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再掲 -つくり本・ぱくり本

前回のブログでも触れたが、ますます猖獗をきわめる地図・地形の阿呆イベントやマニア増殖に鑑み、以下再掲する。

最近私と地図の関わりを知っている同郷の知人から『地図で楽しむすごい宮城』(Y社)という本が送られてきて一見。
好意で送ってくれた当人には悪いが、出版界もついにここまで来たかと思った。
都道府県研究会著、2018年5月刊、というオールカラー本である。
この手で全国都道府県47冊つくり、そこそこに売れて利益も出せるのだろう。
この本は以下に述べるように「つくり本」であり、「ぱくり本」の典型でもある。

しかしそれ以前に、「宮城」という語が平然と使われていることには笑うほかない。
「宮城」や「東北」などという地名は、福島や岩手、青森同様、近代史において「白河以北」(奥州)を貶めるため、薩長政府によって意図的に布置された差別語である。
そのことに無知のまま「すごい」を謳う地理・歴史本は、愚物以外の何物でもないのである。

(以下再掲)
「つくり本」とは私の用語だが、著者(もしくは編者)が個人名として明記されておらず、著作責任の曖昧ないし不在の本のことである。出版社の編集者が単身または社内の何人かで分担執筆したり、知り合いのライターに丸投げしてつくった本、と判断してよい。
要は著者に支払うべき「印税」をかぎりなくゼロとしてチープに、著作のために必要な「時間」を最大に圧縮してインスタントに、つくるから「つくり本」なのである。印税分の何割かは印刷にまわせるから、オールカラーというような芸当も可能である。「見てくれ」と理解の安直さで売り部数を上げるテイの本だが、それがここ十数年書店店頭に文字通り溢れかえっている。
一昔前までは、その筋の権威の「監修」や「編集」本ないしはそのシリーズを結構目にすることがあった。オーソリティの崩落した現在ではあまり流行らないが、これもつくり本の一種であった。つまり「その筋」は名前を貸すだけなのである。
だから「責任編集」などという笑えない言葉も誕生した。しかし今日の日本列島ほど、安直なつくり本が大手を振って跋扈している光景は他にないと言っていい。
著作責任が曖昧ないし不在であるのはもちろんのこと、コピー&ペーストでつくりあげるから、「参考文献」も適当に巻末に挙げておくだけ、ないしはまったく掲げることもない。つまり資料批判や先行業績へのリスペクトも、ほとんどが欠落することになるのである。
オリジナルな先行業績をわざと紹介せず、または曖昧にして、その本自体が根拠となるかのように書かれている「朦朧本」もよく目にする。こうなると「つくり本」というより「ぱくり本」で、近年ネットの連載をそのまま本にしたようなものが増えているが、その多くはこの範疇に入る。ぱくり本には、堂々と著者名を明記しているものもあるが、それは「本」というものの本質が、出版社や編集者においてすら忘れられているからである。結局のところ「編集」とは名ばかりで、テキスト・チェックの過程が存在せず、本を垂れ流すための製造過程の一部と化しているのである。
昨今における、こうした駄本の洪水のような現象の背景には、戦後日本の出版流通システム、すなわち大取次制度の負の面が作用している。とにもかくにも売れそうな、つまり柳の下のドジョウを作り上げて取次に押し込んでしまえば、とりあえずは「金」になるという現実が存在する。
もちろん「返品」との競争になるが、出版の経営者や社員の大部分は、この「取次一時金」をあてにした自転車操業システムと縁を切る、ないしはそこから降りることはできないと思っている。
これは今に始まった現象ではないが、出版不況が深刻化すると売上を確保するために、こうしたつくり本は激増する一方となるのである。
「本」が文化の基底となったのは、まずはその物質性、固定性に拠るのである。つまり思考の物的な「根拠」ないしは「証拠」となり得るからである。デジタル情報は可塑的というより流動的で長期保存は不可能であり、一時的な記録には好都合だがそれ以上のものではない。
「一時金」のためのその場しのぎの「本」づくりは、「出版」の根拠を自ら掘り崩すような行為であり、自殺行為と言ってもよい。
つくり本やぱくり本のほうが売れ、あるいはその著者のほうが名を知られるなら、調査と思考に時間をかけたオリジナルな本の執筆者はバカをみる。そうした文化の基底の溶解過程は、ネット情報の虚妄にさらに拍車をかける。
だから、すくなくともそれなりの図書館、そして読者においては、こうした「つくり本」や「ぱくり本」は選書や購入候補から外す、という見識ないし良識をもたないかぎり、戦後日本の「出版文化」、いや「文化」そのものも総体として墜落するしかないのである。

