Archive for the '崖' Category

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ゆるい崖

(承前)
坂は、本源的に「ゆるい崖」、ないし人の手によって「ゆるくされた崖」なのである。
「無縁坂」(さだまさし、1975)などという、「坂」一般にまつわる日本的情緒を取り払ってしまえば、それは容易に近づきがたい異界であった。
ゆるゆるな情緒の背後にある異貌の世界に架橋しない、凡百の「坂の本」もまた、ただの与太話にすぎない。


渋谷道玄坂は古い坂である。
東海道脇道の矢倉沢往還、大山街道に数ある坂のひとつ。難所でもある。
傾斜角4度ほどの現在のような坂であれば、難所などにはならない。
道玄坂の説明標柱や碑が、渋谷マークシティ道玄坂口の道沿いにあるが、坂そのものの変容について触れているものはない。

「道玄坂へあがって行くと、坂がいわばおでこの額のように高くなっているあたりの左の方に狭い横町があって、それへと曲って、与謝野君の家に達するのであった。」
馬場孤蝶(『明治の東京』)が書き残していた、明治は35年頃の道玄坂の景である。

この当時の道玄坂の傾斜角度は、最低10度はあったと思われる。「おでこの額」のような急傾斜道こそが「道玄坂」なのである。
いまの、だらだら坂全体が道玄坂なのではない。

道玄坂のかつての姿、つまり「おでこの額」を見てみたいと思う向きは、ひとつは、渋谷109の裏手の「道玄坂小路」の「麗郷」という、昭和30年からある台湾料理のお店を目指せばよい。お店に向かって左手の駐車場へ向かう坂、およびその脇の階段(歩道)道がある。その傾斜は優に10度を超える。
もうひとつは、渋谷マークシティの南(道玄坂一丁目11・13)に沿った急坂。傾斜は二段構えになっているが、角度はこちらも10度はある。
この二つの急坂は、道玄坂を南北にはさんだ位置にあって、旧傾斜をある程度保存している。
それは、現在の1:10000地形図「渋谷」の等高線にもあきらかである。

道玄坂1-11-8 「魚がし 福ちゃん 2号店」 前の坂の傾斜はただものではない
道玄坂1-11-8 「魚がし 福ちゃん 2号店」 前の坂の傾斜はただものではない

つまり、メインストリートは拡幅され、掘り下げられるけれども、それに併行する脇道ないし裏道は、存外に手付かずなのである。
どちらかといえば、人ごみのないマークシティ南沿いの道のほうが、道玄坂の旧景をしのぶには適切である。

もし、現在の掘り下げられた道の構造を見ようとすれば、メインストリートの真中に立って左右の枝道ないしはビルの奥を見ればよい。そこがどのように掘削され、自分が樋(とい)の底のようなところに立っているかがわかるだろう。
道玄坂二丁目16番地の「幸楽苑」(ラーメン店)道玄坂店の裏手が3メートルほどの崖になっていて、東京都の急傾斜地崩壊危険個所、つまり崖地に指定されているけれど、この崖は「人工崖」以外ではありえない。

崖の形成要因には①変動崖、②侵食崖、③人工崖の3つがあって、①②いずれの可能性もありえないこの場では、すなわち人間が地面を開削してつくりあげた崖にほかならないからである。
この崖は、道玄坂の拡幅と傾斜緩和掘削工事を受けて出現した急傾斜土壁のひとつにすぎないのである。


こうした、近年の「人為の結果」しか知らない向きが、「地区の大部分を緩やかな傾斜地が占め、概ね東の渋谷川方向に下る傾向がある」(Wikipedia「道玄坂」)などというネット情報をうのみにして、それがまた拡散していく、という状態は嗤うべきであろう。

