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「地図文学傑作選」 その10

恒例の某有名大学社会人春講座が一段落したので、本項を再開する。

最初に言及しておくべきであったかも知れないが、そもそも「地図文学」とは何を指すのか、その1で触れた青木淳の「建築文学傑作選」は自らをとくに説明していないが、こちらは以下少し敷衍してみる。

「地図」とはしばしば「紙ないし液晶板等に描き出された地表画像」などと説明されるが、それは文字通り表面的説明もしくは理解にすぎない。
「地図」のより本質的な定義は、地図学の大家 John Brian Harley(1932-1991)の ‘As mediators between an inner world and an outer physical world, maps are fundamental tools helping the human mind make sense of its universe at various scales.’ (”The Map and the Development of the History of Cartography” The History of Cartography, Vol.1, 1987) を参照するまでもなく、「一定空間すなわち場所の一定時間における事物・事象配置の認知と記憶、およびその伝達メディア」である。
つまり空間認知それ自体がすでにして地図であり(頭のなかの地図)、言葉で表現される地図もありえる(電話で道案内)。
同時に地図は「空間」のみならず「時間」をも付帯したもの、つまり時間の記録であることにも留意されなければならないのである。

ヒトは基本的に移動を生存与件とし、哺乳類としての分布は地表最大面積におよぶ。そのため、空間認知は「スケール移動」を伴う「視座の転位」構造をもたざるを得ない。
「視座の転位」は地表に対する垂直視線を得るためには不可欠なシステムで、一般的には目視を基礎とした個的想像力に依存するが、やがてメディアとして離陸し、組織的な地表測量から空中写真を経て人工衛星を駆使する現代測量のプロセスにまで至るのである。
この「視座の転位」構造が必然的にもたらすのは、「プランニング」と「支配」の双方に特化する地図の属性である。

つまるところ「地図文学」とは、①作品中に地図が大きな要素として登場する、②場所の認知・記憶の記述が著しい、もしくは記述から地図化が可能である、③地図の構造(視座の転位・スケール移動)およびその属性(プランニング性、支配・権力性)を描いた、またはそれが顕著な作品の謂いである。

したがって、視覚を遮断されたため体感を基礎とした空間認知を発現する谷崎の『秘密』(本項その5)が、人類史上決定的な時間とその空間の記録という意味で原民喜の『夏の花』(同その4)が、言葉やモノとして「地図」が一切登場しないにもかかわらず、ともに「地図文学」の資格をもつ。
一方、「刑罰を受ける家」に×印を付していく物理ノートの地図はリアル地図であり、さらにその行為についての記述が地図の属性すなわち権力性を抉るものであるがゆえに中上健次の『十九歳の地図』(その1)は地図文学の傑作なのである。しかしその影響下につくられた尾崎豊の『十七歳の地図』(Seventeen’s map)には「心の地図」というフレーズが何度か登場するにもかかわらず、地図文学とは言い難い。それは都会の若者の情態をちりばめたのみで、上記条件の埒外にあるからである。

一方で前田愛が鴎外の『雁』を評した「地図小説」という言葉があるが(その7)、それは「地誌小説」と言い換えることも可能である。つまり現実に存在する場所と地名(固有名詞)をベースとして、そこに展開する物語の謂いである。
その6でも指摘したように、ユーラシア大陸東端、狭い海と海峡を隔てただけの列島にあって、個々の地霊はいまだその霊力を発揮しているらしく、歌枕は言うにおよばず、名字の8割は地名に由来、道路名はなくともその傾斜部にはしばしば固有名詞を付し(「坂名」は特殊「日本的」である)、地名や坂名を織り込んだ歌謡曲等は枚挙に暇がなく、近・現代小説にあっても地名(固有名詞)をイメージ展開の基盤におくのがオーソドックスな手法であって、それは架空の小説においても同様である。すなわち表現一般が、場所に依存しあるいはそれを揺籃とする傾向が強い。
例えば時代小説の類であるが、それらの多くは場所と時間の俗情すなわち過去の風俗に結託していて、地図的認知にかかる識見は稀である。逆に近代になって地名が変わったことに無知なあるいはそれを無視した作品まで存在する(山本一力『あかね空』)。それらを「地図文学の傑作」に含めるわけにはいかない。