現今の日本列島の愚かさは、
①ハンコ(印鑑)
②戸籍
③元号
に象徴される。

これら日本列島に流通する特異事象は、「世界の非常識」である。
とりわけ①については象牙にかかわり、日本という極東国家は現代ゾウ絶滅の最大の元凶である。

あとは言わずもがな。
なくていいもの、とりわけ「お役所」およびそれに準じる部署のの許認可権を増幅するこうした贅肉は阿呆のしるしである。
戸籍制度は世界にも珍しい。
ヒト家畜でなく、血統は問わないのだから、住民登録で十分である。
元号も言わずもがな。「一世一元の制」は、薩長が発明した「近代天皇制」の虚構のひとつであって、「時間のひとりよがり」以外の意味はない。歴史的にも、天皇一代と元号は決して対応せず、それは人間ではなく暦、ひいては天文の属域にあった。
現代はもうすぐそうではなくなる「平成時代」では決してない。現代は、江戸時代につづく「東京時代」である。
しかしその「東京時代」「東京帝国」も、そろそろ終わりを告げようとしている。
私の『江戸の崖 東京の崖』は、そのことを伝えようとした本なのだが、「地形の本」としか解釈できない、ブラタモリ流の素人地形地誌マニアの阿呆が多すぎるのだ。

(以下、「国分寺マンションニュース」2018/07/10投稿・未掲載)

腰痛が持病のようになって、それが原因で2度も救急車のお世話になった身としては、後期高齢者以前ながら外出に杖は欠かせません。トレーニングと称して階段を2ずつ上がっていたのはずいぶん昔の話。数年前からはエレベーターとエスカレーターが頼りとなりました。

最近国分寺マンションのエレベーターホール掲示板に「地震災害時外側非常階段使用禁止」の貼紙を見かけます。ステンレスでもないかぎり鉄の外階段が腐朽するのは早いだろうとは思いますが、非常時に非常階段が使えないのは困ります。火災が発生した場合は、屋内階段は防火扉が閉められ使用できなくなりますから、非常階段を使わないわけにはいかないのです。

しかし今回の本題は非常階段ではなくて、エレベーターについてです。豪雨や洪水が話題となっている昨今ですが、まだ記憶に残る6月18日朝の大阪北部地震では、東日本大震災の1.6倍の339件のエレベーター閉じ込め事故が起きたと報道されました。そのうちの25件は7時間以上も「かご」のなかに閉じ込められたと言われます。

1958年公開ジャンヌ・モロー主演の「死刑台のエレベーター」以降、サスペンス映画でエレベーター閉じ込めを扱った映画は少なくないようです。それだけ「密室閉じ込め」の恐怖は大きいのです。

2009年には「地震時管制運転装置」導入が義務づけられましたから、一定震度以上にはエレベーターが自動的に至近の階で開扉するはずですが、その装置のない旧式エレベーターはもちろんのこと、「いざ」と言うときに停電やらコンピューターの誤作動やらは付きものですから、新築マンションのエレベーターといえども「安心」と済ませているわけにはいかないでしょう。

まして私たちが住む世界一の巨大都市圏を襲う直下地震の場合、閉じ込めエレベーターの内部から外へ連絡がつながったとしても、エレベーター会社の管理センターや消防が一般のマンションまで手が回るようになるのは、数時間後どころかまる一日以上、場合によっては何日も後になる、と考えておいたほうが無難なのです。

