Archive for the '古地図' Category

神保町から発して、小川町の出自を詮索しなければならなくなったわけですが、その前に元に戻って、まずは神保町の源・現位置を確認しておいたほうがいいでしょう。
「神保町」という呼称は、神保屋敷表門が面する小路を「神保小路」と俗称したことに起源をもつのは確かだとして、神保邸の位置は『神田文化史』によれば「旧南神保町一丁目十番地」であると。フム、昭和10年頃に言う「旧」とはいったいいつごろの話か、大分漠然としていますが、チェックする手段がなくはない。

下に掲げるのは、「東京実測全図」(1:5000。初版名「東京市三角測量図」)の一部です。
この地図は、内務省地理局が明治5年に測量に着手したのですが、火災でその成果を焼失、また市区改正や市街地の変容などのため、完成まで10年を経、漸く明治19年から21年までの間に全15鋪(枚)が刊行された、近代初頭に作成された首都の大縮尺精密地図群として著名なものです。

言うまでもなく、土地制度は江戸時代と明治以降はまったく異なります。その画期は明治6年の「地租改正」で、近代的土地所有ということになり、所謂「地番」が誕生したのですね。
内務省地理局がこの地図の完成に精力を注いだのは、徴税の必要があったから、という説がありますが、どうでしょう。確かに現在の区分地図帖でもめったにない、大縮尺ではありますが、地租算定のための資料としてはとうてい不足である。地積台帳にはなり得ない。
ただし、「地番」によって「場所」をアイデンティファイするには欠かせないもので、その証拠にこの図は明治末期、大正期、昭和戦前期と出版される「郵便地図」のベース図となるのです。
いずれにしても、首都の細部まで漏れなく把握する必要のある新生政府にとって、欠かせない基本図であったことは確かです。

そうして、「東京実測全図」は、今日からみれば明治も前半期、地表のありようとしてはいまだほとんど幕末と地続きである黎明期東京の街に「地番」の網をかけた、最初の精密地図として大変重要な意味をもっているのです。
首都の「地番」を追うためには、まずはこの地図から出発しなければなりません。
「東京実測全図」の一部

『神田文化史』に紹介されている神保家の由緒書によれば、「小川町」(おがわまち)がというものが古くから存在し、そこから新たに「神保町」(じんぼうちょう)が分岐した、あるいは「神保町」は「小川町」の一部である、つまり「小川町」は「神保町」を含む広域地名である、ということになります。

地名というのはやっかいなもので、そもそも、なぜ「おがわまち」であって「おがわちょう」ではいけないのか。逆に、「じんぼうちょう」は「じんぼうまち」ではいけないのか。いくつかの原則があげられるようですが、索引をつくる身になってみれば、現旧の「町」の「よみ」ほど確認に手間どるものはほかにありません。

けれどもとにかく、現在では「小川町」は駿河台下に一丁目から三丁目、「神保町」はその西隣に一丁目から三丁目が存在し、今日ではそれぞれ頭に「神田」を冠(かぶ)せられている。
つまり、「小川町」と「神保町」は、地名としては同格の別物である。

ちなみに、現在の神保町をとりまく近隣地名をあげてみれば、小川町の北には「駿河台」(するがだい)、反時計廻りに「猿楽町」(さるがくちょう)、「西神田」(にしかんだ)、「三崎町」(みさきちょう)、「九段北」(くだんきた)、「九段南」(くだんみなみ)、「一ツ橋」(ひとつばし)、「錦町」(にしきちょう)ときて一巡する。
このうち、旧神田区を示す「神田」を頭に付けるのは、先にあげた小川町と神保町のほかに、錦町がある。

『東京区分地図帖』(昭和41年新版、同52年38版、日地出版)から「千代田区」の一部
『東京区分地図帖』(昭和41年新版、同52年38版、日地出版)から「千代田区」の一部

