仙台の句誌『澪』を主宰しておられた菅野洋々先生が亡くなられたのは、9年前の2012年10月31日未明。
同年12月号の『澪』後記はその訃報で埋められた。
手許にある先生のサイン入り第二句集『愛宕』の巻末「俳歴」には1928年岩手県生まれとある。享年86。
私がはじめて拝眉したのは1965年だったか翌年だったか。
本名菅野洋一先生は30代後半、小柄ながら颯爽、そのジェントルな声は懐かしく耳底に残る。
東北大学で阿部次郎に教わったから私は漱石の孫弟子、君たちは曽孫弟子、と冗談混りに仰った。
以下は先生とのご縁に触れた、佐山則夫氏の第二詩集『君かねウマーノフ』(2014)のあとがきである。

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先生は梅澤一栖(本名梅沢伊勢三)主宰の跡を継いで1967年に創刊された『澪』を1989年から主宰、2007年12月、当該誌第492号をもって病のためその務めから退かれた。
それでもなお『澪』は刊行を継続し、その「休刊」は2019年12月の第636号である。
私が見ることのできたバックナンバーは、B5判16ページカラー印刷という、句誌としては珍しい形態であった。
『澪』は仙台で発行された俳句誌のひとつとして、半世紀よく健闘したと言うべきであろう。

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武蔵野地図学序説 その4

この6日、角川文化振興財団の『武蔵野樹林』vol.8が発売された。
以下はそれに掲載の拙稿連載4回目5ページのうち、最初の2ページ分である。
例によって刊行後に気づいた誤植が1箇所。
執筆者の勘違いを、校正者も気が付かなかった。
図は往々にして本文ないしは文字部分より軽く扱われ易い。
図に本文と同等、あるいはそれ以上の価値や意味をみとめる編集者や校正者そして読者は、存外に少ないのである。

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今回の成果については、とにもかくにも実際に読んでもらうのが一番であるが、かいつまんで言えば正保年間の「武蔵国図」の入間郡に描かれた「山」の意味を、無縁や入会地と関連付けて読み解いたことがまず第一であろう。
さらに近世までの武蔵野と近代以降すなわち国木田独歩以降の武蔵野の意味合いを明確に切り分けたこと、および「堀兼井戸」と「野火止塚」の実態に迫ったことが挙げられるだろう。

あまたのビックリ本は措くとして、「早稲田」本(『土地の記憶から読み解く 早稲田 江戸・東京のなかの小宇宙』)については腰痛「自宅療養中」つれづれの余り、女房に図書館から借出してもらってひととおり読んでみた。
それで了解したのは、この本は「勉強しましたノート」であるということであった。

もちろん、著者による早稲田という「場所」についての勉強である。
さすがに「教授」だけあって、巻末の日本語文献だけで109も挙げてある。
しかしそれは玉石混交、しかももっとも基礎にあるべき文献が見事に欠落しているのである。誰も助言する者がいなかったのか、意図的あるいは無意識に排除されたのか。

巻頭には陣内秀信の「読書案内」が掲げられ、そこで陣内は「この四〇年ほどの間に展開した多様な学問・文化領域にまたがる江戸東京論の系譜のなかに、大きな一石を投じる極めて重要な著作」や「早稲田という限定された地域の「ミクロヒストリー」を論じつつ、それを江戸東京の「マクロヒストリー」という大文字の歴史に生き生きと連動させる知的で巧妙な仕掛けが組み込まれているのが凄い」と大仰に褒めちぎり、挙句の果ては「これまで眠っていた早稲田とその周辺の歴史・文化のトポスを魅力的に描いた本書は、単なるローカルな地誌なのではなく、日本の都市を叙述する上での普遍性をもつ雛形と言えるのである」とまでウケ持ち上げているが、そんなことはない。
言うならば、これまでの「江戸東京学」のほぼ埒外にあった場所が外国人学者によって取り上げられ、一冊の書きものとなって紹介され、その「学」に連なったらしい、以上の意義は見いだせない。

