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八丁堀と江戸の都市計画

江戸町奉行の執行代名詞のような「八丁堀」は、薩長政府に忌避された結果、文字通り無意味(ノンセンス)な「桜川」という名にとって変えられた。
その桜川も現在では埋立てられて水面を見ることはできず、公園や下水ポンプ所の名(ポンプ所の場合は「桜橋」だが)としてのみ遺されている。

ついでに言えば、江戸城をとりまく内堀も元来は固有名詞なくたんに「御堀」(オホリ)と言っていたものが、「皇城」とされて以降「××濠」(ボリ)と濁り、文字も「壕」(ゴウ)に通じるものにイメージチェンジされた。
言葉、文字の地平における、江戸期と東京期の意図的な断絶、イメージ操作は探してみればいろいろな側面に見出されるだろう。

ところでここ何年か、早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校で春と夏の講座を受けもってきた(中野校でも講座をもつが、それは別時期)。
今年の春の授業は終わったばかりだが、受講者30人(限定)のうち数人はご常連(リピーター)で、いつも最前列に席を占めてくださる。
まことにありがたいことではあるが、ために毎回同じ話をするわけにもいかず、準備にはいつも苦しむ。
しかし元来の菲才浅学が無理やり勉強させられるのだから、それを感謝こそすれ厭うのは罰当たりと言うべきだろう。

先般4回の講義のうち最後の1回は巡検とし、八丁堀から新川(旧霊巌島)を歩いた。
その折、説明し忘れた事項をひとつ思い出したので、以下に補足しておきたい。

中央区立桜川公園の一画に設置された説明板がある。

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上掲写真にあるように、「八丁堀(桜川)跡」と題した説明の冒頭は「江戸時代初期、京橋川の下流から隅田川へと流れ込む通船のための水路が開削され、この掘割を「八丁堀」と称していました」とし、つづく地名由来には「慶長十七年(一六一二)漕運の利を謀りこれを鑿つ、当時海口より凡そ八丁(約八七〇メートル)なるをもってこの名あり」と『京橋区史』を引用しているのである。

「掘割」や「開削」「鑿つ」などの言葉が使用されているが、この説明板の前で『武蔵国豊島郡江戸庄図』(下掲。寛永9年:1632)を示しつつ受講者に指摘したのは、通常イメージされる〈掘削土木工事〉は八丁堀にはあてはまらず、その造成は「海面埋め残し」工事がメインであったという点である、しかしながら同時に指摘するつもりで言い忘れたのは、〈計画地名〉についてであった。

堀の長さが八町(丁)あったから「八丁堀」と言われるようになったのではなく、八町の長さの舟入水路については(都市)計画が先に存在したのであって、そのことは下掲図における「堀」の形と、その真ん中に書かれた「八丁ほり」の文字が明瞭に語っている。

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すなわち、「八町」先の海面までを埋立てるという意志(計画)がまず示される。そこから水運のための水面確保が必然的に派生する。

なぜならば、旧日比谷入江に発する八代洲河岸(八重洲河岸)などの古い江戸湊は、陸蒸気の出現までなお河岸として運輸港湾機能を果たすものであり、これと霊巌島ー佃島間の新江戸湊(霊巌島と佃島の間の隅田川船溜り)を繋ぐ水路は江戸の物流幹線だったからである。日本橋川と八丁堀‐京橋川の二大幹線である。

なお、江戸の〈計画地名〉でこのほかにすぐ指摘できるものに、これまた埋立で姿を消した「三十間堀」がある。

完成され、固定された「江戸の町」のイメージを疑い、その創生プロセスを想起することの重要性を強調しておきたい。

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