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梅棹忠夫著作集

わたしたちはいま、わたしたち自身が現に生き、活動している生活の舞台を、地域や国家などの概念をとびこして、直接にひとつの惑星の部分として具体的にイメージし、たしかめることができるようになっている。これはもちろん人工衛星などの科学技術の発達によるところがおおきいのだが、また、あたらしく普及した地球生態系的世界像の産物ともいえる。
これは、人間が自分の姿を可能なかぎり遠距離から、また可能なかぎり直接にかえりみる手段をもつことができるようになったということである。そして、そこにみとめたのは「自然」としての文明の姿であった。その意味では、地図というものを、現代ではまったくあたらしい視点から見なおさざるをえないようになってきているのではないか。
フィールド・ワークをもとに思考をくみたててきたわたしは、地図を不可欠の道具として利用してきた。それは、単に道案内のためではなく、ひとつの自然像、ひとつの文明像を把握するための材料としてきたのである。地図はわたしにとっては、ひとつの「博物館」であった。
今回、柏書房から発行される『日本近代都市変遷地図集成』は、道具としての役わりを終えたふるい地図を、あらたに編成し直すことによって、わたしたちの生活の舞台である都市を、今日までの約100年の時間距離のなかでとらえなおすこころみといえるだろう。
古地図は資料であると同時に美術品である。個人や機関に分散して秘蔵されているため、博物館や図書館でも一定地域のものを系統的に紹介するのは容易ではない。今回の出版のように、都市の変遷を示す材料として集成された例はすくない。日本の都市文明の足どりを、あらたな視角から見なおす作業をいざなうものとして、このアトラスはひとつの知的生産の出発点となろう。

以上の文章は、『梅棹忠夫著作集 第21巻』(1993年)のpp.304-305に収録されている「『日本近代都市変遷地図集成』―すいせん文」の全文である。
梅棹忠夫氏(1920‐2010)は生態学や人類学で独自の学問を切り開いた著名な学者で、最初期の著作『モゴール族探検記』(1956年)もベストセラーとなって、そのころ小学校高学年か中学生であった私も読んだ記憶がある。
この「すいせん文」は、1987年に柏書房から刊行した『日本近代都市変遷地図集成』の「内容見本」に収載したもので、当時柏書房から刊行されていた大型地図資料は私がほどんど一人で編集し、推薦文も私が電話で直接依頼したのである。
しかし梅棹氏は原因不明の病により1986年3月にはほぼ失明状態となっていて、推薦文は文案を書いて送れとの指示であった。
おそらく秘書役の人がそれを読んで聞かせたのであろう。
文章は加除訂正なしでOKとなり、内容見本は無事刷り上がった。
その3ページに掲げられた梅棹推薦文のタイトルは「系統的に編集された知的生産の出発点」で、これも私が付けたものであった。

その何年か後、これも秘書役の男性だったと思うが、電話で、かの推薦文は著作集に入れたいと言うので、嫌も応もなく了承した。
いずれにしても上掲の文章は、私の筆になるものである。

いま読みかえしてみると梅棹氏の著作よりも、『試行』に連載されていた吉本隆明氏の「ハイイメージ論」(後単行本、文庫本)の影響が大きいようだが、しかしイメージそれ自体は、以前から私が「ヒト群落」について思い描いていたことに端を発している。
文中の「「自然」としての文明の姿」とは、実は1972年頃離陸する飛行機の窓から見た、光るスモッグドームに覆われた大阪圏の姿であって、露骨に言えば微細な虫の巨大コロニーないし地表の腫瘍というイメージにほかならないのである。
ヒトが地上に生きるエリアとその態様は、とりわけこの100年の間に劇的に変化した。
「アントロポセン」が提唱される所以である。

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知人の編著で上掲の本が上梓された。
宮田浩介編著、小畑和香子・南村多津恵・早川洋平著。学芸出版社から2023年11月10日刊、2400円。

「車中心の100年で失われた人のための街路」をとりもどす、ために。
スポーツや趣味、スタイルとしてのサイクル文化ではなく、すべての人のための自転車インフラを目指して。

そのような編著者らの主張とその実現への努力に、惜しみない賛意と敬意を呈したい。

そのあとがきの一部を以下に掲げる。

「初めて自転車に乗れた時のこと、左右のペダルの推進力をつなげ、ついに「離陸」した瞬間を覚えているだろうか。自転車は人にささやかな羽を与え、人を世界から切り離すことなく、世界を新たに発見させる。それは子どもでも使える身近な魔法であり、日常の中の祝祭である。/本書で目指したのは、「人」から出発して自転車の街を語ることだ。ただ通り抜けるだけではない。人が世界に触れ社会に関わっていく場としての道を増やそうと考えた時、想像力のキャンパスに描かれる人々のそばには、おのずと自転車の姿が浮かび上がってくるはずだ。(略)私たちの「公共」体験の大部分をなす日々の移動。その形態は、なによりもまちと社会の構造に強く決定づけられ、反復が他の可能性を忘れさせている。(略)なすべきことはあまりにも多いが、漕いでいる限り倒れはしないし、どこかで追い風も吹き、光も射すだろう」

蛇足だが、この本に目を通しながら思い出したのは、バスに乗ると目にする「自転車は乗ったらあなたもドライバー」という575標語。
この本で紹介されているような世界的な環境整備の動きに気付くと、これはその経路をネグレクトして、当面は自転車に乗る側に責任を押し付けて済まそうとする、手抜きのための標語に見えてくるのである。

