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2018年1月22日(月曜日)、東京も20センチを超える積雪に見舞われた。
交通渋滞に加え、早目に帰宅の指示が駅頭の混乱を加速した。
その後は晴れたが、まれにみる寒さがつづいている。

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写真は25日午後2時半頃、京王線下高井戸駅前の一画

このお店の前は雪を放置したため道路面がつるつるの氷で覆われ、歩いていた若い男性が滑って尻餅をつくのを目にした。
店員は買い物客に「落とさないようにお気をつけて」と決まり文句を言っていたが、目の前のことをどう思っていたのだろうか。

公道であっても、行政の除雪は主要道以外は手が回らない。
まして雪掻きは雪が固まらないうちに行う必要がある。
公道であろうと私道であろうと、家(ないし店)の直前の、おもに人が歩くミチの除雪は、その家(ないし店)の責任、と考えるのは「地域コミュニティ」の基本であろう。

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笹子峠 その2

前回掲げた地図(輯製二十万分一図「甲府」の一部)を見ていただければ、山地と山間地において輦(馬車)と肩輿が交互に用いられたことがわかる。
ただちに生起する疑問は、馬車はどのように用意されたのか、という事柄であろう。
駅逓制度さながら山間・平坦地の要宿(しゅく)には予め同然の馬車が用意されていたのか、そうでなければ、険阻狭隘の地で肩輿が用いられるときは馬を馬車から外して人が牽き、馬車そのものは車輪を外しその箱を何人かで担ぎ、なかば「解体」して上り下りしたか、のいずれかである。
このような「裏方」についての明確な記録が公表されないかぎり、蓋然性から後者であったと推定しておくのが妥当であろう。いずれにしても山地および平坦地両方のミチにおいて、急遽拡幅ないし削平工事が行われたところは少なくなかったのである。

さて、ミチは今やまっすぐに笹子峠をめざす谷壁のトラバース路、すなわち新田(しんでん)沢沿いのミチである。杉の木の間を通る、暗く湿ったミチである。
片方を見れば深い谷底、反対側は山肌が迫る。
崖際、崖っぷちのミチ、というよりも崖中の小径と言う方が正確である。

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2018年1月16日 甲州街道新田沢沿い上り
「明治天皇御野立所跡」碑約200メートル手前

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笹子峠 その1

『明治天皇紀』全13巻は1968(昭和43)年から77年(同52)にわたって刊行された(版元は吉川弘文館)。
歴史研究の基本資料とされるが、1914年(大正3)から1933年(昭和8)におかれた臨時帝室編修局がまとめあげた本紀250巻はもとより、公刊明治天皇御紀編修委員会(1934年宮内省に設置)が数年をかけて作成した公刊用稿本も一般の目に触れることはない。
現在の『明治天皇紀』は、戦後に宮内庁が本紀250巻本をもとに「校訂」したものとされる。しかしこの公刊本の記述を子細にたどれば、ところどころに興味深い記録の断片を目にすることができる。

峠は分水嶺の鞍部である。
稜線のたわみの底である。
たわみは谷を発生させる。
逆に言えば、谷筋は常にたわみつまり峠に向けて尻尾を延ばしていることになる。
「谷川に沿って上れば、自然に低い所を越えることになる」(柳田国男「峠に関する二三の考察」『定本柳田国男集』第二巻、227ページ)。
峠越の小径が谷ミチとならざるを得ない所以である。
主谷左岸右岸いずれかの斜面の中ほどを、トラバースするミチである。
明治天皇甲州街道巡幸の二つの峠越、すなわち小仏峠も笹子峠も、この谷ミチを上りそして下ったのである。

十八日 午前四時後起床したまふ、神奈川縣令野村靖・同書記官參候せるを以て謁を賜ひ、上野原を発したまふ.宿雨歇(や)まず、前路峻坂あるを以て肩輿に御す、野田尻を過ぎて犬目に到りたまふ頃雨歇む、鳥澤を經、宮谷坂を越えて桂川に沿ひて進みたまふこと數町、崕巖の峭立して相對するあり、高さ百餘尺、長さ數十間、其の最も窄き所に橋を架す、長さ十七間、幅二間、碧流盤渦して橋下を奔る、是れ即ち猿橋なり、渡りて馬車に移乘したまふ、