さらに言えば、読者は著者が勉強し紹介してくれるかぎりにおいて知らなかったことも教えられることもあるのだが、いかんせんそれがどうしたで終わってしまう。著者のオリジナリティ、言い換えれば勉強とその紹介以上の問題意識も、卓見や創見も見当たらないのは、著者の能力と人柄が良すぎるためであろう。
つまり早稲田という空間と時間そして事象、またそこに身を置いた自らをも対象化(クリティシズム)できていないのである。

ローマで愛車を走らせていた著者は、ヴェネツィアで「歩く」営みに目覚め、陣内に教わって「地形の意味」の視点を得たと書いているが、それがことばの上滑りに終わっているのは、この本にでてくる地形用語が「低地」と「台地」そして「目白台地」しかないことにも表れている。早稲田の地形は単純ではない。それらの語だけでは片づけられないのである。また「目白台地」は実は地形学用語でもない。

この冒頭でも触れたが、致命的なのは地域の歴史や地形に関しての基礎文献である「区史」がまったく参照されていない点にある。それは単純で粗雑な「地形」の記述からも明白である。
早稲田は北に位置する文京区に接するとはいえ、新宿区に所属する。
かつては牛込区の一部であった。
その基本書誌は以下の通りである。
『牛込区史』(1930)、『新宿区史』(1955)、『新修新宿区史』(1967)、『区立三〇周年記念 新宿区史』(1978)、『区立四〇周年 新宿区史』(1988)、『区立五〇周年 新宿区史』(全2巻、1998)。
これらのほかに、「資料編」や簡便な「あゆみ」もあるがそれは省略する。

この本は「ミクロコスモス」と「マクロコスモス」を短絡させて、「メソコスモス」を無視したともいえる。
ともかくも歴史については文句なく各区史や市史の類が、地形や自然環境に関しても凡百の単行本は無視して、まずそれが基本として参照されるべきなのだが、「江戸東京学」に典型的な雑学(百貨店的「小宇宙」!)に流れてしまったのである。

地形にかかわり神田川が取り上げられているのはいいとしても、その言説の多くがずっと下流の平川の流路変遷(しかも「太田道灌」!)に費やされ、早稲田地域を流れるそれの流路変遷と改修には一言も触れていない。叙述が千代田区や中央区にかかわる平川に飛んでしまうのが「マクロヒストリー」と言うなら笑止のほかない。
訳者は「日本の読者を想定したときの記述内容の相応しさという観点から、訳文の検討を要する箇所が散見された。こうした部分については、日本の最新の研究の動向を参照しながら(略)必要に応じて加筆・修正を行い」とあとがきに書いているが、それでいてとうの昔に「検定済教科書」からも削除された「士農工商」を堂々と掲げているのだからこれまたお里が知れる。

そうしたあちこちの「不都合」はさておき、この著者は早稲田地域の神田川沿いを歩き、その水がかつては水田灌漑に用いられたということに不思議は感じなかったのだろうか。
明暦の大火も関東地震の被災も免れた早稲田地区を含む新宿区域の都市史上の最大の景観変容は、この本で強調されている参勤交代や大名屋敷の改廃などではなく、近代の宅地化と第二次大戦下の空襲そして現代の「ビル化」をもって画期とする。そのうち宅地化と神田川のシフトは即自的な関係にある。
早稲田地区の景観変容は、アンソロポシーン移行すなわち地表の人新世シフトと軌を一にするのである。いま地域のミクロと同時にマクロを云々するなら、現生ホモサピエンスのフットプリントを対象化する視座は不可欠であろう。

鈴木理生は『図説江戸東京川と水辺の事典』(2003)において神田川の現河床がきわめて低いことを指摘した。
つまり元来そのような河川であれば、水田灌漑は不可能なのである。
鈴木はそれが河川改修つまり蛇行していた河流の直線化(ショートカット)に起因するとし、「ベルヌーイの定理」で説明した。
しかしそれは誤りであった。
神田川は井の頭池を水源とする台地河川で流量少なく、下方侵食がそもそも可能ではない。
現在の神田川の姿は都市化(住宅地化)に対応した人為、つまり洪水対策の河川改修、すなわち蛇行の直線化と河床の低下掘削工事の結果であった。