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『東京の自然史』について 続

前回紹介した当該書にかかわる雑誌記事を、以下順番に紹介する。
まずは初刷り刊行ほぼ1月後の『朝日ジャーナル』誌1964年12月13日号の書評である。

「自然をかえてゆく人工」
最近のわが国経済のいわゆる高度成長にともない、国土ははげしく変貌しつつある。その様相は、とくに大都市においてはげしい。土木技術の進歩により、従来は考えられなかった大規模工事が可能となった。それで都市の再開発は、都市の顔を見違えるほど変えてしまうようになった。変わってゆくのは顔のみではない。地盤沈下によく象徴されるように、現代都市の深部では、自然そのものさえ変質しているのである。
「現在ならびに将来の東京は、人工が自然改変の第一の力となり、それによって良くも悪くも改変されると考えられる。そしてどのような改変が良い改変なのかは、東京の自然の深い理解と考慮の上に求めねばならないだろう。また、東京の土地利用は、家屋密集地ほど地盤が悪く、水害や火災の危険にさらされている、といった面が少なくない。このような土地の不合理な利用を改めることも東京の重要課題であろう」と著者は主張する。
東京の地形・地質
東京湾満潮位以下のいわゆる0メートル地帯は、国電環状線内の面積よりも広い。この低地は、過去約千ないし二千年間に、主に自然の運び出す土砂で埋立てられ陸となったのに、それがわずか五〇年間に再び海面以下の土地となってしまった。この一例でも、これからの東京開発には、土地の性質をよく知って、長期の見通しを持つ必要がある。このような立場で、著者は、現在の東京の自然がどのようにしてできたかを、数多くの学術文献、官庁の地盤や地質調査報告などに基づいて、じゅんじゅんと解説する。
全編は、(一)東京の自然、(二)武蔵野台地の土地と水、(三)氷河時代の東京、(四)下町低地の土地と災害、(五)東京湾の生いたち、(六)むすび、より成る。東京都民にとってなじみ深い各地点の地形・地質とその成因が、本書を通読すると、一通りはっきりしてくる。しろうとにはややわかりにくい学術用語も散見されるが、説明はていねいであり、多くのわかりやすい地質断面図などの図形が五三もあり、理解を大いに助けている。とくに武蔵野台地の地形・地質とその発達史的解説、関東ローム層の分布や厚さとその生成発達に関する詳細な解説は、著者ならではの念の入ったものである。
これらの説明が、国電や私鉄の車窓からの視角にも注意を払っているので、一読後、東京の工事現場や車外の景色をながめるのが、だれでも非常に興味深くなるに違いない。山手にはなぜ坂が多いのか。むかしの富士見の名所。隅田川以東にはなぜ高層ビルが少ないのか。地震の被害はどんな地層の場所で多いのか、といったさまざまの疑問は、本書によって地形・地質的にはっきりと知ることができるであろう。
開発計画への忠告
しかし、本書の意図は、そのような地学的興味を満たすためではなく、冒頭の引用にもあるように、これから人為的に激しく変革すると予想される東京の開発計画に、確実な地学知識の裏付けがいかに大事であるかを読者に認識させるにあるようだ。
というのは、現在では実際の工事計画者や施工者と、地学および考古学者らとの連繋ははなはだ不十分であるからだ。たしかに工事に先立ってボーリングなどの調査はかなり行われるようになったし、掘さく中に小判や人骨でも出れば必ず考古学者が出動するであろう。しかし、そのような協力は本質的な協力ではない。宅地造成、地下鉄、地下街、高速道路、マンモス・ビル、などの大工事にともない、最近の東京では、大量の土砂が掘られ、運ばれ、埋められている。しかも、この傾向は今後ますます強くなるであろう。
先進諸国では大きな開発に当っては、計画段階から必ず地学者や考古学者が加わっている。それによって、現在の土地の特性を計画におりこむことができる。のみならず、著者が力説している、地盤沈下などの災害要因を含めて、開発が自然に与える影響も長い目で推測することができるであろう。
著者も指摘しているように、現在の東京では工事などで現れた地学上の重要断面なども、地学者の目にふれず永久に埋めもどされ、学術上貴重な発見があたら失われている例が多い。そのような損失を避けるためにも、これからの開発に当っては、建設技術者と地理学者たちとの密接な協力体制がきわめて望ましい。技術の進歩と経済の発展が、とくに大都市において自然を変えうるようになった現在、それはおそらく都市計画の成否を左右する一要因とさえなるであろう。
その前提として、東京都民なかんずく建設工事などどなんらかの関係のある人びとが、啓蒙書として書かれた本書の内容を常識として体得することが強く望まれる。さらには、将来の東京を築く、高校生や大学生諸君が、この程度を常識として東京の地形を車窓からながめるようになることを希望したい。(東大助教授・高橋 裕)

この時点から59年を経ようとしている。
都市開発と地理・地学との「協力」はどうなったであろうか。
かつての、そしていまの高校生や大学生が、『東京の自然史』の要点を「常識」としているであろうか。

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『東京の自然史』について

A
自然史というから植生や生態系の変遷についての話かと思った。
タモリ倶楽部で紹介されていたので読んだが、あまりにも理系めいた内容だったため、途中でギブアップ。
専門用語がかなり説明なしで出てくる。
説明図が少なすぎる。(当書にはなく、その後出現した)デジタル標高地形図は(本書の理解に)本当にいい。
一般書としては説明も不十分でかなり読みにくい。
土木技術者で、多少は地形・地質の知識を持つ私からしても、結構苦労した。

B
東京という土地の歴史と現在を書いた決定版。
地理学、地形学の名著。
南関東の地形の成り立ちを知るうえでバイブル的存在。
東京周辺の地形を知るための古典。
防災の観点からも、知っておくとためになるような記述が多々。
どんなふうに東京の地形が形作られたかを知る入門書の決定版。

上掲はいずれも「読書メーター」から標記の本の評価を適宜抄出した。
Aグループは否定的評価、B集合はその反面であるが、Bが紋切型あるいは受売型であるのに対して、Aは具体的で、この本の「一般」に対する立位置を率直に語っている。

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上の写真は私蔵の紀伊國屋新書版で、扉には「第二版」とある。
奥付には

