「坂」の上の雲
1970年1月に初版の出た、横関英一(よこぜきひでいち)氏の『江戸の坂 東京の坂』を嚆矢として、現在まで20点を超える、江戸ないし東京の「坂本」が刊行されています。
もちろん、改訂版や文庫版化を計上しての数字ですが、2年に1冊という点数は、おおむね東京山手線内という狭いエリアについての記述であることをかんがえると、むしろ異常に多いアイテム数とみてよいのです。
日本人は、と敢えて一般化して言いますが、好きなのですね、坂が。
対して海外では、起伏に富んだ都市として知られるサンフランシスコやリスボン、ナポリですら、坂道が固有名詞をもつとは聞いたことがない。
坂はストリートないしアヴェニューの一部、傾斜地形の特定部分にすぎないのであって、傾斜部だけを取り出して名辞やら物語やらを付与するエートスは、どうやら日本語世界に特有のもののようなのです。
しかし、江戸っ子がとくに坂好きであったかというと、かならずしもそうではない。
それもそのはず、天下の総城下町における工商階級の住まいは、武蔵野台地下の沖積地にあったのですから、そこ(下町)に坂は存在しえない。
台地の上のお屋敷町や寺社には商売やお使いで、あるいは遊山に際し上り下りするものであって、江戸っ子の日常のランドマークは「橋」。坂はまずもって、他所(よそ)の土地の、単純に傾斜のきつい場所という認識でした。
そうして、今日と大きく異なるのは、傾斜地に武家屋敷や商家、まして住宅が建つことはなかったから、台地と低地の境界領域である坂は人気(ひとけ)のない場所。つまり坂は好まれるどころでなく、むしろ難儀な、厭(いと)うべき、「地形の特異点」だったのです。
坂が文字として現われた初例が、「黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)」(『古事記』)であったように、警戒すべき変異(シフト)地点に付与されたのが、この地における坂名の発生でした。
ところが、明治時代に入ると、坂と坂名のもつ意味合いは逆転というほど大きく変化していきます。
それはもちろん、封建城下町であるがためにエリア閉塞を原則としていた江戸が、一転して個々にひらかれてゆく過程と軌を一にしていたわけですが、長きにわたり徒歩か駕籠か、せいぜい騎馬程度だった列島上の陸上交通が、馬車を手始めに戦後のモータリゼーションに至るまで劇的に変転し、それにやや遅れつつ、坂自体のかたちも急激な変容を見せはじめるのです。
さらにまた、そのひらかれた首都に、「偉く」なりたいあるいは「一旗」上げたい若者たちが列島の隅々から続々と「上京」します。その多くが住まうのは、台地というよりも文字通りの山の「手」。旧武家屋敷地一角の借家か下宿で、つまり坂になじんだ台地縁辺の仮寓でした。
だから、その青雲の志の成否如何が、坂の上下というトポグラフィックなありようと照応し合う心理構造が形成されるのは自然の成り行きでした。
つまり、坂が一種独特の、過剰な思い入れをもつ「地形」として活字に登場するようになるのは、明治期以降の出来事といっていいのです。
そのもっとも極端な例は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』という作品タイトルでしょう。「登って行けばやがてはそこに手が届く」と思われた「近代国家の理想」あるいは「理想の近代国家」は、昨今はしなくも露呈したように、よじのぼった先にあって、届くはずもない幻の存在だったと気づいたとすれば、それは痛切きわまりない逆説でした。かつて山村暮鳥が北関東の地から「おうい」と呼びかけた白い雲は、行先定まらぬ汚染源に転じたのです。
さて、司馬は「国家」の現在・未来にまつわるイメージを「坂」になぞらえたわけですが、それとは逆に、個々の「来し方、行く末」つまり人生過程を坂に重ねる方法が存在していて、どちらかというとこちらが一般的でした。
(以上は、日本地図センター発行『地図中心』2012年1月号、通巻472号掲載文の冒頭部。このあと「無縁坂」「坂の文化史」「坂の生成と構造」「竪の坂・横の坂」「盛土坂」「複合坂、そして橋梁坂」とつづく)
