馬車鉄道の地図記号については手元にある陸地測量部系以外の地図調べが残されているが、新型コロナ感染症騒ぎに同調して国立国会図書館や公共図書館まで厳しい利用制限を課しているため、追跡は中止せざるをえない。
身体の免疫力を低下させるアルコール提供施設の制限等は一定限理解できるが、飛沫感染がメインである今回の新型コロナ感染症において、その恐れの希薄な諸文化施設を利用制限させるのは無意味で害悪ですらある。
とりわけ公共図書館の利用制限は、私に言わせればネットに跳梁する独りよがり亡霊言語に加担し増長させることにほかならないのだが、この列島の大衆言語(共同幻想)レベルはその程度なのかも知れぬ。
まして何万人というレベルで変異ウィルスの「国際交流」を促進するオリンピックを中止とせず、万単位の観客に蛇口を開くとするに至っては阿呆の仕業でなければ不正義そのものと言うほかないのである。
愚かのきわみというべき「第二第三の敗戦」を嘆いてもはじまらないので、本項主題を「鉄道用語」の一部に転じたい。
ステーションならぬステンショが「停車場」となって定着、使用されたのは明治期から大正の初期までだったように思われる。それが本来馬次場所を意味していた「駅」に変容したのは、計画されていた「東京中央停車場」が「東京駅」として開業(1914年)したのが決定的だったろう。この呼称変容に当時「国鉄」のどのような意図が働いていたのか知らないが、古代律令期の駅制にいささか興味をもつ向きとしてはぜひ知りたいところである。鉄道史家の解明に期待したい。
次に気になるのが「踏切」だが、こちらは言葉そのものが奇怪で、由来もわけがわからない。
英語は level crossing(水平交差)で、over crossing や under crossingに対し、鉄道と一般道路が平面で交わる地点の意である。
日本語の「踏切」は本来「ふんぎり」つまり決断の意だから、鉄道メカニズムには程遠い。
要はfooting(歩み入り)を一時遮断するということなのだろうが、この用語の成立についても初期はどのように「遮断」したのかあるいはそれができなかったのか、明治初期の鉄道文書およびその関連文書を渉猟してもらうしかないだろう。
もうひとつは、地名としての「停車場」「停車場前」「駅前」である。
これは実際に旧版地形図にそのように記載されているのであって、以下の図は最近刊行された『鉄道と地図』(須田寛・野々村邦夫著、2021年5月)の第3章地形図の中の鉄道の「鉄道が残した地名」の節に掲載、紹介されているものだが、
ここで指摘したいのはそれらの地名が指示するエリアは鉄道路線の一方の側であって、けっして両側にまたがっていたわけではなかった、という点である。
つまりとりわけ初期の鉄道の改札は基本的に一箇所であり、今日のような「自由通路」が設けられていたわけでもないため、図の立川や国分寺に顕著なように線路の一方(下の図では北側)のみに道路が通じ駅前集落が形成、発達したのであった。だから改札口を出て「駅裏」に向かうのに、「踏切」を越して大回りをしなければならなかった時代は結構長かったのである。そのことを理解していないと、「駅前」や「停車場前」などの地名が示す地域のイメージは正しく把握できない。
上は前掲図の北、新橋を中心としたエリアである。
前回見た「源助町」「柴井町」を貫通していた通町筋が北上して新橋を渡り、現在の銀座通り(中央通り)の銀座八丁目と七丁目にかかる部分であるが、道の中央を走る破線はご覧の通り新橋を渡らない。
北上(あるいは南下)せず、橋の手前で東西に分かれてしまう。