そういえば、道玄坂二丁目10番地にある、マークシティ道玄坂口の石碑のうち、「樋口清之」の署名と押印まである「渋谷道玄坂」の碑も、嗤うべき迷文である。

渋谷マークシティ道玄坂口への入口にある石碑のひとつ
渋谷マークシティ道玄坂口への入口にある石碑のひとつ

「渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。 それでこの坂を道玄坂というといわれている。 江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸へ運ぶ大切な道だった。
やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近もひらけだした。近くに住んだ芥川竜之介、 柳田国男がここを通って通学したが、 坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思い出もある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことであろう。」

樋口「梅干」先生、第一高等学校および東大(教養学部)が駒場にあるのは、昭和10年以降のことであるのを知ってか知らずか。
駒場はそれまでは農科大学校で、今の東大農学部。柳田や芥川の高等学校時代は明治の30年代や40年代。まして彼らは農学を専攻していたわけではない。
柳田が砧村(今の成城)に居を移す前は市ヶ谷加賀町に自宅があったし、芥川が自殺するまで住んだ田端の家の前にいたのはいまの新宿二丁目のあたりで、それ以前は両国。

ウィキペディアでなくとも、ネットを検索すれば、「梅干文」をうのみにして、道玄坂と柳田や芥川を結びつけた、垂れ流し情報はすぐに、いくらでもみつかるだろう。
『梅干と日本刀』という、「日本くすぐり」の与太話は、「累計120万部のベストセラー」だという。

独立した取材に基づくことなく、「記者クラブ制」に依存した大本営発表や、タレント教授の空辞を垂れ流して誤謬に導く、列島上の巨大な「相互依存」の破綻が、石碑にまでみつかるのだ。

あかあかと一本の道とほりたり 霊剋(たまきは)るわが命なりけり

「歌聖」柿本人麻呂以降の近世大歌人と言われ、帝国芸術院会員にして帝国学士院賞と文化勲章にかがやく斎藤茂吉の「元」は、山形県南村山郡金瓶村 (かなかめむら )の守谷家三男。
同郷の出郷者、浅草で医院を開業していた斎藤紀一に拾われて、入婿となった挙句、南青山の大病院の経営を継いだが、その生涯はなかなかに苦渋に満ちたものだった。

冒頭の歌がつくられたのは、大正2(1913)年(「あらたま」所収)。
歌の師伊藤左千夫亡きあと(同年7月30日)の、「アララギ」派中心人物としての決意を述べたものと言われる。
歌道の世界では、そう見るのが妥当で、またそのようにしか解釈できないのだろう。

大歌人の代表歌のひとつであるから、そのまま素直に受け入れればいいのだろうが、調子(チューニング)が合わない。
前の17音と、後の14音とで、韻律が分離している。
14音は連歌における他人の付句めいて、無理やりくっつけたような印象がある。

霊剋(たまきはる)は、「命」にかかる枕詞で、万葉集の山上憶良の長歌などに用いられていて、例は少ないものの「短命」な場合に使われたようだ。
当時31歳の茂吉は、枕詞の意味逆用して、むしろ「この歌道命(いのち)」と宣言したのだろうか。

いやいや、決してそれだけではないのではないか。
茂吉にとって、歌よりも斎藤家の後継者としての立場と仕事が優先していた。

その道は、実際の道。青山脳病院の正門前、赤茶けて土埃立つ関東ロームの舌状台地の上を、北西から南東に一直線に走り、渋谷川(古川)の支流、笄(こうがい)川の支谷に南下する尾根道だった。
まわりに建物などさして不在の当時、茅、薄などの草原(くさはら)の真中を通るその尾根道は、朝日に照らされ夕陽に焼かれる、文字通りのあかい道だった。

1:10000地形図「三田」の一部。図の真中、斜めに3つの谷が刻まれ、右下の青山墓地下に流下するのは、渋谷川(古川)支流の笄川。真中やや右下寄りに「脳病院」とある。
1:10000地形図「三田」の一部。図の真中、斜めに3つの谷が刻まれ、右下の青山墓地下に流下するのは、渋谷川(古川)支流の笄川。真中やや右下寄りに「脳病院」とある。