現在、地表平面に同格で並んでいるこれら「地名」も、その来し方を時間の地層に探ってみれば、また別の相貌を露出するかもしれません。
そうして、人間も建物も、現在ほどひしめいていたわけではない近代以前にあって、地名が指し示す地域の範囲は、あるいは漠然とし、もしくはおおらかで、そもそも「住所・地番」という微細な土地所有あるいは行政区画表示は存在しなかったという事実も、「地名の時間」を探る場合には念頭におくべきでしょう。

ともかくも小川町が神保町を含む広域地名だとして、しかしながら今度はその小川町自体が、『御府内備考』では、元来が三崎村付属の「田畑」で、江戸開府後幕府の鷹匠(たかじょう)が多く住んだために「元鷹匠町」と呼ばれ、元禄6年(1693)9月11日に「小川町」と改称されたとされているのです。
先に挙げた『神田文化史』の記述とは大いに矛盾する。なにせそこでは「小川町」が長禄すなわち太田道灌時代からの地名だと主張している。けれどもその根拠が示されているわけではない。

「神保町」の町名について、『神田文化史』(中田薫著、1935年)は次のように記述しています。

「神保町町名の起源は幕臣神保長治が元禄二年三月、神田小川町の邸地九百九十五坪(旧南神保町一丁目十番地)を賜わったことにより神保家は明治御維新前後までこの地に住んで居た。江戸時代の絵図に神保小路と記されてあるものは小川町の内にある一俚称であって、漸次附近の地域を拡大称呼して、神保町と公称することとなったもので、震災後、区画整理によりて現今の神保町は、神田区随一の大地域を占むるに至ったものである。/神保町は今から二百五十年前に起源するが、その町名の母体である小川町は、遠く長禄時代、今から四百七、八十年代、太田道灌の江戸築城時代を物語る町名であって頗る感慨深きものがある。」(新字・新かなに訂正)

平凡社の地名辞典『東京都の地名』(日本歴史地名体系13、2002年)は「表神保町」の項で、「神保家文書」(『神田文化史』)を根拠に「小路〔神保小路〕の名称は、元禄二年」から、と記述しています(角川の地名辞典には「江戸期に神保某の居宅があったことによる」とのみ)。いずれにしても「神保町、起源は元禄」というわけです。

  『神田文化史』の著者は、当時井草町(現在の杉並区井草)に隠居されていた神保さんのご子孫(九代神保安太郎氏)から示された古文書を用い、初代神保源五左衛門長賢から、幕末の外国奉行として神奈川開港取扱にあたった七代長興、最後の幕臣八代長順までの事跡を伝え、菩提寺が小石川水道町の浄土宗還国寺(江戸川橋に現存)であることも記しています。そうして、この菩提所の地が神保氏の旧地で、二代新五左衛門長治が小川町に邸地を賜った後に、この寺を建立したというのです。

この「表・裏神保小路」をどう見るかですが、性急を回避してまずは図の周辺に目をこらしてみましょう。部分拡大図1の左下に一箇所、部分拡大図2には4箇所に見える細長い□(四角)形は何でしょう。
そう、これは武断の風が卓越していた江戸時代初期まで、武家地周辺で頻発した「辻斬り」防止のための、「辻番所」を表すものでした。
日本が世界に誇る‘koban’を凌ぐ密度で、交差点ごとに設置されていますね。近代の警察制度も、その伝統を江戸時代の草創期まで遡り得ることがわかります。
さて、この図に記号凡例の記載はないのですが、実は近江屋板切絵図の手本となった吉文字屋板の江戸切絵図には「駿河台小川町図 全」(明和元年・1764)があって、収録図の範囲もほぼ同じ(近江屋板は多少東に出張っている)、しかしこちらには凡例が付いている。

部分拡大図a
部分拡大図a

これによれば辻番所は2種類。それだけでなく、町内火見櫓の記号もみえる(部分拡大図a)。
ところで、吉文字屋板と近江屋板のこれらの図には、江戸時代の半ば過ぎと幕末近くにまたがる85年の懸隔がある。
それでも街区の形はほとんど変わらずで、神保邸も動かない。小路も「ジンボフコフジ」と記載がある(部分拡大図b)。