カフカの『城』は、図化つまり地図化が不可能である。
そこに登場する固有名詞は人名がほとんどで、具体的地名は28ページ(新潮文庫、2005年改版)に「白鳥通り」、331ページに「ライオン通り」とそれぞれただ1回登場するのみである。頻出するのは普通名詞の「城」と「村」であるが、その境界は不明で城は村に滲出しているように描かれる。「縉紳館」と「橋屋」のふたつの宿屋名もしばしば登場するが、その位置関係は特定できない。
固有の場所性を排除したこの小説においては、不可視、不可解な悪霊の如き「城」が村をそして作品全体を覆っている。『城』は個々の地霊を圧殺ないし追放した「反地誌小説」であって、作品の舞台つまり作品地図は濃厚な単一色に塗りこめられている。
それは見えざる専制すなわちファシズム支配空間の見事な寓意として成立しているがゆえに、「地図文学の傑作」なのである。

日本語作品「地図文学の傑作」の『十九歳の地図』(中上健次)にも地名は稀である。
主人公は「みどり荘」に住み込みで新聞配達をしている十九歳の予備校生である。そうして主人公が列車を「爆破する」と脅迫電話を架ける先は「東京駅」である。この2つが場所性に関わる言葉で、それだけであるとはいえ舞台設定は「東京」にほかならない。
したがって、『十九歳の地図』は『城』よりも作品の抽象度はひとつだけ低いと言わざるを得ないのである。

One Response to “「地図文学傑作選」 その10”

  1. 岩内 省on 23 5月 2022 at 11:48:52

    「地図」とは一般には「紙ないし液晶板に描き出された地表画像」とされるだろうが、それは文字通り表面的説明もしくは理解にすぎない。
    「地図」のより本質的な定義は、「一定の時間における空間の地物ないし事象の配置の認知、記憶、伝達にわたるメディア」である。
    つまり表現ないし表出以前の空間認知も地図であり、さらにそれは「空間」のみならず一定の「時間」をも付帯したもの、つまり時間の記録であることにも留意されなければならないのである。

    ロシアのプーチン蛸がどのように展開されるか興味津々だったのが1か月以上一向に更新されず、健康問題によるのかと危惧していたところ、突如地図文学の斬新な論が展開され、ご健勝に安堵しながらもロシア論はどうなったかといささか不満でもあります。
    さて、今回、「地図」の定義が提示されているのには考えさせられました。
    「紙ないし液晶板に描き出された地表画像」という通俗?説には別に液晶版に限定しなくとも、重慶への皇軍の進撃を示すニュース映画のスクリーンに写っても東海の小島の磯の白砂に指で描いても地図だろうと突っ込みを入れたくなるのはともかく、「地表画像」という限定、つまりこの「地」は「地球」「大地」の「地」だから星座図はもちろん天気図も排除するということです。
    一方、貴定義では媒体を制限せず、対象も地球からも飛翔して相対論の「時空」まで拡大する画期的な規定です。
    ただ、「地物ないし事象」ではせっかく対象を時空全体に拡大したのが「地」に接触したものに限定されてしまい、宇宙図はもちろん人体図も疎外されてしまいませんか。ここは「事物ないし事象」としたらどうでしょう。

    追記: 21日に半蔵門の病院に行ったついでに神保町に途中下車してみてその変貌にびっくりしました。通説地図的には三省堂が消えており、貴地図論的には書泉グランデに人文書が消えていました。両説に共通する変化としては古書店がどんどん安食堂に侵食されている様子です。
    店頭で『中野重治と私たち』という小田切秀雄・佐多稲子たちが世話役で毎年開催していた講演会の記録集が300円で出ていたので買いました。これもびっくりです。裏表紙には「慶文堂にて、4600円」という元の所持者の書き込みがありました。念のためアマゾンを見ると、なんと116円! B5の上製本です。
    ところで、佐多稲子には『私の東京地図』という作品がありますが、これはダメですか。文学と言えばほとんど日本の「プロレタリア文学」しか読んでおらず、地図文学なんて斬新な視点は持ち合わせていませんので……。

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