拙著がグラフィックな本となっているため、書店店頭での「類書」との関係で、誤解を生じている面があるようなので、「お断り」のコメントしておきます。

私がこの本で「言外」に主張しているのは、

①「東京の地形」に関して、「景観論」を基本とする言説は概ねダメだ、ということです。

かつて日本建築学会の『建築雑誌』が「新東京地形論」なる特集を組んで、タレントがらみのマチガイ素人談義を得々と展開しているのをみて吃驚したことがあったけれど、
その「風潮」はいまだつづいていて、他人の著作をつまみ食いした「地形カタログ」本が「売れている」らしい。
3・11を経てなお、空虚な論議が人気を得ていて、それが「除染」特需業界の一角から流出している様相には暗澹とするほかない。

拙著の冒頭にも強調したように、見えないところ、見えないものこそ重要なのです。

② ①に関連するけれども、地形は空間論ではなく、時間論のなかで「形成史」として捕えられるべきであり、その場合「人間以前」と「人間以後」をはっきり区別しなければならないこと。

つまり「自然地形」と「人為地形」を見わけ、その特性をわきまえることは、巨大都市に生きる人間としてきわめて重要なことなのです。

私の著作は、H・シュライバーの『道の文化史』を念頭に書いたものであったのだけれど、編集の方が私の文章を苦労して半分以下にパッチワークし、「絵」(ビジュアル)中心の本としてくださったのは痛し痒しで、
じっくり読んでいただければ、《文化史》の文脈はわかるはす。
表面だけみて「景観本」のレベルで云々する人がいるのは、残念というか心外。

まあ、本格的な『崖と坂の文化史』を書きなさい、ということなのかと思いますので、それを心して励みましょう。
その場合のタイトルは、『崖・坂・橋』ということになると思いますが―

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三省堂本店平積之図

標記のタイトルで、高校時代の先輩が拙著を購入した折の写真を送ってくれました。

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東京は千代田区の神田神保町三省堂書店玄関正面。
江戸東京本のコーナーをもつ三省堂書店では、8月末にはすでに発売していたのですね。
しかし、入ってすぐの「ロイヤルボックスシート」とは驚いた。

いきなり、山本リンダになってしまう。
「困っちゃうな」。

岩窟王か、隠者のつぶやきを本にしたつもりなのに。

カラフルなコンピュータグラフィックスや写真画像に惑わされてはいけない。
私の本は、いま流行りの、街歩き本や、東京地形本などではないのです。
この本には、猛毒が仕掛けてある。

それが何かは、お買い求めいただいて、じっくり、すこしずつ、ご賞味いただければわかります。
じっくり読んだ人は、毒を取り込んで「賢く、強く」なれるでしょう。

collegio

発売日

すみません。
拙著の書店発売日は9月1日、明後日の土曜日でした。
何度も本屋さんに足を運んでいただいた方もいるようで、申しわけありません。

13ページの誤植は気になるものの、一見して売れそうな、カラフルで写真・画像の充満した本にはなっています。
実際、購入してじっくり目を通していただければ、見かけにくらべて、ずしりとした質量を感じられるはずです。
まあ、書いた本人がそう思っているだけなのかも知れませんが。

標記のタイトルで、拙著がようやく発刊されました(講談社、本体1800円)。奥付は2012年8月30日。

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初刷りに誤植はつきものですが、出だしの部分でつまずいてしまったようです。
13ページ上段の4行目から5行目。

「だから前述の『地学事典』の見解では、江戸・東京に変動崖は存在しないことになる。」は、
「だから前述の『地学事典』の見解では、江戸・東京に崖は存在しないことになる。」としないと、意味が通じない。

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もっとも基本的なところだから、どうしてこうなったかと自分でも理解に苦しむ。なにかと混線したのか。

他にも何ヶ所か、訂正すべきところはあるけれど、それは多分に表記上の問題で、たいした誤植ではありません。
しかし、出だしで理解不能だと、読者はそのあとつづけて読む場合は心理的に不安定になるでしょうね。
だから、とりあえず「誤植です」と、ここでアナウンスしておきます。