1880年(明治13)6月18日は金曜日であった。
前17日は八王子の行在所を発して小仏峠を越え、相模(神奈川県)に入って相模川沿いの道をたどり、支流の境川を越えて甲斐(山梨県)の上野原に着いた。境川を越えると相模川は桂川と名を変える。
小仏から上野原間の行路はすべて肩輿によった。上野原から猿橋までも、輿である。
しかし猿橋から大橋までは輦(馬車)である。
大橋を過ぎて花咲まで、今の大月付近はまた輿乗となり、花咲と黒野田(笹子宿)間で輦に復す。
大月を過ぎれば桂川は南下し、道下の川は笹子川となる。

殿上・駒橋二村以西の村戸皆神酒・鏡餅等を机上に供して拜禮す、大橋より再び肩輿に御して急坂を下りたまへば、笹子川と桂川と相会する所に橋あり、大月橋と名づく、花咲に到りて馬車に復したまふ、該驛少女等甲斐絹を織りて天覽に供す、少時蹕(ひつ・さきばらい)を駐めて天覧、金三円を賜ふ、初狩を過ぎて午後五時十分笹子に著御、行在所(天野昇平の家)に入りたまふ、屋舎朽壞して狭隘なりと雖も、寒村にして他に適当の家なきを以て、修理して行在所に充つ、

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輯製二十万分一「甲府」(1894年:明治27脩正製版)の一部 輦路は赤、肩輿路を黄、河川を青に着色

最大の難所である笹子峠を越えるには、どうしてもその前に黒野田(笹子)の「寒村」で一泊しておかなければならなかった。
しかし、「屋舎朽壞して狭隘」「他に適当の家なき」と記録に名が残るのは、名誉であるか迷惑であるのか。

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小仏峠越

サカはミチの傾斜部である。
その傾斜部の上下分岐点をトウゲと言う。
古代にあっては、トウゲもサカであった。
トウゲ(手向け)は、室町時代以降の称と言われる。

ミチは今やヒトが歩くところではなく、自動車の走り過ぎる経路となった。
日本列島のミチもサカも、この半世紀で姿形をまったく変容させたと言っていい。
かつてヒトがあるいたミチは、車輛通行不能の旧道に辛うじて面影を残している。

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甲州街道旧道、小仏峠手前(東京側/2018・1・7撮影)

東京は八王子市の高尾山(山頂標高599m)には、土日の晴れた日など山上繁華街が出現する。
その高尾山の南西、大垂水峠(標高392m)を越えるのは国道20号つまり甲州街道だが、この南迂回路は1888年(明治21)に車輛通行のため開削されたルートで、旧道は裏高尾から駒木野を経て小仏峠(標高548m)を越え、神奈川県側の小原宿(現相模原市)に下る高尾山北迂回路であった。

1880年(明治13)梅雨期の6月17日午前7時、明治天皇巡幸の鹵簿(ろぼ:行列)は八王子の行在所(あんざいしょ)を発し、昼前に甲州街道最初の難所である小仏峠を越えた。小仏峠越えは狭隘険阻、場所によっては最大傾斜角30度を超えて羊腸する上りと下りの山路である。まだ20代の青年天皇睦仁(むつひと)は、輦(れん:馬車)を下りて肩輿(けんよ)に移乗しなければならなかった。

肩輿は轅(ながえ)を複数の人間の肩によって担ぐ輿(こし)であるが、轅の下に懸垂する駕籠(かご)型と、上部に戴く神輿(みこし)型の2種類がある。
駕籠は古代の神輿型から改良された近世の普及品であった。いやむしろ実用性からは発明品と言ってよく、木材ではなくしなやかな竹材を基本とした座乗部(籠)を轅の下に位置させて重心を低くし、担ぎ要員を減数しながらより安定的な移動を可能としたのである。
しかしながら三条(実美)や岩倉(具視)などの明治国家演出者たちにしてみれば、同じ肩輿でも江戸期の大名駕籠を思わせる懸垂型は真っ先に忌避すべきものであった。近世のお蔭参りやお札降りなどに通底する「生き神信仰」と結託させるためには、不安定であっても近代天皇の座乗部は神輿型つまり4本の轅の上に位置しなければならなかったのである。
乗物の過渡的形態にも、日本近代のパラドックス(逆行)を見ることができる。もちろん近代天皇制のフィジカル部最大のパラドックスは、それまで通例の火葬を土葬(陵墓葬)に切り替えたことではあったのだ。