そうして、脳病院の裏手(北側)は、彎曲して延びる笄川支谷の崖が連続する。
崖斜面が竹藪となっていて、子どもたちがそこを抜け道として遊びに出たことは、北杜夫の『楡家の人びと』に詳(つまび)らかである。
「たまきはる」尾根道は、崖つまり谷筋に併行していたのだ。
(上の地図は明治42年測図。2段階表示の2番目の拡大図でみると、「立山墓地」下に水流がつづいているのがはっきりわかる。ちなみに、「脳病院」の南と西の塀はレンガ製で、東の立山墓地に面した塀は板塀。裏の崖側には塀もなく、竹ヤブだった。また、脳病院の向かいの建物の正面は「土囲」、西側は生垣、東は竹垣であることが、地図記号からわかる。)

「ローマ式建築」の偉容を誇る青山脳病院が、複式舌上台地の一画に開業したのは明治40(1907)年。
茂吉が、13歳年下の斎藤家の長女輝子と結婚したのは大正3(1914)年。
長崎医専の教授、ベルリン留学を経て、全焼した脳病院の跡に帰国し、病院院長を継いだのが昭和2(1927)年。
そうして、世間の耳目をそばだてた「ダンスホール事件」(「不良華族事件」)を契機に、茂吉が輝子と別居する(「追出す」)のは昭和8(1933)年。

旧青山病院裏を上る現在の陸橋階段。1段約15cmの階段が66段あるから、台地の上と笄川の谷とでは、約10mの高低差がある。
旧青山病院裏を上る現在の陸橋階段。1段約15cmの階段が66段あるから、台地の上と笄川の谷とでは、約10mの高低差がある。

その孤閨の暇、人生の「崖」が眼前するのに時間はかからなかった。
昭和9(1934)年9月19日の向島百花園のアララギ歌会。
永井ふさ子24歳、茂吉52歳の邂逅。

古比志佐乃波気志貴夜半者天雲乎伊飛和多利而口吸波麻志乎
(こひしさのはげしき夜半は天雲をい飛びわたりて口吸はましを・昭和12年2月17日)

光放つ神に守られてもろともに / あはれひとつの息を息づく (合作)

明治神宮で、茂吉のつくった17音の上句に付句するようにとの指示に、ふさ子が「相寄りし身はうたがはなくに」と詠んだところ、「弱い」と言われ、「あはれひとつの息を息づく」としたところ、茂吉は「人麿以上」と喜んだという。

ふさ子は、崖上の青山脳病院を訪れてもいた。
正岡子規の縁者にあたるふさ子との関係は、しかし「アララギの道」に悖(もと)り、「家」に背く。

それゆえか、老いゆえか、恋は激しく、かつ粘着的であった。
一時は「駆け落ちも」と燃え上がる。
しかし一方で茂吉は、その150通あまりの書簡すべての焼却を、ことあるごとに指示してもいた。

昭和20(1945)年を契機に輝子との同居に復した茂吉は、同28(1953)年、72歳で死去。
ふさ子は書簡130通あまりを守り、茂吉の死の10年後に『小説中央公論』で公開する。
茂吉との記憶を生涯の証とし、郷里松山で独身を通して、平成5(1993)年に亡くなった。
享年83。

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江戸の崖 東京の崖 その28

震災と原発ですっかり中止状態になった当ブログ不定期連載の「江戸の崖・東京の崖」だが、某出版社には同じタイトルで単行本1~2冊分の原稿は渡し済みだし、毎月1回、もう四十数回つづけている淑徳大学の公開講座名もこの春から「江戸・東京崖っぷち紀行」と変更したわけだし、日本、いや日本列島そのものが地震と津波と原発ですでに崖っぷちであることが世界中に知れわたったのだから、「崖話」もそろそろ開始してよいと思われる。
もちろん、かくいう当人が経済的にはますます崖っぷちで、辛うじて国分寺崖線の崖際にとどまっていることに変わりはないのです。
で、崖男の崖話を再開。