桃栗3年
最近のテレビは、お笑いタレント中心の喰いモノ番組かクイズショーでなければ、東京を中心としたご当地番組が目立ちます。とりわけ「ブラ散歩」の類は、パーソナリティさえ確保できれば視聴率を稼げるうえに、取材や制作費が大幅に圧縮できるメリットがあって、民放どころか公共放送まで参入して悦に入っている様子ですが、いずれにしても、「東京一極集中テレビ放映」の、安易でチープな番組づくりであることは争えず、見識ある向きにはそろそろ飽きられてきた。
もちろんその根底には、「東京」電力福島第一原子力発電所から20キロ圏内、つまり2市(南相馬市、田村市)、5町(浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町)、2村(葛尾〈かつらお〉村、川内村)で、東京23区の総面積(622平方km)とほぼ等しい約624平方kmが自宅立ち入りにすら罰則のつく「警戒区域」とされて約8万人が「難民」化し、さらに20キロ圏外でも放射性物質降下の影響の深刻な飯館村や川俣村などの「計画的避難区域」が広がっていて先が見えないなか、「東京」はオモシロイの、オイシイのオカシイの等々と言い立てることへの疑問と、来たるべき大地震への不安が横たわっているのです。
そのようななかで、公共テレビのご当地番組が、この1月19日に東京の国分寺をとり上げ、遺跡や鉄道話をふりまいた際、古代寺院の立地説明に「国分寺崖線」という用語を使ったまではいいけれど、「多摩川が10万年をかけてつくり出した国分寺崖線」というようなナレーションを流したのにはいささか吃驚。
3年ほど前、民放の深夜番組が「桃栗3年崖10万年」というオチャラケ文句で世田谷の国分寺崖線をとり上げたことがあって、「10万年」という根拠のない数字は、多分そのパクリなのです。当時筆者はその番組にゲスト出演した際、スタッフに「10万年はないよ。〈柿8年〉だし、せいぜい8万年にしたら。そのほうが妥当性もあるし」と言ったのですが、マニアックな番組にしては収録の「台本」は修正不可らしく、意見顧慮されることはありませんでした。けれどもインターネットにおけるテレビの影響は結構大きくて、いまだにこのフレーズを使ったサイトがいくつも検索できるのです。
崖4万年
約10万年前というのは武蔵野台地の武蔵野面といわれる段丘面のなかで、もっとも古いM1面が形成された年代。
武蔵野面の、M1面からM3面までの類別のうち、国分寺崖線は約8万年前に形成されたM2面を、古多摩川が側方侵食して形成したものですから、国分寺崖線ができたのはすくなくとも8万年前以降。
そうして、武蔵野面の下位段丘面は立川面と称し、これもTc1からTc3までに分けられ、国分寺崖線の直下は約4万年前に形成されたTc1面だから、国分寺崖線は約8万年前から4万年前の間に形成された、というのが模範解答。どう転んでも「10万年」にはならない(図1・図2)。
そもそもことわざは、木成りもの(果物)について、「桃栗3年、柿8年」、ついでに「柚子の大馬鹿18年」というのですが、それでは梅や林檎、梨、葡萄などはどうなのだろうと、つい思ってしまいますね。いずれにしてもそれらは発芽から結実までに必要な生育期間の長さの話ですから、崖生成について同列に表現するのであれば、国分寺崖線の場合、8万年マイナス4万年で、その差「4万年」が正解なのです。
さてしかし、なにゆえ「国分寺」崖線なのか。立川市の砂川あたりから世田谷区成城付近まで、延長20kmほどもつづく長大な段丘斜面の固有名詞に、どうして「国分寺」を冠したのか。「多摩川崖線」や「野川崖線」ではうまくないとしても、「小金井崖線」や「世田谷崖線」ではだめなのか。
(以上は、日本地図センター発行『地図中心』2012年3月号-2月末発行-への連載文の冒頭部分。このあと「ガイセンと、センガイと」「誰が言い出した・・・」「認識の所在」「ユリイカ!」とつづく)
年末恒例の「NHK紅白歌合戦」というのを、いまやっている。