中央防災会議の報告でも、今後30年間に70%の確率で首都直下のM7クラスの地震が発生し、30000台のエレベーターが閉じ込めにつながる停止を起こし、最大で17000人が閉じ込められ、救出には少なくとも12時間以上を要すると推測されているのです。これは1日や2日は覚悟せよ、と読み替えていい数値です。

このため官公庁や企業の一部では、エレベーター閉じ込め対策として、「かご」の隅に三角柱のボックスを置き、飲料水、簡易トイレ、ラジオやらホイッスル等、そしてトランプまでの各種グッズを格納し、またそれを簡易椅子として使用できるようにしているところもあると言います。

エレベーター閉じ込めでもっとも怖いのは、トイレが我慢できなくなった時です。高齢者はトイレが近いし、寒ければなおさらで、子どもでも暑いさなかには水を飲んでトイレが我慢できなくなる。「かご」が満員であれば、立ちっぱなしで何時間も、あるいはそれ以上の時間をひたすら「待つ」しかありません。その「地震」はいつやってくるか、明日か、十分間後か、誰にもわからない。

というわけで、当方は「エレベーター閉じ込め」の可能性を自覚してからは、駅ビルなどではエスカレーターを使用し、マンションでは重い荷物がないかぎり、杖をつきながらも、もっぱら階段を上り下りすることにしています。そうして気づいたことは、屋内の階段が結構幅広いのはいいとして、手すりが大変使いづらいことでした。片側に1本しかなく、それもステンレス製の結構太い手すりなのです。

近年福祉施設や公共的な場で普及しはじめた階段手すりは、細く握りやすい木製のもので、しかも上下2段となっているものです。それも階段の片側だけではなく、両側に付いていて、しかも途中に「アキ」がないことが大事です。ステンレス製は、夏場はまだいいとして、とくに寒冷期には困ります。いずれにしても、時によって命綱の代わりともなる手すりは、「付いていればいい」というものではありません。

まして地震時にはエレベーターは使えず、非常階段が使えないとなれば2階以上のマンション住人全員が、屋内ひとつ階段の上り下りに集中することになるわけです。エレベーターの管制装置やかごの防災グッズ格納器については措くとしても、とりあえず階段手すり問題については、早期の対応が必要でしょう。

その一方で、とりわけ竣工以来時を経ている国分寺マンションの場合に必要なことは、エレベーター閉じ込め発生時に居住者が協力して対応できるような体制をとっておくことでしょう。つまり、消防やエレベーター会社などをあてにせず(「その時」に対応してもらえると思ったら大間違い。一斉広域災害の「消防」救出順位は①病院、②公共施設、③民間ですから、一般のマンションは「自力」準備が不可欠)、自力で閉じ込め者を救出できるよう対処訓練しておくべきでしょう。

その際に重要なのは、簡易トイレ使用訓練も併せて行うことです。簡易トイレないし携帯トイレについては、地震で水洗トイレが使えなくなった場合に備えるもので、エレベーター閉じ込めに限らず、各人の必需品です。お定まりの消防消火器訓練などよりも、こちらのほうがよほど重要であるのは論を俟たないでしょう。

以上の事柄は、すでに長期修繕委員会や理事会などでは話し合われたことかも知れませんが、既述の拙文「防災井戸」や「震災時排水問題」と併せ、一般の注意を喚起する意味で投稿させていただきました。

寺も墓も数回以上は訪れている。
しかし気恥ずかしさが先に立ち、この日ばかりは避けて来た。

見栄を張っても仕様がないので、授業の下見を兼ねてとうとう訪ねることにした。
今月19日の午後4時半過ぎ。
そこで目を惹いたのは、林立する花束や酒瓶よりもむしろ艶やかな朱色の粒。
透明ケース入りが幾箱も墓域に敷き詰められ、取出された粒のいくつかは墓碑の刻字に詰め込まれている。

