渋谷川と目黒川の間の代官山近くの高台は、渋谷川からはなだらかに高くなって行くが、目黒川からは険しい急坂になっている。西郷山の坂、牛啼坂(世田ヶ谷、荏原、目黒から野菜や米を積んだ車を曳いてきた牛が登れなくなって啼く坂)、今も階段で車の通れない別所坂、目黒のさんまで有名な爺ヶ茶屋のあった茶屋坂、千代ヶ崎の坂、五百羅漢の寺のある行人坂など急坂が多い。それだけに、この丘陵から見る西の眺めは広々として遠くまで続きその先に富士が美しくそびえていて、北斎や広重の版画を思わせる。その得難い風景は戦後の高層ビルブームのため無残にも分断、破壊され、武蔵野の高台から富士を眺めることは殆んど不可能になってしまった。富士どころか目黒川沿いの低地もその向側の世田ヶ谷の丘を望めない。
冒頭の文章は、文芸評論家として知られた奥野健男氏(1926-1997)のものですが(『ヒルサイドテラス白書』栞、1995)、ご本人は、ある日同窓会名簿をながめていて、47人いる小学校同級生のなかで、なお生家に寓しているのは自分ただ一人であることに気付き、愕然としたといいます(『文学における原風景』1972)。
たしかに、関東大震災や東京大空襲の破壊を経て、東京オリンピックの都市改造、さらにバブル経済地価暴騰以降の再開発という、都市改変の4つの巨大な波をかいくぐって東京の自家を維持しえた人は、存在自体が稀なのでした。
奥野氏の生家は、JR恵比寿駅から徒歩数分で到達するも現在なおその静かな住宅街にある。
氏の両親が結婚してそこに住んだ1925(大正14)年当時は、東京府下豊多摩郡渋谷町下渋谷原四番地という住居表示だったといいます。そうして、就学前の「原っぱ」遊びの記憶から、近年の住宅コンクリート変容に到るまで、自宅周辺の軌跡を定点観察してきた奥野氏の幾編かの文章は、東京の一地域変容の具体相を記録して、たぐいまれな証言となっているのです。
ところで、冒頭の文章のうち「牛啼坂」とは、江戸・東京にはよくある坂名で、港区は赤坂にも、青山にも現存する。
しかしここでいわれる牛啼坂は、一般には目切坂、別名暗闇坂として知られているもので、渋谷区と目黒区の境から目黒川の谷に下る長い坂のこと(写真)。目切坂の名は、坂上に明治10年頃まで、伊藤与右ヱ門という石臼の目切業者が住んでいたためといいます(石川悌二『江戸東京坂道事典』コンパクト版、2003年)。

(以上は、「竪の坂・横の坂」(『地図中心』誌連載「江戸東京水際遡行」2012年8月号に掲載予定の冒頭部分)
どこぞの国の、暗愚な首相が、サッカー国際試合の最中に、核発電プラントの再稼働を言いたてた。
その再稼働を阻止するため、首相官邸付近に夕刻から続々と人が詰めかけていた。
その数、4000人以上にのぼるという。
大分遅れてだが、私も駈けつけて、若い人が多いのに驚いた。
恥ずかしいことである。
私もそれに入る団塊の世代は、ぽろぽろと数える位しかいない。

私が撮ったブレボケ写真だが、「恥を知れ」というプラカードは、国家官僚と政治家たちに向けられただけではない、50歳以上の「枢軸世代」に向けられたことばであるとも受取らざるを得なかった。
核発電プラント(原発)とその生成物(放射性廃棄物)は、その存在自体が人類のcliff edge ないし cliff of ethics を越えているのである。
そうして、どこぞの国の暗愚なマスコミは、この抗議行動を、ほとんどが黙殺したのだ。
もうひとつの私の写真は、同8日午後7時半頃の経済産業省前の抗議テントの様子。
ここは比較的高齢の女性たちが中心になって維持されている。

人間の、人間たる理性と倫理をみる思いがする。
当該書品切れとなって4カ月、お待たせしておりますが、先般ようやく「三訂版」の校正原本ができました。
ということは、これから印刷所で訂正して、それを校正・チェックし、それから印刷・製本ですから、出来て7月末。
「もういいよ」という声も聞こえてきそうですが、そうして、少々増刷したところで、経費上マイナスとなったらどうするのか、
という声もあるのですが、銀行から借入れをして、「三訂版」はつくることにしました。
なにせ、実際「もうすぐできます」と蕎麦屋の出前のようなことを言ってきたわけですし、「並」ではない本をつくる
版元としての意地がある。
申しわけありませんが、どうかお待ちください。