さらにその破線は「芝口一丁目」の南の通りにもみられ、現在の銀座エリアに至っては主要な道の中央にはおおむねそれが走っている。破線が渡るおもな橋は一石橋、神田橋そして四ツ谷見附の土橋などごく一部の橋で、日本橋や京橋、浅草橋のほか大概の橋は渡らない。
この破線の橋わたりと分布状況はきわめて特徴的である。
もちろん馬車鉄道は新橋や日本橋をわたり、上野山下や浅草まで走行していたのである。
以下は当時の通町筋とそれに架かる新橋で、右上が北になる。
江戸前期(玉川上水の通水は1654年〈承応3〉)から約250年にわたって巨大都市民の生活を支えてきた神田および玉川の2上水は、江戸東京市街中心部の給水範囲を南北で分け合っていた。
この破線記号は市民生活にとって馬車鉄道よりもはるかに根源的な、路面地下に埋設された上水施設を表示したものと推量される。東京市で旧上水が廃止されたのは1901年(M34)だが、地下水路の地図記号自体はその後も結構な長きにわたって存在したのである(『地図記号のうつりかわり』p.23「地下流水及樋」p.78「地下水樋」p.90「道路下の樋」)。
鉄道馬車路線はその軌道が路面に物理的に刻印されており、馬車鉄道の地図記号が存在したにもかかわらず、1880年代までの陸地測量部系の東京の地図表現においては、表示個所および表示記号の近似から、馬車鉄道より「地下流水及樋」が優先された。
馬車鉄道は鉄道だったとはいえ、停車場ないし停留所をもたなかった。それは途中、どこでも乗客の発声に応じて停車した。そのためもあったろうが、馬車鉄道と上水の対比で言えば、上水は江戸幕府から江戸占領軍が引き継いだ基幹インフラでいわば「官」有財産、方や「民」間会社の施設にすぎない。「官」の地図がいずれを優先するかは論を俟たないだろう。旧上水廃止から馬車鉄道の廃止つまり路面電車走行までには2年ほどの短い間だったから、結局のところ東京の馬車鉄道は陸測系の地図には記載されなかったのである。
ところで本項その7およびその8に掲げた地図に登場する「梯子状」の鉄道記号は、現在の「旗竿」式に至る鉄道記号のイノベーション上大変重要な存在である。つまり梯子がなければ旗竿は誕生しなかった。であるにもかかわらず、梯子記号は5千分1地図以外では用いられた形跡がない。
梯子式鉄道記号の寿命は一瞬だったが、地図記号史上マイルストーンとでも言うべき存在であることは確かなのである。
こちらは先に挙げた「五千分一東京図測量原図」の印刷版で、1883年(M17)測量、1885年製版、1887年(M20)8月出版「東京南部」の中央部分。
「源助町」と「柴井町」間の旧国道1号の路面中央を走る線分記号(破線)がより鮮明である。
しかし、よく見るとその西に平行して走る道の西寄りにも(先の彩色原図にも、よくよく見るとこの場所に破線が記載されている)、さらには「源助町」の左上「同(日影町)二丁目」に突き当たる逆L字型の路面中央にも、同様の破線が走っている。そうして、これらの線分記号には表現上の区別がない。つまり記号としては同一の事物を表象しているとみられる。
馬車鉄道がこれら破線部分を同じように走った事実はないから、結論として言えることは、この破線記号は馬車鉄道の路線をあらわしたものではない、ということになる。
新橋停車場に隣接した東京馬車鉄道の社屋を描きながら、そうして馬車鉄道開通(1883:M16)後であるにもかかわらず、目抜き通りの真ん中を走っていた馬車鉄道路線はなぜか描かれなかった。
しからば、この破線はいったい何を表したものか。
この図は「五千分一東京測量全図」全36葉のうち「東京府武蔵国京橋区木挽町近傍」(1884年〈M17〉2月)の左下隅部で、前回の迅速図と同様「東京馬車鉄道会社」の本社がみえる。
