下の写真は、手記にある「家の裏手の小高くなっている所の崖」である。

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それは馬場下の小倉屋から夏目坂を100mほど上がった左手奥にある。
300余人が一挙に亡くなるほど収容能力のある壕といえば、理工学部が関係した施設と考えるのが妥当だろう。
それが感通寺碑文にあるL字型だったか、手記に書くU字型なのか、いずれかを確認する材料はいまのところないが、爆撃火災の煙を吸い込む煙突の役目をしたというのだから前者の可能性が高い。

この崖は、地形形成史の観点からみると、夏目坂の緩斜面造成のための切通し工事とそれに沿う家屋、店舗の敷地確保ないし拡幅のために人工的に作り出された高低差4メートルほどの急斜面であって、自然の作用にかかるものではない。

国家が開始した戦争であるにもかかわらず、ひとりひとりの人命を守るべき防空壕の造成責任は、概ね「末端」に投げ渡されていた。
タヌキ穴のような、哀れな防空壕が各家庭の庭に無数につくられ、その大方は何の役にも立たなかったのである。
何万人という人々が地下鉄(ロンドン)を避難所としそれを援助した政府と、地下鉄への避難を禁止した政府。
この列島の「民人(たみひと)」は、何と情けない「政府」しか持てなかったのかとあらためて思う。

それに較べ、低いとはいえ至近の崖を利用した例外的に大規模ないし集中数多の壕が、おそらくは大学の関与をもって用意されたのである。
その設計が、逆に避難者全滅ともいえる惨状をつくりだした。

『土地の記憶から読み解く早稲田』の著者や大学史編纂関係者に問い合わせるすべを知らないが、これだけ重要な歴史的事実がいまなお上に挙げただけの記録にとどまりその解明がなされていないとすれば、これまたまことに情けない「ブラックホール」状態と言うほかないのである。

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