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『武蔵野』の古地図 その9

ところで『武蔵野地名考』とはどのようなものであったか。
国立国会図書館デジタルコレクションでは、「この資料は、著作権の保護期間中であるか、著作権の確認が済んでいない」としてインターネット公開から除外している。
江戸期も文政年間以前の著作物であるから権利の保護期間にあるはずはないのだが、著者の没年が確認できないからという形式流儀の結果のようだ。
国立情報学研究所の書誌情報(CiNii)では、「武蔵野地名考/田沢, 義章 タザワ, ヨシアキ/書誌事項 武蔵野地名考 田澤義章著 [出版者不明], 享保21 [1736] 跋/タイトル読み ムサシノ チメイコウ/島根大学 附属図書館」としている。
日本の古本屋やAmazonの古書データでは1950年に旅の趣味会が出版したものが見つかるが、これは写真復刻か活字翻刻かのいずれかであろう。
実は有峰書店のシリーズ「江戸地誌叢書」の第4巻目(1976年刊)に『武蔵野地名考』が翻刻収録されているのであるが、書籍のタイトルに含まれないためダイレクトな検索ではヒットしにくいのである。
著者の田沢義章についてネットでは、他に享保20年(1735) 序の『一もとの日記』がみつかるばかりである。この「一もと」とは「紫の一本(ひともと)」で、古今和歌集の「紫の一本故に武蔵野の草は皆がらあはれとぞ見る」にちなむ「武蔵野日記」の意と思われるが、未見のためこれ以上触れない。
いずれにしても「武蔵野地名考」は『江戸地誌叢書巻四 四神地名録/四神社閣記』の299ページから313ページに見ることができるのである。

その書き出しは「武蔵野 古へは十郡に跨りて、西は秩父嶺、東は海、北は河越、南は向が岡、都築が原に至るとなむ、古文書にありて証すべし、百とせ計以来、民居村里になるといへども、むかしの秋のおもかげいまものこりて、平原はてしなく、まがきも野べも、秋はちぐさの花しげるがごとし、萩薄をみなへしの色もよにことなる、此野になぞへがたし、富士見塚といへるあり、高三丈ばかり、めぐり五十歩あまり、道路江府より府中の明神社地に至りて七里、中秋の比(ママ・引用者)府中の駅に宿りて二十四五町北にゆき、こゝにて月を見る、清明万里、又似る影もなし、ふじの山西南の表にのぞみ、筑波の山を東北のしりへにかへりみる、ふじのねをふりさけみれば、などよめる此わたりにや。」とし、末尾に「品題」として「霞 若菜 蕨 菫 雉子 雲雀 郭公 夕立 照射 荻 萩 薄 女郎花 葛 蘭 菊 月 紅葉 尾花 鹿 駒迎 霜 雪 若菜」を添える。
この四季順に羅列された「品題」とは、和歌の題詠や俳句の兼題・席題詠に対応する景物で、遊山吟行の「お題」である。

『武蔵野地名考』はこのあと玉河、調布、虎柏神社、総社府中六所明神、分倍、国分寺、関戸、恋ヶ窪、久米川、入間川、堀兼井、三芳野里、野火留、狭山、亜豆佐味社、阿伎留神社、高麗寺、向が岡、穴沢天神、都築原、杉山神社、迯水、立野、荒藺崎、小崎池、磐井神社、古河薬師、古呂久宮、埼玉津、霞関を列挙記事とするが、磐井神社や古河薬師は今の大田区の、霞関は千代田区の所在で、小崎池や埼玉津などは未詳とし、著作としては系統性に欠けかつ尻すぼみである。

武蔵野の記事の中「むかしの秋のおもかげ」をのこす「武蔵野」の中心に位置するように記述された「富士見塚」とは、『江戸名所図会』巻之三(天保5・1834)に「富士見塚 国分寺より西の方五町ばかりを隔つ。この所に登れば一瞬千里殊に奇観たり。東は浩茫として限りなく、天涯はるかに地に接するを見るのみ。中秋の夕月のあかきには、草より出でゝ草に入るの古詠に、古へを想ひやられて感情少からず。この故に幽人騒客こゝに来りて遊賞せり。(高さ三丈ばかり。めぐり五十歩あまりあり。)」と、100年後にも援用紹介された名所である。
これらの記述によれば「武蔵野」の「富士見塚」は、現国分寺市内を通る国分寺崖線の北で上位段丘面上に位置し、段丘崖と府中道に至近の場所に所在することになる。

その塚跡と目される盛土遺構が、JR中央線西国分寺駅近くに所在する。
「伝鎌倉街道」が国分寺崖線を直角に切り通したルートに接する東側高所、武蔵野線工事のため盛土の東側を削り取られた形でそれは残されている。
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至近には国分寺市教育委員会の説明碑が発掘平面図および断面図付きで設置されている。
その全文は以下の通りである。

「塚/この塚(盛土遺構)の底面は1辺約22m、高さ約3mで、1辺約7mの平坦な頂部を有する方錐体と復原され、周囲の地山層(黒褐色土)を削った土で築かれている。旧来「土塔」と言われ、国分寺に関係を有するものとされてきたが、2度に及ぶ発掘調査の結果、中世(14・15世紀)において種々の祈願の成就を得るために、作法に則り本尊に対し祈祷をするために築かれた修法壇跡で、伝祥応寺との関係を有するものと推考される。/鉄道拡張工事に伴う第1次調査(1969)では、下層より平安時代竪穴住居跡2軒、盛土内より明銭(洪武通宝、1368年初鋳)1枚、頂部に主体部と思われる粘土敷き硬化面、その付近より梅瓶型瀬戸灰釉瓶子1点や素焼きの土師質土器細片数点などが出土している。」

黄檗宗黒金山祥応寺は享保2・1717年に再興されて国分寺市本多4丁目に存在するが、鎌倉時代中期に開山したという前身の伝祥応寺跡は、伝鎌倉街道を挟んでこの塚の西側段丘面上に認められる。
塚に関して、高さ3丈(約9m)めぐり50歩(約27m)の数字は復原とは符合しないけれども、その位置は『武蔵野地名考』に記された府中からの行程に合致するのである。
段丘崖近く、下位面を見下ろし同時に広大な空と昼夜の諸天体に対した中世の祈祷場は、近世には富士見や月見といった風流遊山の場に移行したと考えることは、あながち的外れではないであろう。

ここにも「広大」にして「見遥かす」武蔵野が展開していた。
造園で見かけ上の奥行きをつくりだす技法としてvista(通景)があり、その例は新宿御苑でも見ることができる。
そうした演出法とは対照的に、国分寺崖線という一定以上の比高と延長をもった自然地形つまり段丘崖が、「武蔵野」の条件のひとつである水平に開けた広大な遠望性を保証していることは留意されてよいのである。

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上図は『武蔵国分尼寺跡Ⅰ』(1994)からp.43「第29図 武蔵国分僧寺・尼寺全体図」の一部で、左下の尼坊北に★を追加し、「塚跡」を示した。
等高線の束は国分寺崖線で上(北)が上位段丘面、北に向かう細長い陥入部は「伝鎌倉街道」である。

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