これが「日本の代表的エンターテイメント」であるなら、恥さらしというものである。
男の子、女の子の、咽喉の上からしか出ていない、出ない声のオンパレード。
聴くに、見るに堪えない。
演歌歌手などを除いては、総じてとても「歌手」などといえたものではない。
比較して、ビデオ出演した「レディー・ガガ」は、さすが「歌手」である。
巨大獅子頭の上で歌った、金箔パゴダのような小林幸子の衣装も、何の意味があるのかまったくわからない。
皮相の「話題性」ないし「視聴率」を意識しただけのプロデュースなのだな。
勘弁してくれ。
というわけで、結構見てしまってからチャンネルを変える。
いや、折角の「2011年の最期」なのだから、テレビを消して瞑目すべきだろう。
昨日は今年最後の日曜日。大概の新聞書評欄は今年の×冊というお定まりのページを掲げているが、新刊にあまり興味のない当方としてはざっと目を通した程度。
管見のかぎりで、今年記憶に残った文章は『東京新聞』10月11日の夕刊に掲載された、金原ひとみのものだった。
芥川賞や直木賞もジャーナリズムの例祭程度にしか思っていないから、ましてその受賞で話題になった若い女性作家の作品も読んだことがない。
しかし、たしか芥川賞受賞作家の、この文章はよかった。
小説がどうなのかは知らない。
文章がよかった、というのは、事態の正鵠を射ていて、しかも共感するところ大であった、という意味である。
この文章だけで、この「作家」は後世に記憶されると思われる。
見出しが「制御されている私たち 原発推進の内なる空気」となっているが、それは多分編集部でつけたもので、あまりよろしくない。
文章自体を読むための邪魔になる。
その文章は、次の字句をもってしめくくられる。
「私たちは原発を制御できないのではない。私たちが原発を含めた何かに、制御されているのだ。人事への恐怖から空気を読み、その空気を共にする仲間たちと作り上げた現実に囚われた人々には、もはや抵抗することはできないのだ。しかしそれができないのだとしたら、私たちは奴隷以外の何者でもない。それは主人すらいない奴隷である」
ここには、「国家公務員」も奴隷だ、との認識がある。
「奴隷の主人は、また奴隷である」とは魯迅の言葉とされる。かつて竹内好は次のように書いた。
ドレイが、ドレイであることを拒否し、同時に解放の幻想を拒否すること、自分がドレイであるという自覚を抱いてドレイであること、それが「人生でいちばん苦痛な」夢からさめたときの状態である。行く道がないが行かねばならぬ、むしろ、行く道がないからこそ行かねばならぬという状態である。かれは自己であることを拒否し、同時に自己以外のものであることを拒否する(「中国の近代と日本の近代」)
しかし、いまや奴隷論は魯迅や中国の近代史に事例を求める必要はない。
日本列島も、このかたずっと奴隷列島だったのだ。
ワタシもオマエも奴隷であった。
その状態が、世界の、万人の目の前に、まざまざと「露出」してきたのが3・11とその後、そして現在である。
ハーバード大学のマイケル・サンデル氏が、被災直後の状態をほめたとしても、それは奴隷の秩序であった。
だから、今年の十大ニュースの第一は、「奴隷列島暴露/奴隷状態ただちに変化なし」である。
レヴィ・ストロースの弟子で高名な文化人類学者の川田順造が、この11月に岩波書店から本を出した。
『江戸=東京の下町から 生きられた記憶への旅』という。
自身が「深川」の出身で、そのフィールドを素材にしたのである。
30年も前の雑誌連載などを単行本にしたのだ。
ただ集めた、という本としてのつくりの問題性、表記の妥当性や誤植、参考文献の記載について云々するつもりはない。
しかしこの著者は、アフリカをフィールドにした『曠野にて』という本で、黄金海岸の奴隷貿易史を論じていたはずだ。
下町といえども、いま「東京」を謳う本があれば、3・11を避けてすますことはできない。
フクシマに触れずして「地域」を語ることは許されない。
