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「地図文学傑作選」 その14

前回の末尾で、地図認知の基本システムと言うべき「視座の転位と「Cosmic View」的な漸移のスケール移動」について触れたが、視座の転位については「その3」の「地図的観念と絵画的観念」(正岡子規)で一通り述べた。

一方の「スケール移動」だが、まず説明しておかなかればならないのは「Cosmic View」だろう。その発端は1957年にドイツで刊行されたキース・ブーケによる同名のグラフィック書籍で、サブタイトルに「the Universe in 40 Jumps」とあるように、猫を抱いた一人のオランダの少女を起点として外界が宇宙大から原子のスケールまで拡大縮小する、画期的な教育絵本であった。これに触発された映像も少なくなく、今日では Cosmic Eye-Universe Size Comperisionといったタイトルのyoutube画像を目にすることが可能である。

こうしたサイズ変容ないしスケール移動に触れた書き物として、澁澤龍彦の「胡桃の中の世界」(1974年、『澁澤龍彦全集 13』pp.203-217)を挙げることができる。そのタイトルは、本文中でも触れられているようにシェイクスピア作品『ハムレット』の第二幕第二場におけるハムレットの科白から採られている。
すなわち旧学友ローゼンクランツの「なるほど、望みある身には、この国はいかにも狭すぎましょう」に対する返答、「なにを言う! このハムレット、たとえ胡桃の殻のなかに閉じこめられていようとも、無限の天地を領する王者のつもりになれる男だ。悪い夢を見なければな」(福田恒存訳)の一部なのである。

しかしその科白原文は「O God, I could be bounded in a nutshell and count myself a king of infinite space, were it not that I have bad dream」である。つまり、それは ‘nutshell’ (堅果の殻)であって、「胡桃」(walnut)とは言っていない。
しかし近隣の図書館でいくつかの訳本をあたった限りだが、この「胡桃」は福田訳にかぎらず次の坪内逍遥訳以来踏襲された語とみられる。「おゝ\/! 胡桃の殻に押籠められてゐようと、無辺際の主(あるじ)とも思はうものを、悪い夢をさへ見なんだら」。

英語でnutを含むおもな語には、walnut(クルミ), chestnut(クリ), hezelnut(ヘーゼルナッツ), peanut(落花生)があり、要は殻のある食用果実のことで堅果と訳されるが、日本語の堅果にはacorn(ドングリ)を含むから、概念的にはズレが生じる。
ヘーゼルナッツや落花生は近年の外来種だから除外するとして、クリ、ドングリ、クルミ(オニグルミ)は日本列島には縄文時代から存在し、またそれらは当時の人々の主要食糧の一種で、栽培されてもいたのである。もちろん殻を除去して食用にしたのだが、ドングリの場合はタンニンを抜く水晒し行程が不可欠であった。
いずれも語音に ‘kur’ を含み、殻に包(くる)まれた木の実の意であって、語源が「包(くる)む」にあることは、各地の方言をチェックしても明瞭である。

つまり ‘nutshell’ を「クリの殻」などというよりは「クル(包)ミの殻」としたのは極めて的確で、それが意識されたか否かは別として、また坪内以前の訳は当面未詳として、語が踏襲されてきたのにはそれなりの理が存在した。そこからさらに「殻」が省略されて「クル(包)ミの中」となっても何ら不都合はない。さらに言えば「包み:殻」とその内部の構造は、図らずもフッサール現象学の超越と内在の関係を示唆して意味深い。それは外界認知の構造そのものだからである。