六本木ヒルズと東京ミッドタウンというきらびやかなランドマークを擁して、いまやトーキョーの顔となった感のあるロッポンギとその隣のアザブ地区だけれど、ロッポンギはいざ知らず、アザブが「崩壊地形」を意味する「アザ」「アズ」という語に由来する、とは当ブログ「江戸の崖 東京の崖」その18(昨年10月16日)で述べた通り。
だから、この一帯には、大小さまざまな崖が、捜せばあちこちにみつかるのです。

たとえば、
地下鉄大江戸線の六本木駅から地上に出、ミッドタウンガーデンを背にして外苑東通りを横断し三差路の南の並木道をくだると昔の陸軍歩兵三聯隊跡(1962年から2000年頃まではその建物を東京大学生産技術研究所に転用していた)、今、国立新美術館と政策研究大学院大学の二つの施設が割拠する一角に至るのですが、その並木道が妙なのですね。

奥が東京ミッドタウン、手前左が国立新美術館、右手が東南となる
奥が東京ミッドタウン、手前左が国立新美術館、右手が東南となる

ご覧のように、東南側が切られたように最深部で1.5メートルほど落っこちている。そうして、東南一帯はそのまま低い土地である。
これを崖と言うか否かはさておいて、どうしてこんな形になったのか。
放射能汚染地域ではあるまいし、わざわざ道の片側だけを掘り下げ、広範囲に表土を削り取るわけはないから、むしろその逆だと考えるほかない。

この道を下って、旧東大生産技術研究所の向いの低地の角地は、70~80年代は夜な夜なお盛んなところだったとは、土地の人からの話だけでなく、筆者も確かに覚えのある場所。今ではビルの一階でもガラスを透かして倉庫然として見えるけれど、昔は結構広くて、知的そうなママさんがいた店(バー)ではなかったか知らん。某文芸評論家との間にできた子がいるとの話だったが、その評論家は新宿方面でも子をつくっているので、あちこちに「落として」いたのだな・・・。

右手は国立新美術館に隣接する政策大学院大学。その下の土地は大分落ち込んでいる。左奥は六本木ヒルズ
右手は国立新美術館に隣接する政策大学院大学。その下の土地は大分落ち込んでいる。左奥は六本木ヒルズ

さて、そのかつての夜の街の一画はというと、これも都市繁華街の立地定式にもれず、実は渋谷川支流、正確に言うとその下流の古川の支流、笄(こうがい)川のそのまた支流が侵食した跡なのですね。もちろん水の流れが切り立ったように削ったわけではなく、外苑東通りの尾根筋から支路を通すため、低地に道の部分だけ盛土したのでしょう。

『川の地図辞典 江戸・東京23区編』から、該当部分(渋谷川支流の笄川の谷
『川の地図辞典 江戸・東京23区編』から、該当部分(渋谷川支流の笄川の谷

結局は人間の手が加わってつくりだされたかたちでしょうが、このようなところに、謎と疑問を感じるところから、人は、いま大きく世の関心を集めることとなった、「地形」にちかづくことができるのです。

