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「地図文学傑作選」 その14

前回の末尾で、地図認知の基本システムと言うべき「視座の転位と「Cosmic View」的な漸移のスケール移動」について触れたが、視座の転位については「その3」の「地図的観念と絵画的観念」(正岡子規)で一通り述べた。

一方の「スケール移動」だが、まず説明しておかなかればならないのは「Cosmic View」だろう。その発端は1957年にドイツで刊行されたキース・ブーケによる同名のグラフィック書籍で、サブタイトルに「the Universe in 40 Jumps」とあるように、猫を抱いた一人のオランダの少女を起点として外界が宇宙大から原子のスケールまで拡大縮小する、画期的な教育絵本であった。これに触発された映像も少なくなく、今日では Cosmic Eye-Universe Size Comperisionといったタイトルのyoutube画像を目にすることが可能である。

こうしたサイズ変容ないしスケール移動に触れた書き物として、澁澤龍彦の「胡桃の中の世界」(1974年、『澁澤龍彦全集 13』pp.203-217)を挙げることができる。そのタイトルは、本文中でも触れられているようにシェイクスピア作品『ハムレット』の第二幕第二場におけるハムレットの科白から採られている。
すなわち旧学友ローゼンクランツの「なるほど、望みある身には、この国はいかにも狭すぎましょう」に対する返答、「なにを言う! このハムレット、たとえ胡桃の殻のなかに閉じこめられていようとも、無限の天地を領する王者のつもりになれる男だ。悪い夢を見なければな」(福田恒存訳)の一部なのである。

しかしその科白原文は「O God, I could be bounded in a nutshell and count myself a king of infinite space, were it not that I have bad dream」である。つまり、それは ‘nutshell’ (堅果の殻)であって、「胡桃」(walnut)とは言っていない。
しかし近隣の図書館でいくつかの訳本をあたった限りだが、この「胡桃」は福田訳にかぎらず次の坪内逍遥訳以来踏襲された語とみられる。「おゝ\/! 胡桃の殻に押籠められてゐようと、無辺際の主(あるじ)とも思はうものを、悪い夢をさへ見なんだら」。

英語でnutを含むおもな語には、walnut(クルミ), chestnut(クリ), hezelnut(ヘーゼルナッツ), peanut(落花生)があり、要は殻のある食用果実のことで堅果と訳されるが、日本語の堅果にはacorn(ドングリ)を含むから、概念的にはズレが生じる。
ヘーゼルナッツや落花生は近年の外来種だから除外するとして、クリ、ドングリ、クルミ(オニグルミ)は日本列島には縄文時代から存在し、またそれらは当時の人々の主要食糧の一種で、栽培されてもいたのである。もちろん殻を除去して食用にしたのだが、ドングリの場合はタンニンを抜く水晒し行程が不可欠であった。
いずれも語音に ‘kur’ を含み、殻に包(くる)まれた木の実の意であって、語源が「包(くる)む」にあることは、各地の方言をチェックしても明瞭である。

つまり ‘nutshell’ を「クリの殻」などというよりは「クル(包)ミの殻」としたのは極めて的確で、それが意識されたか否かは別として、また坪内以前の訳は当面未詳として、語が踏襲されてきたのにはそれなりの理が存在した。そこからさらに「殻」が省略されて「クル(包)ミの中」となっても何ら不都合はない。さらに言えば「包み:殻」とその内部の構造は、図らずもフッサール現象学の超越と内在の関係を示唆して意味深い。それは外界認知の構造そのものだからである。

さて澁澤の「胡桃の中の世界」は、ミシェル・レリスの「無限」(『成熟の年齢』所収)と題された幼時体験、すなわちココアの箱に描かれた少女が同じ少女の絵があるココアの箱をを指さしている画像が惹起する「一種の眩暈」の感覚と、「メリー・ミルク」の罐の絵やキンダー・ブックの表紙絵から受けた澁澤の幼時体験がほとんど同一であることへの想起からスタートする。
合わせ鏡双方の奥につづく像のように、入れ子の絵は無限を開示する。それを初めて目のあたりにした子どもは眩暈と恐怖に襲われる。しかし澁澤の筆先は無限の恐怖に向うことなく、「大きなものと小さなものとの弁証法を楽しむ想像力」の諸説諸例を経巡る。ただしその展開はピエール・マクシム・シュールの書き物(谷川渥訳『想像力と驚異』1983年)を骨子また素材とし、当書のタイトルもシュールの本の第5章「ガリヴァーのテーマとラプラスの公準」のエピグラム(ハムレットの科白)に由来するのである。

その章のはじめでシュールが述べている「ガリヴァー(あるいはミクロメガス)コンプレックス」は、地図的認知の構造を言い当てた趣きがある。澁澤もその語を用いつつ『後漢書』(「方術伝」)中の「壺中天」の譬え話から「ミニアチュールの戯れ」に触れ、またオーソン・ウェルズの『市民ケーン』のラストシーンを想起する。すなわちかつての新聞王の孤独な最期の手に握られていたのは、揺らすとミニチュアの家に雪が降るガラス球(「スノードーム」)で、それは「薔薇の蕾」という名の橇とともに少年時代の「世界」、つまり場所と時間の「クルミ」にほかならなかったというエピソードである。
澁澤はまた、G・バシュラールの『空間の詩学』(岩村行雄訳、1969年)の第7章「ミニアチュール」のⅠの一節を引用した後で、「私たちはそれぞれ、想像力の働きによって、いとも容易に論理を超越し、ミニアチュールの世界に跳びこむ」とも言う。それを地図の属性に引き付けてみれば、プランニングの想像力ということになる。同7章Ⅸでバシュラールは「遠距離もまた地平線のすべての地点にミニアチュールをうみだす」とし、さらに「われわれは遠方から所有する」の言葉も提示する。水平、垂直を問わなければ、これも地図の構造と言うほかない。

ミニアチュールとは「苔の茎が樅になる」(バシュラール、7‐Ⅴ)を典型とするスケール変容で、澁澤がこの著で展開したのはもっぱらこの「小ささ」のイメージなのだが、筆者の場合はその反対に高熱を発して寝ている折など、体が宙に浮いて宇宙大となる幻覚にとらわれることがある。カフカの『変身』ではないが、つげ義春作品の主人公も「死なんて真夜中に背中のほうからだんだんと……/巨人になっていく恐怖と比べたら/どうってことないんだから」(『ねじ式』1968年)と呟いた。これも想像上のスケール変容の例であることを補足しておく。

