 1687年シベリア地図
その6 『レーメゾフ地図帳』(1701)
その7 『レーメゾフの民族誌地図』
第3章 ロシア人が語る「地球発見物語」
1 はじめに
2 地理学の誕生
3 古代ギリシャ・ローマの地理
4 中世の地理的知見
5 偉大なる地理上の発見
6 18・19世紀の地理上の問題と謎
7 フンボルトと18‐19世紀の地理学
8 ロシア人の「世界進出」
9 北極の探検・20世紀の探検
10 南極と世界の屋根
11 海に挑む
資料 ウラジミール・アトラーソフのカムチャツカ遠征記
『第一上申書』(1700)
『第二上申書』(1701)
主要参考文献
あとがき (佐々木隆爾)
佐々木路子(ささき・みちこ)
1937年 滋賀県彦根市生まれ。
1960年 奈良女子大学文学部史学地理学科(日本史専攻)卒。
日比谷高校などで地歴科教師を歴任。
2004年 東京ロシア語学院本科卒、ロシア語専門士。
2012年 死去。
問題は「うたの位相」である。つまりそれが「詩」と言えるものであるかどうか、である。
「うた」は虚構の共同性とその過去が現在を拘束するサイン(合図または痕跡)である。
しかし「詩」はそうではない。
それは虚構と無縁の未来から飛来して「私」を拘束する言葉であり(ヨシフ・ブロツキイ『私人 1987年ノーベル賞受賞講演』)、啓示であり、予言ですらあるからだ。
先の大戦において、日本文藝家協会を母体として情報局(内閣情報局)が日本文学報国会を促成したのは敗戦を3年後に控えた1942年(昭和17)であった。
その詩部会の会長には高村光太郎が任じ、そこには今日名前が知られるほとんどすべての「詩人」が網羅された。
前年『智恵子抄』を出したばかりの高村は、病妻に対したと同等あるいはそれ以上「真摯」に時局にのめりこみ、戦意称揚に邁進したのであった(「地理の書」ほか)。
つくりだされた危機における虚構(「日本」)への回収や美のことあげは、結局のところ虚構のひとりよがり(廓言葉)の隘路に自らはまり人を陥れる仕業にほかならない。
アイロニーの悲愁をスタイルとした「日本浪漫派」も、「町内会」を離陸して視ればゲルマン優種の神話で民族浄化を正当化したナチスの宣伝と基本的に変わるものではない。
意識的あるいは無意識に「世界」を断って、ひとりよがりの善意と正義、そして悲愁に埋没したうたびとは、決して「詩人」などではなかったのである。