さて澁澤の「胡桃の中の世界」は、ミシェル・レリスの「無限」(『成熟の年齢』所収)と題された幼時体験、すなわちココアの箱に描かれた少女が同じ少女の絵があるココアの箱をを指さしている画像が惹起する「一種の眩暈」の感覚と、「メリー・ミルク」の罐の絵やキンダー・ブックの表紙絵から受けた澁澤の幼時体験がほとんど同一であることへの想起からスタートする。
合わせ鏡双方の奥につづく像のように、入れ子の絵は無限を開示する。それを初めて目のあたりにした子どもは眩暈と恐怖に襲われる。しかし澁澤の筆先は無限の恐怖に向うことなく、「大きなものと小さなものとの弁証法を楽しむ想像力」の諸説諸例を経巡る。ただしその展開はピエール・マクシム・シュールの書き物(谷川渥訳『想像力と驚異』1983年)を骨子また素材とし、当書のタイトルもシュールの本の第5章「ガリヴァーのテーマとラプラスの公準」のエピグラム(ハムレットの科白)に由来するのである。

その章のはじめでシュールが述べている「ガリヴァー(あるいはミクロメガス)コンプレックス」は、地図的認知の構造を言い当てた趣きがある。澁澤もその語を用いつつ『後漢書』(「方術伝」)中の「壺中天」の譬え話から「ミニアチュールの戯れ」に触れ、またオーソン・ウェルズの『市民ケーン』のラストシーンを想起する。すなわちかつての新聞王の孤独な最期の手に握られていたのは、揺らすとミニチュアの家に雪が降るガラス球(「スノードーム」)で、それは「薔薇の蕾」という名の橇とともに少年時代の「世界」、つまり場所と時間の「クルミ」にほかならなかったというエピソードである。
澁澤はまた、G・バシュラールの『空間の詩学』(岩村行雄訳、1969年)の第7章「ミニアチュール」のⅠの一節を引用した後で、「私たちはそれぞれ、想像力の働きによって、いとも容易に論理を超越し、ミニアチュールの世界に跳びこむ」とも言う。それを地図の属性に引き付けてみれば、プランニングの想像力ということになる。同7章Ⅸでバシュラールは「遠距離もまた地平線のすべての地点にミニアチュールをうみだす」とし、さらに「われわれは遠方から所有する」の言葉も提示する。水平、垂直を問わなければ、これも地図の構造と言うほかない。

ミニアチュールとは「苔の茎が樅になる」(バシュラール、7‐Ⅴ)を典型とするスケール変容で、澁澤がこの著で展開したのはもっぱらこの「小ささ」のイメージなのだが、筆者の場合はその反対に高熱を発して寝ている折など、体が宙に浮いて宇宙大となる幻覚にとらわれることがある。カフカの『変身』ではないが、つげ義春作品の主人公も「死なんて真夜中に背中のほうからだんだんと……/巨人になっていく恐怖と比べたら/どうってことないんだから」(『ねじ式』1968年)と呟いた。これも想像上のスケール変容の例であることを補足しておく。

澁澤の「胡桃の中の世界」は、地図の原理を参照できるこうした著作(『ねじ式』を除く)への格好の案内文と位置付けられるだろう。

なお、いささか牽強付会の面があるが「入れ子構造」の地図の例として、本項その7で触れた「近代測量地図の最高傑作」参謀本部陸軍部の「五千分一東京図」(1883年3月測量「東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍)から、当時神田錦町に所在した華族学校(学習院)校庭の地図画像と、その開校を報じた『郵便報知新聞』1877年(明治10)10月17日の記事の一部を以下に掲げる。この校庭地図が「日本地図並びに琉球地図」と言われたのは、明治政府による琉球併合(「琉球処分」)が1879年(明治12)だったためである。

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「十七日、神田錦町華族学校親臨開業式の次第を拝見するに、表門及び南北の二門何れも西洋飾り美々敷日章を掲げたり。広苑及び各室の周囲には数百の紅灯を結び列ね、正面には紅白の幕を張り、馬立場には第一方面二分署の消防夫出張し、巡査は三門へ詰め柵内外を警護す。表門右方仮屋の中には海軍の楽隊伺候せり。庭面は日本地図並びに琉球地図を象(かたど)れり。廻廊には数種の盆栽を陳ね設け、玉座には百花を金瓶に雑挿せり(略)」

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