いわゆるフランス式の着色原図で、『地図記号のうつりかわり』によれば明治13年式の図式にしたがい木造家屋は黒、垸工家屋(煉瓦や石などの不燃材製建物)は赤色で表現されていると書いている。しかし原図に赤色の屋根として示された建物がすべて垸工であったわけではない。この点については後に触れる。
さて「馬車鉄道」に関してであるが、「源助町」から「柴井町」まで立派に線分記号が記入されている。
しかしながら、「五千分一東京測量全図」の複製版解説にも、『地図記号のうつりかわり』の「5千分1東京図記号表」にも、「馬車鉄道」の文字は一切登場しないのである。
それに対してこの図の「鉄道記号」は二条線の間に節入れをした梯子形、つまり枕木と鉄線路の形そのままの記号化でまことに判りやすい。図の中央に見える通りである。
上掲は陸地測量部の2万分1迅速測図「麹町」(1880年〈M13〉測量、1886年〈M19〉製版、1890年〈M23〉再版)の一部である。
図の上部中央「汐留町一丁目」の北に「停車場」とあるのはもちろん1872年10月14日(M5年9月12日)に開業した新橋停車場だが、「汐留町二丁目」には「馬車鉄道会社」が記入されている。
先にも述べたように、東京馬車鉄道会社が設立されたのは1880年でこの図の測量年と同年だが、設立認可は12月28日で当初の仮社屋は三十間堀三丁目におかれた。
鉄道局用地借用が許可され、東京馬車鉄道会社が本社を汐留に移転したのはその翌年。1883年(M16)に開業する日本鉄道上野停車場と既設の官営鉄道新橋停車場の間、家屋櫛比する銀座神田地区は専用軌道の土地買収に時間がかかることから、とりあえず街道路面を走る馬車鉄道によって連絡させたのであった(「都史紀要33」)。
迅速図における「鉄道」記号は太目の二条線で、図に見えるようにその間に細めの線を挟むのは「二軌」の路線である。130年間猖獗を極める「旗竿」以前の、まことにスマートな鉄道記号である。
これに対し同図の「馬車鉄道」記号は、以下の図のように一定間隔をおいて短い線分を並べたもの(一軌)と同様に二条線を並べたもの(二軌)の2種(『地図記号のうつりかわり』)。
この線分記号らしきもの(馬車鉄道・一軌)が上掲図のどこに描かれているかというと、「源助町」「露月町」「柴井町」間の路上に見えるだけで、その南北は途絶えている。上図の範囲外となるが、この北側の京橋-日本橋間のいわゆる通町筋にも途切れながらこの線分はたしかに存在する。前述のように、新橋-日本橋間の馬車鉄道は1882年(M15)6月には開業しているのであるから、この線分は「芝口一丁目」から同三丁目にかけての路面上にも、当然ながら記入されていなければならない。それが見えないのは地図原版の摩耗ないし加筆損耗の結果か。
しかし日本橋区の南端部から京橋区エリアにかけては、それ以外の路面のところどころにもこの線分は描き込まれていて、それは上掲図左上の「烏森祠」と「和泉町」間の路面にも指摘できる。このディスオーダーはまことに怪しい。「参謀本部地図無謬神話」はもちろん神話にすぎないが、この乱調はいったい何に由来するのか。
図は『風俗画報』 臨時増刊第244号(1902年:M35・1月25日発行)の「新撰東京名所図会 第33編」(芝区之部・巻之二)所収図の一部である。
制服制帽の鉄道員3人が、乗客の乗った車輛と格闘している。
どうやら脱線したらしい。
向こう側は川で、数隻の舟が舫(もや)っている。
橋の袂(たもと)である。
それにしてもこの車輛、せいぜいが数人乗りの箱とみえる。