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ガケの話

img133.jpg今春、首都圏の主要紙にはおおむね掲載されたから、憶えておいでの方も多いと思うけれど、埼玉県八潮市の「垳」(がけ)という地名が文字通りがけっぷちで、区画整理に際して「青葉」や「若葉」などに変えられてしまうという話題(トピック)がありました。ヒバリの啼(な)かないひばりが丘、緑を剥がして緑町同様、近年増殖の「ブリっ子地名」に変身なのね、と嫌味を用意していたところ、「垳川」(がけがわ)に沿った狭いエリアだけになってしまうものの「垳」の字名(あざめい)はなんとか残されるらしい。

「垳」は国字で「がけ」という訓しかなく、また固有地名としてしか存在しない特異な「漢字」。東京都足立区と埼玉県八潮市の境を流れる延長2.25kmの「垳川(がけがわ)」は、綾瀬川の旧河道でしたが、この川の名は字名の「垳」から命名されたのであって、その逆ではない。そうして、この字名が自然地形に由来することは明らかで、土が「行く」のだから「土壌崩壊地」が原意。

同じような「地域固有文字」例に、土が尽きる(旧字の「盡」)で「ママ」とよませる、神奈川県南足柄市の地名「壗下」(まました)があります。「ママ」といえば、千葉は市川市の「真間の手児奈(てこな)」の「真間」が有名だけれど、結局はガケとご同類、侵食地形の壁面に由来します。ちょっとした漢和辞典をめくってみても、「●(土+会)」や「垪」「圸」「墹」など、土偏の「ガケ国字」は結構みつけられるでしょう。

「垂直または急斜した岩石の(岩石のに傍点)面」(傍点引用者)というのが地学辞典のガケの定義ですが、日本列島において、とりわけ「首都圏」にあって圧倒的に多いのは、「土が欠けてガケ」という、土壌崩壊ないし侵食の急斜面。実は、「江戸・東京に岩のガケは存在しない」。なぜならば、「江戸・東京の表層 地質として、岩盤は存在しない」からです。
*        *
ところで「崖」の文字が戦後の公用文にも用いられるようになったのは一昨年、29年ぶりに改定追加された新常用漢字表の196字に晴れて仲間入りしてからで、それまでお役所では「がけ」とカナ書きしたり、「急傾斜地」あるいは「崩壊地形」などと言い換えていて、今日ではそちらが専ら用いられる。gakeという単語には濁音と破裂音が同居していて、お上品なことばとはとても言えない。むしろ、嫌聴音であることが一種のアラームサイン。だから、ガケとは「近づくと危険」の意を第一とするのです。一方、ガケとは地形上の境界をかたちづくっているのであって、そこは本来人間の立ち入りを否む異界でした。

ノルウェーの絵本『三びきのやぎのがらがらどん』のトロルは谷川に渡した吊り橋の下に住んでいて、つまりはガケに顕現する魔神の裔(すえ)。古代中国では、ガケは鬼神の去就する場で、シャーマンはガケに向って供犠ないし占卜(せんぼく)をとりおこなう。屹立する岩の壁は聖所にして神域。だから仏教導入後は、そこは無理やりでも穿(うが)たれて石仏が並ぶことになる。

「近代」はこうしたガケの魔性あるいは聖性を一掃しただけでなく、物理的存在としてのガケそのものを駆逐し、あるいは「見えなく」してきました。都市部のガケは人為的な変容を強いられ、被覆され、あるいはその一部が切り開かれて、ゆるい「坂」となったのです。ガケは坂の「原景」でした。
*      *
 土のガケや岩のガケは地形上のガケだけれど、世の中にはそれ以外のいろいろなガケやがけっぷちがあって、気圧のガケや温度のガケ、明暗のガケや、音のガケ、においのガケ、人口のガケ、果ては倫理のガケや愛憎のガケもある。安部公房の短編小説に、ボクサーの独白体を駆使した『時の崖』があって、これは試合におけるカウントダウンのこと。

近年知られるようになったのは、原発のストレステストにおける「クリフ・エッジ」なるがけっぷち。そういえば、東京電力福島第一原子力発電所の立地点は、本来標高30mはある福島県浜通り海岸端のガケの上。しかし愚かにもその立派な断崖を掘り崩し、地形図で確認すると標高7mほどの位置に「核発電プラント」を置いてしまったがゆえの巨大事故。そしてまた、知る人ぞ知る恐怖のガケに、太陽フレアの磁気嵐によって、地球上の広範囲な場所で送電が停止する、「電圧のガケ」がありました。