3・11をパスし、フクシマを視野に入れないこの「東京下町」本は、おのが「奴隷」としての立ち位置の無自覚さ故に、「今年の×本」の筆頭にあげられるだろう。
(財)日本地図センター発行の月刊誌『地図中心』に、「江戸東京水際遡行」という、文章を毎回何ページか書いていたのだけれど、忙しさについ中断してしまった(2007年1月~2008年7月まで17回連載)。
2012年1月号から再開するにあたり、江戸東京の地形、とくに坂の関係について、原理的な側面を少しさぐってみた。題して「切土坂・盛土坂」という。
当ブログ2011年10月2日の記事を展開させたようなものだが、以下要点だけ述べておきたい。
坂の祖形は崖にあり、坂はそこから人の手によって生成された、というのが、言いたいことの第1点。
第2の点は、坂は「道」の一部ないし全部であって、単なる斜面とは区別されなければならないということ。
さらに、坂は「竪の坂」「横の坂」の区別があり、都市部でもかつて存在した「横の坂」、はほとんどが竪の坂に改修されているということ。
また、その竪の坂の多くは「切土坂」であるが、盛土との「複合坂」もすくなくないこと、など。
以上を、模式図や写真、文書記録をつかって述べている。
詳しくは今月末発行の同誌をご覧いただきたい。
9月某日
東京電力から補償金請求案内が届く。
1 今回の補償金について
2 本冊子における用語の定義
3、4、・・・と続く、悪評高い160ページ近くの説明書と請求書、同意書の数々。まず自分たちがどのカテゴリーに入るかを分類することからして一仕事だ。そこから一ヶ月ごとに、
A 避難所、体育館、公民館
B ホテル、旅館、ご親戚宅、仮設住宅、賃貸住宅等
C 自宅
のどこにいたのかをチェック、これが「避難生活等による精神的損害にかかる請求明細」。
移動は「同一都道府県内の移動」なのか「都道府県を越える場合の移動」なのか。
それは「自家用車による移動」なのか「その他の手段による移動」なのか。
「家財道具移動」も同様のチェック。
「標準交通費一覧表」が「自家用車」「その他の交通機関」用が宅急便の料金表のようについている。
「一時立ち入り」は何月何日だったのか、「都道府県内移動」だったのか、「都道府県外移動」だったのか・・・という具合に事細かなチェックが60ページ近く続く書類が一人に一冊ずつ。
それに、あとは文句を言いません、という同意書。
領収書、事業所・病院などの証明書を添付。
そしてそれらが認められれば、仮払いとの精算になる。
精算の結果が仮払補償金を下回る場合はゼロとなる。
避難せずにじっと耐えていた人達に補償はほとんどない。
これ、経費扱い?
原発事故の避難は東京電力の社員の出張と似たようなものですか?
なぜこんな間違いに気付いてもらえないのでしょう。
賠償してもらいたいのは、放射能の恐怖と被害に、肉体的、精神的にさらされてしまったこと、
築き上げてきた生活が一瞬にして切断されてしまったこと、
その先の見えない暗闇に対してであって、
“避難と休業の経費のお支払い”ではないのです。
呆れる。
・・・・・
以上は、東京電力福島第一原子力発電所から30キロ圏内にある、川内村の知人のたよりにあったものの転載。
ちなみにわが社の在庫置場(倉庫)は、その川内村にある。
十年以上前に別荘として購入したものだが、今となってはそれを売ることも担保にすることもできなくなった。
別荘や倉庫は補償の対象外だという。
そこに住んでいない我々としては、逆に、村人の避難先に義捐金をもって訊ねなければならないと思い、実際、事故一ヶ月ごにそうした。
しかし、東京電力は、史上最大級の環境犯罪の現行犯である。
その当事者に、こうした「身の程知らず」な態度をとることを許している政府は、その存在理由が問われることになるだろう。
ただお湯を沸かして、タービンを回すだけの施設。
それが原発であったとは、今回多くの人が気付いた事実だった。
単なる蒸気機関。
それなら、どうしてこれだけの、巨大な事故災害がおこるのか。
吉本隆明氏は言う。