だから脱線しても乗客を乗せたままでなんとかできるのだろう。
キャプションにあるように、橋は渋谷川下流、古川河口に架かる金杉橋である。
ということは、車輛が走っているのは旧国道1号つまり東海道である。
「大通りは其処をまた、小さな鉄道馬車が不景気な鈴(りん)を振立てゝ、みじめな痩馬に鞭をくれ乍らとぼとぼと、汐留から只一筋に、漸く上野浅草へと往復して居りましたが、今の電車と違って乗降も乗客の自由で、鳥渡言葉さへかければ何処の辻でも其処の角でも、勝手気侭に停めてくれました。馬は馬で所構はず糞便をたれ流す、車台は車台で矢鱈に脱線する、其都度跡の車台から馭者や車掌を招集して、はては乗客までも力を添へ乍ら掛声諸共元のレールへをさめるのでありましたが、狡猾な人は其ひまに随分乗逃も出来たでせう。思へば実に幼稚な物で、其が東洋第一と誇る日本の首府、我東京市の面目を僅に保っていた唯一の交通機関であったかと思ふと、全く情けないやうな心もいたします」
これは『都史紀要33 東京馬車鉄道』(1991年)に引用されている喜多川浅次『下町物語』(1916年)の一節である。「小さな馬車鉄道」と言うからには馬がいないといけない。図の右下に描かれているのは馬の尻と尻尾、そして曳具の一部のようだ。
次の図は金杉橋を南下すること約450m、入間川(いりあいがわ)河口に架かる芝橋付近は「芝浦之景」と題された「新撰東京名所図会 第33編」見開き図の一部で、路上の鉄路も馬車の全体も一応描かれている。
橋の上天秤棒を下げた2人の行商人らしき人影の上には「芝橋」、左手の二階家には「松金」と短冊状の詞書(ことばがき)があり、同誌の記事によると後者は鰻屋という。橋の袂にはガス灯らしきものが立ち、3台の人力車と3本の電柱がみえる。芝橋は木造橋である。図の左上は東海道線の鉄道橋で、その橋脚は堅牢な石造りである。
時は日露戦争前、国道1号といえども舗装も排水溝も無きにひとしい道路はその大部分が関東ローム剥き出しで、雨が降れば泥濘、霜柱が融ければまた泥濘。軌道施業は「幅八尺、深さ一尺二寸三分ほど地面を掘り下げ、砂利を五寸五分の厚さに敷き、手木でこれを三寸まで突き固める。その上に栗の横材(枕木)を四尺間隔に敷き、この上に桧の縦材を敷き・・・」と念入りのようだがその程度ではレールに浮きや歪みが生じるのは自然の摂理。逆に「線路ノ両側尺余ノ地ハ泥土深クシテ近ヅク可カラズ」(『朝野新聞』)の有様となった。しかしマガダム法(砕石道方式)による道路改良も、蔵前通り以外は実施されずに終わる。その反面「東京馬車鉄道」の利益は莫大で、株式配当は3割5分がつづいたという(「都史紀要33」)。
汐留に本社をおいた東京馬車鉄道会社の設立は1880年(M13)、新橋-日本橋間の開通は翌々1882年6月で、軌道が上野、浅草へと延伸し全工事が終わって開業式が行われたのは同年12月2日である。
大森‐新橋間は1889年(M22)設立の品川馬車会社がレールを敷設して1897年(M30)に品川馬車鉄道会社となったものの、翌々年東京馬車鉄道に吸収合併されその区間は支線の品川線とされた。「新撰東京名所図会」に描かれたのはさらにその3年後の景ということになる。
しかしこの時すでに鉄道馬車全盛の勢いは失していた。事故や道路毀損、糞尿被害のみならず、私企業による公道のなかば独占使用に対する批判は根強く、東京馬車鉄道会社が東京電車鉄道株式会社と改称し、路面電車の時代が開幕するのは1903年(M36)から翌年春にかけて、日露開戦約1年前のことであった。
世田谷の地面から「江戸以前」の余薫が零(こぼ)れ出る。
時空と地形にわたる、ひとり街歩きのモデル誕生!