部分拡大図b
部分拡大図b

2009年の現在から85年前というと大正13年、関東大震災直後の東京です。江戸時代の、すくなくともこの地域のスタビリティと比較すると、近・現代というのは目のくらむような激変の時代だったのですね。

この吉文字屋板については、現物ではなく斎藤直成編『江戸切絵図集成』(第1巻、1981年、中央公論社)の図を引用しています。

「その1」の掲載地図(全体図)では、いくら拡大しても細部の文字はよみとれませんね。今日の技術段階における画像容量限界のためですが、これも日々「進化」するこの世界のことですから、いずれはそう遠からず解決されることでしょう。
けれども、このぼんやり画像のままでは、どうにもなりません。
それで「部分拡大図」手法が登場することになります。パワー・ポイントを使った講演などの場合は、これをもっと多用しなければなりません。なんといっても、プロジェクター画像は粗すぎますからね。
で、部分拡大画像。

部分拡大図1
部分拡大図1

図の中央、やや左寄り部分です。
神保さん宅は、逆立ちして中央に「神保伯耆守」(じんぼうほうきのかみ)と記載されています。とくに大きな邸宅でもなく、切絵図でみる限り偉そうな名前とはそぐわないような、旗本としてはその他大勢の部類に属していますね。ところが通り名は「表神保小ジ」となっている。これはなにか謂れがありそうな雰囲気になってきました。
よく知られているように、江戸切絵図などの古地図では、多くの場合、ばらばらに記入されたように見える屋敷名の頭が邸宅の表門にあたります。つまり短冊形に奥深い神保邸の表が「表神保小路」。
では、「裏神保小路」が神保屋敷の裏側にあるかというと、さにあらず。
もう少し広い範囲に目をやると、さらに1本「表」の通りが「裏神保小路」なのです。

部分拡大図2
部分拡大図2

神保町は出版人にとっては伝説の巷。
伊達得夫の《書肆ユリイカ》(『ユリイカ』)があった。森谷均の《昭森社》(『本の手帖』)があった。
ラドリオがあった(いまもあるが)、ランチョンがある、ミロンガがある、キッチン南海の黒カレーも健在。
ハーバード大学のエリセーエフが言ったからかどうか知らないが、この「世界最大級の古書店街」は空襲を免れた。だからところどころには看板建築も、近隣には神田やぶそばやまつやなどの古い建物も残存している。
そうして物書きのほとんどが、この界隈に足跡を遺し、今なお徘徊する。

けれども往古を訪ねれば、旗本邸が居並んだ人影淋しいお屋敷町。「北神町会」の町名由来板によれば、元禄時代に神保長治さんが広い屋敷地を割り当てられたことが地名(神保町)のはじまりという。

なにはともあれ、場所の記憶を訪ねるには、まず古地図。
江戸の古地図と言えば、すぐ思い浮かぶのは「切絵図」でしょう。
けれども、知られた古地図ほど「シン古地図」が多い。つまり、よく目にするのは、後世というか現代につくりなおされた「アトカラ古地図」の類です。
だからここでは、できるだけ本ものを見ていただく。
汚れや折線、虫食穴があるのはその証だと思ってください。

お目にかけるのは、いく種類かある切絵図のなかから、比較的地誌が正確と言われる近江屋板(近吾堂)の図で、この界隈を含む「駿河台小川町図」。刊行の嘉永2年(1849)はペリー浦賀来航の4年前で、もうほとんど幕末。広げた地図の大きさは65×46センチ(紙の概寸)。結構大きいのですよ。

江戸切絵図(近江屋板「駿河台小川町図」嘉永2年・岩田文庫蔵)
江戸切絵図(近江屋板「駿河台小川町図」嘉永2年・岩田文庫蔵)
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古地図は最新地図