結論から言えばこの本が開陳しているのは著者によって意識的にないし無意識的に選択された都市の一側面、陽のあたった坂道物語であり、ダークマターやブラックホールをも視野に含む「小宇宙」などではなかったのである。

このビックリ本のビックリである所以は、考察のショートすなわちオリジナルなそれが少ないことと短絡、そしてクリティシズムの欠落した資料選択とその読みにある。
それでも近頃氾濫する街歩きや地形に関するドリンク(ドングリ?)本とは異なり、地域の表面に散らばる物語をかきあつめて、ともかくも咀嚼したという腹応えだけは感じられるだろう。

下のレントゲン写真を見ると、第三腰椎と第四腰椎の間、第四腰椎と第五腰椎の間がきれいに空いているのに対して、第五腰椎と仙骨の間は隙間自体が失われかけているのがわかる。

その隙間のクッション「椎間板」がはみ出る「椎間板ヘルニア」はよく知られているが、そうではなく椎間板自体が擦り減ってしまった腰椎の椎間板変性症である。
これが腰痛の原因。
まして筋肉や股関節の問題ではない。

8年前に担ぎ込まれ、ブロック注射の後で3週間ほど入院した救急病院の担当医のお見立ては「脊柱管狭窄症」だったが、症状から言ってもそれはまったくの誤診だった。

手術をする気はないから姿勢とリラックスや保温、体操やストレッチを心がける。
この場合はマッケンジー体操は不可、ウィリアムス体操系が妥当と思われるが、やってみるといずれも快である。
さて。

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ポピュリズムというよりウケがすべて、ウケ狙いだけの風潮が膨満している。
いつからこのように「世間」が退化してしまったのか。

テレビも家にはおかないし見ない、大概の新刊書店には立ち寄る気にもならない。
「隠れて、生きよ」というエピクロスの言がしっくり来る。
あまりにも愚かしい列島政治や市井の動向に棹を挿すつもりはない。
しかし仕事柄調べごとは常に生じる。
アマゾンでのモノ買いは避けているし、そもそも買う金がないので、勢い図書館に赴くことになる。

しかしそこで吃驚しあるいはげんなりし、もしくは神経を逆なでる「新刊本」に出逢うこともある。上掲書はその例で、今年の3月に出たばかり、230ページほどの小型本だが約3000円もする。
著者はヴェネツィアのカ・フォスカリ大教授ローザ・カーロリなる人物で1960年生まれという。日本近現代史、沖縄史、江戸・東京の都市史を専攻するらしいのだが、何気なくページを開いて驚いたのは下の図とそれに付されたキャプションである。

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キャプションには、「古神田川の流路変遷の概念図。ウェブサイト「神田川逍遥(http://www.kanda-gawa.com/pp004.html)」を参考に作成。(上)は、太田道灌が江戸に入城する前の図〔略〕。(中)道灌は以前の流れを隅田川に直接流すように改めた。〔略〕。(下)徳川幕府の時代になると、神田川を江戸城の外堀として機能させるため、現在の飯田橋付近から東流するように改めた」と書いているのである。

イタリアの大学教授も「ウェブサイトを根拠に本を書く」というトンデモ・ビックリがひとつ。
もうひとつは、またしても「太田道灌」説が学問めかして拡散されていることに対するげんなり感である。
そのウェブサイトは「太田道灌が(平川の流れを)改めた」の「典拠」をどこにも示してはいない。

平川の流路変遷については、1914年『東京市史稿 市街篇第貳』(a)、1935年菊池山哉(b)、1978年鈴木理生(c)、1988年以降鈴木理生(d)、2012・13年岡本哲志(e)の5説があり、そのうちのcとeが太田道灌が行ったとしている。
このあたりの詳細は拙文(「平川」『地図中心』2012年7月、他)を参照していただくとして、a~e説のいずれも確たる根拠があるわけではなく、推論、臆測あるいは蓋然性の域を出ないのである。

しかしcやeはそれぞれ複数の「本」で喧伝され、それがまた道灌伝説の一翼として読みやすく、広く出回ったため、ウェブサイトもそれを受売りしたものだろう。それぞれの「本」は仮定や臆測を重ねて「断言」し、図まで示したのである。
エッセイならいざ知らず、このような手法はおよそ「学」とは無関係である。
証明されないことは正直に示す、蓋然性はその限界を示すのが学問であろう。