1964年10月31日 第1刷発行
1971年7月31日  第10刷発行
1976年2月15日  第1刷発行

と記されているから、第二版の1976年刊本である。

つまり初版から数えれば来年で還暦となるわけだが、その間には本書は2回変身を遂げている。
下の「増補第二版」も私蔵本で紀伊國屋書店版のハードカバーだが、その奥付は

1979年3月15日 第1刷発行
1994年2月28日 第14刷発行

となっていて、初版から30年の間に約30回、つまり平均すれば毎年刷られていた勘定になる。

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そうして2011年には、これが文庫本に変身したのである。
下の通り、現在は講談社学術文庫の1冊として入手可能であるが、上掲の評価のうち図版にかかわるものから考えると、文庫もよしあしということにになるだろう。

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文庫本は、近隣の書店で確認したかぎりでは、2011年11月1刷、2018年8月15刷であった。

なお本書初版の1964年には高橋裕(河川工学専攻:1927-2021)氏が『朝日ジャーナル』(12月13日号)に紹介、翌年3月岩波の雑誌『科学』で吉川虎雄氏(地形学専攻:1922-2008)が書評した。

また初版から32年後であるが、著者本人(貝塚爽平:1926 - 1998)が雑誌『地理』(1996年6月)に「『東京の自然史』の背景」という文章を認めている。

さらに世紀をまたいで、雑誌『東京人』(2016年5月)が「東京凸凹散歩」特集のなかで取り上げ、「地形学者貝塚爽平の遺したもの」(小林政能氏。ただしそのタイトルは「地形愛好者のバイブル『東京の自然史』)という記事となった。

翌2017年、著者貝塚爽平氏のお弟子の一人である松田磐余氏(現関東学院大学名誉教授)は、3月の法政大学地理学会のシンポジウム「『ブラタモリ』は地理学か?」において「 貝塚爽平著『東京の自然史』から52年」という基調講演を行った。

それぞれは、今日本書を解読する上で、参考となる面をもつだろう。

さて、紀伊國屋書店の単行本には当該書の「姉妹編」が存在する。
そのカバージャケットは、場所こそ違うものの先行本同様迅速測図の刊行図版を用いているが、中味は単著ではなく編著書で、1982年2月初版である。

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編者のうち沼田真氏は植物生態学専攻、小原英雄氏は哺乳動物が専門で、両氏を含む22人の執筆文が網羅されている。
つまり前掲評にあるように、「東京の自然史」というタイトルが植物や動物を含む環境史でないことに対応した出版なのである。
以下、この本の編者の「まえがき」は、先行書との関係を伝えている。

紀伊國屋書店から刊行された貝塚爽平著『東京の自然史』は名著の声が高く、その恩恵に浴した人は少なくないであろう。そこでその向こうをはってというわけではないが、それにあやかって、同じくナチュラル・ヒストリーの大きな部分をしめる生物史に焦点をあてて1冊をあもうとしたのが本書である。本書では、地質時代の東京という古いお話からはじめて、江戸と東京をめぐる数々の話題を、それぞれ長年手がけておられる専門の方方に依頼して書いていただいた。(略)本書のような形で生物相や生態系を概観したのはそう多くはない。今の東京といっても、それは1980年代はじめの東京であって、好むと好まざるとにかかわらず生物的自然は変貌していくであろう。終章にも示されているように、東京そのものが変貌していくであろうから、そういう意味では、これは1980年代、あるいは戦後の生物的記念碑といってもよいかもしれない。 1981年12月25日 編者

貝塚著が扱う「地形の時間」は、万年が基本単位である。
片や生物史の変容の時間単位は基本的にはその10分の1以下で、とりわけ20世紀とその末期は幾何級数的様相を示し、「アンソロポセン」が提唱される事態となった。つまり地表の生物相の激変が、地形ならぬ地質の時間を逆照射したのである。
この「姉妹図書」は、「地」と「生」二様の時間を示唆して興味深い。

そうして、こときすでに「名著」の評が存在したのである。
いつ、誰が、何の根拠をもってそう言い出したのかは、まだわからない。

一昨日『トポフィリア』(トゥアン)の文庫本を探しに荻窪の古書店に立寄ったところ、それは見当らず逆に上記が目に入った。
いずれも文庫本だが、タイトルにはそれぞれ別様の懐かしさがあって手に取った。
手には取ったものの棚に戻し、昨日2冊とも図書館で読了した。

「無伴奏」とはかつて仙台にあった、伝説的クラシック喫茶の名である。
40年前の7月7日、ちょうど還暦の誕生日に亡くなった母親から、私はその名を聴いたことがある。
それが何時だったかどんな話だったのか、今となっては記憶の彼方だが、母の声は耳底にかすかに残る。
バロックどころかクラシック音楽にも疎かった母がそれを言うのも妙だが、店の所在がその勤務先(電力ビル)の裏手だったゆえか。

私が仙台の実家を離れ上京したのは1968年の2月で、新聞配達店住込み予備校生としてだった。
だから私にとってクラシック喫茶と言えば、まずは高田馬場駅の近くにあった「あらえびす」(野村胡堂)で、仙台のそれは残念なからついに足を踏み入れることはなかったのである。

1970年頃の仙台を舞台とした小説「無伴奏」は、単行本(1990)から文庫化(1994)そして映画化(2016)と、幸福な経路をたどったようだ。
著者の小池真理子は「短編の名手」と言われるほどの作家らしいが、この歳までいずれとも無縁であった。
そもそも小池真理子と林真理子という人物の区別がつかなかった。

林真理子が日本文藝家協会の理事長になったとき偶然その書いたものを読み、当該者が理事長である組織に所属するのを恥と事務局に通告して協会を退会した経緯で、林真理子という固有名詞をは私の中で識別されることになった。

もう一人のもの書き真理子さんは、今回ようやく「宮城県仙台第三女子高等学校」の3学年下に在籍し、学園闘争で「ゲバルト・ローザ」の称を得たらしいと、私の中でイメージが結ばれたのである。
仙台の県立ナンバースクールは当時第1から第3まで男女別計6校あり、私はそのうちの1校の出なのであった。
懐かしいとはそれだけであって、作者本人とは面識もなくその著作も「無伴奏」以外は知るところがない。