古地図が「最新地図」であるとは、奇矯なロジックと思われるかも知れませんが、真面目な話です。
敏い向きは、ひねった「温故知新」話かと予防線を張られるでしょうが、そうでもありません。
 結論を先に言えば、「当時の最新地図」であることが、古地図の真贋を決定する最大の要素であるということです。つまり、そうでなければ古地図の資格がないのです。
 
 私のような仕事をしていると、時々「今は地図ブームなんですか」とか、「古地図が流行だそうですね」と訊かれることがあります。
 従来の「業界」の激変、苦境を覗い知る者としては、このような質問には大変答えづらい。たしかに、書店にあふれる地図付「ナントカ散歩」や「古地図でたどるナントカ」の類は、人をして地図ブームを思わせるものがあるでしょう。けれども、すくなくとも「古地図」についていえば、その名に相応しいものを見かける機会は、大変に少ない。

 「地図」は実用に供するのが第一の目的ですから、その時点で最新の情報が盛られていることが最低条件となります。Out of dateの図は使えない。だから、例えば東京でいえば「六本木」に「防衛庁」が残っていたりすると、普通は書店の店頭から撤去される。けれども、その地図は、通常は作られた時点で最新だったはずです。つまり、たとえば「東京ミッドタウン」が以前はどんなところだったかを知りたい時には、地図の出版年記を確認し、その場所をめくればそれを確かめるにもっとも相応しい資料が出現する。このようなものを「古地図」と言うのです。古地図の定義を狭くとる人は、江戸時代以前の図を古地図としますが、新陳代謝の激しい極東島国の都市部では、数年前の地図も古地図の資格は十分にあるでしょう。いずれにしても、古きを温(たず)ねるには、その当時で最新の図が必要です。
 
 逆に「古地図の資格のない古地図」というものはどういうものかと言えば、断わりのない「こしらえ古地図」や「シンコ(新古)地図」ないし「偽装古地図」、そして「復元図」や「推定図」、「歴史地図」の類です。このようなものは枚挙に遑(いとま)がありませんので、図例は割愛します。
 一方、「当時の最新の地図」を、「古地図資料」と銘打って、図の「史料性」に依存しながら刊行される複製地図も見かけますが、言うまでもなく「複製」ですから本物ではありません。けれどもそうしたものでも、断わりなくそのまま印刷されていれば、古地図そのものと誤解されることがすくなくありません。まして和紙に印刷されていたり、時間を経たりすると一般には古地図と区別がつき難くなります。そうして、そのような出版物は、往々にして「そのまま」ではなく、文字を勝手に削除していたり、書き換えていたり、印刷色が現物とはほど遠いものであったりするのです。
 ですから、資料出版の常識として、複製図には一般書籍の奥付と同様、複製であることを示す「複製責任者、複製時期、原本所蔵者名」などの諸元を直接記載するのが最低のルールです。しかし、「複製古地図」出版の現状では、そのルールが守られているのを見かけるのは、稀でしょう。
  
 「古地図は最新地図」という言葉を念頭におきながら、手元にある地図類を見直してみましょう。
できるだけ「本物」の地図や、オリジナルな古地図の、良心的な複製を見る機会を増やしましょう。そうして養われた眼力は、身近なところに転がっている「お宝」や、その潜在候補を見つけることができるかもしれませんよ。

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デジタル地形図の幻

「省紙化」の果てにあるもの

日本地理学会2009年春季学術大会が、3月28日から帝京大学八王子キャンパスを会場に開催されました。
29日には地理学会理事会主催の「これでよいのか国土の記録!-日本の地形図が変わる-」というシンポジウムがもたれ、国土地理院の担当課長による「基調報告」をもとに、数人の「問題提起」や「コメント」が表明され、またそれらに対するまことに流暢な回答が開陳されたのでした。