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図は、訂正原本の一部。
もちろんもっと「赤」の入ったページもあるし、そのままのページのほうも多いのですが、「地図」だけでなく「辞典」の
ページも結構訂正がある。
地域の「地盤」や「古環境」を知るには、この本が最適であることは、知る人ぞ知るなのです。
地域の図書館は、「最新版」を必ず備えてくださるよう、どうか「初版があるから結構」と言うことのないように・・・
「参謀本部編纂の地図をまた繰開(くりひら)いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触(さわ)るさえ暑くるしい、旅の法衣(ころも)の袖をかかげて、表紙を附けた折本になってるのを引張り出した。
飛騨から信州へ越える深山(みやま)の間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立(こだち)も無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸ばすと達(とど)きそうな峰があると、その峰へ峰が乗り、巓(いただき)が被(かぶ)さって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。
道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返った光線を、深々と戴いた一重の檜笠に凌いで、こう図面を見た。」・・・
冒頭から「参謀本部の地図」が登場する近代日本文学の名品は、ご存知、泉鏡花の『高野聖』。
「さあ、これからが名代(なだい)の天生(あもう)峠と心得たから、こっちもその気になって、何しろ暑いので、喘(あえ)ぎながらまず草鞋(わらじ)の紐(ひも)を緊直(しめなお)した。」
旅の高僧が同宿の若者に、おのれの若き折の体験を物語るという形式をとった、おどろおどろしいストーリーのはじめの方、魔境の女性と出逢う直前に、主人公が山蛭に襲われるのは岐阜県北部の「天生峠」(あもうとうげ)。
大野郡白川村と飛騨市との境にあるその峠の標高は1280m。庄川支流の白川と、神通川(岐阜県内では宮川みやがわという)の支流小鳥(おどり)川の分水界に相当する。
この作品は明治33年(1900)に『新小説』に発表されたのですが、「参謀本部編纂の地図」とあれば、まずは日本陸軍「誉(ほまれ)の五万分一図」、つまり明治23年(1890)から作製が開始され大正5年(1916)に全国整備が完了した列島1000枚以上におよぶ、一群の地形図のことを指しているのではないかと、誰しも考えるでしょう。
もしそうだとすると、該当する地形図は金沢3号の「白川村」のはず。しかし、図歴によれば、この図の初測は明治43年(1910)で、発行が大正2年(1913)3月だから、作中の地図が5万分の1の地形図であった可能性はにわかに消失してしまう。
〔以上は、日本地図センター発行『地図中心』に連載の「江戸東京水際遡行」の6月号掲載予定拙稿「峠と分水界」の冒頭部分〕
吉田東伍の『大日本地名辞書』は、日本近代出版文化史の金字塔のひとつ。唯一の欠点は、その場所の「地図」がついていないこと。
日本は「ことのはさきはふ」国、中華帝国は「文字でできあがった国」。
列島に住まう人々は、音節としての言葉に、それから文字に幻惑される。
白川静さんの説ではないけれど、漢字は呪符だし、漢語は演説向き。人をかりたてる力がある。
「明治維新」は漢詩で起動され、その後150年間つづく「東京時代」のあやまちを決定づけた。
漢詩だけではない、
詩的言語一般が情動を誘う幻術であることは亡くなった吉本隆明さんの例でもあきらか。
ちょっと角度を間違うと、とんでもないところに人を導く。
ことばで説明されればそれで一件落着するように思われるけれど、それは人間の頭のなかだけの話。人間は生物として、一定のひろがりをもった空間に物理的に生存している。
それはまた別の世界。
文字やことばのまやかし疑う方法のひとつに、「図にしてみる」というやりかたがある。
コメニウスの『世界図会』やディドロとダランベールの『百科全書』の基本は啓蒙主義だけれど、文字や言葉だけで片付けてしまわない開明的な世界がひろがっている。
だから、辞典、字典、事典も結構だけれど、それだけで完結したと思わない方がよい。