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江戸の崖 東京の崖 その27

三軒茶屋の三差路から、世田谷道を500mほど西へくだって、その一本南側の裏道。
そのあたりが、「忍法帖」や「戦中派不戦日記」で名高い作家の山田風太郎が、戦後、昭和32年頃まで住んでいた旧宅跡。
旧住所は世田谷区三軒茶屋町196番地。
三軒茶屋から世田谷通り(旧大山街道)と大山道(玉川通り、国道246)に分れるけれど、世田谷通りは北側の烏山川と南の蛇崩川の間の尾根道。
玉川通りももちろん尾根道。
この2本の尾根道の間を、蛇崩川(じゃくずれがわ)が中目黒まで下って目黒川に注ぐ。
行ってみて、風太郎先生、世田谷道の尾根から南にやや傾斜した、蛇崩の谷側に住んでいたことが判明。
このあたりは小さな崖がちょろちょろつづく。
蛇崩川はその程度だが、北側の烏山川(からすやまがわ)はもうすこし規模が大きい。
国士舘大学の北校舎と南校舎の間を抜ける緑道は、南に7mほどの崖が佇立してつづく。
その崖の途切れるあたり、松陰神社の参道脇の桂太郎の墓はしかし、なんとも恥かしい。
吉田の塾生でもなかった者が、その威を借りるタロギツネ、というかコバンザメタロウの構図を遺憾なく表わす。
なにせ「ニコポン」タロウは冤罪というよりも国家の犯罪「大逆事件」のフレームアップと「韓国併合」の総責任者。
こういう阿世者の「得意がり」を、「日本の歴史」は何時まで許しておくのだろう。

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江戸の崖 東京の崖 その26

今年の1月24日は、幸徳秋水ほか11名刑死100年忌。
いわゆる大逆事件100年にあたります。
永井荷風父永井久一郎旧邸跡近く、旧市ヶ谷刑務所処刑場跡は、新宿区の余丁町児童遊園の一隅に、日本弁護士連合会の「刑死者慰霊塔」が建てられていて、たずね来る人にはわかる状態。
都内ではもう一箇所「故地」が残されていて、渋谷区代々木三丁目の正春寺墓地中央辺の白っぽい自然石が翌25日に処刑された管野スガの墓。
スガの墓については、田山花袋が『東京の三十年』で曖昧に触れている。つまりはっきりと個人名や事件名を書くことは、当時憚(はばか)られた。

昨今そこここの神社などをめぐって、若い人の間に「パワースポット」ブームが出現しているわけですが、大逆賊「将門首塚」が大手町にある江戸東京最大のパワースポットなら、こういう場所も「近代パワースポット」。なにせ菅野スガは現代の劇作家によって「魔女」扱いされている(福田善之『魔女伝説』三一書房, 1969 )のだから、十分に「パワー源」となる資格がある。

 [凡そ「神社」は怨魄を封ぜんがため建立され、その「パワー」は恨みを淵源とす。
 [よって、人もし「パワー」を後代に残さんと欲せば、死に臨んで存分に恨み念ずべし。

つまり、そこには一種の「時間の特異点」が露出している。
そうしてまた、崖が屹立しており、ビュービューと風が吹きつのる。
非命に斃れた異貌が顕現する。

『時の崖』というのは、安部公房が書いた拳闘小説のカウントダウン・ゴングにだけ出現するわけではない。
先の「ブラタモリ」や「新東京地形論」も、時間に伏在する非連続性という「崖」に無知な例でしょう。

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江戸の崖 東京の崖 その25

[御所組一家、崖組一家]
ウサギ年だというので、「辛卯」(かのとう)という文字が入った賀状が来るけれども、元来「卯」という文字はウサギとは何らかかわりがない。
もともとは左右対称をあらわす字形。十二支の第四位に用い、わかりやすいように動物をあててウサギとしただけの話。
十二支採用は、ウサギには関心を持ってもらえる分、有難半分迷惑半分でしょう。
さて、昔話ではカタキどうしのウサギとタヌキ。
東京の都市部では絶滅したとみられるニホンノウサギですが、敵役のほうはしっかり生き残っている。
今朝の東京新聞によると(「東京生き物語2011下」)、23区内で約1000匹のタヌキが棲息する由。
「東京タヌキ探検隊」の2007-09年調査では、目撃件数の多い順に、練馬区77、板橋区64、杉並区62、中野区39、文京区28、世田谷区28、新宿区26、北区18、豊島区17、千代田区10、足立区10、渋谷区9、港区4、目黒区3、大田区3、台東区2、葛飾区2、江東区1、品川区1、中央区0、墨田区0となる。
このうち、千代田区の10は明らかに皇居にお棲まいの「御所タヌキ」。
渋谷、新宿の数字も、新宿御苑、明治神宮、赤坂御所においでのご縁戚でしょう。
古い巣穴のあった、麻布の狸穴(まみあな)は港区ですが、狸穴のタヌキと崖については、本連載「その18」で述べた通りですので省略するとして、皇居とその関連施設以外のタヌキの居住場所はほとんどが急傾斜地、つまりは崖地なのです。
一定の面積をもった緑地は、皇居や神宮のように人間社会における強力な規制によって保全される以外は、人間の経済活動のおよびにくい急傾斜地にかろうじて保たれています。
グリム童話には決して出てこない、ユーラシア東部に棲息するネコ目イヌ科タヌキ属(ウサギはウサギ目ウサギ科)の、日本列島は東京在住グループにも、御所組一家と崖組一家という派閥が存在するのです。