シンポジウムが特別設定されたのは2007年8月に施行された「地理空間情報活用推進基本法」によって、「紙地図(地形図)」が供給されなくなる恐れがいよいよ現実化したためでした。

その「法」つまり「国会決議」という「国民の総意」によって、「デジタル時代情報活用の爆発的拡大」に対応するため積極的に基盤地図情報を整備し総じて「軸足をデジタルにシフト」し「修正に時間がかかり」すぐに「古くなる従来の(紙)地図は使えない!」が故に、2万5千分1地形図については当面継続するものの、1万分1および5万分1地形図の修正予算は2009年度からゼロとした、というのです。

地図という実用メディアの世界に露出した、社会の急激な地殻変動を見たように思ったのは当方だけだったでしょうか。
「20年30年先を見据えた、デジタル化社会・情報化社会への対応」という答弁は、新聞や雑誌といった紙媒体ジャーナリズムが次々と「退場」し、「受け」や「垂れ流し」「取材なし」のデジタル情報がニュースとして跋扈する世界的潮流とオーバーラップして実に空虚な言葉に聞こえたのでした。

結論を先に言えば、物的に固定されない「地図」は地図ではありえず、変形自在の「情報」と「画像」に解体されるほかないということです。
電子という、瞬時を走り圧倒的な利便を誇るが故に、不安定きわまりない媒体が「物」を駆逐する様は激烈なものがあります。
例の「年金記録問題」も、元はといえば電子化による紙記録の廃棄に端を発したものでした。
「紙の記録」とは「典拠」もしくは「証拠」の異名です。
原文書をわざわざ廃棄し、「電子」にすべての「証拠」を委ねるとすれば、我々は100年や「20年30年」どころか寸刻前のことですら、自らが拠って立っていた「場所」を根こそぎ失ってしまう時代に移行しつつあると言っていいのです。

先般、都立多摩図書館から地域資料のほとんどが抜かれ、都立中央図書館に移管し、一部は廃棄するという、甚だしい「住民無視」の政策が強行されましたが、目録類がデジタル化されて久しかったが故に、今日ではいったい何が移管され、何が廃棄されつつあるのか、住民がその実態をつかむことは不可能となってしまいました。
ことほど然様に、行政「文書」や「記録」類の電子化=紙文書廃棄は、一般にではなく、まずは特定者にとっての「利便」です。

政治社会の原理から言えば、行政文書類のデジタル化とは、紙記録類の保存と並行させなければ不当為事項にあたるでしょう。
図書館や文書館は行政の書類庫ではなく、本来「事実」と「主権者」の権利の根拠を、形あるモノとして担保するために存在するものです。

話を「地図」に戻せば、人類は長らく地を這い、手探りの作業(測量)を繰り返した揚句、「地図」という上空からの「垂直視線」を手に入れました。
しかし、間もなくそれは空中写真(測量)にとって代わられ、さらにインターネットにより「宇宙からの眼」を当たり前のものとして享受する(Google Earth)時代に到達しました。

このテクノロジーの巨大な進展の成果を「ハイ・イメージ」という言葉で肯定的に評価した向きもあったようですが、どうでしょうか。その結果、豊富な「文書類」や「絵図」を今日に伝える江戸時代にはるかに劣る、広大な無記録の荒野が遺されるとすれば、我々の未来、いや現在ですら決して明るいわけではないと言うほかありません。

(同趣旨は、「図書新聞」第2914号2009年4月18日号5面、「季刊Collegio」第36号等の紙媒体にも掲載)

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放映案内

タモリ倶楽部

NHKの次はテレ朝。
 『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』の著者菅原氏から電話があって、タモリ倶楽部の担当者から出演依頼があったが、その日は都合がつかないので・・・と言う。その番組の話はどこかで聞いたことがあるけれど、見たこともないしと・・・と躊躇したものの、宣伝になるのならと、NHK〈美の壷〉につづいてこれまた出演。