――ということを下敷きにして、小社の〈フィールド・スタディ文庫〉シリーズの1『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』および5の『川の地図辞典 多摩東部編』をつくってみたのです。
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 本体価格3800円 現在品切・「三訂版」準備中
明治初期と近年を対照できる「地図」を付したこの2冊は、小社のロング・ベストセラーのひとつ。しかもその「地図」は「地形図」だから、土地の履歴と高低差、そして地域環境がわかる。
「液状化」等でにわかに注目された「古地図」(正しくは旧版地形図という)が収録されていて、しかも現在地がすぐにわかる。
現在の地図や地形図では川や川跡は見つけること自体が難しい。
お買い得ですよ。
〔ここまでは、『図書新聞』辞書・事典特集、(第3059号、2012年4月21日)への寄稿エッセイ〕
とくにこういう書籍は、地域の図書館に必備。ただし「予算」の関係から、「初版」だけで済ましている場合がほとんど。
「土地」に関わる書籍の改定版が出た場合は、それを必ず備える、のは図書館の常識なのに・・・
是非「三訂版」をリクエストしてください。
5月中には出来るはずです・・・
1960年に満60歳で亡くなったイングランド出身でオーストリア在住の作家ネビル・シュートの、1957年に刊行された小説をもとにした映画『渚にて』は、その死の前年に公開され、作家の名を一躍世界に知らしめました。

監督は『ニュールンベルグ裁判』や『手錠のままの脱獄』を手掛け、社会派として知られたスタンリー・クレイマー。主演者にはグレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー、フレッド・アステアなどを配し、1960年の興行成績8位にランク、第32回アカデミー賞にノミネートされるなどして成功をおさめたのでしたが、核戦争による世界滅亡をテーマとしたこの話は、2000年にリメイクされ、アメリカとオーストラリアの合作によるテレビ映画『エンド・オブ・ザ・ワールド』として再登場しました。


この2つの作品は邦題こそ別だけれど、映像作品のオリジナルタイトルはいずれも小説と同じOn The Beach。異なるのは、かつては冷戦、今回は米中戦争がきっかけ、という点。
後者を21世紀版とすると、20世紀版はいかにもそれらしくモノクロ画面。アメリカの原子力潜水艦スコーピオンが、メルボルンに向けて浮上航行しているオープニングのこの映画は、戦争シーンはないものの、核攻撃の相互多発連鎖の結果、放射能汚染で北半球はすでに滅亡、南半球にも「死の灰」がひろがりつつある、という設定でした。
しかしその人体への影響はあたかもコレラによるパンデミックのごとくで、真面目で感動的な作品ではあるけれども、「チェルノブイリ」を経て、「フクシマ」を現実に経験しつつある今日の私たちの目から見れば、ちょっと違うな、という感は否めない。
放射性物質の飛散と、放射線の内外被曝による「世界の終り」は、たしかに、私たちの身体に「ただちに」あらわれるわけではない。チェルノブイリの例をみても、「結局なにもなかったじゃないか」と高をくくれるのは最初の3、4年。その間は免疫が低下し、とくに目、鼻、咽喉などの粘膜系の不調や風邪の症状、心筋梗塞などの突然死が主体だから原因は特定できない。
晩発性放射線障害には数年以上の潜伏期間がある。甲状腺がんや白血病があきらかとなり、突然死の原因についてもその影響を否定できなくなるのは、数年から10年以上後の話。しかも、その巨大な全容が正体をあらわすのは「統計数値」としてなのでした。
さらに言えば、当初の破壊力と殺傷力は莫大だけれども「キログラム」単位の核爆弾による放射性物質拡散と、事故前後の風景は変らないものの3桁におよぶ「トン」単位の核発電プラントおよび使用済核燃料プールの損傷による広範かつ深甚な影響とでは、結果の様相はまた別次元のものでした。
ところで、カントリーミュージックのゆったりとしたメロディにのせて、60年代のはじめ、甘い歌声で
Why does the sun go on shining?
Why does the sea rush to shore?