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片や「査問」の著者川上徹氏は私より9歳年長、「東大闘争」などでは現実に民青ゲバルト部隊の元締めをつとめた人物だが、出版人としてよく見知った間柄で、8年前の2015年1月今の私と同歳74で亡くなった。
元全学連中央執行委員長、民主青年同盟中央執行委員であり、その人生の一時期は生粋の「職業革命家」であった。

この本はその彼が1972年5月9日、日本共産党本部に呼び出されて約2週間、自殺防止の監視人付監禁状態で「査問」を受け、「自己批判」に追い込まれた事実について本人が書き記したもので、1997年に発刊された。
その本が出たことは当時から知っていたものの、読むことはなかった。
中味の見当はおおよそついたつもりでいたからである。

26年目にしてページをめくると活字を追うのが止められず、一挙に読み終えてしまった。
作品として読ませる勢いは「無伴奏」も同レベルと言ってよく、結果的に2冊を一気読みするこことになったが、一方は当方に場所のなつかしさ(トポフィリア)があるとはいえフィクション、他方はノンフィクション、質量の位相が異なる。

「無伴奏」は恋愛ものであるが推理小説仕立て(もっとも小池真理子氏は推理小説作家ということだが)で、ストーリーは映画に相応しいものかもしれない。
しかし読み手にとってはネタバレも早く、殺人の設定はリアリティが薄い。
「ソドミ」などという言葉も、今日となってはこの作品の生命を短いものにしたと言えるだろう。

「査問」のほうは、あらためて考えさせられることが多く、また大きい。
同居していた川上氏の両親は、戦前の治安維持法下に逮捕・投獄の経験をもち、根っからの「共産党シンパ」であったにもかかわらず、本人の「失踪」から12日目、党本部に呼び出された川上氏の妻の帰宅を待って電話をし「これから人権擁護委員会に電話する」と通告したという。

党派内の論理では「ブルジョア国家」の論理(人権)や機関(―委員会)に頼るとは何事か、ということになるだろうが、この電話は「効いた」のである。
30分もしないうちに党本部から幹部2人が到着して、「間もなく帰る」「党の立場を分かってほしい」と弁明これつとめ、実際川上氏もその2日後に「釈放」された。
「籠る」ことが条件だった。「消され」なかったのは幸いであった。

それでもしかし川上氏は党員でありつづけた。逡巡に逡巡を重ねたと書いているが、離党したのは「査問」から18年後の1990年の11月。
それも党中央委員会からの呼び出しに応じてその「除籍」通告を受け入れたのであって、持参した「離党届」は出さないままだったという。
律儀というべきか人が好いというべきか。

ただし、「査問」は川上氏本人も行う側であった。
第2章「査問する側される側」で披露している、「東大闘争」での「敵方のスパイ」に対する「正義」のリンチは凄惨である。

私は思いきり男の腹を蹴り上げた。
「ウッ」と言って、男は座っていた椅子から転げ落ちた。それを合図に一斉に蹴りが始まった。「顔はヤルな」。私が命じた。

深夜、ふらふらになった男を安田講堂の近くで釈放した、というが「その男」が内臓破裂していなかったとは言えない。
「東大」は1968年だが、1972年11月の早稲田大学構内における革マル派による川口大三郎君リンチ殺人とも、既視感はダブる。

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1972年1月から2月にかけて、「連合赤軍」の山岳ベースで行われた「総括」(リンチ)による死者は、20代の男女12人を数えた。
ソビエト連邦の草創期と粛清期、中華人民共和国文化大革命期の犠牲者は莫大な数にのぼり、桁数がまったく異なるけれども、ゲバルトの構造は同一である。

高校生や大学生の「運動」は、紅衛兵のようなあからさまな背後権威(毛沢東)をもたず、「全共闘」内部のゲバルトも知られなかったかも知れないが、「其処から此処まで」は一跨ぎである。

ジェルジンスキー(「革命の剣」)を英雄視するのは、誤りである。
絶対的「正義」は、疑うべきである。
正義は、相対に見出される。
民主主義とは、つまるところ相対主義である。
その苦い「価値」をこそ噛みしめるべきである。

相対主義とは、俗に言えば是々非々である。
それは権威が下達する「属人主義」の、対極に位置する「属事主義」である。
事にあたって個として物事を確かめ、受感し、判断する、一連の作用を失わない立場である。

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地図の定義をめぐって

拙稿連載中の『武蔵野樹林』誌が先月末発行された。
ただし巻号なく、メインは現在角川武蔵野ミュージアムで展示中の「体験型古代エジプト展 ツタンカーメンの青春」紹介の別冊図録なのだが、拙稿「武蔵野地図学序説 その9」はそのまま掲載された。

このところ早稲田大学エクステンションセンター夏期講座の準備に時間をとられているため詳細は省き、以下全5ページのうちの最初の1ページを画像とし、また標記の1節のみを掲げる。

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地図の定義をめぐって
 しかし一般の地図の定義は、「地表の形状を一定の約束に従って一定の面上に図形等で表示した画像」(日本国際地図学会『地図学用語辞典 増補改訂版』1998年)とされ、Wikipediaの同項でも、『ブリタニカ百科事典』を引用して「地球表面の一部または全部を縮小あるいは変形し、記号・文字などを用いて表した図」と記す。つまりあくまでも、リアル世界の「画像」とするのである。
「画像」であるから、砂絵でも紙に印刷されたものでも、液晶画面のそれでもよい。この定義にとくに問題はないように思えるが、実はそうではない。「画像でない地図」もあり得るからである。それは前述(イマジナリー・マップ)に示唆したように、画像を媒介としない地図は、場所の認知のありようがただちにその生死を左右したであろう、ホモサピエンスの出アフリカ以前からの長い歴史において、画像の地図よりも桁外れに奥深い歴史をもつと考えられるからである。
 また一方で、地図が伝える情報は地球表面に関するものとは限らない。2019年1月、中国の無人宇宙船が月の裏側にはじめて着陸して話題となったが、月の地図もつくられれば火星の地図も存在し、「銀河系の地図」という表現も、何の違和感を生じさせない。「地」「図」という文字に捉われた「地図」の定義では、すでに不十分なのである。
 地図の定義をつきつめれば、「空間の認知と記憶から伝達にわたるメディア」となる(拙稿「想像地図」『地図の事典』2021年、p.134)。「紙の地図」や「液晶地図」などと言うとき、我々は地図が我々自身の身体および精神の拡張としての認知から伝達にわたる技術、すなわちメディアであることを、すでに承認済みなのである。この定義において「空間」とは、リアル、イマジナリーのいずれか一方ではなく、両界にわたるのである。
 言葉もメディアであれば、「言葉の地図」が存在する。その始原の姿は、オーストラリア先住民(アボリジナル)の「ソングライン」(歌の線)に垣間見ることができるだろう。「紀行文学の最高傑作」とされるブルース・チャトウィンの『ソングライン』(邦訳1994年)では、それは次のように言い表された。