カール・ヤスパースは、紀元前500年頃を人類の精神文明上の画期とし、それを基軸の時代ないし枢軸の時代(Achsenzeit)と呼んだそうだけれど、そのデンで言えば現在は、東京や日本だけでなく、人類史上の巨大な臨界点(critical point)、つまりはガケの時代。

しかしそもそも人間には「生涯(涯に傍点)」というガケがあって、そこは誰もが行き着く最後の場所。

総じてガケは、「ひとごと」ではない。デジタルカラー鳥瞰画像でご案内する拙著『江戸の崖 東京の崖』(講談社、8月末刊)を、ご一読いただければ幸いです。

〔以上は、講談社PR誌「本」2012年8月号掲載文〕

お待たせしました。
だいぶながい間「品切れ」だった小社のベストセラー『川の地図辞典 江戸・東京23区編』ですが、増刷がようやく出来ました。
初版から4年ぶりの大改定版です。
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ISBN番号や価格(本体3800円)はこれまでと同様です。
ぜひ書店でご覧下さい。
地域の図書館には、この三訂版を備えていただけるよう、リクエストをお願いします。

collegio

竪の坂 横の坂

渋谷川と目黒川の間の代官山近くの高台は、渋谷川からはなだらかに高くなって行くが、目黒川からは険しい急坂になっている。西郷山の坂、牛啼坂(世田ヶ谷、荏原、目黒から野菜や米を積んだ車を曳いてきた牛が登れなくなって啼く坂)、今も階段で車の通れない別所坂、目黒のさんまで有名な爺ヶ茶屋のあった茶屋坂、千代ヶ崎の坂、五百羅漢の寺のある行人坂など急坂が多い。それだけに、この丘陵から見る西の眺めは広々として遠くまで続きその先に富士が美しくそびえていて、北斎や広重の版画を思わせる。その得難い風景は戦後の高層ビルブームのため無残にも分断、破壊され、武蔵野の高台から富士を眺めることは殆んど不可能になってしまった。富士どころか目黒川沿いの低地もその向側の世田ヶ谷の丘を望めない。

冒頭の文章は、文芸評論家として知られた奥野健男氏(1926-1997)のものですが(『ヒルサイドテラス白書』栞、1995)、ご本人は、ある日同窓会名簿をながめていて、47人いる小学校同級生のなかで、なお生家に寓しているのは自分ただ一人であることに気付き、愕然としたといいます(『文学における原風景』1972)。
たしかに、関東大震災や東京大空襲の破壊を経て、東京オリンピックの都市改造、さらにバブル経済地価暴騰以降の再開発という、都市改変の4つの巨大な波をかいくぐって東京の自家を維持しえた人は、存在自体が稀なのでした。
奥野氏の生家は、JR恵比寿駅から徒歩数分で到達するも現在なおその静かな住宅街にある。
氏の両親が結婚してそこに住んだ1925(大正14)年当時は、東京府下豊多摩郡渋谷町下渋谷原四番地という住居表示だったといいます。そうして、就学前の「原っぱ」遊びの記憶から、近年の住宅コンクリート変容に到るまで、自宅周辺の軌跡を定点観察してきた奥野氏の幾編かの文章は、東京の一地域変容の具体相を記録して、たぐいまれな証言となっているのです。
ところで、冒頭の文章のうち「牛啼坂」とは、江戸・東京にはよくある坂名で、港区は赤坂にも、青山にも現存する。
しかしここでいわれる牛啼坂は、一般には目切坂、別名暗闇坂として知られているもので、渋谷区と目黒区の境から目黒川の谷に下る長い坂のこと(写真)。目切坂の名は、坂上に明治10年頃まで、伊藤与右ヱ門という石臼の目切業者が住んでいたためといいます(石川悌二『江戸東京坂道事典』コンパクト版、2003年)。
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(以上は、「竪の坂・横の坂」(『地図中心』誌連載「江戸東京水際遡行」2012年8月号に掲載予定の冒頭部分)