「原発をやめる、という選択は考えられない。発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。(略)お金をかけて完璧な防禦装置をつくる以外に方法はない」(日経新聞、2011年8月6日朝刊)と。
この人の論は、「自立」という言葉で一括される。
戦争体験と戦時転向をえぐり、徹底した個の立場からもの申したわけだ。
いまだに信奉者も少なくない。
コピーライターの糸井重里なる人物もその代表格らしい。
かく言う本人も、10代の終りにはかなり影響をうけた。
吉本氏はまた、原発は「燃料としては桁違いに安い」という。
冗談ではない。
お湯を沸かす燃料としては確かに安い。
けれども原発システムのほとんどは、「制御」技術なのだ。
運転制御だけではなく、「安全対策」や、「使用済核燃料」の処理制御も含めると、その経費は実に膨大なものになる。
官政財学報の相互利権で成り立つ「原子力村」の活動の結果、細長い地震の巣のような列島に、54基もの原子炉がひしめいている。
しかしその原子炉も、通常でさえ「稼働率30%」、現状は20%以下。
経済原則もなにもあったものではない。
「持って行き場」のない膨大な放射性廃棄物を産む原発プラントは、「トイレのないマンション」に例えられるが、それはちがう。
糞尿は微生物が分解してくれるが、放射性物質の影響は煮ても焼いても変化しない。
それはただ「時」が解決するだけである。
しかしその「時」は、人間の「歴史」のおよばない「万年」の彼方である。
巨大な「国費」を注入して原発が無理やり「立地」し、維持されるのは、「科学の発達」のためではない。
政治的な理由が存在する。
それは、「原爆」である。
「核兵器」をもたない国家は、国際政治のうえで「自立」しえない、という官僚・政治家を中心とした力学認識があって、「原発」」はその「国防」の潜在力として、文字通り「力づく」で維持されているからだ。
だから、かれらにとってこそ「原発をやめる、という選択は考えられない」のだ。
なにがなんでも原発体制を維持するのが官僚たち、そして「原発村」の本音であり、「ストレステスト」などはアリバイ工作の一環にすぎない。
しかし、その「国防の拠点」こそ、実はミサイル攻撃の恰好の標的である。
原発プラントを複数同時攻撃されたら、「安全」も「防衛」もあったものではない。
狭小な列島上に逃げ場はない。
原水爆そのものの破壊力や放射線の影響よりも、原発プラント破壊による放射性物質拡散、そして汚染とその結果は、実は桁違いに深刻だからだ。
3・11は、「日本」という現代国家の「国防」上の最大の弱点を、満天下に曝(さら)したのである。
だから、これを「第二の敗戦」というのは、正しい認識である。
旧軍部と政治指導者そして臣民は、制空権を奪われてなお敗戦を認めず、主要都市のほとんどが火炎のなかに投じられ、人々は逃げまどい、何十万という数の「銃後」の人間が焼死した。
そうして今日、成功も失敗も五分五分のようなミサイル迎撃(MD)システムの構築に、毎年莫大な金が投ぜられている。
この、愚かな「金がらみ力づく構造」に説き及ばない、いかなる原発論も「国防」論も無効である。
第二の敗戦期に、「占領」という「他力」をたのまず、自ら省し、「自立」できるか否か、それが問題なのだ。
1983年に発売されたチェッカーズのデビュー曲は、康珍化作詞、芹澤廣明作曲の「ギザギザハートの子守唄」だった。
筆者は20年ほど前、時々この曲をカラオケで歌って顰蹙を買ったものだ。
近年は歳相応に衰え、酔うために朝方まで酒を呑む、というようなこともなく、加えて昨今は呼吸器系統がダメージを受けて、いまだそれをひきずっているものだから、歌の記憶からは遠ざかる。
しかし、「ギザギザ」には突然遭遇してしまう。
人と話をしていて、お互い急にギザついた感じになってしまうのだ。
「被曝」の影響などという話題に不期して触れてしまうとき。
観点を異にした者どうしがそれぞれマグマをかくしもっているものだから、互いに鎧袖一触。
A)
「被曝の影響などと言うが、煙草の害や排気ガスと比べると、そちらの方が深刻」
