7月 15th, 2019
うたの位相 その1
彼その終局をおもはざりき 此故に驚ろくまでに零落たり (『エレミアの哀歌』第1章9節)
以下に掲げる五七調の16行は、1942年(昭和17)11月に現インドネシアのジャカルタ(当時オランダ領バタビア。日本軍が占領)で出版された大木惇夫著『海原にありて歌へる』のなかの「戦友別盃の歌―南支那海の船上にて。」と題されたうたである。
言ふなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃(はい)にくだきて
暫し、ただ酔ひて勢(きほ)へよ、
わが征くはバタビアの街、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(さか)るとも
かがやかし南十字星を
いつの夜か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを。
このうたについて、wikipedia「大木惇夫」の項では根拠を示さず「日本の戦争文学の最高峰ともいわれる」と書いている。「も」付の伝聞体が、書いた本人がそう思っているにすぎない事情を語って笑止であるが、このうたに心揺るがせられた者はすくなくないだろう。しかしwikipediaの記述としては、もちろん失格である。
さて、次のうた(「海ゆかば」)はどうであろうか。
海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへり見はせじ
こちらは『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」の一部で、大伴家持が大伴氏と佐伯氏の家祖家系を言上げした部分である。
これに曲をつけたのが東京音楽学校教授であった信時潔で、1937年(昭和12)にNHKの嘱託を受けたものという。
しかし阪田寛夫の「海道東征」(『文学界』1986年7月)によると、「海ゆかば」には明治初期に東儀季芳が作曲した雅楽ふうのものがあり、それは「軍艦行進曲」の一部をなすという。つまり一般に知られる「海ゆかば」は戦時期の「国民精神総動員体制」用改曲であった。
この新しい「海ゆかば」は、負け戦感が濃厚となる1943年(昭和18)5月以降、大本営の玉砕(全滅)ラジオ発表の冒頭曲とされて人口に膾炙し、戦時中は「第二国歌」ないし「準国歌」とも称されたという。
「戦友別盃」同様(戦時期の日本列島と旧植民地の、そしてそこからアジア大陸と太平洋島嶼に散開させられた)人心の多くにくい込んだうたで、「日本人によって作られた名曲中の名曲」という評もある(新保裕司『信時潔』2005)。
しかしながらいずれの「うた」も、まだ大戦緒戦の景気のよい時期につくられたにもかかわらず印象は暗く、悲壮というよりも悲愴な「無理やり」感がある。新曲「海ゆかば」の最終部「かへり見はせじ」の唐突急激な高揚部はとくにそうである。
それは Wir müssen sterben (われわれは死なねばならぬ)、つまり自分あるいは他者の死を絶対的に強制する戦争という極限状況にあって、それを諦念とある種の高揚感で無理やり受け入れ、生への執着を断ち切らんとする不自然で奇怪な心性を前提としているからである。
「戦友別盃」の最終行は「雲」という自然現象を引き合いに、「黙々と」運命に従うことが指し示される。
これはほとんど「阿Q」(魯迅)の論理であり、奴隷の心性であって、心理的にはマゾヒズムと等価である。
ある者は「海ゆかば」をして「決して「勝利」への行進曲ではない、「偉大なる敗北」の歌である」と言う(同前)。しかし「敗北」に「偉大」を付けて美化するとすれば、結局のところ「精神勝利法」と変わるところがない。