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10人ほどの男女が三々五々。
森家の墓域からケータイで写真を撮って、「秋田とみ子」の苔がかった墓碑をなでてから、早々に寺を後にする。
新宿の「風紋」は閉じるらしい。
お別れ会に行くつもりもないし、林聖子さんにその父母のことを訊ねることもないだろうと思った。

平岡公威(三島由紀夫)は瀬戸内晴美(寂聴)に「太宰はきらいだから尻をむけて、鴎外先生の墓に花をまつってください」と手紙に書いたという(瀬戸内「三鷹下連雀」『場所』)が、森林太郎は世間が持ち上げるほど偉い作家でもなんでもない。所詮、極東の「模倣の時代」(板倉聖宣)の「神」なのである。
日本の作家として世界文学の片隅にでも地位を占めることができるのは、坂口炳五(安吾)が言うように、むしろ津島修治(太宰治)であろう。
結局のところ、われわれはその程度に「周辺」である。

ついでに言えば、現行千円札のあの男(野口某)の画像は「シマの蛙」たるわれわれの自画像である。
世界水準から一周遅れのうぬぼれすけべ男。

実のところ津島も平岡も、双生児と言ってもいいほど似た売文兄弟である。
ただその表現ベクトルが正反対であるだけなのだ。

《太文字(だのもじ)やチェリー詰めたる桜桃忌 青崖》

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鳥籠の中に鳥飛ぶ青葉かな

『疾走する俳句 白泉句集を読む』(中村裕)は掲句を「昭和一八年頃」とす。方やインターネット「増殖する俳句歳時記」にて清水哲男「この句は敗戦後3年目の作品」と断定せり。その差5年の真中に敗戦てふ径庭抱へたれば、前後にて「解釈」大いに異なれり。「増殖俳句歳時記」の表記また「鳥篭の中に鳥とぶ青葉かな」と異相なり。

清水この句をば「戦後民主主義批判の句である」とし、「主権在民男女平等などは、しょせん篭の鳥のなかで飛ぶ鳥くらいの自由平等」と断じ、転じて俳人のよく使へる「一句屹立」を批判「白泉の仕込んだワサビは、もはや誰にも効かなくなった」と結ぶ(April 30,2001)。

然なるか、否、これ清水の大いなる軽佻ネット拡散にほかならず。文末に「『昭和俳句選集』(1977)所載」とあらばそを根拠とするものならん。高柳重信編なる当書「昭和五年」より同「五一年」までの編年俳句アンソロジーにて、当該句「昭和二三年」の項に配せるも、其の年に作句せる保証あらず。何故となれば、白泉逮捕1940(昭和15)年5月3日にて句作発表禁じられし故、それ以降の作期と「発表」時期異なればなり。

白泉自身の編なる『渡辺白泉句集』(自筆稿本)には当該句「散紅葉 自昭和一六年至昭和二〇年」に収録せり。すなはち敗戦以前の作なり。方や『渡邊白泉全句集』中「初出発表順句集」には「昭和二三年」の項に収録せり。「作」と「初出」とは異なれり。小輩初出誌まで調べる能はず。いずれにても当該句逮捕五月を回顧したる句に他ならずと断ず。「飛ぶ」は心なり。

然しながら如何なる生も生あるかぎり己の籠ぬけること能はず。これ自我の牢獄と言ふ。外界は眼に染む青葉なれどおのれはおのれの獄に羈(つな)がれたり。

【評林・白泉抄20】

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最後の海辺 ―盤洲干潟

2018年初夏、海風強し。
ヒッ、ヒッ、と鳴くは、鳥類にしては珍しく一夫多妻のセッカ♂か。
後浜の小流れのなかアシハラガニ走り、砂の丘にはハマヒルガオとハマエンドウの花。
新日鉄施設廃墟浸透実験池外周池に浮かぶはカルガモらし、数羽飛び立つ。
風紋の干潟に潮満ちくれば海の泡、アマモ、ホンダワラの離片を寄せる。
東京湾に残された、最後の自然海浜。

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以下のような文章を理解できる場所は、今ではこのあたりしか存在しない。