 「オーストラリア全土に延びる迷路のような目に見えない道」「ヨーロッパ人はそれを〝夢の道〟あるいは〝ソングライン〟と呼んだ」
 「歌が地図であり、方向探知機であった」「歌を知っていれば、いつでも道を見つけ出すことができた」
 「少なくとも理論上は、オーストラリア全土を楽譜として読み取ることができた。この国では歌に歌うことのできない、あるいは歌われることのなかった岩や小川はほとんどないのだ」「それはあちこちに曲がりくねり、あらゆる〝エピソード〟が地理学用語で表現可能だった」
 
 言及されているのは、文明すなわち都市や国家発生以前の「地図」の姿で、現在の静止固定された認知パターンとは次元が異なり、経路移動(時間)を本質とし、視覚ではなく聴覚すなわち音と律動(リズム、または拍)によって媒介される地図なのである。言い換えれば、それは「歌による場所の記憶と伝達の技術」だが、「空間の認知と記憶から伝達にわたるメディア」であることに変わりはない。
 本連載前々回の指摘「採集や狩猟を専らとした移動社会の地図は無形の「口承地図」であるのが一般的で、そこでは地名とは地形に即した地点地名が主体であった」(『武蔵野樹林』vol.11,p.73)をここで繰り返しておくことも、無駄ではないだろう。しかし国家や都市出現以前の「地図」の姿あるいはその「技術」は今日では我々の意識に上らない、もしくは想像し難い領域に退いてしまったのである。

                                               (「夢のあとに」G・フォーレ、1878)

季刊『宙』(そら)誌第60号(2021年10月)から最終号の67号(2023年7月)まで2年足らずであったが、毎回つまり計8回寄稿した文学絡みの拙文の、初回と最後は追悼だった。
2021年7月4日に72歳で逝ったシンガーソングライターの中山ラビ、そして2023年3月28日が享年83の命日となった俳人にして編集者の齋藤愼爾の2人を悼んだのだが、『宙』の主宰者中川肇氏をそこに加えざるを得ないとは、アイロニーの極みのように思われる。『宙』は67号が「最終号」となった。この文は、刊行されざる、幻の『宙』第68号掲載追悼として認めるものである。

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中川氏との出会いは、国分寺駅北口の古い名曲喫茶「でんえん」であった。そこに『宙』(多分第59号だったろう)が何冊か置いてあったのを手にした。中味はともあれ、表紙に「短詩の試み」とあり、B6サイズの端正なたたずまいに惹かれ、裏表紙の連絡先に電話したのである。俳句も短歌も詩の一種で「短詩」にほかならないとは、私の長年の主張だからである。連絡の結果は、第60号の編集後記(中川氏執筆)にあるように、私がいわばゲットされた形で毎回の寄稿、そのうち彼があちこちで主宰している句会のひとつに顔をだすようになった。

句会は、お目にかかるたびに慫慂されたのに根負けしたというよりも、新宿ゴールデン街の一角で14年間つづけてきた句会らしきもの以外も覗いてみようという気になったのである。いわゆる俳句界つまり結社や宗匠俳句につながるものはまっぴら御免を蒙ってきたのだが、無手勝流ばかりにもちょうど飽きてきたところであった。また感染症の蔓延で人とのリアルな接触の場が閉ざされ、隔靴搔痒の液晶画面ばかりに嫌気がさしてきたところでもあった。

中川氏はインターネットに不案内であったことと自宅の「ギャラリー」および気ごころの知れた2、3の店があったために、リアル句会を閉ざすことはなかったのである。私がそこに出るようになった後だが、中川氏は「芳賀さんが参加するとは思わなかった」と漏らしたことがあった。たしかに場違いな嫌いもあったが、それも勉強であった。

飽きてきたといえば、飲みはじめれば記憶がなくなるまでが流儀の酒癖にも嫌気がさし、新型コロナ感染症蔓延を機に断酒を実行してちょうど2年目であった。ビールや日本酒が常に傍らにある中川氏主宰の句会だったが、逆にすんなり加わることができた。酒で気分を高揚できるのもたしかに快感で、ひとつの文化ないし習俗にほかならないが、自己のステージ離陸を確認するのもまた別の快感である。酒を断ったという事実とそれを公言できることは悦びである。飲食費は均等割りだったから中川氏は私の支払い分を気にしていたが、お茶で通せたのは幸いであった。いずれにしても、1年足らずではあったものの、中川氏の句会で学んだことは少なくなかった。中川氏の選句は確かで、評はするどいものがあった。

しかし何よりも有難かったのは、私がその時々の思いを文章で書き送れば、氏は即座にその意義を認め、掲載してくれたことである。古希を過ぎ時にネットのブログで嘯くのみであったが、身近にいわば無鑑査の思考と発表の場を見つけられたのは大きかった。それを提供してくれた中川氏には感謝するほかない。しかしご縁には、地縁以上のものがあった。中川氏は「わが神はバッハとクレー盆の月」と詠んだが、クレーはいざ知らず、バッハが神であるとは、何十年ぶりかでそれを再確認したからである。