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cliff of ethics

どこぞの国の、暗愚な首相が、サッカー国際試合の最中に、核発電プラントの再稼働を言いたてた。

その再稼働を阻止するため、首相官邸付近に夕刻から続々と人が詰めかけていた。
その数、4000人以上にのぼるという。

大分遅れてだが、私も駈けつけて、若い人が多いのに驚いた。

恥ずかしいことである。
私もそれに入る団塊の世代は、ぽろぽろと数える位しかいない。

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私が撮ったブレボケ写真だが、「恥を知れ」というプラカードは、国家官僚と政治家たちに向けられただけではない、50歳以上の「枢軸世代」に向けられたことばであるとも受取らざるを得なかった。

核発電プラント(原発)とその生成物(放射性廃棄物)は、その存在自体が人類のcliff edge ないし cliff of ethics を越えているのである。

そうして、どこぞの国の暗愚なマスコミは、この抗議行動を、ほとんどが黙殺したのだ。

もうひとつの私の写真は、同8日午後7時半頃の経済産業省前の抗議テントの様子。
ここは比較的高齢の女性たちが中心になって維持されている。
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人間の、人間たる理性と倫理をみる思いがする。

当該書品切れとなって4カ月、お待たせしておりますが、先般ようやく「三訂版」の校正原本ができました。

ということは、これから印刷所で訂正して、それを校正・チェックし、それから印刷・製本ですから、出来て7月末。
「もういいよ」という声も聞こえてきそうですが、そうして、少々増刷したところで、経費上マイナスとなったらどうするのか、
という声もあるのですが、銀行から借入れをして、「三訂版」はつくることにしました。

なにせ、実際「もうすぐできます」と蕎麦屋の出前のようなことを言ってきたわけですし、「並」ではない本をつくる
版元としての意地がある。

申しわけありませんが、どうかお待ちください。

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図は、訂正原本の一部。
もちろんもっと「赤」の入ったページもあるし、そのままのページのほうも多いのですが、「地図」だけでなく「辞典」の
ページも結構訂正がある。

地域の「地盤」や「古環境」を知るには、この本が最適であることは、知る人ぞ知るなのです。

地域の図書館は、「最新版」を必ず備えてくださるよう、どうか「初版があるから結構」と言うことのないように・・・

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天生峠

「参謀本部編纂の地図をまた繰開(くりひら)いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触(さわ)るさえ暑くるしい、旅の法衣(ころも)の袖をかかげて、表紙を附けた折本になってるのを引張り出した。
飛騨から信州へ越える深山(みやま)の間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立(こだち)も無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸ばすと達(とど)きそうな峰があると、その峰へ峰が乗り、巓(いただき)が被(かぶ)さって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。
道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返った光線を、深々と戴いた一重の檜笠に凌いで、こう図面を見た。」・・・

冒頭から「参謀本部の地図」が登場する近代日本文学の名品は、ご存知、泉鏡花の『高野聖』。

「さあ、これからが名代(なだい)の天生(あもう)峠と心得たから、こっちもその気になって、何しろ暑いので、喘(あえ)ぎながらまず草鞋(わらじ)の紐(ひも)を緊直(しめなお)した。」

旅の高僧が同宿の若者に、おのれの若き折の体験を物語るという形式をとった、おどろおどろしいストーリーのはじめの方、魔境の女性と出逢う直前に、主人公が山蛭に襲われるのは岐阜県北部の「天生峠」(あもうとうげ)。
大野郡白川村と飛騨市との境にあるその峠の標高は1280m。庄川支流の白川と、神通川(岐阜県内では宮川みやがわという)の支流小鳥(おどり)川の分水界に相当する。

この作品は明治33年(1900)に『新小説』に発表されたのですが、「参謀本部編纂の地図」とあれば、まずは日本陸軍「誉(ほまれ)の五万分一図」、つまり明治23年(1890)から作製が開始され大正5年(1916)に全国整備が完了した列島1000枚以上におよぶ、一群の地形図のことを指しているのではないかと、誰しも考えるでしょう。

もしそうだとすると、該当する地形図は金沢3号の「白川村」のはず。しかし、図歴によれば、この図の初測は明治43年(1910)で、発行が大正2年(1913)3月だから、作中の地図が5万分の1の地形図であった可能性はにわかに消失してしまう。

〔以上は、日本地図センター発行『地図中心』に連載の「江戸東京水際遡行」の6月号掲載予定拙稿「峠と分水界」の冒頭部分〕

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