澁澤の「胡桃の中の世界」は、地図の原理を参照できるこうした著作(『ねじ式』を除く)への格好の案内文と位置付けられるだろう。

なお、いささか牽強付会の面があるが「入れ子構造」の地図の例として、本項その7で触れた「近代測量地図の最高傑作」参謀本部陸軍部の「五千分一東京図」(1883年3月測量「東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍)から、当時神田錦町に所在した華族学校(学習院)校庭の地図画像と、その開校を報じた『郵便報知新聞』1877年(明治10)10月17日の記事の一部を以下に掲げる。この校庭地図が「日本地図並びに琉球地図」と言われたのは、明治政府による琉球併合(「琉球処分」)が1879年(明治12)だったためである。

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「十七日、神田錦町華族学校親臨開業式の次第を拝見するに、表門及び南北の二門何れも西洋飾り美々敷日章を掲げたり。広苑及び各室の周囲には数百の紅灯を結び列ね、正面には紅白の幕を張り、馬立場には第一方面二分署の消防夫出張し、巡査は三門へ詰め柵内外を警護す。表門右方仮屋の中には海軍の楽隊伺候せり。庭面は日本地図並びに琉球地図を象(かたど)れり。廻廊には数種の盆栽を陳ね設け、玉座には百花を金瓶に雑挿せり(略)」

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「地図文学傑作選」 その13

本項の手仕舞いにあたっては、短歌と俳句作品から目についたものを掲げることにする。

短歌と地図ということになると、石川啄木の次の作品がすぐに思い浮かぶだろう。

「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」

言うまでもなく1910年8月の日本による韓国併合を詠じたもので、自国領を中心に置きそれを赤く塗る近代地図の一般原則を裏返し、「亡国」の印として朝鮮半島部に墨汁塗布したのである。日清日露両戦争後ナショナリズムに浸った日本人のなかでも、啄木の特異な位相がうかがわれる。
もちろんその2月前には大逆事件と俗称される幸徳秋水らの逮捕があり、処刑は翌年1月とはいえ「時代閉塞の現状」は頂点に達していた。啄木が現在の文京区小石川の寓居で26歳の生涯を閉じるのは1912年の4月であった。
併合前の韓国の国号は「大韓帝国」であるが「併合条件の綱要」において、明の洪武帝から下賜された「朝鮮」の呼称が復活された。「くろぐろと」否定されたのはその呼称でもあった。なお「大韓帝国」の「帝国」とは、領土にかかわるというよりは自前で暦がつくれることを意味したという。

時代は大分とぶが、1985年に78歳で亡くなった「幻視の女王」葛原妙子の「地図」の語を含む歌は次のごとくである。

「黒峠とふ峠ありにし あるひは日本の地図にはあらぬ」

二句目と三句目の間を一字空け、三句目を字余りとした破調である。
「或いは」を「あるひは」と書くのは歴史的仮名遣いとしては誤用とされるが、それを承知で意図的になされた節がみえる。つまりこの歌のテーマは「異界」へのpass(越境点=峠)であり、「地図」とはそれを記載した図である。日本であろうと外国であろうと、幻視者にとって異界への分水界はどこにでも存在しうるが、それは視ようとして見えるものではない。作者にとって黒峠という言葉は、その言葉だけが頭の中で不意に出現したのである。だから「あるひは」なのである。
今日「黒峠」と入力すれば、Google Mapはただちに島根県との境に近い広島県山形郡安芸太田町横川の内黒峠を指し示す。一方Black Passでは世界地図のどこにも該当しないようである。つまり「黒峠」という地名は現実にはどこにも所在しない。
葛原のもっとも代表的な歌として「他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水」がある。それと同作「高きよりみし白昼に人群は大いなる魔のごとくながるる」を並置してみると、地図の原理である「視座の転位」が顕著であることがわかる。すくなくとも古代においては、地図とは一種の「空間幻視」の賜物でもあったのである。

より直接的な空間幻視の歌は、北原白秋の

「大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも」

であろう。

若山牧水の

「幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく」

は幻視ではなく平明な旅情歌だが、その視点はやはり上空にあり、地図的であることに変りはない。
地上視点であるが、古代の「国見」のごとく崖上(現在の東京は千代田区の駿河台男坂上)から見下ろした巨大都市を、近代詩のかたちで「野の獅子の死」にたとえたのは上京した石川啄木(「眠れる都」、『あこがれ』所収)で、1904年11月21日のことであった。

これらに対して地図現物が登場するのは、天台宗僧侶にして歌人および詩人、というよりも日本野鳥の会の創立者として知られる中西悟堂の次の歌である。

「槍ヶ岳のいただきに来て見放(さ)くるは陸測二十万図九枚の山山」(「安達太良」)

いわば「山頂歌」であるが、ただちに思い出されるのは斎藤茂吉の

「陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳(そび)えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ」(「白桃」)

であろう。こちらには地図の名は登場しないが、奥羽山脈の分水嶺が足元に踏まえられ、歌の構図が地図である。しかしここで注意すべきは「陸奥」(みちのく)の語がつかわれている点である。蔵王は現在の宮城県と山形県にまたがる山塊であるから、ただしくは陸奥と出羽すなわち奥羽でなければならない。山形県は現在の上山市出身の茂吉にこの語遣いをさせたのは、「みちのく」が「東北」に対応する語として逆にイメージされるようになっていたからであろう。「東北」は明治初期に方位称から地域称として転用された新語で、歴史的経緯から言えば「差別語」である。したがって「東北学」は、すくなくとも明治以降の時間幅にしか該当しえないのである。こうしたことに無関心ないし無神経な言説は学問とは言えない。

ところで悟堂歌にある「陸測二十万図」といえば、日本近代文学の白眉のひとつでもある泉鏡花の代表作『高野聖』(1900年)の冒頭次のように登場するのである。

「参謀本部編纂の地図をまた繰開(くりひら)いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣(ころも)の袖をかかげて、表紙を附けた折本になってるのを引張り出した。/飛騨から信州へ越える深山(みやま)の間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立(こだち)も無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸ばすと達(とど)きそうな峰があると、その峰へ峰が乗り、巓(いただき)が被(かぶ)さって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。/道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午と覚しい極熱(ごくねつ)の太陽の色も白いほどに冴え返った光線を、深々と戴いた一重の檜笠に凌(しの)いで、こう図面を見た。」

「参謀本部編纂の地図」とあるからには、少し地図に詳しい向きは旧陸地測量部「誉の五万」、つまり5万分の1の地形図と思うかも知れないが、さにあらず。こうした内陸の地にあっては当時は5万や2万分の1(2万5千分の1図ではなく、当初の迅速ないし仮成および正式2万分1図のこと)図はおろか、伊能図すら作成されてはおらず、資料を搔き集めはじめての日本列島142面が整備されたのは1893年。それがこの「参謀本部編纂の地図」すなわち「輯製二十万分一」図であった。この件についてはかつて一文を草したことがあるので、詳しくはそちらを参照されたい(「峠と分水界」,『地図中心』2012年6月)。

