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「地図文学傑作選」 その8

前回は森鴎外の『雁』に関連して前田愛の「森鴎外「雁」ー不忍池」(『幻景の街 ―文学の都市を歩く』所収)を取り上げたが、その初出誌(『本の窓』1981年春号)を確認したところ、当該篇は「連載/幻景の町③ 『雁』」というタイトルであった。
「町」は単行本とするにあたって「街」に訂正されたのである。
しかし訂正されなかったのはその冒頭の写真で、初出誌から単行本、著作集、岩波現代文庫に至るまで、トリミングこそ多少ちがうものの同一のカモの群れ写真に対し、同一の誤ったキャプション(「不忍池の雁」)が付されていた。

前田愛が満56歳で亡くなったのは1987年7月で、著作集までは自ら目を通していたと思われる。
写真にクレジットの記載はないから、著者自身の撮影である可能性が高い。
そうであれば、カワウの群れの不気味さに気づきながら、本人は湖面に群れなすカモをガンと疑わなかったわけである。

ヒトも地表の一画に生を営むいきものの一種にすぎない。
「地図的思考」にとりわけ今日的な意義があるとすれば、そのことに気づき、認知することをもって第一とする。
不忍池を含む「首都圏」のヒトと造営物ベッタリ、巨大な地滑りの如き生態系変化が想像の視野に浮上するには、地図化すなわち視座の転位を必須とする。転位は現存在への懐疑を契機とする。その契機を含まない文学評論や都市論、記号論は、天動説的なヒト文明時代の空談義に終わるだろう。
「森鴎外「雁」ー不忍池」を選に収めるとすれば写真は不採用としても、解説には『雁』本文の不備とガンカモ話に触れないわけにはいかないのである。

さて次は「その6」でとりあげた『日本の名随筆 地図』収録の「未知の土地(テラ・インコグニタ)を求めて 「ファンタジイ・マップ」より」(種村季弘)だが、こちらの初出誌にも大幅な発見があった。
『日本の名随筆』の出典記載には『箱の中の見知らぬ国』(1978年)とある。
『箱の中の見知らぬ国』では当該の文は全4章計15節のうちの冒頭節で、そのタイトルは「ファンタジイ・マップ」。中身は『日本の名随筆』と同一であるが、その巻末出典には『芸術生活』1973年1月と記されていたのである。
当該『芸術生活』をひもとけば、特集「ファンタジー・マップ 失われた土地を求めて」、カラー図版と文章が巻頭絢爛。図版は扉を含めて21図16ページにおよび、3段組4編の文章は計15ページ、すべて種村季弘のなせる業であった。
その執筆4編は、A「未知の土地(テラ・インコグニタ)を求めて」、B「アンチデボスの冒険家」、C「神秘家と革命家の地図」、D「巨人伝説とミニチュア」で、『日本の名随筆』『箱の中の見知らぬ国』ともに収録したのはAのみ、つまり残り4分の3は割愛されていたのである。

種村季弘は一見温顔、にもかかわらず稀代の博覧強記をもって戦後日本の知の一角に盤踞した。2004年8月に71歳で亡くなったが、真鶴駅からタクシー10分ほどのご自宅でお目に掛かったのは1998年頃だったか。何を話したかは忘れたが、畳の間の欅材だかの長火鉢と陶の酒燗器、それに相応しい奥様の様子が脳裏に残る。
その時すでに四半世紀前、B5判の雑誌都合30ページ以上にわたり目眩く種村「地」の世界は開陳されていたのであった。それを知らずして今日に至った不明を恥じるしかない。
その後何度かお会いする機会があったが、後に『江戸東京《奇想》徘徊記』(2003年)として1冊にまとめられた文章について「あれはね、実際にそこに行きもしないで書いているのだから、インチキですよ」と笑い話にされたのは如何にも「タネラムネラ」最晩年の風貌であった。
図版はともかくとして、「地図文学傑作選」に上記4編を一括収載できれば、種村ワールドがフラグメントではなくひとつの「地平」として眼前するだろう。もちろんその「地平」とは、ヒト世界の幻視と韜晦、フェイクとファクトの「皮膜」、まさしく文藝にして文学である。そのとき、タイトルに「ファンタジー」を用いるか「ファンタジイ」とすべきかは、判断に迷うところではあるのだが。

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