川の地図辞典書影

 石神井川ということで、10月11日の金曜日は朝から小雨のなかを王子へ。今回の企画提案者は漫画家の江川達也氏の由。
 マイクロバスのなかではタモリ氏、江川氏、そして私(芳賀啓)が撮影前から大盛りあがり。3人とも「地図好き・川好き」で、どの川が面白いか話し出したら止まらない。周りのスタッフとツッコミ役のおぎやはぎの2人は呆れていました。
 江川氏は、日本地図センター「地図の店」で平積みになっていた『川の地図辞典』を見て、即座に2冊買ったという。
 街なかを歩くにはこれくらいのスケールがないと、と『帝都地形図』(第1集。王子附近の図が収録されている)をお目にかけたら、2人とも食い入るように見て、「これ買うよ」と。

帝都地形図書影

 こういう人たちはざらにはいないでしょうが、「(古い?)地図好き・(消えた!)川好き」が強固に存在し、そして増殖していることは確かであると思われました。
 〈鉄道マニア〉の次は、〈川マニア〉が浮上してくるでしょう。
 民放は、番組冒頭で、当の『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』も紹介してくれるので大変助かります。
どうか、これらの本が多くの人の手に渡り、世の〈川と地形へのまなざし〉の復権に寄与しますように。〔放映は2008年11月14日深夜、というか15日0:15からでした〕

江戸図の宝石

先日、久しぶりで都心に出て新宿駅南口の紀伊國屋書店に入り、2階の平積み本を眺めていたら、『地図男』というタイトルが目に入りました。
インターネットの2チャンネル書き込み小説として話題となった『電車男』以来、ナントカ男というのが流行なのですね。
ついに「地図男」出現ということならば、こちらは「古地図男」。
「美の壷」というTV番組(10月10日NHK教育テレビ本放送。NHK総合では17日と18日に再放送)に出てしまった。
「古地図」特集で江戸図を取り上げたい、というので取材に協力したのが運のツキ。かつて三井の「秘図」であった『明暦江戸大絵図』「江戸図の宝石」!)を世に知ってもらいたいという動機でしたが、「江戸切絵図」までカバーして「出演」する羽目になりました。でも、実際に放送されたのは収録時間の3パーセントか。そして結局番組の中身は幕の内五目弁当になってしまった。でも、この番組のためにこちらは大分勉強したことがある。以下はその一部。(「季刊Collegio」No34に一部掲載)。

江戸図の宝石『明暦江戸大絵図』好評発売中
明暦大江戸絵図2

江戸図について ―切絵図と武鑑

学の東西偏角 「古地図」というと、「江戸図」ないし「切絵図」を思い浮かべる人が多いでしょう。実際、時代小説と並んで、切絵図をあしらった書物が平積みになっている書店の風景は、大分長いことつづいていて、江戸時代にもそうだったように、切絵図が人口に膾炙している度合いは群を抜いています。

ところが『地図出版の四百年』(京都大学大学院文学研究科地理学教室・京都大学総合博物館編、2007)という本(A4判、カラー図版31ページ、本文133ページ)では、切絵図はおろか江戸図については一言半句も言及がありません。「はしがき」にも「ことわり」がない(ただしサブタイトルが「京都・日本・世界」となっている)。江戸図、切絵図については資料が少ない、あるいは研究者がいないということなのか。いや、この本のスタンスは、京都(上方)は「江戸(図)は問題にしない」と表現しているに等しいのでした。
「江戸図」や「切絵図」は愛好家や素人が好むもので、学問の対象にならないというより学者は近づかないほうが無難だ、という雰囲気はなにも京都に限ったことではなく、アカデミズムのなかでは濃厚に漂う気分ではあります。けれどもこれが東京で編集・出版されたものなら、すくなくとも、はしがきかあとがきでの言及を欠くことはなかったはずです。「学問の東西偏角」露出例として貴重かもしれません。