茂吉歌のほかに、「地図」の語を使わず地図的なイメージを示した歌として

「切り傷は直線をなすアフリカの幾つもの国境(くにざかひ)にも似て」(山田航)

がある。現役歌人の歌である。
アフリカの「傷跡」国境はもちろんヨーロッパ植民地政策の結果だが、そのもっとも古くまた長大な「傷跡」は、アフリカではなく南アメリカのブラジル国境である。南アメリカではブラジルだけがポルトガル語を公用語とし、他はスペイン語なのである。これは15世紀末から16世紀にかけて、ポルトガルとスペインが「新大陸」の領土獲得を争っていた時分のローマ法王裁定「世界分割線」(Meridian Demarcation)の名残りである。分割線より西側に不定形に突き出した部分は、その後アマゾン川をさかのぼって領域をひろめたポルトガル人の足跡を示している。直線でない「国境」も地表の傷跡には違いないのである。

さて、俳句にあらわれた地図としては

「大白鳥地図のあちこち消してくる」(杉野一博)

がまず一押しであろう。
大型の渡り鳥のゆっくりとしつつも力強い羽ばたきの動きが目に見えるようで、それを「地図を消」すと表現したのは、国境や軍事境界線そしてヒトがつくった構造物の類を眼下にパスしてほぼ一直線に飛んでくるからである。それが「あちこち」とはいくつかの群れが同時に飛翔してくることを示す。越冬に適した湿地や水辺が極端に減少した今日、それはかつて存在した幻想的な渡りの光景なのである。

一方で

「寄生虫己れの地図を持っており」(山本桂子)

は「地図認知」の始原を直截に表現して比類ない。無季であるが、地図そのものにも一般的には季節は存在せず、強いて言えば「通季」である。いかなる動物も場所を認知するそれぞれの能力を備え、各自の環境世界(ユクスキュルでは「環世界」)に生きる。「ミミズだって、オケラだって、・・・」(やなせたかし「手のひらを太陽に」)なのである。

「月と眠る/地図の一点に横たわり」(江里昭彦)

も、「地図」を使って秀抜である。そこには月に照らされて眠っている自分を見下ろしている、もう一人の自分がいる。「月」は秋の季語とされている。先の杉野の作品に「箱庭を出る足取りの確かなり」という作もあって(「箱庭」は季語としては夏とされる)、こうした句作の背景にスケールアップ、スケールダウンという、ベクトル向きの反対な想像力の動きが潜んでいることを垣間見させる。スケール移動は地図の構造原理のひとつである。

「地図」の語を使わず地図的なスケール移動を示した端的な例は

「渡り鳥みるみるわれの小さくなり」(上田五千石)

である。
俳句の季語すなわち歳時記や季寄せの分類では、「渡り鳥」や「鳥渡る」は秋、「鳥帰る」「鳥雲に」は春とする。ただし「燕帰る」逆に秋となる。「渡り鳥」には夏鳥もいれば冬鳥もいるから、それだけでは季節は弁別できないはずだが、歳時記では無理やり秋とするのである。
「みるみるわれの小さくなり」には、飛び去る鳥と地上に取り残された自分と、二つの視点つまり二人の自分が同時に存在する。
「渡り鳥」を季語の制約から外してみると、遠ざかる鳥の群れは何千キロも離れた繁殖地に戻る姿にほかならず、季節は春である。
しかし作者は「『渡り鳥』が『みるみる』うちに『小さくな』って秋空のかなたへ遠ざかって行ったのが事実」で、「それをみつめて立っている自分が『みるみる小さくな』っていくように感じられたのは真実」という。そうであれば、鳥たちは最終越冬地の少し手前で休憩していただけなのだから、北に帰る姿よりも景としてはずっと小規模、短詩としての感動も小粒なのである。
つまりこの句の「妙味」は、遠ざかる鳥を見ていた作者の頭のなかで「視座の転位」が一瞬のうちに自動的に起動した、というその一点にかかるのである。

季語の有無、季感の矛盾にかかわらず、これらの句は視座の転位と「Cosmic View」的な漸移のスケール移動を併せ持つ最短の「地図文学」といっていい。
ただし『日本の俳句はなぜ世界文学なのか』(ドナルド・キーン/ツベタナ・クリステワ、2014年)というタイトルの本があるにもかかわらず、「渡り鳥」や「月」「箱庭」「祭り」「踊り」等々に代表される「ひとりよがり季語」に依存するかぎり、「俳句」は「世界文学」はおろか奇形にしてお家芸の「島国文学」に甘んじるのである。

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「地図文学傑作選」 その12

平田俊子の代表作のひとつ『(お)もろい夫婦』(1993年)には「荻窪風土記」という1節がある。
aとbの2パーツで、aはクモやコキブリ、ネズミにマムシ等々からミミズに至る「ムシ類」、bは胞子で殖えるヒトヨタケつまり「菌類」がはびこる。
もちろん井伏鱒二の同名の作品のパロディというよりは裏オマージュで、内容はいささかも「地図」にかかわるものではない。

本家『荻窪風土記』の方はもちろん回想地誌の名品で地図文学の資格十分だが、それ以上にこの作品の冒頭「荻窪八丁通り」には瞠目すべき記述をもつ。
関東大震災前までは、品川の岸壁を出る汽船の汽笛と、府中の「大明神」(大國魂神社)の大太鼓の音が、荻窪まで聞こえていたというのである。そうして震災後もしばらくの間は、(西新宿の)鳴子坂あたりまでは、汽笛の音は届いていたという。
これは東「音の地図」の断片が、文字に記録された例のひとつで、まことに貴重である。
なお、鳴子坂は青梅街道が神田川を渡る西向きの傾斜部で、対応する東向き斜面は中野坂上に至る中野坂である。鳴子坂はかつて荻窪から都心の市場まで野菜を積んだ大八車を曳いて行くときの最大の難所であった。
風の向きにも依るだろうが、汽笛は基本的に品川から同心円状に伝播し、弱まっていっただろう。その逆に、未明の郊外地から荷車は京橋などの「ヤッチャ場」を目指した。こうした音あるいは動きの「地図」は、東京にかぎらず地方都市にもおしなべて存在したはずで、調べをつくせば1920年前後の東京市の音の地図もつくれる可能性なしとは言えないのである。
冒頭の章は文庫本にして約30ページだが、地図の本質のひとつの「記憶」すなわち「過去」にかかる名作であり、余裕があれば抄録したい。