「内部被曝の影響を心配して、子供に給食を食べさせず、弁当をもたせるような親は、自分の子供のことだけを考えている(そういう親はデモにも行かないだろう)」
「被曝の影響が実証されないかぎり、言い立てるのはおかしい」
B)
「被曝は空気や水、食物にかかわる万人の問題で、煙草や排気ガスなどの汚染と比較してはいけない」
「被曝を避けたり逃れたりすることのできる者はそうすべき(生物として自然の行為には、卑怯もエゴもない)」
「被曝の影響は事故を概括して考えるべき。チェルノブイリ(1炉事故・短期間)と、フクシマ(3炉+4燃料プール・いまだ未収束)を比較しただけでも、今回の事故の巨大さが判断できる」
以上は、Bの側からのまとめだから、衡平を欠くものだろうが、手掛かりのためにとりあえず掲げてみた。
ニュアンスの違いや漏らした論点も多いかもしれないが、こんなものだろう。
排気ガスや煙草の害といったステージのまったく異なるものを引張り出す手法は3・11当初から存在していたが、それがリアリティあるもののように主張され、受け入れられえるのも、首都圏に住まう人間にとっては、現状肯定、日常化現象が必要だからなのだろう。
しかし、本当に「ギザギザ」なのは、巨大な原発「事故」そして人類史上空前の被曝という「人災」に対して、司法がまったく動かないことだ。
昨今の「オリンパス粉飾事件」ですら、東京地検は「幹部聴取」を開始するという。
強きに弱く、弱きに強い、のが司直の常だとすれば、中国あたりを「法治国家ではなく人治国家」などと言っていられないはずだ。
知人に示唆されて、あらためて幸田露伴の高名な文章にひととおり目を通してみた。
岩波文庫『一国の首都』のタイトルには、「他一篇」と付けたりがあって、その短い一篇は「水の東京」なのだが、そちらは必要があってすでに馴染みの文章であった。
しかし、メインの「一国の首都」を通読するようには、食指が動かなかった。
明治32年11月、一気呵成に書かれたといわれるが、現代人にとっては見慣れぬ漢語をちりばめ、見出しや章区切りもない、11万字余りのその文は、気軽に読み下せるものではない。
そうしてまた、劈頭の一文からして、その後を目で追う気を失わしめるのである。
曰く、「一国の首都は譬(たと)へば一人の頭部のごとし」と。
確かに「首都」というタームからしてみればそうだろう。
しかし、これは明らかにcapital cityの翻訳語であって、その本意は「首都」ではなく、「主都市」なのだ。
ひとつの国家を前提とし、その政治の府たる場を人体の頭部に比喩するのは、きわめて凡庸な「アジア的」スタイルである、としか言いようがない。
岩波文庫の巻末には中野三敏が注し、大岡信が解説を書いているが、それによると、書誌学者にして明治文学研究で知られる柳田泉はその著『幸田露伴』(昭和17年)のなかで、「一国の首都」は「曠世の奇文」であり、「この一文だけでも露伴の名は永久に伝はることが出来たらう」と絶賛している由。
大岡もつづけて、この文に「何らかの意味で匹敵しうるだけの包括的で懇切丁寧な東京論を書き得た人が他にいただろうか」と問い、「一人もいない」と結論づけている。
果してそうか。
3・11以降の事態は、従来の都市論や首都論がまったく説きおよばなかった異貌の東京の姿を露出させた。
そうして、実はその異貌の東京は、明治30年の3月に、足尾銅山鉱毒被害地の住民2000人が徒歩東京を目指し、警察の阻止線を突破した800人が日比谷に集結した時にも、また水俣病患者の代表らが上京した昭和44年4月にも、厳然として存在していたのである。
幸田露伴の「一国の首都」の後半35ページ、つまり全体の30パーセントあまりが、都市における「娼家制度論」となっていて、露伴の「博識」のほとんどはここに表れているのであって、まっとうな都市論としてはすでにバランスを失している。
その情熱、その博識、その文章力において、多分露伴は何人をも寄せ付けない、ぬきんでた才をもった人物であったろう。
しかし、その人物や才能と、そこから生み出された作品とは区別されなければならない。
