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ガケの話

img133.jpg今春、首都圏の主要紙にはおおむね掲載されたから、憶えておいでの方も多いと思うけれど、埼玉県八潮市の「垳」(がけ)という地名が文字通りがけっぷちで、区画整理に際して「青葉」や「若葉」などに変えられてしまうという話題(トピック)がありました。ヒバリの啼(な)かないひばりが丘、緑を剥がして緑町同様、近年増殖の「ブリっ子地名」に変身なのね、と嫌味を用意していたところ、「垳川」(がけがわ)に沿った狭いエリアだけになってしまうものの「垳」の字名(あざめい)はなんとか残されるらしい。

「垳」は国字で「がけ」という訓しかなく、また固有地名としてしか存在しない特異な「漢字」。東京都足立区と埼玉県八潮市の境を流れる延長2.25kmの「垳川(がけがわ)」は、綾瀬川の旧河道でしたが、この川の名は字名の「垳」から命名されたのであって、その逆ではない。そうして、この字名が自然地形に由来することは明らかで、土が「行く」のだから「土壌崩壊地」が原意。

同じような「地域固有文字」例に、土が尽きる(旧字の「盡」)で「ママ」とよませる、神奈川県南足柄市の地名「壗下」(まました)があります。「ママ」といえば、千葉は市川市の「真間の手児奈(てこな)」の「真間」が有名だけれど、結局はガケとご同類、侵食地形の壁面に由来します。ちょっとした漢和辞典をめくってみても、「●(土+会)」や「垪」「圸」「墹」など、土偏の「ガケ国字」は結構みつけられるでしょう。

「垂直または急斜した岩石の(岩石のに傍点)面」(傍点引用者)というのが地学辞典のガケの定義ですが、日本列島において、とりわけ「首都圏」にあって圧倒的に多いのは、「土が欠けてガケ」という、土壌崩壊ないし侵食の急斜面。実は、「江戸・東京に岩のガケは存在しない」。なぜならば、「江戸・東京の表層 地質として、岩盤は存在しない」からです。
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ところで「崖」の文字が戦後の公用文にも用いられるようになったのは一昨年、29年ぶりに改定追加された新常用漢字表の196字に晴れて仲間入りしてからで、それまでお役所では「がけ」とカナ書きしたり、「急傾斜地」あるいは「崩壊地形」などと言い換えていて、今日ではそちらが専ら用いられる。gakeという単語には濁音と破裂音が同居していて、お上品なことばとはとても言えない。むしろ、嫌聴音であることが一種のアラームサイン。だから、ガケとは「近づくと危険」の意を第一とするのです。一方、ガケとは地形上の境界をかたちづくっているのであって、そこは本来人間の立ち入りを否む異界でした。

ノルウェーの絵本『三びきのやぎのがらがらどん』のトロルは谷川に渡した吊り橋の下に住んでいて、つまりはガケに顕現する魔神の裔(すえ)。古代中国では、ガケは鬼神の去就する場で、シャーマンはガケに向って供犠ないし占卜(せんぼく)をとりおこなう。屹立する岩の壁は聖所にして神域。だから仏教導入後は、そこは無理やりでも穿(うが)たれて石仏が並ぶことになる。

「近代」はこうしたガケの魔性あるいは聖性を一掃しただけでなく、物理的存在としてのガケそのものを駆逐し、あるいは「見えなく」してきました。都市部のガケは人為的な変容を強いられ、被覆され、あるいはその一部が切り開かれて、ゆるい「坂」となったのです。ガケは坂の「原景」でした。
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 土のガケや岩のガケは地形上のガケだけれど、世の中にはそれ以外のいろいろなガケやがけっぷちがあって、気圧のガケや温度のガケ、明暗のガケや、音のガケ、においのガケ、人口のガケ、果ては倫理のガケや愛憎のガケもある。安部公房の短編小説に、ボクサーの独白体を駆使した『時の崖』があって、これは試合におけるカウントダウンのこと。

近年知られるようになったのは、原発のストレステストにおける「クリフ・エッジ」なるがけっぷち。そういえば、東京電力福島第一原子力発電所の立地点は、本来標高30mはある福島県浜通り海岸端のガケの上。しかし愚かにもその立派な断崖を掘り崩し、地形図で確認すると標高7mほどの位置に「核発電プラント」を置いてしまったがゆえの巨大事故。そしてまた、知る人ぞ知る恐怖のガケに、太陽フレアの磁気嵐によって、地球上の広範囲な場所で送電が停止する、「電圧のガケ」がありました。

カール・ヤスパースは、紀元前500年頃を人類の精神文明上の画期とし、それを基軸の時代ないし枢軸の時代(Achsenzeit)と呼んだそうだけれど、そのデンで言えば現在は、東京や日本だけでなく、人類史上の巨大な臨界点(critical point)、つまりはガケの時代。

しかしそもそも人間には「生涯(涯に傍点)」というガケがあって、そこは誰もが行き着く最後の場所。

総じてガケは、「ひとごと」ではない。デジタルカラー鳥瞰画像でご案内する拙著『江戸の崖 東京の崖』(講談社、8月末刊)を、ご一読いただければ幸いです。

〔以上は、講談社PR誌「本」2012年8月号掲載文〕

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