タイトルから男性作家の作に戻ってしまったが、女性作家の場所にまつわる作品として、最後に柳美里の『JR上野駅公園口』を挙げておきたい。
文庫本まるまる1冊の分量でとてもこの選集には入らないが、翻訳部門で2020年のNational Book Awards(全米図書賞)を受賞した記念碑的な意味をもつ。『JR品川駅高輪口』『JR高田馬場駅戸山口』と「山手線シリーズ」の1冊なのだが、いずれも著者自身の回想ではなく創作である。
この作品では綿密な取材をもとに、「場所」に託しホームレスとして死んだひとりの男の一生を描ききった。同年春、公園口は改修されて往時の様相は一変したが、在日作家の日本語作品が世界的な問題意識において評価されたことを嘉したい。

さて、本「地図文学傑作選」も分量のオーバーを気にしなければならない段階に立ち至った。そろそろ手仕舞いしないといけないのだが、そう思ってふりかえると、「選集」の出だしが気にかかる。すなわちいかに地図の本質が「権力性」にあるとしても、『十九歳の地図』のむきだしの暴力性は「地図ファン」の神経にいささか差しさわりをもつ面があるかもしれない。
そこで当アンソロジーの冒頭には地図のもうひとつの属性である、プランニング・メディアの側面に焦点をあてた作品を据えておこう。

タイトルはずばり「夢みる力」で、地図帳と列車時刻表があれば想像力の翼を存分に働かせることができる、という辻邦夫の作品である。
「もし私が運命の神の悪戯でかりに独房に入れられるようなことになったら」という前置きが少し不穏だが、主題は権力的暴力ではなく夢想の愉悦である。
丸谷才一と辻が企画した「楽しみと冒険」という叢書の第1冊目『地図を夢みる』(辻編、1979年)の冒頭に掲げられた11ページは、リルケの詩の引用で終わっていて、地図そのものというより「〈生きていること〉の不可思議」を触発する「場所」あるいはそこにあるモノを想像することが称揚されている。
図像学研究家にして地図にも造詣が深い杉浦康平が言うとおり「地図は決して“探検済み”のものではなくて、これから“探検を始める”という場所の顕現」(『is』Vol.8, 1980)である。つまり地図とは過去であり、かつ現在から未来にわたるものなのである。

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「地図文学傑作選」 その11

先日知り合いの詩人に「地図文学傑作選」の話をしたら、「作者は全部男ね」と指摘された。

『話を聞かない男、地図が読めない女』のような俗論に与する気は毛頭ないが、そのタイトルの前半延長にあるレベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』(原題 Men Explain Things to Me)は、その通りと思う。
「女は地図が苦手」とはもちろんジェンダー・ステレオタイプの一種で、「社会的思い込み・思われ込み」にほかならない。

地図読み競技すなわちオリエンテーリングで、男たちを尻目にどんどん先に行く女性は一人二人ではない。
かくいう当方、長年地図を相手に仕事をしてきたのに、どういうわけかオリエンテーリングは不得手で、速さを競うことなどに無縁なソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』は癒される思いがして読んだものである。

さて詩人の指摘に対しては、候補選択途上の何人かの女性作家とその作品名から、とりあえず『金魚燎乱』の岡本かの子、『崩れ』の幸田文を例にあげ、考えていないわけではないが、それらは「地図文学」というよりは「地形文学」に近いため逡巡している、と言い訳したのであった。
そうなのだ、「地図」の属性の核である「権力性」の開析を女性作家の作品に求めるのは確かに難しい。
1558年にエリザベス1世が戴冠した時、英領地図の上に立っているつまりそれを踏みつけている画像があったはずだが、それに匹敵する文学作品は寡聞にして知らない。

その一方で、「場所」をひとつの主題とした作品はほかにもすぐ挙げることができる。
矢田津世子の『神楽坂』は第3回芥川賞候補作(1936年)となった短編で、鴎外の『雁』と同じく高利貸しとその妾の話だが、現在の大久保通りを境としたケとハレの空間対比がストーリー全体の構図におよんでいる点が地図文学の資格たりえる。
さらに直截に『場所』というタイトルは、2021年11月に99歳で亡くなった瀬戸内寂聴の短編集である。2001年に第54回野間文芸賞を受けたが、郷里の墓地訪問から出家直前までの作者の足跡を顧みた14編で、とりわけ最後の「本郷壱岐坂」が井上光晴との死別を描いて感慨深い。

タイトルに「地図」がつく女性作家作品の代表として、佐多稲子の『私の東京地図』と須賀敦子の『地図のない道』がある。
これらは瀬戸内の作同様「回想」であるが、両者とも文庫本として流通していまだ手に入りやすい。「地図文学傑作選」では解説に触れておくだけとなろう。

「回想」で想起するのは、石井桃子の『幼(おさな)ものがたり』である。
2007年4月に101歳で亡くなった石井は日本児童文学における巨星の一人と言ってもいいと思われるが、中山道は浦和宿の金物屋の末っ子として誕生した。その幼時の思い出なのだが、そのなかでもとくに「大水」そして「スミレ」の項が忘れがたい印象を残す。
この作品については『「幼ものがたり」探査 ―浦和・中山道の端で』(並木せつ子、2015年)という解説(?)冊子まで存在する。その巻末に私が貼り付けた手書き地図(並木作)の複写は、銀座のナルニア国で購入したときにもらったのだったか。
石井の幼時回想は全体が300ページを超すが、その地図を添えて「大水」と「スミレ」を中心に抄録できればと夢想する。

地図付きの自伝は大岡昇平の『幼年』『少年』が著名で、大岡の地理考証には定評があるが、これらも世に普及している作品でしかも著者は男性である。
女性の地図付き回想では、石牟礼道子の「水俣の栄町での日々」も捨てがたい。
『石牟礼道子全集 不知火』別巻自伝(2014年)のpp.10-11には「自筆絵地図」「わたしの栄町通り」が掲げられているが、1927年3月の誕生の地は天草上島の下浦だから、選集に入れるとすれば地図に対応するp.18の「花売りの声で夜が明けた」から「鍛冶屋と染め屋」のp.26までか。

これらに対して、地図を掲げずしかも記述はすべて平仮名、文庫本で17ページにわたる生育の地の回想詩は、伊藤比呂美の「岩の坂」(1982年、『子どもの館』2月号)である。
いきなり「かんななをつっきる」でスタートして、「きゅうなかせんどうはいわのさかをのぼりそれからさきは/こくどう十七ごうせん(なかせんどう)と/こうさしたりへいこうにはしったり/からみつくようにつづいている」で終わる。
「そうぎや」「のみや」「くすりや」「おちゃや」「たばこや」「でんきや」「さぎょうふくや」「こめや」「こうばん」「おふろや」「げしゅくや」、そして「さかのひだりがわにえんきりえのき」なのである。
これは、読む者に地図を描くことを強要しているのかも知れない。