早稲田は半世紀前の一時期我が生を託した場所である。
それを「読み解いた」本があるなら見てみたいとも思うが、この図とそのキャプションを目にした途端その気は失せた。
「お里が知れる」というのは、このようなことを言う。
学問めかしたウケ狙いが、またぞろ屋上屋を架したのである。

ビックリ本は今にはじまったことではない。
「アースダイビング」も「スリバチクラブ」も、その立論のもっとも土台となる部位からして虚偽なのだが、ウケ狙いが当たったものだから世にはばかるのである。

以下は本欄7月8日の「追悼中山ラビ」を改定し、後半を大幅に書き加えたものである。
誤植も訂正した。
中山ラビのライブや音盤はyoutubeでさまざまに発信されているが、比較的最近の「あてのない1日 中山ラビ&ラビ組 2018年11月17日 吉祥寺SPC」がホットである。
中山ラビが朝鮮半島と日本列島出身者とのハーフであったことに関しては、蓮沼ラビィのブログ「父恋の歌~中山ラビ追悼」を参照されたい。

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ラビさんは私より1歳くらい年長かと思っていたら同年だった。一度だけライブを見た(新宿ブルースナイト)が、細い体でよくあれだけの声量があるものだと感心した。客席の通路で遭遇して互いにハイタッチしたとき、「結構歌うまいね」と言ったら怒られた。

高校の最後のクラスに梅津和時君がいた。東京で再会したときはすでに「ドクトル梅津」で、ラビさんのライブでは大概彼がサックスを担当していたようだ。ラビさんと彼を共に舞台に見られる「ラビ組」の予約チケットを2度ほど買ったが、結局時間がなく行かずじまいだった。

国分寺マンションの1階に付設するラビさんのお店「ほんやら洞」は、4日間臨時休業の後で再開した。5階に住む私は追悼句を墨書し、消しゴムハンコの落款を押して店を継いだラビさんの息子一平君宛に託した。

国分寺駅南口(当時は跨線橋口)から3分の国分寺マンションが竣工したのは1969年7月で、その1階の東角店舗スペースに早川正洋が京都に倣って「ほんやら洞」を開店したのは1975年。外装は煉瓦とツタ、内装木調、いずれも手製の喫茶店であった。京都ほんやら洞の開業はその3年前。店名はもちろんつげ義春の名作「ほんやら洞のべんさん」に因む。店の核となった面々が「自前の文化」を模索した様子は、『ほんやら洞の詩人たち』(片桐・中村・中山編、1979年)に窺うことができる。

東京のほんやら洞は1977年3月3日、早川に代わって中山ラビが煉瓦とツタの店のオーナーとなった。爾来44年、「国分寺文化の象徴」(2017年10月2日放映NHK・BSプレミアム「Tokyoディープ」)とまで言われた店を、いや単に店舗のみならず「街の景観」を維持してきたのはシンガーソングライター中山ラビの手腕と人柄であった。 拙著にちなんだ私の仇名「ガケ博士」の名づけ親も彼女だった。

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ラビがとりわけ執心せざるを得なかったのは「ツタ」であった。マンション住人の一部から「虫が湧くからツタを伐れ」と言われつづけたのである。しかし逆にツタの這う煉瓦が身近だからここに住むという人間もいる。

上の写真は「ほんやら洞」入口脇の席から撮影した。お向いは「都立殿ヶ谷戸庭園」で、店は国分寺駅南口から東京経済大学への通学路にある。その正門に至る経路はここから300メートルほど緩い谷道を下って左折、急坂を140メートル上り漸く段丘面平坦路に至る。私がそこの客員教授だった折は逆をたどってよくこの席に座り、ツタの葉隠れに外を見ながら一息ついた。ただし写真撮影日は退任後の2020年8月11日である。この時、ラビさんの余命が1年たらずとは夢にも思っていなかった。「うたかた」である。
中山ラビが72歳で亡くなったのは7月4日、現行暦七夕の「すこし前」。だから私の追悼句は「七夕やすこし前ゆくラビの星」なのである。