 海辺は、寄せては返す波のようにたちもどる私たちを魅了する。そこは、私たちの遠い祖先の誕生した場所なのである。潮の干満と波が回帰するリズムと、波打ち際のさまざまな生物には、動きと変化、そして美しさがあふれている。海辺にはまた、そこに秘められた意味と重要性がもたらす、より深い魅力が存在している。
 潮の引いた海辺に下りていくと、私たちは、地球と同じように年月を経た古い世界に入りこむ。―そこは太古の時代に大地と水が出合ったところであり、対立と妥協、果てしない変化が行なわれているところなのである。私たち生きとし生けるものにとって、海とそこをとりまく場所は特別な意味をもっている。浅い水の中に生命が最初に漂い、その存在を確立することができたところなのだから。繁殖し、進化し、生産し、生きもののつきることのない変化きわまる流れが、地球を占める時間と空間を貫いてそこに波打っているのだ。

 海辺を知るためには、生物の目録だけでは不十分である。海辺に立つことによってのみ、ほんとうに理解することができる。私たちはそこで、陸の形を刻み、それを形づくる岩と砂でつくられた大地と海との長いリズムを感じとることができる。そして、渚に絶え間なく打ち寄せる生命の波――それは私たちの足もとに、容赦なく押し寄せてくる――を、心と目と耳で感じとるときにのみ理解を深めることができる。
(R・カーソン『海辺』 The Edge of the Sea 上遠恵子訳)

近年では地球生物の誕生の場は深海海底火山の高温域と学説が変容したようだが、浅海とりわけ干潟が現生物種のもっとも多様豊穣の地であることには変わりがない。また海幸と山幸では、海幸が断然優位なのである。

さて東京湾の現在は、この100年の人為がもたらした地表の異貌である。
しかしもう半世紀も経ずして、この海陸のはざまは別の相貌に転じるだろう。
ヒトのいかなる欲望も営みも、ついには地表に一時の刻印を残すだけなのである。

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三愚節 ―虚偽決済について

万愚節明けて三鬼の死を報ず
(「夜の風鈴」〈自昭和三十九年至昭和四十三年〉所収)

万愚節すなはち天主教の万聖節に付会せるApril fool’s day いはゆる四月馬鹿なり。
西東三鬼死去1962年(昭和37)4月1日午後0時55分にて、渡辺白泉新聞紙上にてその訃を知るらし。享年61と10カ月ほどなりき。

三鬼『俳句』誌(角川書店。1956年10月~翌7月三鬼同誌編集長たり)に「俳愚伝」を連載せしは1959年なれば、掲句三鬼とともに新興俳句旗手の一人たりし白泉その「愚」を符合させたるものなり。然りして「新興俳句弾圧事件」(京大俳句弾圧事件)にてともに逮捕さるも、逮捕劇に泳ぎ戦後俳壇中央に場を得たる三鬼と「われから孤高の天地」を選びし白泉の落差明らかなり。掲句「万愚」および「訃」ならず「死」てふ語に籠めし屈錯知るべし。

さりながら「倭」すなはち「長いものに巻かれろ式に従順」(小堺昭三『密告―昭和俳句弾圧事件』1979)の民俗こそ愚なれ。虚偽決済文書通行せば近代国家、立憲法治国家にあらず。政官民三愚節、列島浮かれの春明くれば衰亡これ必定なり。【評林 白泉抄19】

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比較読書 1万年の現在50

「本は伝統工芸品となる」と言った人がいるが、実感である。
モノとしての扱い方から紹介して、その魅力を具体的に「伝授」しなければ、すくなくともこの日本列島は数十年以内に一生本に縁遠い人間が圧倒的多数派となろう勢いである。
もちろんネット読書、デジタル読書もありえるし、今後は読書はそちらが主流となるだろう。
しかし、モノとしての本の意義と魅力はまた別位相に存在する。

それを知ってもらうために大学生の「読書基礎教育」が必要だとかんがえ、課題図書をリスト化し履修にはそのレポートを必須とした。
大学図書館にない文庫本やジュニア本も、結構用意した。
しかし、実際は読まないであらすじや感想をネットから拝借して書いたと思われる例が少なくなかった。
つまり単に「課題」として読書レポートを書かせるのは無意味なのだ。