伊藤と親しい平田俊子の「ひ・と・び・と」全34行(アキを含む)は「あなたの生まれた町の/地図を描いてください/いつかいっしょに行けたらいいね」という3行を含み珍しく毒気も傷も露出の少ない詩なのだが、もし「岩の坂」が地図付きであったとしたら、むしろ詩のもつ疾走感は減殺されたと思われる。

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「地図文学傑作選」 その10

恒例の某有名大学社会人春講座が一段落したので、本項を再開する。

最初に言及しておくべきであったかも知れないが、そもそも「地図文学」とは何を指すのか、その1で触れた青木淳の「建築文学傑作選」は自らをとくに説明していないが、こちらは以下少し敷衍してみる。

「地図」とはしばしば「紙ないし液晶板等に描き出された地表画像」などと説明されるが、それは文字通り表面的説明もしくは理解にすぎない。
「地図」のより本質的な定義は、地図学の大家 John Brian Harley(1932-1991)の ‘As mediators between an inner world and an outer physical world, maps are fundamental tools helping the human mind make sense of its universe at various scales.’ (”The Map and the Development of the History of Cartography” The History of Cartography, Vol.1, 1987) を参照するまでもなく、「一定空間すなわち場所の一定時間における事物・事象配置の認知と記憶、およびその伝達メディア」である。
つまり空間認知それ自体がすでにして地図であり(頭のなかの地図)、言葉で表現される地図もありえる(電話で道案内)。
同時に地図は「空間」のみならず「時間」をも付帯したもの、つまり時間の記録であることにも留意されなければならないのである。

ヒトは基本的に移動を生存与件とし、哺乳類としての分布は地表最大面積におよぶ。そのため、空間認知は「スケール移動」を伴う「視座の転位」構造をもたざるを得ない。
「視座の転位」は地表に対する垂直視線を得るためには不可欠なシステムで、一般的には目視を基礎とした個的想像力に依存するが、やがてメディアとして離陸し、組織的な地表測量から空中写真を経て人工衛星を駆使する現代測量のプロセスにまで至るのである。
この「視座の転位」構造が必然的にもたらすのは、「プランニング」と「支配」の双方に特化する地図の属性である。

つまるところ「地図文学」とは、①作品中に地図が大きな要素として登場する、②場所の認知・記憶の記述が著しい、もしくは記述から地図化が可能である、③地図の構造(視座の転位・スケール移動)およびその属性(プランニング性、支配・権力性)を描いた、またはそれが顕著な作品の謂いである。

したがって、視覚を遮断されたため体感を基礎とした空間認知を発現する谷崎の『秘密』(本項その5)が、人類史上決定的な時間とその空間の記録という意味で原民喜の『夏の花』(同その4)が、言葉やモノとして「地図」が一切登場しないにもかかわらず、ともに「地図文学」の資格をもつ。
一方、「刑罰を受ける家」に×印を付していく物理ノートの地図はリアル地図であり、さらにその行為についての記述が地図の属性すなわち権力性を抉るものであるがゆえに中上健次の『十九歳の地図』(その1)は地図文学の傑作なのである。しかしその影響下につくられた尾崎豊の『十七歳の地図』(Seventeen’s map)には「心の地図」というフレーズが何度か登場するにもかかわらず、地図文学とは言い難い。それは都会の若者の情態をちりばめたのみで、上記条件の埒外にあるからである。

一方で前田愛が鴎外の『雁』を評した「地図小説」という言葉があるが(その7)、それは「地誌小説」と言い換えることも可能である。つまり現実に存在する場所と地名(固有名詞)をベースとして、そこに展開する物語の謂いである。
その6でも指摘したように、ユーラシア大陸東端、狭い海と海峡を隔てただけの列島にあって、個々の地霊はいまだその霊力を発揮しているらしく、歌枕は言うにおよばず、名字の8割は地名に由来、道路名はなくともその傾斜部にはしばしば固有名詞を付し(「坂名」は特殊「日本的」である)、地名や坂名を織り込んだ歌謡曲等は枚挙に暇がなく、近・現代小説にあっても地名(固有名詞)をイメージ展開の基盤におくのがオーソドックスな手法であって、それは架空の小説においても同様である。すなわち表現一般が、場所に依存しあるいはそれを揺籃とする傾向が強い。
例えば時代小説の類であるが、それらの多くは場所と時間の俗情すなわち過去の風俗に結託していて、地図的認知にかかる識見は稀である。逆に近代になって地名が変わったことに無知なあるいはそれを無視した作品まで存在する(山本一力『あかね空』)。それらを「地図文学の傑作」に含めるわけにはいかない。

カフカの『城』は、図化つまり地図化が不可能である。
そこに登場する固有名詞は人名がほとんどで、具体的地名は28ページ(新潮文庫、2005年改版)に「白鳥通り」、331ページに「ライオン通り」とそれぞれただ1回登場するのみである。頻出するのは普通名詞の「城」と「村」であるが、その境界は不明で城は村に滲出しているように描かれる。「縉紳館」と「橋屋」のふたつの宿屋名もしばしば登場するが、その位置関係は特定できない。
固有の場所性を排除したこの小説においては、不可視、不可解な悪霊の如き「城」が村をそして作品全体を覆っている。『城』は個々の地霊を圧殺ないし追放した「反地誌小説」であって、作品の舞台つまり作品地図は濃厚な単一色に塗りこめられている。
それは見えざる専制すなわちファシズム支配空間の見事な寓意として成立しているがゆえに、「地図文学の傑作」なのである。

日本語作品「地図文学の傑作」の『十九歳の地図』(中上健次)にも地名は稀である。
主人公は「みどり荘」に住み込みで新聞配達をしている十九歳の予備校生である。そうして主人公が列車を「爆破する」と脅迫電話を架ける先は「東京駅」である。この2つが場所性に関わる言葉で、それだけであるとはいえ舞台設定は「東京」にほかならない。
したがって、『十九歳の地図』は『城』よりも作品の抽象度はひとつだけ低いと言わざるを得ないのである。

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「地図文学傑作選」 その9

「フェイクとファクトの間」で想起される「地図」作品は、今年3月はじめてマンガのジャンルから日本芸術院会員に選ばれて話題となったつげ義春の作品「不思議な絵」である。

つげの代表作「ねじ式」は、1968年6月『ガロ』のつげ義春特集号に掲載されたが、この作品はその2年前の同誌1966年1月号発表である。ちなみに今日「傑作」として知られるつげの作品群は、「沼」(同年2月)からはじまって「海辺の叙景」(1967年9月)、「紅い花」(同年10月)、『長八の宿』(1968年1月)、「オンドル小屋」(同年4月)、「ほんやら洞のべんさん」(同6月)そして「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」(同7月)、「もっきり屋の少女」(同8月)と、66年から68年に集中しているため「奇跡の2年間」(実際は2年半、30か月)というらしいが、そうなると1894年(明治27)の「大つごもり」から翌年の「たけくらべ」「にごりえ」「うらむらさき」までを「奇跡の14か月」と称される樋口一葉とは「奇跡の」男女ペアである。このペアは生年に半世紀以上の差(1937年と1872年)があり、しかも一方は男性で寡作、すでに現代の平均寿命年齢を越えるのに対し、片方は女性にして集中連作しつつ24歳で夭折、ただし1世紀以上を経て五千円紙幣に復活し、対照的である。