今日この「都市論」は、及びもつかないと仰ぎ見られるのではなく、その内実に沿って、批判的に読まれるべきである。
そうして、この文章から今日くみ取るべきものがあるとすれば、例えば、駅前に簇生せる簡易賭博場(パチンコ、スロットの類)や簡易買売春店舗(テレクラの類)、そしてサラ金事務所とそれらの看板を一掃できないのは、すでに政治と民心が江戸後半あるいは末期の様相を呈しているからである、という読み換えが可能だという点にあるだろう。
東京は、そして「首都圏」は、ストロンチウムを持ち出すまでもなく、いまたしかに、末期の姿を呈しているのである。
「地方出版の雄」のひとつに数えられた福岡の葦書房から、その本が出たのは1980年の11月だから、30年以上昔のことになる。
上に掲げたタイトルをもった書物のことだ。
気になって、ずいぶん探して書函の底から引張り出し、再読してみた。
著者は、その18年後に同書肆から『逝きし世の面影』を上梓し、和辻哲郎文化賞を受賞することになる渡辺京二氏である。
3・11を契機に赤裸々に露出した、日本における[首都/地方]のグロテスクな図式を、どのようにこの伝説的著者は「解」したのだったか、それを確かめたかったのである。
氏の、「都と田舎の関係」についての予言はこうであった。
「東京対地方という問題の立てかたの根拠は、進展する全国的な都市化の波、劃一的均質化の動向によって、遠からず消滅するだろう」と。
もちろんこれは、都市化の波を危惧し、「地方の復権」を異口同音に求める「地方文化人」のなかにあって、反語的に主張された論であった。
しかし、「突出した首都」という、「古代的」あるいは「アジア的」な構図は、すくなくとも「遠からず消滅する」ことはなく、むしろ「首都の懸絶した大きさ」は、今日の世界的現象として指摘される。
あるいは、1%と99%のうち99%の半数以上が、首都に吸い上げられ、漂わざるを得ないのが現況であると言い換えてもよい。
氏の立論が、「地方文化人」たちの俗論に対する反動の域を出なかったのは明らかである。
「田舎」がいかに「電化」あるいは「情報化」され、コンビニが遍在し、ゴミ回収車がくまなく集落をまわるようになり、風景が均質化されたとしても、それが「都と田舎」の平準化を結果したわけではない。
なぜならば、人間そのものの「能力」序列において、その頂点から首都に回収され、国家に序列化される社会的価値のヒエラルキーはむしろ高次化したからである。
「価値」は、一極から垂れ流される。
それは、現代社会の「グローバル」な結合と、高度複雑化によって、必然的に巨大化する国家官僚システムと世界資本の運動にパラレルな現象である。
かつて「都市論」や「国家論」がジャーナリズムをにぎわせた時代があった。
羽仁五郎の『都市の論理』という書物はそのひとつであったが、今日それを顧みる者は誰もいない。
対して、増田四郎の『都市』は、なお味読に値する名著と思われる。
ただし両著の論旨は、ギリシャ-ヨーロッパ史の一定時期、都市は国家に包摂されず、分立、拮抗しており、制度としての商人・職人のギルドも、社会の分節として実効されていて、その「記憶」こそ「民主主義」の、実際上の淵源であった、という点で一致していた。
しかし、その規範としたヨーロッパ史自体が、歴史的思想的相対化を避けえない領域に、人類は踏みこんでしまったのである。
あるいはこう言い換えてもよい。
生物としての人間存在(人口)と、その空間的結合度の規模が、「民主主義」で解決できるほどのスケールを超えてしまったと。
つまり「現代世界」の、すくなくとも政治経済の一側面は、分節した「地域」と「社会」を備えたヨーロッパ式結合ではなく、国家官僚がすべてを統制する「古代アジア的形式」にかぎりなく近接するのである。
これを、「中国の世界化」あるいは「世界の中国化」と言えば、口が過ぎるだろうか。
「地方」の「都市化」とは、そのような世界的変容の末端現象であった。
渡辺京二氏の、30年前の楽観論の破綻の先に見えてきたのは、今日の「世界」の、すくむような立ち位置そのものである。