古地図・旧版地形図計32点、写真57点を収載。
谷山敦子 著
ISBN978-4-902695-36-6 C1025
A5判 180ページ 地図・索引付
並製 本体2000円+税
目 次
1 鉤の手と寺院の配置 ―世田谷新宿と矢倉沢往還
2 楽市のころ ―続・世田谷新宿と矢倉沢往還
3 用賀口を過ぎて ―三本の矢倉沢往還の盛衰を測る
4 常盤塚を過ぎて ―四本の芝道を考える
5 塚めぐり ―「境界」への小さな旅
6 此岸と彼岸をつなぐ橋 ―熊野信仰の空間を行く
7 そして熊野神社は残った ―熊野先達満願寺と檀那吉良氏
8 坂の太子堂 ―善光寺聖の足跡を訪ねる
9 武士の城館と道と川 ① ―洪水に流された?木田見館
10 武士の城館と道と川 ② ―地侍大平清九郎の天地
11 生と死をめぐるトライアングル ―北沢川流域の生と信仰
12 続・塚めぐり ―「境界」への小さな旅、再び
付 街道と並木の話
あとがき
参考文献
索 引
怪しい地図記号(触角+黒窓付四角)から触角を取り去った黒窓付四角の記号は、輯製二十万分一「東京」の1906(M39)年図では停車場を表していた。「国有鉄道法」は1906年の3月31日公布で、地図は同年11月30日の発行であるから、「東京」図における地図記号の変化は法と連動していたとみるのが自然である。
この年、日本列島上の主要な鉄道(レール)や汽車・列車のみならず駅舎も改札口も「国有物」となり、職員は官員となった。
だからそれ以前の1888(M21)年図では、記号の様相はまた違っていたのである。
下掲はその一部だが、鉄道に関連して3個所に黒窓付四角が描かれている。
右上、不忍池の東側の「停車場」と右下は新橋の「停車場」、それぞれ山手線の当時の「終点」に、黒窓付四角が見える。そして形は多少異なるものの、左下「中渋谷」近くにも黒窓付四角を指摘できる。
上野と新橋はターミナル(終端)を表したものと推測できるが、この渋谷付近の記号は何をあらわしたものか。ちなみに東京駅(計画では「中央停車場」)の開業は1924(T13)年、最後まで残った未接続上野-神田間が開通して現在の山手線が環状運転を開始したのはその翌年で、この図の37年後である。ついでに触れておくならば、東京駅東側の八重洲口の開設は1929(S4)年のことであった。
実は上掲範囲外の「東京」図幅には、ターミナルの黒窓付四角記号は横浜停車場にも描かれている。当初の横浜停車場は現在の桜木町駅の位置にあり、後の東海道本線に対して小脇に突き出した盲腸のような存在となった。この当時、列車は横浜停車場でスイッチバック運転を行っていたのである。
そうして渋谷型の黒窓付四角記号は、北から順に蓮田、上尾、大宮、赤羽、王子、板橋、目白、大崎、大森、川崎、戸塚、藤沢の各停車場と目される位置の鉄道記号の片側、すなわち左右ないし上下のいずれかに見出すことができる。
つまりこれは当時の停車場そのもので、鉄道記号に付された位置は改札口のある側を表したものと考えることができる。当時停車場の改札は、原則1ヵ所だったのである。だからこの記号そのものは、四角は建物を、黒窓は出口をあらわしたものと推測できる。そうしてよく目を凝らせば、内藤新宿の青梅街道と甲州街道の股の内側に、ほんの申し訳程度であるが、停車場はたしかに描かれているのである。
『地図記号のうつりかわり』には、渋谷型の記号は鉄道等の節の迅速図式に「小憩場」、仮製図式に「停車場」とあり、また明治28年式の項を見れば、今日に一般的な旗竿式鉄道記号の中央に白い四角で駅を表わすのはその時以降であるとわかる。近代初期は、地図記号も試行を重ねた時期で、それ以降に埋もれ、忘れ去られた記号類も少なくなかったのである。
すくなくとも「東京」図幅に関するかぎり、1888年図では、ターミナル以外の停車場は線路をあらわす「旗竿」記号(白黒だんだら)の改札口のある側に外付するかたちで表現されていたが、1906年図においては停車場はすべてターミナル型に変わり旗竿線の中央に位置するようになった。それがやがては今日に一般的な白の横長四角に変化する記号変化のプロセスが存在した。それは言うなれば停車場の具象型から、より抽象化された駅記号への歩みであった。