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江戸の崖 東京の崖 その24

[大晦日の断崖]
古来、大晦日の夜は怪異や異界が出現するのでした。
江戸・東京でよく知られた話には「王子装束榎(えのき)大晦日の狐火」がありました。
多摩地域の川に関して言えば、東京都瑞穂町(みずほまち)の駒形富士付近を水源とし、埼玉県入間市、狭山市を経て、川越市の岸町で新河岸川に合流する、不老川(としとらずがわ)の名の由来も大晦日にあって、きまって大晦日の晩に水が涸れるというのです。
これは武蔵野の逃げ水現象の伝説化ですが、崖にまつわる大晦日怪異譚としては、ヨーロッパはアイスランドの「トゥンガの崖」が際立っています。
その断崖は大晦日の真夜中、一部が教会の扉のように口を開け、その中でキャンドルが何列も連なり、すばらしい歌が響き、たくさんの妖精たちがミサをするという。
委細省略して結論だけ言えば、それを見た人は死んでしまうのです。
キリスト教信仰の下に埋もれたケルト的古層が露出する見事なお話で、一読をお勧めします(菅原邦城訳『アイスランドの昔話』1979年)。
アイスランドはノルウェーやアイルランドのケルト人たちの殖民島で、世界最古の民主議会や、ヨーロッパ人最初の「アメリカ発見」を誇る歴史がありますが、その後ノルウェーやデンマーク王国の支配を受け、キリスト教信仰を強制されたのでした。
この「昔話」には、かつて生身のいきものを寄せ付けぬ厳しい姿で直立する崖が保持していた「異界の魔力」が、世界宗教という「政治性」によって駆逐され、ただのキリギシもしくは宗教の僕(しもべ)としてそれを飾るものに転相する過程が屈折、凝縮されているのです。
崖が妖精もしくは精霊、鬼神といった異界の者の拠るところであったのは、洋の東西を問いません。
付け加えるならば、世界中の子どもたちに圧倒的な人気を誇るノルウェーの絵本『三びきのやぎのがらがらどん』のトロルは谷川に渡した吊り橋の下にいるのですが、つまりは崖に顕現する魔性の裔(すえ)でした。

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江戸の崖 東京の崖 その23

[崖 歌]
石川啄木の処女歌集『一握の砂』が刊行されたのはちょうど百年前の明治43年(1910)12月1日。
この年は、啄木にとっても、日本という新興近代帝国にとっても大きな節目というか動揺期であったのですが、それは措いて、ともかくも母親から感染していた肺結核のため、27歳という若さで東京は小石川区久堅町74番46号(現、文京区小石川5-11-7)の借家で死去するまで、歌集上梓後の啄木に残された時間は1年と数ヵ月もなかったのでした。
その『一握の砂』の冒頭は、「我を愛する歌」なる全5章のうちの第1章のタイトルがあって、