中川肇氏は昨年7月にすい臓がんのステージ4が発見され、以来自宅で従来通りの生活を送ってこられたが、この6月26日の午後2時に他界された。享年86であった。

氏は戦中1937年の丑年は5月5日生まれで、敗戦時はものごころのつく学齢期の8歳。香川の母親の実家に疎開、シベリア抑留帰りの父親を迎え中学一年生で東京に戻っても、なおひもじさと同居した世代である。当方はちょうど一まわり下の丑年。遠い日々、貧しくはあったが、とくにひもじさに苦しんだ記憶は、幸いにしてない。しかし実社会に出たのは共に東京の小さな出版社の社員としてであった。とりわけ中川氏の最初の勤め先が弥生書房で、そこの先輩社員と結ばれたと聞いて、感深いものがあった。弥生書房という名前と、その文字が印刷された白いハードカバーの俤は、今も眼前に髣髴とする。私が小6か中学生だったときの本である。それは学生となって上京するときに実家に残し、以来目にすることはなかった、多分最初に買った名詩集なのである。

弥生書房を紹介したのは、法政大学の中川氏の恩師藤原定先生で、結婚式の仲人もされたという。氏の第一詩集『ゆめのかたち』(1964年3月)の解題(『隠沼』2020年5月。P.46)に、「(略)24歳の3月塚田孝子と知り合い、いろいろあって、25歳の3月結婚。この「いろいろ」が、ほぼこの詩集の内容となっている」と書かれているが、その「いろいろ」の穿鑿は差措いて、作品の初々しさには目を瞠らざるを得ない。人の一生のある時期に、このような「ゆめ」が夢見られ、その「かたち」が言葉として遺されたのである。

「リルケ全集」の出版で知られた弥生書房の創業者津曲篤子氏は『夢よ消えないで ―女社長出版奮闘記』(1996年)を執筆上梓したが、その内容をかいつまめば「京都で求道に生きようとする夫と6歳の娘を残し、無一文で本郷に弥生書房を興してから40年。女社長の奮闘と、小林秀雄、渡辺一夫、草野心平らとの心暖まる交流を綴る」である。

中川夫人孝子氏は、津曲氏が親しい出版社の社長から金を融通してもらい、何度か手形が落ちる前に銀行に走ったという。「まだ二十歳そこそこの女の子が大金を持っているとは誰も考えなかったろうから」というのである。肇氏も「当時の弥生書房は、自転車操業で返品の山。でも本当にいい本を出していた。「リルケ全集」をはじめ「世界の詩」シリーズなど」と書いているが(宙増刊号『中川肇写真詩集』2023年5月 P.24)、少年の私が最初に買った詩集は、間違いなくその「世界の詩」シリーズ(全70巻)の1冊なのである。しかし孝子氏はまもなくして弥生書房を退社、中川氏も小学校用教科書や副読本などの版元である光文書院に職を転じ、そこで定年を迎えることになる。

2人の娘と1人の息子、そして5人の孫に恵まれた中川夫妻であったが、肇氏は棺を蓋うまでに別の「いろいろ」の軌跡をたどったとみられる。「ぼくは 動き回ることが/大好きで/じっとしていられない(1行アキ)そこで ときどき/しっぽで 足を/固く固くしばるのです」(「自戒ねこ」(写真詩集 頌Ⅴ『かけがえのない』2001年)と言いながら、その尻尾が機能した様子は見えなかった。詩作は言うに及ばず、写真は師匠について自宅の一階をギャラリーにしてしまうまで入れ込んだし、自分の詩集どころか写真集も何冊も上梓。テニスもマラソンも、そしてカラオケも人並み以上。すい臓がんの告知を受けてなお酒を絶やさず、その交友はおどろくほど広範囲にわたっていた。カラオケといえば、氏の誘いでこの2月9日の午後、拝島の「いちご」まで出かけ、中川氏と私は10曲ずつを競い、合計20曲、夕刻までの時間を共にしたのである。

お連れ合いの孝子氏に金婚の祝いを提案して、「4年間の家出」を理由に一蹴されたとは肇氏本人から直接聞いた話である。「なにせ言い出したら聞かない人で、気持ちはすべて外を向いていた」とは、枕花を届けに行ったときに孝子氏が私に語った言葉である。お二人の最後の会話は「もうどこにも行かないね」「うん(行かない)」だったとも。
氏の不羈奔放と「好き嫌いが激しい」「人たらし」(『中川肇写真詩集』p.18,62)はたしかに天性のものであったろう。しかしそれは24から25歳の間の「ゆめ」、つまり故人より些か年長の(旧姓)塚田孝子というバックヤードに担保された果報でもあったのである。

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上掲の初版は12年前の2011年5月、再版は2018年の2月であった。
当初はそこそこに話題を呼んだものが、いかんせん泡沫出版社の力では書店の棚を確保できず、在庫を抱えることになった。

ところが今月10日の「日経新聞」読書欄で吉見俊哉氏がとりあげ、問い合わせが相次いだ。
評者はさすがに目が高い。
巷に溢れる「柳の下にドジョウ十匹」の暗渠案内本等には目もくれず、当該書のみの紹介に終始した。

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問い合わせとは在庫の問い合わせである。
記事を見て気になった向きはすぐにネットを調べたのだろう。
アマゾンに在庫なし、とされていればそれで諦めた人が多かったかもしれない。
以前は取引もあったのだが、なにせ「正味」が6割で、送料は版元持ちであるから、販価は事実上本体価格の半額を割る。
システムトラブル(?)にも対応がよくわからず、メールで問い合わせをしても一向に返事がない。
電話問い合わせの窓口はどこにもない。
莫大な利益を上げているグローバル企業であるのに、それに見合った「サービス」体制も設けず、ひたすら利潤を目指すばかりで、税を納めたり社会に還元している様子もまったく見えず、むしろ逆である。
結果的に、アマゾンとは取引しないことにしたのである。

