以下は本欄7月8日の「追悼中山ラビ」を改定し、後半を大幅に書き加えたものである。
誤植も訂正した。
中山ラビのライブや音盤はyoutubeでさまざまに発信されているが、比較的最近の「あてのない1日 中山ラビ&ラビ組 2018年11月17日 吉祥寺SPC」がホットである。
中山ラビが朝鮮半島と日本列島出身者とのハーフであったことに関しては、蓮沼ラビィのブログ「父恋の歌~中山ラビ追悼」を参照されたい。
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ラビさんは私より1歳くらい年長かと思っていたら同年だった。一度だけライブを見た(新宿ブルースナイト)が、細い体でよくあれだけの声量があるものだと感心した。客席の通路で遭遇して互いにハイタッチしたとき、「結構歌うまいね」と言ったら怒られた。
高校の最後のクラスに梅津和時君がいた。東京で再会したときはすでに「ドクトル梅津」で、ラビさんのライブでは大概彼がサックスを担当していたようだ。ラビさんと彼を共に舞台に見られる「ラビ組」の予約チケットを2度ほど買ったが、結局時間がなく行かずじまいだった。
国分寺マンションの1階に付設するラビさんのお店「ほんやら洞」は、4日間臨時休業の後で再開した。5階に住む私は追悼句を墨書し、消しゴムハンコの落款を押して店を継いだラビさんの息子一平君宛に託した。
国分寺駅南口(当時は跨線橋口)から3分の国分寺マンションが竣工したのは1969年7月で、その1階の東角店舗スペースに早川正洋が京都に倣って「ほんやら洞」を開店したのは1975年。外装は煉瓦とツタ、内装木調、いずれも手製の喫茶店であった。京都ほんやら洞の開業はその3年前。店名はもちろんつげ義春の名作「ほんやら洞のべんさん」に因む。店の核となった面々が「自前の文化」を模索した様子は、『ほんやら洞の詩人たち』(片桐・中村・中山編、1979年)に窺うことができる。
東京のほんやら洞は1977年3月3日、早川に代わって中山ラビが煉瓦とツタの店のオーナーとなった。爾来44年、「国分寺文化の象徴」(2017年10月2日放映NHK・BSプレミアム「Tokyoディープ」)とまで言われた店を、いや単に店舗のみならず「街の景観」を維持してきたのはシンガーソングライター中山ラビの手腕と人柄であった。 拙著にちなんだ私の仇名「ガケ博士」の名づけ親も彼女だった。
ラビがとりわけ執心せざるを得なかったのは「ツタ」であった。マンション住人の一部から「虫が湧くからツタを伐れ」と言われつづけたのである。しかし逆にツタの這う煉瓦が身近だからここに住むという人間もいる。
上の写真は「ほんやら洞」入口脇の席から撮影した。お向いは「都立殿ヶ谷戸庭園」で、店は国分寺駅南口から東京経済大学への通学路にある。その正門に至る経路はここから300メートルほど緩い谷道を下って左折、急坂を140メートル上り漸く段丘面平坦路に至る。私がそこの客員教授だった折は逆をたどってよくこの席に座り、ツタの葉隠れに外を見ながら一息ついた。ただし写真撮影日は退任後の2020年8月11日である。この時、ラビさんの余命が1年たらずとは夢にも思っていなかった。「うたかた」である。
中山ラビが72歳で亡くなったのは7月4日、現行暦七夕の「すこし前」。だから私の追悼句は「七夕やすこし前ゆくラビの星」なのである。
ところで、句会などでは「七夕」は初秋の季語だから7月7日には使えないという意見が出る場合がある。「たなばたや秋をさだむる夜のはじめ」(芭蕉)はもちろん旧暦下の話。 近代の七夕句でよく知られたものに「七夕や髪濡れしまま人に逢ふ」(多佳子)や清瀬中央公園に句碑が立つ「七夕竹惜命(しゃくみょう)の文字隠れなし」(波郷)があるが、わざわざ旧暦をチェックして出掛けたり、結核療養所が8月に笹竹を立てたりしていたわけではないだろう。
暦とそれに伴う季節感は、1872年(明治5)に切り替わってすでに140年を過ぎた。わが母は1983年7月7日の誕生日に満60歳で亡くなった。それを追悼した拙句は「母擦〈さす〉ることなく死にす七夕」(『天軆地圖』2020年)というのである。
季語がなければ俳句でないとか、季語は旧暦に従うというのは、今日では虚構の花園ゲームに等しい。俳句が過去に繋縛されたまま現在に適応できないのであれば、玩具のように壊れて忘れられるだけである。
「百人一首」に見られるような和歌の都(みやこ)を中心とした時空(四季・歌枕)の虚構を脱し、短歌はリアルで切れば血の出る実世界に離陸した。その端的な例は近代の「やわ肌のあつき血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君」(晶子)であり、現代の「落ちてきた雨を見上げてそのままの形でふいに、唇が欲し」(万智)である。二首とも「自然としての身体」あるいは「自然としての欲望」が詠まれているのは象徴的である。
こうした短歌の趨勢に逆行するように、近代俳句の主流はあらためて季語を必須とし、無季派を排除かつ圧伏して今日に至る。歳時記や季語は、高浜虚子に代表される宗匠俳句の拠って立つ経典にして真言なのである。
季語をつくりあげている時空間の例を挙げれば、句中の「祭」は夏祭となる。山本健吉編『季寄せ 上巻』(1997年11刷)では「俳諧では祭と言って、夏祭を意味する。もとは京都の賀茂祭をただ祭と言った」と書く。しかし「ドンドンヒャララ」の文部省唱歌「村祭」に明らかなように、一般には収穫の終えた秋こそ「祭」の季節である。賀茂祭つまり葵祭の行われる5月とは、イメージも時間も大幅にズレるのである。これは短歌が卒業し、俳句がいまだ縋り付く都(みやこ)を中心とした時空ヒエラルキーの一端である。一方、「踊」は秋に分類され、それは盆踊の意となる。両者とも語のイメージは局所化され矮小化すらされるのである。
こうした「俳句らしさ」の虚構は、ツタを忌避する感性と通底している。ツタはそこでは野生的自然の表徴である。季語とは、馴致され盆栽化された自然とその景物や習俗の定式に他ならない。それは列島における「自然との調和の伝統」神話を再生産し拡散する装置であり、同時に自然破壊とエアコンを不可欠とする都市生活の現実に対する「精神勝利法」(魯迅『阿Q正伝』)である。
季語に捉われた俳句は、現行暦どころかリアルな自然とその変動に目を背ける結果、しばしば虚偽に陥る。季語の有無は俳句の本質に掛かるものではない。俳句は、音数律定型最短詩以外の何ものでもないのである。