今では授業の何日かを選んで、その時間内に比較的読みやすそうな本を選択してもらい、その場で実際に読んでもらうことにしている。
そうしてこの春からは、さらにその本に関連した作品を選び、両者を比較したレポートを提出してもらおうと思っている。
それと同時に、モノとしての本に親しむこと、その意義と面白さを伝えねばならないのだが、それはあるいは大道芸のようなものになるかも知れない。もちろん大道芸が披露できればそれでよいのだが。
リストのメイン・タイトル数は、この3年間で200から100、そして50へと減らした。
その結果のほどは、また後日。

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(承前)
とにもかくにも、今回の笹子峠行きで瞠目すべきは、この矢立杉の根本であった。
次の写真をご覧いただきたい。

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矢立杉根本の「景観」 2018年1月16日撮影

石垣状の三段にわたる人工被覆(擁壁)によって、辛うじて維持されている「矢立杉」の根本である。施工は山梨県によるのであろう。
先に触れたようにここは新田沢左岸の攻撃斜面で、前述のとおり北から新田沢北斜面、矢立杉、甲州街道、新田沢谷底が並んでいた。しかしご覧のように、矢立杉の南側(写真の左、谷側)に存在したはずの「街道」は、影も形もない。かつては笹子峠を目指して上ってきた道の右手に見えた矢立杉は、いまや小径の左手に存在する。
川は、とりわけ山地における谷は、下方侵食(下刻)と同時に側方侵食(側刻)をたくましくする。1880年(明治13)6月19日は土曜日の昼前、長蛇の列がたしかに通り過ぎた旧甲州街道(国道)は、ここにおいて跡形もなく滅失していたのである。

前回と前々回に掲げた地形図を比較されたい。
旧国道は、新田沢左岸に沿ってまっすぐ北西に笹子峠を目指した。対して現行地形図の「徒歩道」(破線:旧道)は途中で急激に北北東へ曲折する。河川侵食の結果である。
曲折した先は、現2車線道路すなわち山梨県道212号日影笹子線に接続している。そうして、この県道212号は新田沢に愚直に沿うのではなく、ヘアピン状にうねって等高線に沿うのである。それはクルマ走行道(ミチ)の設計速度によって規定された傾斜(道路縦断勾配)に従う(「道路構造令」1970年、政令320号)からである。つまりわれわれは、河川の侵食と現行の道路法令によって、一世紀余り前のミチをそのままたどることは不可能なのである。

断っておくべきは、この侵食たくましき様相は「谷道」についてまわる現象であることである。風化侵食に耐え、原則として徒歩でしかたどることのできない「尾根道」は、100年単位の侵食にはさほど構造を変化させないからである。「谷道百年」に対して、尾根道はある限度以上の人為ないしは火山などの地殻変動が加わらないかぎり、とりあえず1万年変わらないと仮定しておこう。逆に言えば1万年単位では、尾根筋も大変わりする可能性があることになる。一方谷道は、百年どころか50年も変わらない保証はどこにもないのである。
この侵食と路の付け替えが決定的であったのはいつ頃のことであったのか、その時間的判定にはもちろん県の土木関係資料を参照するのが最善なのだが、廃棄湮滅の可能性大である当該資料のかわりに、われわれは比較的容易に、系統更新し累積されてきた官製地図資料群(紙の地図)を参照することができる。その結果はいずれこの場で示すことができるだろう。