古地図の定義 問題といえば、とくに問題となることがなかったためか、「江戸図」の定義については寡聞にして知らないのですが、簡単に「江戸時代に作成された江戸の地図」としておきましょう。「図」ということから、鳥瞰図や図会の類はどうなるのか、といった議論が予想されますが、それらは除外して「地図」と言っておけばよい。「地図」とは何だ、といううるさい向きには「地上に対する垂直視線を図化したもの」と言いましょう。
さて、「切絵図」の定義は少々面倒です。『江戸図の歴史』(飯田龍一・俵元昭著、一九八八年)では、「切絵図とは」として六項目ほどを挙げていて、江戸市街を単純に切り割ったものではなく、独自のスタイルと機能、あるいは見識を備えた「究極の江戸図」であるとしています。
「伊能図」の定義となるともっと面倒で、元図が一切失われている上に、後世さまざまの写図や利用図が残されており、近代になってからあちこちで「伊能図」が名乗りを上げているから収拾がつきません。
ところで、伊能図で知られるようになった、地図の大きさ上のシリーズ「大図」「中図」「小図」は、近世地図一般においては表現(縮尺)の階梯というよりは、むしろその利用状態によるのでした。大図は座敷に広げ立って見る、中図は同様に畳や床に置くが、ただし座って見る、小図は両手の間に拡げて見る(近松鴻二、1997)というのは、実際に折り畳んだ図を開け閉めしてみるとなるほどと肯かれます。切絵図は小図の典型であって、これは一人の利用者が懐中にし、路上で拡げるのを想定してつくられたことがよくわかります。大図や中図は、複数者が四方を取り囲み、協議して用いるのに相応しい。

切絵図伝説 さて、圧倒的な人気を誇った江戸切絵図誕生にまつわる逸話に、「番町の付届け」があります。
幕府の諸役職の中枢を担う旗本の屋敷が蝟集する番町地区ですが、参勤交代する大名側にとってもこれら役職者との接触は不可欠。しかし江戸時代に表札というものはありません。役職替えや屋敷替えも頻繁に行われます。一方、町人側でも御用聞き、物納めは日々の勤め。尋ねごとで煩わしかった糀町十丁目の荒物屋近江屋が、すべての武家(屋敷)の名入り地図を発刊したのはまことに理にかなっているという話ですが、どうでしょうか。
近江屋の切絵図の最初の版(「懐中番町絵図全」)は弘化3年(1846)という幕末近くになってから(糀町=麹町十丁目つまり四ッ谷附近というのも疑問点のひとつ。これが半蔵門附近なら話はわかる)です。それ以前(宝暦5年・1755)に創刊された吉文字屋板切絵図(吉文字屋は日本橋通三丁目にあった)も、長くは続かなかった。
では260年の江戸期を通じて、「付届け」にはどうしていたのでしょう。恐らく、「付届け」ツールの基本は地図ではなく、古くから出版され、大まかな地名も添えられていた各種の武家名鑑、つまり「武鑑」だったのです。
江戸切絵図や小型の懐中江戸図の類は、その補助的メディアの役割を果たしていたのでしょう。すなわち、江戸の町の訪問プロセスは次のように想定されます。
相手の氏名・役職を、まず「武鑑」で確認する。この場合、家格・禄高も参照。「家紋」は表札のない時代にはとくに重要な表象(軒瓦などで確認できるサイン)なのでしっかり記憶しておく。さらに所在する地域名(住所・番地というものはなかった!)を間違えないよう覚えておいて、あとは、そのあたりに行って、訊けばよい。このとき、訪問先一帯の詳細を描いた切絵図があれば、なお確実。
このようにして確かに、切絵図ははじまりました。しかしその実用性以上に、江戸切絵図はそれ自体が「眼の愉悦」を誘うモノとなり、当時の、そして一世紀半を隔てた今日の、日本列島の巨大都市「江戸」とその「まがいものでない場所」への憧憬を導くメディアの代表となったのでした。

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