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「地図文学傑作選」 その9

「フェイクとファクトの間」で想起される「地図」作品は、今年3月はじめてマンガのジャンルから日本芸術院会員に選ばれて話題となったつげ義春の作品「不思議な絵」である。

つげの代表作「ねじ式」は、1968年6月『ガロ』のつげ義春特集号に掲載されたが、この作品はその2年前の同誌1966年1月号発表である。ちなみに今日「傑作」として知られるつげの作品群は、「沼」(同年2月)からはじまって「海辺の叙景」(1967年9月)、「紅い花」(同年10月)、『長八の宿』(1968年1月)、「オンドル小屋」(同年4月)、「ほんやら洞のべんさん」(同6月)そして「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」(同7月)、「もっきり屋の少女」(同8月)と、66年から68年に集中しているため「奇跡の2年間」(実際は2年半、30か月)というらしいが、そうなると1894年(明治27)の「大つごもり」から翌年の「たけくらべ」「にごりえ」「うらむらさき」までを「奇跡の14か月」と称される樋口一葉とは「奇跡の」男女ペアである。このペアは生年に半世紀以上の差(1937年と1872年)があり、しかも一方は男性で寡作、すでに現代の平均寿命年齢を越えるのに対し、片方は女性にして集中連作しつつ24歳で夭折、ただし1世紀以上を経て五千円紙幣に復活し、対照的である。

「不思議な絵」は前述のように「沼」の前月にリリースされた16ページの小品である。

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上掲は「不思議な絵」の1カット。

貧乏長屋に住む独り者の浪人陣十郎が路上で軸絵を拾い、持ち帰って吊るして見ているうちに地図に見えてくる。何やら印も付いている。無聊ついでにその道筋を歩いてみるとアクシデントに遭遇して思わぬ酒にありつける。それに気をよくしてなお地図見立てして行くと郊外の一軒家に至り、軸絵はそこに隠棲する絵師の悪戯心の産物だったことが判明してまた酒にありつけるというドラマで、オチもある。貸本マンガのドラマ性から離脱し、つげ独特の世界つまりヒトではなく「背景」が前面に押し出してくる、直前の作ある。
移動起点は八丁堀の長屋、水天宮から人形町にすすみ、蛎殻町にズレながら、どこかの町はずれの原っぱのなか、一軒家で終わる。舞台は江戸市内、人家の密集した下町も隅田川河口に近い。

話の中身は「フェイクとファクトの間」というよりも、その間に所在する偶然が導く怪我の功名ならざる戯画の効能がテーマである。
スティブンスンやポーの宝の地図は「本物」であったが、ここではそれが思い切りパロディ化され、描いた本人(作中画家そして作者)によって笑い飛ばされている。宝の埋蔵場所を思わせる「印」は、主人公によって「黒いハナクソみたいなの」と表現される。
結局のところ絵は地図(ファクト)ではなく、贋地図(フェイク)ですらなかった。しかし主人公陣十郎は巧まずして伝統に則り、「見立て」手法によって都合3ヵ所で酒というお宝に行き当たる。しかし酒は飲み干されその場で消えるだけのもので、宝(恒産)にはほど遠い。古典落語「芝浜」ではないが、一般に酒(飲酒)と宝(資産)は対極に位置し合うのである。

ところで存在やシュール、不安や脅迫感などという言葉で語られることの多いつげ作品だが、この作品の主人公は着流しに団子鼻の呑気者風、本歌取りならざる文学作品下取りの脱力感が支配する。しかし作中の「でたらめをかいて捨てたのよ」「これを地図に見たてるなんざ夢があるね」という絵師の科白は、地図の否認に裏打ちされている。そこは脱地図の領域で、無用者の系譜に地図はない。世捨て人は地図捨て人でもあって、そうでないとしたら地図にとりつかれた地図だけ人なのである。

この作品が描かれたのは紙の地図最後の全盛期であったが、半世紀を経ていまや地図は液晶画面にほぼ置き換えられた。
現代地図の実体はデジタルデータとそれを開析する数式の巨大な塊りであり、目的地を入力すれば即座に現在地からの最短経路と時間および距離が表示される。頼みもしないのに、近くのラーメン店やカフェが出現する。液晶画面は文字と記号で満たされていて、表面は従来の地図と変わりはないように見えるが、その実態は人工衛星からの電波を基盤としたGISすなわちGeological Information System(地理空間情報)である。

それは固定されたものではなく変化と必要に応じて更新すなわち上書きされている。だから今日の地図は常に最新(のはず)である。
それは現代都市の一角でビルが更地になり、新しい建造物に変わって数日もしないうちに人はそこにかつて何があったか忘れてしまうのと軌を一にしている。すなわち「空間情報」とは基本的に常に現在であり、記憶と記録は剥奪されている。そうしてモノの裏付けのない「情報」は、瞬時のうちに消滅する可能性を常に孕んでいるのである。

デジタル情報の世紀には、紙の地図が宝を示すのではなく、それ自体が宝となる。
なぜならばそれは人の「記憶」の基盤だからである。
しかし無用者にとって宝は記憶ですらない。
世界は一幅の戯画に等しいのである。

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