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うたの位相 その4

本欄「その2」で触れた吉田嘉七の『ガダルカナル戦詩集』は記録文学と言ってもいい内容をもっているのだが、それが今日まで遺るのは、「餓島」と化したガダルカナル島で生き残りさらにインパール作戦に従軍することになった吉田が、軍事郵便も途絶したなかノートを遺書としてラングーンの毎日新聞支局に預け、内地の大木惇夫に届けられることを念じた結果という。

ノートは奇跡的に大木のもとに届き、その数編が毎日新聞の第一面に掲げられたのである(吉田嘉七「制作・発表おぼえ書」『定本ガダルカナル戦詩集』1972)。

  かて(短歌)
 
 粉味噌も遂につきたり、明日よりは
 塩ふりかけて粥はすすらむ

 一合の米わたる日は五勺食ひ
 五勺のこすもならひとなりつ

 米つきて椰子の実食ふも常となり
 日毎日毎に工夫をこらしぬ

 米のめし食ひたしと言ふ計(ばかり)にて
 友と一夜は語りあかしぬ

 勝つまではきっと死なぬと言ふ兵の
 顔の日に日に痩するは寂し

 米なくば椰子を食らひて、椰子なくば
 草の葉噛みつ戦ひて止まじ

上掲はそのうちの一篇で、いくら最終聯の反転強調があったとしても、こうしたうたは時が時なればただちに憲兵の管掌する事案となっただろう。
しかし「もはや国民にも敗戦の実状はあきらかになり、兵器や食料の増産が叫ばれ出したために、たまたまそれにマッチしたのであろう。その上国民の士気鼓舞のためとして」と吉田が書く通り、これらのうたが耐乏生活を余儀なくされた戦争末期の列島江湖に喧伝され、とりわけ応召を前にした学徒らに与えた影響はすくなくなかったのである。

大木編『ガダルカナル戦詩集 前線にて一勇士の詠へる』が毎日新聞社から発刊されたのは敗戦を間近にひかえたその年であった(奥付発行月日記載なし)。
この冊子を手にした学徒ら心中における「愛国と厭戦の交錯」は、井上光晴が小説『ガダルカナル戦詩集』に描いたとおりであったろう。吉田は忘れていた自分のノートのタイトルを、戦後(1959年)書店の店頭に見出したとき「白昼わが幽霊を見る思い」がしたという(同)。

しかしながらこのうたのリアリティは、実は以下のように戦場において生起しかつ維持された意志に裏打ちされていたのである。

「現役兵として入隊以前には、詩を書いたことはなかった。昭和十四年夏、初年兵の時に、ノモンハン事件に出動して、はじめて戦争を体験してからである。ノモンハンは満州(中国東北地方)と外蒙(モンゴル人民共和国)の国境地帯で、日本軍がソ連軍に潰滅的な打撃を与えられた局地戦である。増援部隊の一人として出動したが、総攻撃準備中に停戦協定が成立して、無事に元の駐屯地に帰れた。
 しかしここは二百粁歩いても家の一軒もない草原地帯で、水がない。それに我軍には近代的な兵器がない。圧倒的に優勢なソ連戦車群に対して、味方は火焔瓶(今過激派学生が愛用する)を持って体当りするしかない実状である。それをある有名詩人が『皇軍の神兵がハルハ河畔で、ドカンドカンと敵を撃っている』というように書いていた。その人の名も辞句も忘れたが憤慨だけが残って、稚拙でも良い、自分の体験は自分で表現したいと秘かに思い定めた。」(同)

この「有名詩人」とは誰であったか、北原白秋であったか高村光太郎であったか、あるいは単に選者として名が出たものを吉田がその作者と思い違えていたものなのか、またそのうたがどんなものであったのかは、しばらく措くとする。
それが「ドカンドカン」といった程度のものであるならば、いそいで調べるにもおよばない。
まずは吉田の「憤慨」が形となって遺されたことを多としたい。

問題は「うたの位相」である。
つまりそれが「詩」と言えるものであるかどうか、である。

「うた」は共同性とその過去が現在を拘束するサイン(合図または痕跡)である。
しかし「詩」はそうではない。
それは未来からやってきて「私」を拘束する言葉であり(ヨシフ・ブロツキイ『私人 1987年ノーベル賞受賞講演』)、啓示であり、予言ですらあるからだ。

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