と歌ったのはスキータ・デイビス(Skeeter Davis)でした。その歌の邦題は「世界の果てまで」。しかし原題はよく知られているようにThe end of the world。このLPのリリースは1962年ですから、上記2行目の歌詞をみても、この歌はあきらかにスタンリー・クレイマーのヒット作に影響を受けてつくられたと考えていいのです。
しかし世界は、多くの場合、そう簡単には終わらない。スキータが歌うように、太陽は今日も照るし、海の波も、日本においてはほとんどが人工海岸となってしまったけれど、何事もなかったようにコンクリート護岸に打ち寄せる。「白昼の闇」はむしろ漆絵のように、風景の背後に黒く貼り付いている。
(以上は、「地図の汀」(『地図中心』誌5月号連載「江戸東京水際遡行」第22回)の冒頭部分)
NHKが本夕7時のニュース7と9時のニュースウォッチ9で大々的に報道した《原発「民間」事故調査報告書》。
結局、原発事故の責任を、「官邸」に押し付ける「無責任村別働隊」の隠れ大本営発表だった。
問題の所在はそんなところにあるのではない。
安全神話の飴と鞭を全面に、膨大な税を投入して国策として原発を推進し、現在なおその神話から脱しえない、官政財学報の原発村そのものにあることは明らかである。
「民間」をわざわざ名乗るのに、「調査金」の出所は不明であり、メンバーはその筋の「権威」ばかり。
その「原作」を、NHKの「中枢」は、より「脚色」して全国放送した。
シナリオの目的は、人々の「政治不信」につけこんで責任を「下手人以外に」なすりつけることにあった。
曰く、政府-官邸の対応は「場当たり」であったと。
本件は、ひとりの下手人と監査・オマワリ役が仮面を変えて出て来るだけの、愚かしくも哀しい狂言劇である。
報告書のシナリオは、「対応」に集約された。
問題の根源を問わない、その責任を明らかにしない、「目くらまし報告書」である。
それを大々的に電波に乗せた「公共放送番組」も、また視るに、聴くに、堪えない、「日本的構造」の一場面である。
甲 また、書評を引受けたんだって?
乙 うん、なにせ本が読めるからね。
甲 どれどれ、これか。著者は高名な学者じゃないか。たしかレヴィ・ストロースのお弟子さんだったね。
乙 そう。文化人類学がご専門だけれど、出身が「深川」なんだ。
甲 それはそれは。小津安二郎の出もあのへんだったね。
乙 小津監督の生家は清澄庭園の南側。川田家は深川でもずっと北の小名木川北岸だから、家歴も古い。
もっとも、両家ともそれなりの商家だったようだ。
甲 そうね、「川向う」は北から陸化してきたところだからね。小名木川の北なら土地としては江戸以前からだし。
しかしタイトルの「下町」はどうだろうね。すくなくとも江戸時代から明治あたりまでの「下町」は今の日本橋や銀座とその周辺だけれど。
乙 「武蔵野」と同じように、「下町」も指す場所が外側に移るんだね。なにせ今は葛飾柴又が「下町」だし。
甲 しかし著者の意気込みはすごいよ、“この本で私が試みたいのは、連続した「江戸=東京下町という「地域」の視点から、変革された日本という「国家」を捉え直すことだ。そして江戸=東京下町民のありようを、西洋モデルともかみ合う形での、「市民社会」のモデルとする可能性を探ることだ”と帯にある。
乙 終章を含めて全27章のうち、書き下ろしと思われるのは1、4と終章だけで、あとはいくつかの雑誌に書いたもの。「朝日ジャーナル」(1987年)のもあって、最初からそういう視座をもって書かれたわけではないのね。
帯にあるようなことは、二宮宏之『結びあうかたち――ソシアビリテ論の射程』(1995年)の元になったシンポジウムに大きな啓示を受けたと終章に書いているから、段々にかたまってきたということだろうね。
フィールドワークの記録(インタヴュー)あり、思い出話あり、パリと江戸=東京の比較あり、水鳥(ミヤコドリ)についての調べごとあり、歌舞伎の話ありで、いろいなスタイルが詰まっている。
甲 なにが面白かった?