「不思議な絵」は前述のように「沼」の前月にリリースされた16ページの小品である。

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上掲は「不思議な絵」の1カット。

貧乏長屋に住む独り者の浪人陣十郎が路上で軸絵を拾い、持ち帰って吊るして見ているうちに地図に見えてくる。何やら印も付いている。無聊ついでにその道筋を歩いてみるとアクシデントに遭遇して思わぬ酒にありつける。それに気をよくしてなお地図見立てして行くと郊外の一軒家に至り、軸絵はそこに隠棲する絵師の悪戯心の産物だったことが判明してまた酒にありつけるというドラマで、オチもある。貸本マンガのドラマ性から離脱し、つげ独特の世界つまりヒトではなく「背景」が前面に押し出してくる、直前の作ある。
移動起点は八丁堀の長屋、水天宮から人形町にすすみ、蛎殻町にズレながら、どこかの町はずれの原っぱのなか、一軒家で終わる。舞台は江戸市内、人家の密集した下町も隅田川河口に近い。

話の中身は「フェイクとファクトの間」というよりも、その間に所在する偶然が導く怪我の功名ならざる戯画の効能がテーマである。
スティブンスンやポーの宝の地図は「本物」であったが、ここではそれが思い切りパロディ化され、描いた本人(作中画家そして作者)によって笑い飛ばされている。宝の埋蔵場所を思わせる「印」は、主人公によって「黒いハナクソみたいなの」と表現される。
結局のところ絵は地図(ファクト)ではなく、贋地図(フェイク)ですらなかった。しかし主人公陣十郎は巧まずして伝統に則り、「見立て」手法によって都合3ヵ所で酒というお宝に行き当たる。しかし酒は飲み干されその場で消えるだけのもので、宝(恒産)にはほど遠い。古典落語「芝浜」ではないが、一般に酒(飲酒)と宝(資産)は対極に位置し合うのである。

ところで存在やシュール、不安や脅迫感などという言葉で語られることの多いつげ作品だが、この作品の主人公は着流しに団子鼻の呑気者風、本歌取りならざる文学作品下取りの脱力感が支配する。しかし作中の「でたらめをかいて捨てたのよ」「これを地図に見たてるなんざ夢があるね」という絵師の科白は、地図の否認に裏打ちされている。そこは脱地図の領域で、無用者の系譜に地図はない。世捨て人は地図捨て人でもあって、そうでないとしたら地図にとりつかれた地図だけ人なのである。

この作品が描かれたのは紙の地図最後の全盛期であったが、半世紀を経ていまや地図は液晶画面にほぼ置き換えられた。
現代地図の実体はデジタルデータとそれを開析する数式の巨大な塊りであり、目的地を入力すれば即座に現在地からの最短経路と時間および距離が表示される。頼みもしないのに、近くのラーメン店やカフェが出現する。液晶画面は文字と記号で満たされていて、表面は従来の地図と変わりはないように見えるが、その実態は人工衛星からの電波を基盤としたGISすなわちGeological Information System(地理空間情報)である。

それは固定されたものではなく変化と必要に応じて更新すなわち上書きされている。だから今日の地図は常に最新(のはず)である。
それは現代都市の一角でビルが更地になり、新しい建造物に変わって数日もしないうちに人はそこにかつて何があったか忘れてしまうのと軌を一にしている。すなわち「空間情報」とは基本的に常に現在であり、記憶と記録は剥奪されている。そうしてモノの裏付けのない「情報」は、瞬時のうちに消滅する可能性を常に孕んでいるのである。

デジタル情報の世紀には、紙の地図が宝を示すのではなく、それ自体が宝となる。
なぜならばそれは人の「記憶」の基盤だからである。
しかし無用者にとって宝は記憶ですらない。
世界は一幅の戯画に等しいのである。

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「地図文学傑作選」 その8

前回は森鴎外の『雁』に関連して前田愛の「森鴎外「雁」ー不忍池」(『幻景の街 ―文学の都市を歩く』所収)を取り上げたが、その初出誌(『本の窓』1981年春号)を確認したところ、当該篇は「連載/幻景の町③ 『雁』」というタイトルであった。
「町」は単行本とするにあたって「街」に訂正されたのである。
しかし訂正されなかったのはその冒頭の写真で、初出誌から単行本、著作集、岩波現代文庫に至るまで、トリミングこそ多少ちがうものの同一のカモの群れ写真に対し、同一の誤ったキャプション(「不忍池の雁」)が付されていた。

前田愛が満56歳で亡くなったのは1987年7月で、著作集までは自ら目を通していたと思われる。
写真にクレジットの記載はないから、著者自身の撮影である可能性が高い。
そうであれば、カワウの群れの不気味さに気づきながら、本人は湖面に群れなすカモをガンと疑わなかったわけである。

ヒトも地表の一画に生を営むいきものの一種にすぎない。
「地図的思考」にとりわけ今日的な意義があるとすれば、そのことに気づき、認知することをもって第一とする。
不忍池を含む「首都圏」のヒトと造営物ベッタリ、巨大な地滑りの如き生態系変化が想像の視野に浮上するには、地図化すなわち視座の転位を必須とする。転位は現存在への懐疑を契機とする。その契機を含まない文学評論や都市論、記号論は、天動説的なヒト文明時代の空談義に終わるだろう。
「森鴎外「雁」ー不忍池」を選に収めるとすれば写真は不採用としても、解説には『雁』本文の不備とガンカモ話に触れないわけにはいかないのである。

さて次は「その6」でとりあげた『日本の名随筆 地図』収録の「未知の土地(テラ・インコグニタ)を求めて 「ファンタジイ・マップ」より」(種村季弘)だが、こちらの初出誌にも大幅な発見があった。
『日本の名随筆』の出典記載には『箱の中の見知らぬ国』(1978年)とある。
『箱の中の見知らぬ国』では当該の文は全4章計15節のうちの冒頭節で、そのタイトルは「ファンタジイ・マップ」。中身は『日本の名随筆』と同一であるが、その巻末出典には『芸術生活』1973年1月と記されていたのである。
当該『芸術生活』をひもとけば、特集「ファンタジー・マップ 失われた土地を求めて」、カラー図版と文章が巻頭絢爛。図版は扉を含めて21図16ページにおよび、3段組4編の文章は計15ページ、すべて種村季弘のなせる業であった。
その執筆4編は、A「未知の土地(テラ・インコグニタ)を求めて」、B「アンチデボスの冒険家」、C「神秘家と革命家の地図」、D「巨人伝説とミニチュア」で、『日本の名随筆』『箱の中の見知らぬ国』ともに収録したのはAのみ、つまり残り4分の3は割愛されていたのである。