さてしかし、輿を担ぐ側はなかなかに大変である。急傾斜部では前側と後側でその姿勢はまったく異なる。一方は上げ、他方は低くしたままで坂道を移動しなければならない。それでも水平を維持するのは難しい。外からは見えないがたとえ内部に吊り手ないし背もたれの工夫があったとしても、乗っている本人が姿勢を保つには努力を要する。もちろん山道ばかりではなかった。しかし交代要員不在、たびたびのひと月、時には2ヶ月を超える「出張」は疲労累積するものがあったろう。
長期出張すなわち小仏峠越を含む「六大巡幸」は、当人満19の初夏から32歳の盛夏までの、「男盛り」時期に集中した。だから演出側にも本人にも、そして行在所となった地方名望家の側にも、それぞれの思惑から通例「慰安」が用意されたと推測しても荒唐無稽ではないだろう。公娼や妾そして側室はあたりまえ、また男女それぞれの側そして地方ごとの古い性習俗もまだ現役、「電灯以前」の時代でまたご当人はと言えば、実のところ結構な酒好きでもあったのである。ただしそうした「夜の史実」は、その片鱗も記録からは排除され、闇に葬られたであろう。

一方、昼間の華麗な行列演出の泣きどころは、平地部においては舶来の大型馬匹の尻から予告なく落下する大量の糞尿であり、傾斜部においてはとりわけ下り坂での馬車制動(ブレーキ)の不十分さにあっただろう。なにせゴムタイヤ以前の話である(明治神宮宝物殿の「六頭曳儀装車」の写真を見ると、車輪の接地面は空気入りタイヤ以前のいわゆるソリッドゴム式である。ただしこの馬車は明治末期のものと思われる)。
しかしさらに険しい甲州街道最大の泣きどころは、2012年12月に9人の死者を出したトンネル天井板落下事故でいまだ記憶に新しい、笹子峠(標高1096m)であった。

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2018年頭

遅まきながら新年のご挨拶を

鬚先に富士山正月東京湾

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初日の出ならぬ1月2日のスーパームーン

年末は孫たちを預かって八王子の高尾山や立川の根川緑道(川跡)・ガニガラ広場(崖下)などに遊び、年明けは皆でマザー牧場のコテージに一泊。鋸山にも登り、帰路は海ほたるから2日のスーパームーンを見ることができました

昨年7月晦日に自転車事故で椎骨横突起2本を骨折、全治2ヶ月の診断でした。お陰で夏休み期間は多少本が読めましたが、気が付けばもうすぐ古希。その自覚のため、以来鬚は剃らないことにしました

房総は鬼泪山(きなだやま)なるマザー牧場の「ファームツアー」で羊や山羊、アルパカなどへの餌やりがありましたが、たくさんの仔山羊のなかに1頭だけお母さん山羊がまじっているけどわかりますか、とガイドさんに言われた時、私のような鬚のある山羊をみつけました

東京経済大学コミュニケーション学部の客員教授は4年目の本年度、来春で期間満了となります。実感としては学びも教えもようやく4合目ですが

ことしもよろしくお願い申し上げます

前述の線路に沿った古い通学路は、「大倉喜八郎と東京経済大学のあゆみ」コーナーに掲げられている1枚の写真が雄弁に語っている。

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アクリル板の反射光が邪魔をしているが、薄いコートを羽織った4人の姿は当時の「大学生」そのものであり、平均身長は伸びたものの子どもっぽさが抜けない今どきの学生と較べ隔世の感を禁じ得ない。
ともあれ彼らは、国分寺駅の北口を出てすぐに東に向かい(線路の北側)、開析谷の谷底に下りてガード下で中央線をくぐり、急坂を上って線路の南側に沿った細道から学校に向かっていたのである。