とにかくこの本は在庫があります。
書店を通じれば購入できるし、もちろん直接注文も受け付けている。

評者はこの本を「労作」と評価したが、昨今の「売筋本」は中味が薄すぎ、本来「本」たりえるものではないのである。
取り外して持って歩ける、「折込地図」を付録としたお買い得「本」です。

collegio

改正入管法成立

黴増殖薄笑ひ法押通し

蟾蜍引きずりなぶる収容所

蜘蛛の糸伐採残忍没義道

*黴:自公維国

新入管法が成立した後で、その解説はいくつもあるが、悪法の悪である根幹に迫ったものは少ない。
それは、「法」そのものに触れなければ意味がないからである。

そもそも「法」とは、権力すなわち行政者を管理し、とりわけその恣意を成文により制肘するものである。
毛沢東がいい例だが、独裁者は「法」を嫌う。
時には「合理」も「正義」も振り払うのである。

その意味で、旧入管法において(外国人は)「焼いて食おうが煮て食おうが自由」(池上務)とつい言ってしまったのは、同法が人間の生存を守るべき「法」とは逆の存在であることを暴露していた。

入管法は、「法」によって保護されるべき最も根幹である人間の生存権を、行政の恣意の下に全面的に委ねた法である。
端的に言えば、国家の保護下にない者は、その生殺与奪は行政管理者が握る、とした法で、窮地にある者に手を差し伸べるのではなく、逆に難民を極端に拒み、それをいたぶり苛むのである。
「改正」入管法はそれを改めるどころか、さらに強いフリーハンドを管理者に与えることによって、極悪法となった。

くりかえすが、日本の入管法は「法」ではなく「逆法」である。

法務局や入管の職員も、この「逆法」により規定されて、「人間」たりえない。
職務として「薄笑い」を浮かべ対応するか、文字通り寄る辺のない者に対して暴力を行使し、業務を「まっとう」するしかないのである。
形ばかりの医者も、「酒をのまないでは」やっていられないのである。

このことは、「日本人」そのものがよくよく弁えるべきことである。
繰り返すがそれは「外国人」の問題ではなく、「人間」の生存そのものにかかわる事柄であるからである。

collegio

齋藤愼爾氏のこと

 3月30日の午後2時近く、神保町の路地を歩いていた。どこの桜なのか、薄く積もった花弁が風で路面を流れて行った。知人から訃報メールが入ったのはその時だった。フェイスブックの情報ということだったが発信元は確かめなかった。胸を突くものがあった。

 ネットでは同日午後5時の報。各新聞紙のベタ記事は翌日か翌々日だった。ネットニュースの主文は「齋藤愼爾さん(さいとう・しんじ=俳人、文芸評論家、編集者)28日、老衰で死去、83歳。葬儀は近親者で営む。喪主は弟齊(ひとし)さん」である(朝日新聞デジタル)。

 些細なことで愼爾氏と袂を分かったのは、20年も前だったろうか。しかしかつては、私の跡をついで某出版社の編集責任者となったY君から「芳賀さんは齋藤さんとマブダチだから」とよく言われたような間柄で、「マブダチ」とは親しいというよりも「同志」の意味あいを含んでいただろう。端折って言えば、彼は60年安保、我は70年安保世代なのである。
 
 大学を4年で中退、紆余曲折のなかで身過ぎのために出版社に身をおき、義務のように稼ぎ仕事に精をだしていたが、その社で最初の翻訳出版を成功させ、また齋藤氏と縁を得て、それまでは彼岸にあった文学や評論の分野に手を伸ばせることになった。私は嬉しかった。彼のお陰もあってようやく「編集者」になれた思いがあったからである。

「同志」というのは、氏は私が高等学校の生徒だったときから秘かにその書いたものを読んできた吉本隆明氏の信奉者で、吉本氏宅訪問や吉本氏を囲む集いなどに屡々誘ってもくれたからであった。ただしそもそも私と齋藤愼爾氏との縁がどのような契機ではじまったのか、いま詳らかにしない。それは、意図的に自分の記憶から追放したことかも知れない。
 
 氏はいわば伝説の人である。かつて誰かが出版記念会で、「齋藤愼爾さんは怖い人というイメージがあった。まずその名前の画数が多すぎ難しすぎる」と言って集まった人々を笑わせたが、それはある意味で示唆的であった。日本海の「飛島」で少年時代を送り、山形大学を中退、「深夜叢書社」という名の一人出版社の社主にして俳人、という簡単な経歴からも、その異貌の一端はうかがえる。

「やや小柄で痩せていて、わけても猛禽を思わせる顔立ちは、議論に対していつも臨戦態勢にあるかのように鋭いが、それでいてまなざしはどこか優しく、加えてまた、深く刻まれた皺がそれなりの年輪をこの風貌に与え、にもかかわらず、全体として永遠の文学青年を思わせる若々しさをも失っていない」。野村喜和夫氏は『齋藤愼爾句集』(芸林21世紀文庫、2002年)の解説(「ロマネスクから名辞以前へ ―齋藤愼爾句について」)でまことに適切にその風貌をスケッチした。

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 対して、愼爾氏を「妖精」と呼んだのは瀬戸内寂聴氏である。少々長くなるが以下引用する。

「齋藤愼爾さんからこの本の企画を聞いたのは数年も前であった。すっかり忘れていたら、突然ゲラが送られてきた。だいたい齋藤さんは人間の姿はしているが、私には妖精にしか思えないので、その言動もおよそ非現実的で本気にしていなかった。それだけに、目の前にどかんと置かれたゲラのうず高さにびっくり仰天してしまった。/自分の文章があるので気になって、そこだけ拾って読みはじめたら面白くてやめられなくなった。まぎれもなく自分の書いたものにちがいないのだが、妖精の手に撫でられると、妙に摩訶不思議な色艶が加わったようで、なかなか名文に見えたり、気の利いた文章に見えたりするのである。これだけ抜粋するためには、むやみに量の多い私のエッセイを、齋藤さんは少なくとも数回は読み返してくれたにちがいない。/つづいて、齋藤さんの文章を読んだら、これがまためっぽう面白い。博学の妖精から、私は大変実のあるレクチャーを受けて、すっかり物識りになった気がした。/それから、いよいよ、俳句を読みはじめた。これがまた興味津々、俳人でもある齋藤さんの選び方に一本筋が通っていて、世間の物指ではない妖精の物指で選んでいる。/おかげで、私は、一晩眠ることが出来ず、アメリカへ発つ前夜に、書かねばならない原稿をそっちのけで、このゲラのとりこになってしまった。齋藤愼爾さんは、はじめて会った三十年前から少しも年をとっていない。嫁ももらわなければ、〈深夜叢書〉なる怪しい城にひとり立てこもり、御飯なども食べているのやらいないのやら。つまり人間ではないから、霞と夢を食べて生きているらしい。/この本はそういう妖精の昼寝の夢から生まれたものであろう。すべては妖精の手品に頼って出来上がった本なので、共著というのは何だか面映ゆい。それでもこんな面白い本は、誰彼に贈ろうと、愉しみにしている」(『生と死の歳時記』瀬戸内・齋藤共著。1999年)。