ところで、句会などでは「七夕」は初秋の季語だから7月7日には使えないという意見が出る場合がある。「たなばたや秋をさだむる夜のはじめ」(芭蕉)はもちろん旧暦下の話。 近代の七夕句でよく知られたものに「七夕や髪濡れしまま人に逢ふ」(多佳子)や清瀬中央公園に句碑が立つ「七夕竹惜命(しゃくみょう)の文字隠れなし」(波郷)があるが、わざわざ旧暦をチェックして出掛けたり、結核療養所が8月に笹竹を立てたりしていたわけではないだろう。

暦とそれに伴う季節感は、1872年(明治5)に切り替わってすでに140年を過ぎた。わが母は1983年7月7日の誕生日に満60歳で亡くなった。それを追悼した拙句は「母擦〈さす〉ることなく死にす七夕」(『天軆地圖』2020年)というのである。

季語がなければ俳句でないとか、季語は旧暦に従うというのは、今日では虚構の花園ゲームに等しい。俳句が過去に繋縛されたまま現在に適応できないのであれば、玩具のように壊れて忘れられるだけである。
「百人一首」に見られるような和歌の都(みやこ)を中心とした時空(四季・歌枕)の虚構を脱し、短歌はリアルで切れば血の出る実世界に離陸した。その端的な例は近代の「やわ肌のあつき血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君」(晶子)であり、現代の「落ちてきた雨を見上げてそのままの形でふいに、唇が欲し」(万智)である。二首とも「自然としての身体」あるいは「自然としての欲望」が詠まれているのは象徴的である。

こうした短歌の趨勢に逆行するように、近代俳句の主流はあらためて季語を必須とし、無季派を排除かつ圧伏して今日に至る。歳時記や季語は、高浜虚子に代表される宗匠俳句の拠って立つ経典にして真言なのである。

季語をつくりあげている時空間の例を挙げれば、句中の「祭」は夏祭となる。山本健吉編『季寄せ 上巻』(1997年11刷)では「俳諧では祭と言って、夏祭を意味する。もとは京都の賀茂祭をただ祭と言った」と書く。しかし「ドンドンヒャララ」の文部省唱歌「村祭」に明らかなように、一般には収穫の終えた秋こそ「祭」の季節である。賀茂祭つまり葵祭の行われる5月とは、イメージも時間も大幅にズレるのである。これは短歌が卒業し、俳句がいまだ縋り付く都(みやこ)を中心とした時空ヒエラルキーの一端である。一方、「踊」は秋に分類され、それは盆踊の意となる。両者とも語のイメージは局所化され矮小化すらされるのである。

こうした「俳句らしさ」の虚構は、ツタを忌避する感性と通底している。ツタはそこでは野生的自然の表徴である。季語とは、馴致され盆栽化された自然とその景物や習俗の定式に他ならない。それは列島における「自然との調和の伝統」神話を再生産し拡散する装置であり、同時に自然破壊とエアコンを不可欠とする都市生活の現実に対する「精神勝利法」(魯迅『阿Q正伝』)である。

季語に捉われた俳句は、現行暦どころかリアルな自然とその変動に目を背ける結果、しばしば虚偽に陥る。季語の有無は俳句の本質に掛かるものではない。俳句は、音数律定型最短詩以外の何ものでもないのである。

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武蔵野地図学序説 その3

角川文化振興財団の季刊誌『武蔵野樹林』No.7(2021.7.5)掲載の拙稿連載5ページのうち、2ページを掲げる。
いつも刊行後に気付く誤植が一箇所。
誰の目をもスルーしていた。

もっとも原稿段階でこうなっていたのだろうから、責任は著者の私にしかないのだが。

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雑誌の特集は、夏休みの子ども向け所沢市舞台映画「妖怪大戦争 ガーディアンズ」である。
しかしながらもっとも怖くて怪しい存在は、いま生身で「脳」を働かせ、うごめいている人間とその手下の「システム」にほかならない。