蛇足ながら言及すれば、「矢立杉」の右手には歌手の顔を摸刻したらしい仏像もどきや「矢立の杉」(作詞作曲大地良、唄杉良太郎)の石碑、さらに「矢立の杉のゼンマイ式音声ガイド」などが設置されていたのには驚いた。
杉良太郎という人物については「すぎらたろう」ではなく「すぎりょうたろう」と言うらしいとしか知らないが、「ボランティア」という言葉が流行る以前からその趣旨を実行していた尊敬すべき人物と聞いたことがある。けれどもこの自然と旧蹟の景には異様な石像と石碑、そしてゼンマイ発電演歌放送と幾本かの幟旗まで目の前にすると、その評価は逆転するしかない。
人為は自然に対する謙譲をもって最上とすること、そしていまあるものは早晩姿形を変えあるいは失われること、を忘れないようにしたいものである。
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愚かしい矢立杉至近の景 撮影日同前

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笹子峠 その4

この場所は、1891年(明治24)すなわち127年前の2万分の1地形図「勝沼」によれば以下の通りである。

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北西から南東に走るのは甲州街道で、二条線で縁取られたその記号は「国道」である。そうして図の右下、現在「御野立所跡」碑のある場所には、四角の家屋記号が4つ認められる。
『明治天皇紀』には、「十九日 肩輿に御して笹子を発し、約十町にして笹子山麓に達したまふ、登ること二十余町にして中ノ茶屋に御野立所あり、縣官富士山の雪を献る」とある。ここは国道沿いの峠(下)の茶屋、それも「中ノ茶屋」であった。

この図では不鮮明であるが、現行地形図と対照すれば判るように甲州街道はおもに新田沢の左岸を通る。左右岸の斜面植生は左岸では「荒地」、右岸では「雑樹林」の記号が用いられている(記号は明治24年式ではなく、仮製図式である)。小さな正方形の中に点がひとつの記号は水準標(水準点)で数字は標高を示す。
また図の左上、道の北に沿って「電線記号」が見える。この記号は仮製図式特有の、両側に逆向きの片矢尻の付いた短線、またはZを横にして引き延ばしたような特徴的な形をしている。ここは喘ぎつつ上る(もしくは疾々と下る)純然たる山道であるが、ミチは国道で電気時代の幕開け時には電線が敷設されたのである。だからと言って、夜になれば茶屋に電灯が点ったわけではない。

『明治天皇紀』には記載が一切省かれているが、上掲図でもっとも目立つのは、「御野立所」からさらに150メートルほど上ったところの「矢立杉」(現行地形図では「矢立の杉」)である。

矢立杉とは、当該地点に設置されている山梨県教育委員会の説明板によれば、「県指定天然記念物/笹子峠の矢立のスギ/所在地 山梨県大月市笹子町大字黒野田字笹子1924の1/種類 スギ/指定 昭和35年11月7日/所有 山梨県/このスギは昔から有名なもので、昔の武者が出陣にあたって、矢をこのスギにうちたてて、武運を祈ったところから「矢立のスギ」と呼ばれてきたものである。/そのような名木であるうえに巨樹であるために、県指定天然記念物にされているものである。/その規模は次のようである/根廻り幹囲 14.80メートル/目通り幹囲 9.00メートル/樹高 約26.50メートル/幹は地上約21.50メートルで折れ樹幹中は空洞になっている。/昭和50年10月」という。
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矢立の杉 2018年1月16日撮影

「昔から有名」というがいつ頃からなのか、文献を示すのが難しければせめて推定樹齢を示してくれればいいのだが、環境省自然環境局の「巨樹・巨木林調査」では地上130センチメートルで幹囲が3メートル以上あるものを巨樹としているから、このスギは文句なく巨樹である。そうして笹子峠下約850メートル(峠からの標高差約170メートル)にあるこの巨樹は甲州街道の著名なランドマークのひとつであり、おそらく「茶屋」よりもよほど古いのである。またおそらくは、随行者のひとりが輿上の人物にこのスギについて幾許かの「御進講」を行ったに相違ないのである。

ところで現行地図に鮮明であるように、このスギは新田沢主流の「攻撃斜面」に位置している。
127年前の地形図では、矢立杉の位置はそのポイントを示していないが、水準標のすぐ北西隣、甲州街道(国道)の北沿いであることは確実である。
つまりそれらの立地を北から言い立てれば、新田沢北斜面、矢立杉、甲州街道、新田沢谷底、の順になる。

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