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 実際、愼爾氏は「僕は、1日1食、睡眠時間3時間」と言っていた。酒も飲んだが、美酒を少々。こちらは当時飲みはじめれば記憶がなくなるまでを常としていたし、勉強家には程遠かったから、それに対する妖精の訓告だったとも思えてくる。いずれにしても、私の齋藤愼爾氏追悼5句のうち2句に「妖精」の語を使ったのは、もちろん瀬戸内評によるのだが、それが野村スケッチにあるように、かの風貌そのものでもあったからである。妖精とは言うものの、いつ歯をむいて嚙付くか知れない存在。その風姿は、「孤島の孤立」によって、小中学齢期に鋳つくられてしまったとみることもできるのである。

 報道の「老衰」の語とはギャップが甚だしいが、野村氏も言うように愼爾氏はいつも「若々し」かった。氏との縁で私が編集責任者となって刊行できた書籍に『必携 季語秀句用字用例辞典』(1997年)、『寺山修司・齋藤愼爾の世界』(1998年)、『太宰治・坂口安吾の世界』(1998年)、『明治文学の世界』(2001年)の4冊があるが、そのうち「寺山・齋藤」のサブタイトルは「永遠のアドレッセンス」なのである。これらはその企画と素材提供、そして構成までを実質齋藤氏に負っていたから、サブタイトルも氏の言葉にほかならない。だがアドレッセンス伝説は意図して仕立てられたというよりも、避けようもない氏自身の生の軌跡でもあったと思われる。

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 そのアドレッセンスがもたらした、編集者としての情熱と資質は、比類ないものであった。ちなみに近隣の公共図書館の検索で「齋藤愼爾」と入力すると、1989年から2022年まで69点がヒットし、国立国会図書館のそれでは1161件に及ぶのである。
「永遠のアドレッセンス」とは、言い換えれば「永遠の憧れと焦燥」である。そのことを埴谷雄高氏は「天性、あちこちに顔を出すおっちょこちょい」(『夏への扉』帯文、1979年)と言い換え、愛惜したが、私などが俳句に手を染めるようなことになったのは、愼爾氏の次のような「おっちょこちょい」文(『身體地圖』帯、2000年)の賜物でもあったのである。

「奇才 いな 鬼才というべきか 畏るべし芳賀啓 『身體地圖』は近代の懸崖から垂鉛された一代の奇書、稀書、貴書、危書、飢書、悲の器書である。三行詩形式「打越‐前句‐付句」は「生‐死‐再生」「テーゼ‐アンチテーゼ‐ジンテーゼ」「序‐破‐急」の喩か。刻々に改訂されることにおいて地図は肉体に相同じい。〈実體〉の仮りの写し繪=地圖とかりそめの肉體。彼は己が身體地圖を己が眼の虚空を凝視することで、聖なるものの通過した肉體が、荒地に等しいことを知るだろう。/三十億年分の夢を見るという胎児の記憶が紡ぎ出す古代から未来に至る都市着色版画集。記紀万葉から前衛・思想小説までの本歌取り、宇宙大に拡大された身體感覚。「正義なるファンタジーあり地球星」の地上の規範の破砕。「極星とホームの端は詩に似たり」の銀河鉄道の夜の詩人の孤独。そして「共に棲む区切りの夏の果てにけり」の寂寥。人間の廃墟を夢見ながら、任意の縮尺の内に封じられた地圖の限界を超え、都市の断崖を歩く途方もない歩行者、刮目の第一詞華集(齋藤愼爾識)」。

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 深夜叢書社刊とは言え、華麗、過分な言葉の列には、まことに恐縮したものであった。ただ愼爾氏と別れた後で、これまた知人の編集者との縁で講談社から上梓した拙著のタイトルは『江戸の崖 東京の崖』(2012年)である。齋藤氏の「都市の断崖を歩く」という言葉には、いまさらのように予言めいた力を認めざるを得ない。

 人は俳人と言い、自身それを認めてもいたが、私は氏を広い意味での詩人であったと思っている。高校生時代、秋元不死男の主宰する『氷海』に投句して以来、いずこの俳句結社にも結縁することはなかった。そのことが逆に、「文学としての俳句」を目指した齋藤氏の句の純度を高めたであろう。新興俳句の旗手の一人に師事し、無季や超季を至然としながらも、自身は有季定型、旧仮名遣いに依拠した趣きがある。上野千鶴子氏も指摘するように、一定の季語がフェティッシュに頻用される。「木枯」や「枯野」に「梟」、「蝶」と「螢」「空蝉」そして「百日紅」「蟻地獄」等々。それらを梃子として、イメージの領域をかぎり、極地化するのが愼爾句作のスタイルであった。

 私が齋藤氏の代表句と目してきたのは『冬の智慧』(1992年)の冒頭「百日紅死はいちまいの畳かな」である。しかしあらためてみると、『齋藤愼爾全句集』(2000年)および前出「芸林21世紀文庫」では、「いちまい」は「いちまひ」とされていた。仮に誤植でないとすれば、その意は何処にあるのか。しかしそれを本人にたしかめるすべは、永遠に失われたのである。

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