乙 それは、この著者の「杵柄」であるフィールド・ワーク、つまり地域の聞きとりね。それから、自分のお母さんやお祖父さんのこと。とくに16章の「私の幼時の記憶の中にも、生あたたかい潮の匂いが、水浸しになった早朝の街をおし包んだ、荒涼として世の終わりのような光景がある・・・・」などというのがあざやかだね。なんといっても直接体験の記憶だから。
甲 東京湾岸の高潮災害は現代にも無縁でない、というより下町ゼロメートル地帯には常に切実な課題だね。
乙 そう。砂町銀座は「東京で一番元気な商店街」といわれるけれど、ゼロメートルどころかマイナス2~3メートル地帯。だから201ページの昭和38年の水害と現代の比較写真はとてもインパクトがある。
ただ、全体には文化論的な記述が多いし、身びいきの温(ぬる)さが目立つね。たとえば歌舞伎の「助六」を、「武士の文化に対抗する江戸町人の意気」と言うけれど、助六になぶられて最後は殺される「意休」という「武士」が、実は歌舞伎界がその支配から脱した後の弾左衛門をモデルとした、という説をどう見るのだろうと思ったね。
甲 そうね。下町もいいけれど、「地域」を問題にするなら、「3・11」以後、東京はもう東京だけでは語れないしね。
乙 これからの人類学は、フィールドをスタティックにとらえていたら成り立たないだろうね。「グローバル化」と「核」の正体が露出したし、実際に東京でも難・流民化がはじまっている。「3・11から20年後」の射程をもった「ソシアビリテ論」が望まれるね。
甲 そう。著者はアフリカの奴隷制も研究したようだけれど(『曠野から』1973)、金原ひとみが『東京新聞』(2011年10月11日夕刊)に書いた「主人すらいない奴隷」という言葉をどう受け止めるか、知りたいところだね。
(以上は、2012年2月4日付『図書新聞』掲載書評。対象は「江戸=東京の下町から 生きられた記憶への旅」川田順三著、2011年11月25日、岩波書店)
「坂」の上の雲
1970年1月に初版の出た、横関英一(よこぜきひでいち)氏の『江戸の坂 東京の坂』を嚆矢として、現在まで20点を超える、江戸ないし東京の「坂本」が刊行されています。
もちろん、改訂版や文庫版化を計上しての数字ですが、2年に1冊という点数は、おおむね東京山手線内という狭いエリアについての記述であることをかんがえると、むしろ異常に多いアイテム数とみてよいのです。
日本人は、と敢えて一般化して言いますが、好きなのですね、坂が。
対して海外では、起伏に富んだ都市として知られるサンフランシスコやリスボン、ナポリですら、坂道が固有名詞をもつとは聞いたことがない。
坂はストリートないしアヴェニューの一部、傾斜地形の特定部分にすぎないのであって、傾斜部だけを取り出して名辞やら物語やらを付与するエートスは、どうやら日本語世界に特有のもののようなのです。
しかし、江戸っ子がとくに坂好きであったかというと、かならずしもそうではない。
それもそのはず、天下の総城下町における工商階級の住まいは、武蔵野台地下の沖積地にあったのですから、そこ(下町)に坂は存在しえない。
台地の上のお屋敷町や寺社には商売やお使いで、あるいは遊山に際し上り下りするものであって、江戸っ子の日常のランドマークは「橋」。坂はまずもって、他所(よそ)の土地の、単純に傾斜のきつい場所という認識でした。
そうして、今日と大きく異なるのは、傾斜地に武家屋敷や商家、まして住宅が建つことはなかったから、台地と低地の境界領域である坂は人気(ひとけ)のない場所。つまり坂は好まれるどころでなく、むしろ難儀な、厭(いと)うべき、「地形の特異点」だったのです。
坂が文字として現われた初例が、「黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)」(『古事記』)であったように、警戒すべき変異(シフト)地点に付与されたのが、この地における坂名の発生でした。
ところが、明治時代に入ると、坂と坂名のもつ意味合いは逆転というほど大きく変化していきます。
それはもちろん、封建城下町であるがためにエリア閉塞を原則としていた江戸が、一転して個々にひらかれてゆく過程と軌を一にしていたわけですが、長きにわたり徒歩か駕籠か、せいぜい騎馬程度だった列島上の陸上交通が、馬車を手始めに戦後のモータリゼーションに至るまで劇的に変転し、それにやや遅れつつ、坂自体のかたちも急激な変容を見せはじめるのです。
さらにまた、そのひらかれた首都に、「偉く」なりたいあるいは「一旗」上げたい若者たちが列島の隅々から続々と「上京」します。その多くが住まうのは、台地というよりも文字通りの山の「手」。旧武家屋敷地一角の借家か下宿で、つまり坂になじんだ台地縁辺の仮寓でした。
だから、その青雲の志の成否如何が、坂の上下というトポグラフィックなありようと照応し合う心理構造が形成されるのは自然の成り行きでした。
つまり、坂が一種独特の、過剰な思い入れをもつ「地形」として活字に登場するようになるのは、明治期以降の出来事といっていいのです。
