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「地図文学傑作選」 その7

「地と物語の親和」というより、さらに「地についた」作品の典型としては、前田愛が「森鴎外「雁」ー不忍池」(『幻景の街 ―文学の都市を歩く』所収)で「見事な地図小説」と称揚した森鴎外の「雁」(初出『スバル』1911-1913年)が挙げられるかも知れない。
鴎外は自らを『青年』の冒頭近くで「竿と紐尺とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人」と戯画化したし、おそらくはドイツの旅行案内書「ベデカ」シリーズの折込地図をヒントにしたのであろう、地名索引を備えた「東京方眼図」(1909年)なる都市地図まで案出もしたから、地図はいわば自家薬籠中のものだった。
陸軍軍医総監までのぼりつめた人である。1870年(明治3)の普仏戦争の結果、1884年(同17)に旧日本陸軍の軍制はドイツ式に改変され、それは地図作成規範にも及んだ。測量と地図は陸軍の専管領域で、鴎外はよく知られているように軍医任官後ドイツに留学して1888年(明治21)に帰朝したのである。
前田愛が「地図小説」と言うときの地図はここでは近代測量地図の意味で、この短い評論のなかで「近代の都市図の歴史をとおして最高の傑作といわれている」参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図」(全9面、1887年刊)のうち2図幅の一部を図版とともに紹介し、さらに「国土地理院に所蔵されている手彩色の特製図」を「地図の宝石」とまで持ち上げ、地図を素材に鴎外の作品をひもといていく。
「最高傑作」とは誰がどこで最初に言い出したものか寡聞にして知らないが、ネットなどでは二万分一「迅速測図」の原図についてもそのように喧伝している例がある。しかし近代測量地図の「最高傑作」とは、前田の言う「地図の宝石」すなわち1883‐84年(明治16‐17年)に測図されたフランス式の五千分一図東京図「原図」以外にはあり得ない。

地図そのものについてはそうだとして、「地図文学」に相応しいのは鴎外の作品よりむしろ文庫本で10●ページの前田のこの文章かも知れない。
鴎外の『雁』は文庫本でも130ページ前後、「地図文学傑作選」に収録するにはそもそも分量過多である。
しかし念のためかいつまめば、高利貸しの囲い者となっている女性と、卒業を間近にした大学生との間の淡い交情が、ちょっとしたことからすれ違いに終わるという話で、1880年(明治13)つまり約150年前の不忍池の低地とその西側の台地にかかるエリアがその舞台であるが、なかでも旧岩崎邸に接する無縁坂が象徴的な場面を提供する。現在も残る旧帝大医学部の鉄門から東に300メートル坂を下れば不忍池は池の端。「地図小説」ということは無論「地誌小説」でもある。

前田は「鴎外の「測量師」の眼」が「街並の特性をおどろくばかりの精密さでとらえてしまう」例として、「五千分一東京図」を引き合いに高利貸しの末造が歩き回る神田界隈の描写を一例として挙げ、さらに作品舞台を点検した末に、この評論を「鉄筆で刻んだような正確無比の描写」という言葉で結んでいる。
筆者は鴎外のこの小品の結末近くにおかれた、不忍池のガンを石で仕留める逸話に疑念をおぼえ、大型の水鳥が水に浮いているのを投石で斃すのは無理ではないかと書いたことがあったが、それは実話で江口渙の『少年時代』(1975年)に記載があると、知人から教示を得た。余程あたり所が悪かったと見える。
それを料理して食べたのはいいが、脂こく大味でうまくはなかったという。幕末上野戦争で官軍の拠点とされた上野山下の料亭「雁鍋」の創業は不忍池に群れ成して渡り来たガンがそもそものきっかけだったろうし、そこはプロとアマ、料理のしつらえ、味付けの違いだろう。
問題は鴎外の筆が「正確無比」とする点にかかわる。この作品の終末近く、「三人は岩崎邸に付いて東へ曲がるところまで来た」という箇所である。これを地図に照らせば、無縁坂をのぼってきたのなら東では辻褄が合わず、「南へ曲がる」でなければならない。無縁坂を通らないなら、女主人公のお玉が「無限の残り惜しさ」で「坂の中ほどに立って」いるわけはないのである。
初出誌『スバル』を閲するまでは至らないが、誤植が見過ごされて今日に至ったものか、鴎外自身の誤記なのか。
いずれにしても鴎外神話には倚りかからないほうがよい。文学作品のなかで見過ごされているこうした初歩的な錯誤は、存外に少なくないのである。

ついでに言うならこれも初出誌『本の窓』はチェックしていないが、前田愛のこの評論をおさめた単行本『幻景の街 ―文学の都市を歩く』(1986年)も、『前田愛著作集 第5巻』(1989年)でも、さらには「岩波現代文庫」本(2006年)すらも、等しく当編の冒頭に「不忍池の雁」とキャプションを付した同一の写真を掲げたが、そこに写っているのはすべて小型のカモ類、それもオナガガモを主体とした群れである。

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上掲は『幻景の街 ―文学の都市を歩く』(2006年 p.20)から。

東大震災前後から、不忍池は大型水鳥の塒(ねぐら)ではなくなっていた。ガンは大型草食の水禽である。彼らにとってそこはまたとない水域だったが、日暮里や三河島などの水田地帯が失われた東京に羽を休めるのはできない相談であった。
20年ほど前、都市史や江戸東京学などで著名な某氏が編隊飛行している鳥の群れを指さして「東京にもガンが戻ってきました」と言うのを聴いたが、それは肉食のカワウの飛列であった。雁行するのは、ガン類に限られるわけではない。前田愛は正しくもこの評論の末尾で、不忍池に群れをなして営巣するその大型の黒い鳥を「ヒッチコックの名作『鳥』を連想させるグロテスクな印象」と認めていたのである。

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