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南北に国分寺街道が通っている。
これは府中から国分寺停車場(現在の国分寺駅北口)をつないでいる経路で、以前はそのまま国分寺崖線を直登し(その傾斜部を「池の坂」という)たが、甲武鉄道敷設以降は坂(崖)下で大きく東側に迂回し、線路下をくぐって停車場に至る、「つ」の字型経路となったのである。
甲武鉄道線はおおむね地表を走行した。しかし国分寺停車場から立川停車場の間には北西に湾曲した国分寺崖線(段丘崖)が横切っている。
国分寺崖線すなわち高低差10メートル以上ある上位段丘面(武蔵野2面)と下位段丘面(立川面)間の急斜面には、鉄道は地面の切取と盛土で対応し、傾斜を低減する。そのため、現在の国分寺駅東側から国立駅東側に至る間は基本的に切取(一部、野川源流の谷のところは盛土)部となっている。つまりかつての府中‐国分寺道の北の延長部は、線路以前に鉄道敷地の深い溝で断ち切られたのである。この「つ」の字迂回路はその分断をつなぐために造作されたのであって、段丘を上り下りする道の傾斜部は開析谷を利用した坂道とした。この坂道は私の分類で言う「第3類型・谷道坂」にあたる。

ちなみに「つ」の字以前の道の傾斜部(池の坂)は、いささか湾曲しているものの基本的には「第1類型・タテの坂」であって、府中駅から国分寺駅南口に至る路線バス(京王バス)が、ギアーをローに切り替えつつ上る道筋として今なお健在である。

「つ」の字迂回路の坂道がくぐる中央線のガードには、現在、地元の中学生(?)が書いたとおぼしきアンバランスな筆文字「殿ヶ谷戸立体」が掲げられているが、国分寺崖線の開析谷で野川の支流のひとつが横切っていた。
図の右下端の等高線はその谷の痕跡を示しているが、よく見ると墨描きの等高線の左上(北西)に薄青で描かれた旧図の深い等高線を読み取ることができる。谷の上流部を埋める、比較的小規模な地形改変が施されたのである。

前述のように、北口を出た学生は中央線の北側、「ケバ」で示されている線路の切通し土手に沿ってこのガードのところまで出(図では途中から道が消えているが、実際は人が往復する道は存在していたし、現在でも存在する)、谷底に下り立ってガード下の国分寺街道を横断し、すこし歩いた左先にある急階段を上って線路の南側に沿う細道から大学の正門を目指したのである。
写真は急階段を上がり切ったところのスナップと思われる。

駅北口から線路の北側に沿う道とは対照的に、この線路南側の急階段と線路に沿う細道はとうの昔に姿を消しており、今日では急斜面自体が大規模に削平されて駐車場とマンション敷地に変貌し、階段と線路際細道の存在は忘れられて久しい。
なお、急階段は国分寺街道を横断して西側にも存在し、そこから細い道が国分寺駅南口に通じるように描かれているが、何度も繰り返すように当時国分寺駅に南口は存在しなかったから、この南西側の道は通学路とは関わりがない。(つづく)

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中央線を挟んで、北側が新中央工業国分寺工場、南側が東京経済大学のキャンパスである。既述のように、「中央本線」の「本」と「線」の文字の間に線路を横切る道が存在した。戦時中は、この踏切をあるいて、銃工場の工員たちが工場と宿舎・青年学校の間を往復していたのである。
土日や私生活というものがほとんど存在せず、社会全体が軍隊か収容所の様相を呈する、現在のどこぞの国に似た様相が想像できるかもしれない。もっともそうしたことは、地図ではなく文字記録が伝えるものであるのだが。
よく見ると、薄青で示された旧図の道の線は工場の塀に沿ってその外側をめぐり、とんでもない大回りで西側、今の早実正門を過ぎたところにあった工場正門に向かっている。もうひとつ裏門か小さな出入口を付ければいいものをそうはせず、工場は警戒厳重をきわめたようだ。

薄青の旗竿(だんだら模様)で示されているのが、旧中央工業のコンクリート塀である。しかしそこには何か所か小さな×印が墨で付けられている。つまり戦後にはこの塀が取り払われ、その外側を広くめぐる新たな塀が建設されたのである。この戦後における大規模な「拡張」は、朝鮮戦争の直接的な影響による、と仮説を立てることも可能であろう。
しかし中央線の南側はいまや銃器工場とはまったく切り離された「大学」である。
ところが、戦後にできた塀の出入り口や屈曲部、そして東経大の北門を見るていると、かの踏切道は墨で明確に記入されてはいないものの、戦後もしばらくはそのまま存在していたのではないかと思えてくる。