種村季弘は一見温顔、にもかかわらず稀代の博覧強記をもって戦後日本の知の一角に盤踞した。2004年8月に71歳で亡くなったが、真鶴駅からタクシー10分ほどのご自宅でお目に掛かったのは1998年頃だったか。何を話したかは忘れたが、畳の間の欅材だかの長火鉢と陶の酒燗器、それに相応しい奥様の様子が脳裏に残る。
その時すでに四半世紀前、B5判の雑誌都合30ページ以上にわたり目眩く種村「地」の世界は開陳されていたのであった。それを知らずして今日に至った不明を恥じるしかない。
その後何度かお会いする機会があったが、後に『江戸東京《奇想》徘徊記』(2003年)として1冊にまとめられた文章について「あれはね、実際にそこに行きもしないで書いているのだから、インチキですよ」と笑い話にされたのは如何にも「タネラムネラ」最晩年の風貌であった。
図版はともかくとして、「地図文学傑作選」に上記4編を一括収載できれば、種村ワールドがフラグメントではなくひとつの「地平」として眼前するだろう。もちろんその「地平」とは、ヒト世界の幻視と韜晦、フェイクとファクトの「皮膜」、まさしく文藝にして文学である。そのとき、タイトルに「ファンタジー」を用いるか「ファンタジイ」とすべきかは、判断に迷うところではあるのだが。

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昭和の日

今日は休日だった。
人に聞いて知った。
「昭和の日」というのだそうだ。

「昭和」という語感に高度経済成長期前の懐かしさを感じるとすれば、それは自分も含めてお人好しだからである。
歴史に確認できるなかで、「昭和」という元号の一時期ほど酸鼻を極めた時期はなかった。
15年間に「日本人」だけで300万人以上が、戦争のため死に追いやられた。
列島史上最大の死者数である。
さらに言えばいまロシアがそうしているように、理屈をつけて「侵攻」した先の戦死、病死、餓死者の合計数は桁ちがいに大きい。
奈良時代から江戸時代までの間なら、「昭和」は敗戦をもってただちに「改元」されていたはずである。

前の世代が「進め一億火の玉だ」(大政翼賛会・軍歌)と踊らされ、死を覚悟し、暴力と飢えにさらされ、またさらしたのは、実に「昭和」だった。
神に擬し、敗けた途端人間に鞍替えしたその最高責任者の誕生日を、みどりの日とごまかして休日とし、挙句の果てが「昭和の日」である。
我々はよほどのお人好しか破廉恥者である。
この日目出度く「国旗」を掲げるとすれば、それは無知と無恥の掲揚である。

そうして今日は、外出を阻むほどの強い雨が降り続いた。
実に「自然は水際立ってゐる」(髙村光太郎)のである。

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「地図文学傑作選」 その7

「地と物語の親和」というより、さらに「地についた」作品の典型としては、前田愛が「森鴎外「雁」ー不忍池」(『幻景の街 ―文学の都市を歩く』所収)で「見事な地図小説」と称揚した森鴎外の「雁」(初出『スバル』1911-1913年)が挙げられるかも知れない。
鴎外は自らを『青年』の冒頭近くで「竿と紐尺とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人」と戯画化したし、おそらくはドイツの旅行案内書「ベデカ」シリーズの折込地図をヒントにしたのであろう、地名索引を備えた「東京方眼図」(1909年)なる都市地図まで案出もしたから、地図はいわば自家薬籠中のものだった。
陸軍軍医総監までのぼりつめた人である。1870年(明治3)の普仏戦争の結果、1884年(同17)に旧日本陸軍の軍制はドイツ式に改変され、それは地図作成規範にも及んだ。測量と地図は陸軍の専管領域で、鴎外はよく知られているように軍医任官後ドイツに留学して1888年(明治21)に帰朝したのである。
前田愛が「地図小説」と言うときの地図はここでは近代測量地図の意味で、この短い評論のなかで「近代の都市図の歴史をとおして最高の傑作といわれている」参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図」(全9面、1887年刊)のうち2図幅の一部を図版とともに紹介し、さらに「国土地理院に所蔵されている手彩色の特製図」を「地図の宝石」とまで持ち上げ、地図を素材に鴎外の作品をひもといていく。
「最高傑作」とは誰がどこで最初に言い出したものか寡聞にして知らないが、ネットなどでは二万分一「迅速測図」の原図についてもそのように喧伝している例がある。しかし近代測量地図の「最高傑作」とは、前田の言う「地図の宝石」すなわち1883‐84年(明治16‐17年)に測図されたフランス式の五千分一図東京図「原図」以外にはあり得ない。

地図そのものについてはそうだとして、「地図文学」に相応しいのは鴎外の作品よりむしろ文庫本で10●ページの前田のこの文章かも知れない。
鴎外の『雁』は文庫本でも130ページ前後、「地図文学傑作選」に収録するにはそもそも分量過多である。
しかし念のためかいつまめば、高利貸しの囲い者となっている女性と、卒業を間近にした大学生との間の淡い交情が、ちょっとしたことからすれ違いに終わるという話で、1880年(明治13)つまり約150年前の不忍池の低地とその西側の台地にかかるエリアがその舞台であるが、なかでも旧岩崎邸に接する無縁坂が象徴的な場面を提供する。現在も残る旧帝大医学部の鉄門から東に300メートル坂を下れば不忍池は池の端。「地図小説」ということは無論「地誌小説」でもある。

前田は「鴎外の「測量師」の眼」が「街並の特性をおどろくばかりの精密さでとらえてしまう」例として、「五千分一東京図」を引き合いに高利貸しの末造が歩き回る神田界隈の描写を一例として挙げ、さらに作品舞台を点検した末に、この評論を「鉄筆で刻んだような正確無比の描写」という言葉で結んでいる。
筆者は鴎外のこの小品の結末近くにおかれた、不忍池のガンを石で仕留める逸話に疑念をおぼえ、大型の水鳥が水に浮いているのを投石で斃すのは無理ではないかと書いたことがあったが、それは実話で江口渙の『少年時代』(1975年)に記載があると、知人から教示を得た。余程あたり所が悪かったと見える。
それを料理して食べたのはいいが、脂こく大味でうまくはなかったという。幕末上野戦争で官軍の拠点とされた上野山下の料亭「雁鍋」の創業は不忍池に群れ成して渡り来たガンがそもそものきっかけだったろうし、そこはプロとアマ、料理のしつらえ、味付けの違いだろう。
問題は鴎外の筆が「正確無比」とする点にかかわる。この作品の終末近く、「三人は岩崎邸に付いて東へ曲がるところまで来た」という箇所である。これを地図に照らせば、無縁坂をのぼってきたのなら東では辻褄が合わず、「南へ曲がる」でなければならない。無縁坂を通らないなら、女主人公のお玉が「無限の残り惜しさ」で「坂の中ほどに立って」いるわけはないのである。
初出誌『スバル』を閲するまでは至らないが、誤植が見過ごされて今日に至ったものか、鴎外自身の誤記なのか。
いずれにしても鴎外神話には倚りかからないほうがよい。文学作品のなかで見過ごされているこうした初歩的な錯誤は、存外に少なくないのである。