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自転車道

都内最長の直線道路について2020年4月13日の本欄で触れたが、今回はその一部について。

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このGoogleMapは今日の「サイクリング」のルートを表したものだが、このうち西武新宿線花小金井駅南東から、境浄水場手前、都道253号多摩自転車道スタート地点までの約2.7キロメートルが、都内最長直線道路(都道253号、別名多摩湖自転車道、21.9キロメートル)の一部である。そこから先は近衛文麿が命名したという「井ノ頭通り」となる。
図の最北端の鋭角から東南に下り、「武蔵野大」の武の文字下あたりまでの直線が自転車道で、石神井川とクロスする谷地部には例の「馬の背」の土手がほぼ水平に走る。土手上は舗装なし、自転車はその脇付舗装道をVの字状にダウン・アップして行く。

下の写真はその「馬の背」道。覆い被さるのはエノキの葉枝で、私はこの喬木を「100年エノキ」と言っている。拡大すると右下に石神井川の谷底を横断する自転車用舗装道路がはっきり見える。

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地下に自然流下式の水道本管が埋設されているため、重量のある自動車やバイクは走行禁止でつまりは自転車道となった。境浄水場への通水は1924年(T13)だからもうすぐ敷設100年となる。
動力車侵入阻止の柵と走ったり歩いたりしている人が結構多いのが小うるさいが、それがなければ昨今はカラフルなロードバイクやクロスバイクの連中が我物顔に走行する「競輪道路」となっていたろう。

国分寺駅から吉祥寺駅までの変則路往復26.6キロメートルの一部には玉川上水や野川の左岸に沿うルートも含まれ、これらがもたらす運動と気分転換の効果はすくなくない。もちろんわが車は電動ではなく、外装7段変速も前かご後ろ荷台付26インチのママチャリである。
GoogleMapの「58分」はどのように計算されているのかわからないが、私の脚で片道65分ほど。新小金井街道の貫井トンネルは国分寺崖線越えの急傾斜で上りは押し歩きせざるを得ない。谷地の凹部を横断するダウン・アップは上記「馬の背」のほかに、小金井ゴルフ場(GoogleMap「江戸東京たてもの園」の「園」のところ)の石神井川谷頭部、そして仙川谷頭も通過するから都合3ヵ所。ステンレスボトル(水道水にローズマリーの小枝をぶち込んである)の水分補給のため木陰のベンチも利用するし、信号もある。走りっぱなしというわけにはいかない。
わざわざ「へ」の字に遠回りせず、中央線のすぐ北に沿う「一」の字ルートをとればアップダウンもなく片道40分以下で済むが、それは冬場向き。
この時期は緑陰と樹木の香りを味わうために、「へ」の字走行するのである。

吉祥寺での新旧書店や喫茶をめぐる時間も併せれば、自転車行のできるここしばらくが人生贅沢の極みなのかも知れない。

collegio

追悼中山ラビ

改訂版(8月5日)をご覧ください。

標記新刊の表紙はカバーとジャケット兼用の簡易フランス装とでも言うべき製本で、前後の見返しにはそれぞれ新旧の地形図(1919年と2003年図、拡大・加筆)を見開きで掲載、のど切れなしでいわば重ね地図としての利用を可能としたものである。

ところが印刷製本の過程でトリミング位置がずれ、加筆した文字も切れていたため、前見返しは紙色も変えて刷り直してもらった。
もともとごく少部数の出版なので手製本で貼り直せると思いやってみたが、カバー用紙の関係で綺麗にできないことがわかった。
ということで、刷り直した旧版地図(見開き2ページ分)は購入者へのサービス付録ということにした。
そのほうが後ろ見返しに直接重ねて新旧比較でき、便利である。

連絡をいただければ購入者にはこの「付録」をお送りするつもりだがこれも数がかぎられているため、実際に購入したことをどう証明してもらうか悩ましい。
ここではとりあえず、以下にその刷り直し図を掲げる。
ただしインターネット掲載のため、解像度は現物よりかなり低くしていることをお断りしておく。
下掲のうち、上図がおよそ100年前(付録)、下が18年前(後見返)である。
この2図を、紙で直接重ねて見られるメリットは大きい。

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