ちなみに、鉄道が白黒交互の旗竿式で表わされるのは明治24年式からで、旗竿の「国鉄」、ゲジゲジ状の「私鉄」の区別は昭和30年式からと『地図記号のうつりかわり』には記載されている。南海鉄道(現南海電鉄)は国有化されることなく最古の私鉄として知られるが、輯製二十万「和歌山」の1941年(T3)発行図を見ても、路線記号は国有鉄道と違いのない旗竿式である。「明治24年式」図式に発するとされるこの独特の旗竿式記号の由来について同書にとくに注記はない。
巷間には鉄道建設測量の標尺(ポール)や国旗掲揚の旗竿(白黒だんだら)に由来するといった説があるようだが、地図記号としては同年式の鉄道の「建築中」を示す記号、つまり節付二条線(梯子ないし竹棒状)とのセットで、その開通区間は節ひとつおきに墨入れすれば原板をそのまま利用できるという利点があったと思われるのである。
鉄道国有化1906(M39)年、国鉄分割民営化は81年後の1987(S62)年、JRは今や民間企業で「私鉄」にほかならないのである。今や旗竿式は「怪しい地図記号」と化した。意味不明の地図記号を旧套墨守する必要は、さらさらないのである。
一方ターミナル型の停車場記号全盛期、とは言ってもそれは列島の近代地図史上一瞬のことに過ぎなかったが、「国鉄駅」記号に陸軍所轄を表す「М」を被せて旧陸軍施設を表そうとしたのはどのような意図が存在したかは依然として判然しない。ただしすべての停車場をターミナル型で示した輯製二十万分一「京都及大坂」(1908年再版)図には、大坂城の東に「М」の記号を付し、南に「練兵場」と文字記載するのみで、触角付の怪しい地図記号は見つけることができないのである。
前回並べて明らかになった地図記号のエボリューションだが、それはあくまでも「陸軍兵営」を示した「旗」である。
実は陸軍そのもの、というより「陸軍家屋」ないし「陸軍所轄」を表す記号が存在し、それ自体が「進化」していたのであった。
以下の通り、上から順に「迅速図式」、「仮製図式」および「測図図式」、「明治24年式」~「昭和17年式」である。
さて、ここに至ってようやく本項「その1」の冒頭で示した「怪しい地図記号」に立ち返ることができる。
つまり、かの記号の上半分「仮面ライダーの触角」にあたる図形は、上掲なかばの「М」字にほかならないことが判然とするのである。
しからばその下の黒窓付箱型は何であるかといえば、これがいまひとつわからない。
上掲は輯製二十万分一図「東京」(1888:M21輯製)図の一部で、現在の北区赤羽付近である。
3本の道のうち、真中は二条線のうち片側が太く描かれた国道で中山道、板橋宿から分岐するのは二条線の県道川越街道、東側で鉄道が沿い赤羽と岩淵を通るのは県道の旧日光御成道である。
岩淵や赤羽に見える斜線付き丸記号は「(人口)五百(人)以上」の「村落」を示しているが、岩淵の丸から南西、中山道本蓮沼(単純な丸記号は「五百以下」の村落)の北に向かう一条線(里道)の途中に、中野で見たのと同様の「怪しい地図記号」が鎮座している。
『新修北区史』(1971年)によれば、これは「明治五年ごろ武庫司によって建設せられた火薬庫を前身とする」「陸軍火薬庫」で「約三万四千百坪の地積を有していた」という。中野犬小屋は約16万坪というから、犬小屋の方が5倍以上広かったのである。明治末期の地形図によれば、旧陸軍火薬庫の位置は現在の北区桐ヶ丘1丁目全域に相当するようだ。
『中野区の歴史』(1979年)は、その犬小屋跡について「明治三〇年(一八九七)に初めて陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊兵営がこの地に創設された。そして交通兵旅団司令部も置かれたが、その後、鉄道隊・気球隊は千葉県下に移転し、電信隊のみが残り、第一電信連隊と改称した」と記す。