ついでに言うならこれも初出誌『本の窓』はチェックしていないが、前田愛のこの評論をおさめた単行本『幻景の街 ―文学の都市を歩く』(1986年)も、『前田愛著作集 第5巻』(1989年)でも、さらには「岩波現代文庫」本(2006年)すらも、等しく当編の冒頭に「不忍池の雁」とキャプションを付した同一の写真を掲げたが、そこに写っているのはすべて小型のカモ類、それもオナガガモを主体とした群れである。

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上掲は『幻景の街 ―文学の都市を歩く』(2006年 p.20)から。

東大震災前後から、不忍池は大型水鳥の塒(ねぐら)ではなくなっていた。ガンは大型草食の水禽である。彼らにとってそこはまたとない水域だったが、日暮里や三河島などの水田地帯が失われた東京に羽を休めるのはできない相談であった。
20年ほど前、都市史や江戸東京学などで著名な某氏が編隊飛行している鳥の群れを指さして「東京にもガンが戻ってきました」と言うのを聴いたが、それは肉食のカワウの飛列であった。雁行するのは、ガン類に限られるわけではない。前田愛は正しくもこの評論の末尾で、不忍池に群れをなして営巣するその大型の黒い鳥を「ヒッチコックの名作『鳥』を連想させるグロテスクな印象」と認めていたのである。

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「地図文学傑作選」 その6

地図にかかわる文章のアンソロジーとしては、今なお図書館の棚に見ることができる「日本の名随筆」シリーズの別巻46『地図』(1994年)が想起される。2017年に91歳で亡くなった物理学者堀淳一氏の編である。
27の作品を収めているが、そのなかで「文学」に関わる作品は多くはなく、永井荷風の『日和下駄』から第四「地図」、太宰治「地図」、塚本邦雄「悪意のフィヨルド/珍説不知火航路」、種村季弘「未知の土地(テラ・インコグニタ)を求めて 「ファンタジイ・マップ」より」、谷川俊太郎「道順の話」の5編。他は地理学者や物理学者などのエッセイである。

5編中「地図文学傑作集」候補にまず上げられるのは永井荷風の「地図」と太宰治の「地図」かも知れないが、前者は近代測量地図と開かれた新景観を呪詛し、切絵図と江戸の名残りを懐かしむいわば「憂さ晴らし文」で、江戸切絵図の本質に迫る考察を望むべくもない。後者も島嶼(琉球)の王の征服事績と異国人のもたらした地図を「衝突」させた思い付きがすべてで、「地図文学傑作」にはほど遠い。
むしろ「未知の土地を求めて」は8ページのエッセイだが、「地図の魅力」の根源を「まだない場所の想像力による現前化」であると喝破し、「サドの食人国」から「コメニウスの世界迷宮」まで文学作品や絵画、挿絵、20点以上の名を挙げ、地図の歴史にも説き至って飽きさせない。「地図文学」の案内としても収録資格十分と言えよう。
しかし「地図文学傑作選」にこうしてエッセイを含めるとすると、「地図の神話と歴史」(大室幹雄、1980年)を外すわけにはいかなくなる。3段組み、図も含めて14ページの見出し「道具としての地図」「世界の見えかた」「馬王堆の地図を読む」「相対地図と絶対地図」でも分かるように、「地図文学」から種村エッセイよりもさらに「地図論」寄りである。しかしながら「未知の土地を求めて」以上に「地図文学」にアクセスするための重要な橋頭保であり、そのことは『十九歳の地図』を開析するに不可欠な「地図はなによりも権力への意思の表現なのだ」という至言が証明している。「未知の土地を求めて」はいまでも容易に図書館で読めるものだし、そうであればむしろ同著者の「地図の敵あるいはリベルタリアの地図」(1978年)か、もしくは巖谷國士の「架空の地図について」(同)か、さて。

アンソロジーに関連して思い出されるのは、町案内や商店会誌、散歩雑誌、そして地図業界関連誌の類は省くとして、それ以外の多少専門的(?)な雑誌では「企画に困った時の(古)地図特集」という申し送りがあったらしい。実際思い付くままに挙げてみても、『芸術生活』1973年1月、『太陽』1976年9月、『美術手帖』1980年11月、『みずゑ』1980年11月、『別冊サイエンス』1982年4月、『太陽』1982年5月、『旅別冊』1984年12月、『目の眼』1985年11月、『言語』1994年7月、『たて組ヨコ組』2001年No51、『母の友』2015年1月、『AERA』2017年2月20日、『山と渓谷』2019年9月、『ユリイカ』2020年6月等々、企画に困ったかどうかは別として雑誌の地図特集は結構組まれてきたようだ。また、雑誌か書籍か一瞬判断に迷うが、1978年に刊行された大判の『イメージの冒険 1 地図 ―不思議な夢の旅』は意欲的なシリーズの第一冊目で、グラフィックな編集が魅力であった。

ところで、小説でも、ミステリーやファンタジー、はたまたゲーム作品でも同じだが、すべてのストーリーは空間に展開するから、どのような作品もその舞台、言い換えればそれぞれの地図を持たざるを得ない。だから極端に言えば、すべての作品は「地図文学」と見なし得る。井上ひさし氏は作品を書き出す前にその物語の地図と年表を作成した、とは本人から直接聞いた話である。
しかし例えばカフカの長編『城』では固有の地名は登場せず、もちろん地図に言及されることもなく、描かれるのは城に近づくことのできない情況、すなわち従順で不気味な住民との延々としたやりとりである。そうでありながら主人公が城の主に呼ばれた測量士という設定は、存在の不能と逆説を直接に示して余りある。カフカの『城』は、「非地誌・非地図」文学の極に位置するのである。
しかし「日本文学」においてはこのような硬質な違和や疎隔を描く例は稀で、逆に歌枕に象徴されるように固有の地ないし地名にかかわる作品は、いまなお枚挙に暇ない。東アジアの列島弧においては、「地」と物語の親和度は相対的というより圧倒的に高い傾向をもつようだ。

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