その一方で地図の「中央本線」の「中」の文字の左(西)側を見ると、線路の南側に沿って一条の小径が墨の実線で描かれている。現在の東経大正門に向かう坂上通学路につづく道である。(つづく)

履修課題のひとつに、「地図」に関する本で面白そうなものを選んで読んできなさい、というのを設定したが、その結果本来の「地図」とは何ら関係のない、『お金の地図』や『××業界地図』のような本にお目にかかることにもなる。

なぜその本のタイトルに「地図」と付いているの?と訊ねると、そこまで考えていない当人は困ってしまう。
結局その中身を具体的にきいて、こちらが「地図」入りタイトルの理由を推測、説明することになるのだが、それはまあいいとして、geographyにかかわる「地図」本であっても、学生が「面白い」と言って発表しているのを聞いて、困惑を通り越しマズいなという気持ちに陥ることがある。

例えば最近では『地図と地形で楽しむ ××歴史散歩』(2017年4月刊、YS社)というオールカラー印刷の新書本が登場した。著者は、と訊くと「都市研究会」という。せっかくの「発表」なので水を差すのは幾分控えたが、このテの本はまず「つくり本」である。

「つくり本」とは私の用語だが、著者(もしくは編者)が個人名として明記されておらず、著作責任の曖昧ないし不在の本のことである。出版社の編集者が単身または社内の何人かで分担執筆したり、知り合いのライターに丸投げしてつくった本、と判断してよい。
要は著者に支払うべき「印税」をかぎりなくゼロとしてチープに、著作のために必要な「時間」を最大に圧縮してインスタントに、つくるから「つくり本」なのである。印税分の何割かは印刷にまわせるから、オールカラーというような芸当も可能である。「見てくれ」と理解の安直さで売り部数を上げるテイの本だが、それがここ十数年書店店頭に文字通り溢れかえっている。

一昔前までは、その筋の権威の「監修」や「編集」本ないしはそのシリーズを結構目にすることがあった。オーソリティの崩落した現在ではあまり流行らないが、これもつくり本の一種であった。つまり「その筋」は名前を貸すだけなのである。
だから「責任編集」などという笑えない言葉も誕生した。しかし今日の日本列島ほど、安直なつくり本が大手を振って跋扈している光景は他にないと言っていい。

著作責任が曖昧ないし不在であるのはもちろんのこと、コピー&ペーストでつくりあげるから、「参考文献」も適当に巻末に挙げておくだけ、ないしはまったく掲げることもない。つまり資料批判や先行業績へのリスペクトも、ほとんどが欠落することになるのである。
オリジナルな先行業績をわざと紹介せず、または曖昧にして、その本自体が根拠となるかのように書かれている「朦朧本」もよく目にする。こうなると「つくり本」というより「ぱくり本」で、近年ネットの連載をそのまま本にしたようなものが増えているが、その多くはこの範疇に入る。ぱくり本には、堂々と著者名を明記しているものもあるが、それは「本」というものの本質が、出版社や編集者においてすら忘れられているからである。結局のところ「編集」とは名ばかりで、テキスト・チェックの過程が存在せず、本を垂れ流すための製造過程の一部と化しているのである。

昨今における、こうした駄本の洪水のような現象の背景には、戦後日本の出版流通システム、すなわち大取次制度の負の面が作用している。とにもかくにも売れそうな、つまり柳の下のドジョウを作り上げて取次に押し込んでしまえば、とりあえずは「金」になるという現実が存在する。
もちろん「返品」との競争になるが、出版の経営者や社員の大部分は、この「取次一時金」をあてにした自転車操業システムと縁を切る、ないしはそこから降りることはできないと思っている。
これは今に始まった現象ではないが、出版不況が深刻化すると売上を確保するために、こうしたつくり本は激増する一方となるのである。

「本」が文化の基底となったのは、まずはその物質性、固定性に拠るのである。つまり思考の物的な「根拠」ないしは「証拠」となり得るからである。デジタル情報は可塑的というより流動的で長期保存は不可能であり、一時的な記録には好都合だがそれ以上のものではない。
「一時金」のためのその場しのぎの「本」づくりは、「出版」の根拠を自ら掘り崩すような行為であり、自殺行為と言ってもよい。
つくり本やぱくり本のほうが売れ、あるいはその著者のほうが名を知られるなら、調査と思考に時間をかけたオリジナルな本の執筆者はバカをみる。そうした文化の基底の溶解過程は、ネット情報の虚妄にさらに拍車をかける。