そのもっとも極端な例は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』という作品タイトルでしょう。「登って行けばやがてはそこに手が届く」と思われた「近代国家の理想」あるいは「理想の近代国家」は、昨今はしなくも露呈したように、よじのぼった先にあって、届くはずもない幻の存在だったと気づいたとすれば、それは痛切きわまりない逆説でした。かつて山村暮鳥が北関東の地から「おうい」と呼びかけた白い雲は、行先定まらぬ汚染源に転じたのです。
さて、司馬は「国家」の現在・未来にまつわるイメージを「坂」になぞらえたわけですが、それとは逆に、個々の「来し方、行く末」つまり人生過程を坂に重ねる方法が存在していて、どちらかというとこちらが一般的でした。
(以上は、日本地図センター発行『地図中心』2012年1月号、通巻472号掲載文の冒頭部。このあと「無縁坂」「坂の文化史」「坂の生成と構造」「竪の坂・横の坂」「盛土坂」「複合坂、そして橋梁坂」とつづく)
桃栗3年
最近のテレビは、お笑いタレント中心の喰いモノ番組かクイズショーでなければ、東京を中心としたご当地番組が目立ちます。とりわけ「ブラ散歩」の類は、パーソナリティさえ確保できれば視聴率を稼げるうえに、取材や制作費が大幅に圧縮できるメリットがあって、民放どころか公共放送まで参入して悦に入っている様子ですが、いずれにしても、「東京一極集中テレビ放映」の、安易でチープな番組づくりであることは争えず、見識ある向きにはそろそろ飽きられてきた。
もちろんその根底には、「東京」電力福島第一原子力発電所から20キロ圏内、つまり2市(南相馬市、田村市)、5町(浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町)、2村(葛尾〈かつらお〉村、川内村)で、東京23区の総面積(622平方km)とほぼ等しい約624平方kmが自宅立ち入りにすら罰則のつく「警戒区域」とされて約8万人が「難民」化し、さらに20キロ圏外でも放射性物質降下の影響の深刻な飯館村や川俣村などの「計画的避難区域」が広がっていて先が見えないなか、「東京」はオモシロイの、オイシイのオカシイの等々と言い立てることへの疑問と、来たるべき大地震への不安が横たわっているのです。
そのようななかで、公共テレビのご当地番組が、この1月19日に東京の国分寺をとり上げ、遺跡や鉄道話をふりまいた際、古代寺院の立地説明に「国分寺崖線」という用語を使ったまではいいけれど、「多摩川が10万年をかけてつくり出した国分寺崖線」というようなナレーションを流したのにはいささか吃驚。
3年ほど前、民放の深夜番組が「桃栗3年崖10万年」というオチャラケ文句で世田谷の国分寺崖線をとり上げたことがあって、「10万年」という根拠のない数字は、多分そのパクリなのです。当時筆者はその番組にゲスト出演した際、スタッフに「10万年はないよ。〈柿8年〉だし、せいぜい8万年にしたら。そのほうが妥当性もあるし」と言ったのですが、マニアックな番組にしては収録の「台本」は修正不可らしく、意見顧慮されることはありませんでした。けれどもインターネットにおけるテレビの影響は結構大きくて、いまだにこのフレーズを使ったサイトがいくつも検索できるのです。
崖4万年
約10万年前というのは武蔵野台地の武蔵野面といわれる段丘面のなかで、もっとも古いM1面が形成された年代。
武蔵野面の、M1面からM3面までの類別のうち、国分寺崖線は約8万年前に形成されたM2面を、古多摩川が側方侵食して形成したものですから、国分寺崖線ができたのはすくなくとも8万年前以降。
そうして、武蔵野面の下位段丘面は立川面と称し、これもTc1からTc3までに分けられ、国分寺崖線の直下は約4万年前に形成されたTc1面だから、国分寺崖線は約8万年前から4万年前の間に形成された、というのが模範解答。どう転んでも「10万年」にはならない(図1・図2)。
そもそもことわざは、木成りもの(果物)について、「桃栗3年、柿8年」、ついでに「柚子の大馬鹿18年」というのですが、それでは梅や林檎、梨、葡萄などはどうなのだろうと、つい思ってしまいますね。いずれにしてもそれらは発芽から結実までに必要な生育期間の長さの話ですから、崖生成について同列に表現するのであれば、国分寺崖線の場合、8万年マイナス4万年で、その差「4万年」が正解なのです。
さてしかし、なにゆえ「国分寺」崖線なのか。立川市の砂川あたりから世田谷区成城付近まで、延長20kmほどもつづく長大な段丘斜面の固有名詞に、どうして「国分寺」を冠したのか。「多摩川崖線」や「野川崖線」ではうまくないとしても、「小金井崖線」や「世田谷崖線」ではだめなのか。
(以上は、日本地図センター発行『地図中心』2012年3月号-2月末発行-への連載文の冒頭部分。このあと「ガイセンと、センガイと」「誰が言い出した・・・」「認識の所在」「ユリイカ!」とつづく)