さてもうひとつ、実は本項その1で示した1906年図の右下、「中渋谷」の文字に接して「怪しい地図記号」が存在していた。この位置は当時の代々木練兵場ないし衛戍監獄(陸軍刑務所)にあたる。衛戍監獄だとすれば現在の渋谷区役所および神南小学校の場所である。
結局のところ「仮面ライダー」触角下の黒窓付四角形は、陸軍施設ではあるもののその類別を特定しないということになる。
すでにお気づきの向きがあるかも知れないが、触角を取り払った「黒窓付四角」は「怪しい地図記号」の右下「なかの」停車場を示す記号にほかならず、「於ほくぼ」「しんじゆく」「しなのまち」「しぶや」も同様の記号で描かれているのである(本項その1の1906年図参照)。
1909年つまり明治期の終り近くからある間隔をおいて大都市部に作成された、1万分の1地形図のシリーズがある。20世紀末のバブル期以降は作成されなくなった地形図群だが、日本列島都市部約100年の変遷を詳細に語るきわめて貴重な地図資料である。
以下はそのなかの1枚、1909年(M42)測図東京近傍19面のうち「中野」図幅の青梅街道中野本郷付近である。
中央を東西に走るのはもちろん青梅街道で、図の上辺には桃園川の谷が水田化されているのがわかる。
中央やや西寄りに宝仙寺がみえ、また図の東寄りに「宝仙寺三重塔」として知られる江戸時代初期に建設された塔(戦災で焼失)が記載されているが、これについては後に触れるとして、ここで指摘しておくべきは宝仙寺の境内に描かれた丸印は、中野町の町役場であるということに関してである。
右下の「本郷」や左上の「仲町」という字が示す通りここは中野の中心地で、江戸時代には高札場も置かれていた。当然ながら明治期には、町役場から青梅街道をへだてた南側に、郵便局も設置されたのである。
この図では丸の中に〒の地図記号が見えるが、前述『地図記号のうつりかわり』によれば、「明治42年式」では丸に〒は「郵便電信(電話)を兼る局」の記号という。
1888年(M21)の輯製二十万分一図「東京」図では、丸に一本棒の中野の郵便局記号は青梅街道の北側に付されているが、そこは道路ではなく集落記号の「宿駅市街」(「(人口)一千(人)以上」)で閉塞されているから、道の北も南もなくともかくも「このあたりに郵便局あり」の表示なのである。
さて、肝心の「怪しい地図記号」であるが次の図をご覧いただきたい。
この図は上掲図の北に接続する「新井」図幅の一部である。
ここでは東西に走行するのは青梅街道ではなく中央線(甲武鉄道は1906年(M39)に国有化)で、鉄道線路の白黒だんだら記号は真ん中に細線入りだから、もう複線化されている。
地形図では真っ先に地形のことに触れておきたいので言うのだが、図の右端、鉄道線の北側に見えるのは桃園川の支谷である谷戸川の谷頭部で、「田」の記号につづいて「濶葉樹林」が描かれ、谷最先端の窪地は中野停車場の北まで伸びている。また図の右下は桃園川本谷、左下は別の支谷で、それぞれ「田」記号が付されている。
さて、中野停車場北からその西側にかけての一帯長方形の区画内に、「電信隊営」と「気球隊営」の文字が並んでいる。「気球隊営」の左下に「圍」(かこい)の文字があるが、これは江戸時代17世紀末から18世紀はじめにかけて存在した「中野犬小屋」地区の記憶をとどめたもので、現在中野サンプラザから中野区役所、そして明治大学と帝京大学の中野キャンパスが広がる一画は広大な「御囲」ないし「御犬囲」だったのである。
ここで問題にしたいのはそれぞれの「隊営」文字の頭に掲げられた「へ」の字の旗で、これは陸軍兵営を表している(「明治24年式」から「昭和17年式」まで共通)。
ところがこの「へ」は、それ以前は少しひしゃげた「М」ないし山形が二つ並んだ形で(「仮製図式」)、さらにその前は山形が三つ並ぶ旗(「迅速図式」)だった。それを時系列的に並べれば以下の通りとなる。
初期の複雑型から省略型に向かった、記号シンプル・エボリューションの典型である。
この記号の場合、「へ」の形は「陸地」ないしそのシンボルとしての「山」を表したものと見ることができる。