だから、すくなくともそれなりの図書館、そして読者においては、こうした「つくり本」や「ぱくり本」は選書や購入候補から外す、という見識ないし良識をもたないかぎり、戦後日本の「出版文化」、いや「文化」そのものも総体として墜落するしかないのである。

東京経済大学国分寺キャンパスの奥まった場所に、今年東京都選定歴史的建造物とされた「大倉喜八郎 進一層館(Forward Hall)」と称する建物がある。元来は大学図書館として建てられたもので1968年から2014年まで現役であったが、現在では多目的ホールや交友センターなどが入る建物として知られる。

正面入口前に、創立者大倉喜八郎の銅像があり、台座には彼がモットーとしていた「進一層」の文字が目立つ。その建物内部の一画に、史料展示コーナー「大倉喜八郎と東京経済大学のあゆみ」があって、展示のひとつに以下のような説明を読むことができる。

「大倉経済専門学校は、空襲による校舎焼失、戦後の財閥解体による大倉家からの支援解消という状況下で、再建を始めた。赤坂葵町の校地・残存建物と引き換えに、東京都北多摩郡国分寺町の中央工業(大倉系企業)の土地と青年学校校舎・工員宿舎等の建物を取得して移転し、1946(昭和21)年6月1日に始業式を挙行した。国分寺における第一歩である。(略)」

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また、上掲の「1950年頃の校舎」写真には、ご覧のごとく
「中央工業時代の工員食堂、工員浴場、宿舎、青年学校校舎等を改造して、教室、図書館・研究室、教職員寮、学生寮、食堂等に利用した」とある。

「青年学校」とは、青年学校令公布の1935年(昭和10)から敗戦後の1947年(同22)の学校教育法まで、12年間存在した勤労青少年のための教育機関で、地方公共団体が設置するもの(公立)と、企業や農業団体に設置されたもの(私立)があった。
実態としては職能実務教育と軍事教練を二本立てとする「青年訓練所」で、戦時体制の一画を担うものであった。

まして「中央工業」の場合は銃製造所であるから、併設された青年学校の役割は重要で、工員寮も食堂も伴っていたのはまことに道理であった。
中央工業国分寺工場は、工場だけではなく青年学校とその関連施設が一体で存在していたのである。
そうして、工場エリアと青年学校・工員寮エリアは、鉄道線路で画然と区別されていたのである。
(つづく)

東京経済大学正門の北、中央線の線路を越えたエリアは、2001年(平成13)以降早稲田大学係属早稲田実業初等部・中等部・高等部のキャンパスとなっている。
しかし、当時は以下の図のとおりである。

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すなわち現在の早実キャンパスは、「新中央工業国分寺工場」の敷地であった。
「新中央工業」とは、陸軍中将南部麒次郎(1869 - 1949)が1925年(大正13)大倉財閥系の企業として設立した「南部銃製造所」の後身「中央工業」(1936年合併により社名変更)の戦後社名で、敗戦(1945)によって閉鎖された兵器工場の復活の裏には、朝鮮戦争(1950‐53)とそれを契機とした今日の自衛隊につながる警察予備隊の創設(1950)の歴史がある。

「新中央工業」の製品でよく知られているのは、戦後日本の警察官の標準装備品となったピストルで、それは「ニューナンブ(M60)」という。「新中央工業」が実質的に「新南部銃製造所」であることを端的に示した命名である。
しかしながら新中央工業はミニベアに吸収合併されて現存せず、その国分寺工場がいつまで稼働していたかは不明である。そうして、1952年(昭和27)測量、1955年発行の1万分の1地形図「武蔵府中」(地理調査所発行)では、この地は「新中央産業木工場」とされているのである。

だから、現在国分寺市のサイトが
「国分寺市は、日本の宇宙開発発祥の地」として
「昭和30年(1955年)、糸川英夫博士率いる東大生産技術研究所が、国分寺市本町一丁目の南部銃製造所(現早稲田実業学校)で、日本初のロケット発射実験を行ないました。 ロケットの全長が23センチメートルであったことから、「ペンシルロケット」と呼ばれています(略)」
と書いているのは、国分寺市(1964年までは町)本町一丁目に所在した工場名に関するかぎり、適切とは言えないのである。(つづく)

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