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

頬(ほ)につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず

大海(だいかい)にむかひて一人
七八日(ななやうか)
泣きなむとすと家を出でにき

の3首が並び、全部が「涙歌」。
啄木伝説は、こうした涙と貧窮のうちに病で早世した、広額童顔の天才というイメージの上に成り立っているようなところがあります。
むしろ一見、石原裕次郎主演の映画主題歌を想起させる次の4首目のほうが、よほどポエムらしい。

いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに

もっとも、裕次郎のほうは、「銃刀法」を慮(おもんぱか)ってか、ピストルをジャックナイフに替えてあり(「錆びたナイフ」荻原四朗作詞、上原賢六作曲、1957年。アクション映画は「錆びたナイフ」1958年)。つまりは、こちらは人畜無害な青春反抗ドラマ歌謡。
啄木のほうは、歌集のはじめの部分は「涙」というより「砂」がつづく。たとえば8首目は絶唱ともいえる次の歌。

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ

ところで、こうしたいわば3行短歌という表現法は、啄木が創始者と言われています。
デジタル全盛、表現方法は「何でもアリ」の時代に突入した今日では、あまり気付かれないことですが、千年の伝統というか権威を支柱とする短歌世界にあって、このことは結構な革新だったはずです。

さて、全5章、551首の『一握の砂』のうち、110首目には次のような「崖歌」があって、これも後世の人の作品種にもなっていたのです。

何がなしに
頭のなかに崖ありて
日毎に土のくづるるごとし

後世の人というのは現代の作家で、名を車谷長吉という。その作は

夏帽子頭の中に崖ありて

ううむ、帽子をかぶせただけではないか。現代俳句協会の現代俳句データベースでは「業(ごう)の作家ならではの一句」とか言っているし、「増殖する俳句歳時記」でも取り上げているけれど、「元歌」に気付いた様子はない。現代俳句も伝統俳句も、俳句という壺のなかで「増殖」しているだけのようです。

50首目には

高きより飛びおりるごとき心もて
この一生を
終るすべなきか

とも言っていて、高層ビルのない当時「高き」はほとんど自然崖のことだから、これも啄木の崖歌としていいのです。

戻って17首目

わが泣くを少女等(おとめら)きかば
病犬(やまいぬ)の
月に吠ゆるに似たりといふらむ

の「月に吠ゆる」は、後に萩原朔太郎の処女詩集のタイトル『月に吠える』(1917年)となり、こちらは天空を仰いで近代詩の一つの頂点をかたちづくったのでしたが、朔太郎自身は1933年の『氷島』で、「日は断崖の上に登り/憂ひは陸橋の下を低く歩めり・・・」(漂泊者の歌)と、地上の崖に回帰することになるのです。

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江戸の崖 東京の崖 その22

[ピタゴラス]
NHK教育テレビ放映「ピタゴラスイッチ」は4~6歳児対象なのですが、大人も文句なしに見ていられる数少ないテレビ番組です。
「ピタゴラそうち」という、ビー玉ころがしドミノも毎回楽しめますし、「ぼてじん」なる、とぼけたキャラクターもいい。
「アルゴリズムたいそう・こうしん」も、スーツに身を包んで行進する体育会系お兄さんが、毎回同じ動作をするけれど見ていて飽きない。
「ピタゴラスイッチ」というネーミングも嬉しい。
ところで、崖の高さを計測するのは、けっこう難しいものがあって、例えば神田川のキリギシの高さなどは、錘付紐を垂直に垂らすのが一番だけれど、そのような足場がない。あっても一般が立ち入れない。
これは日暮里の鉄道線路際の垂直壁面でも同じ。
何でも電気の現在(いま)だから、なにか道具があるはずと思っていたら、新聞の新商品紹介欄に、携帯型レーザー距離計があった。
レーザー光線を利用して、対象地までの直線距離と水平距離が計測できる。
何のための商品かというと、ゴルフショットの弾道見当用なのですね(ただし公式競技には使用できない)。
けれども水平距離と直線距離だけでは崖の計測にはならない。角度か高さのいずれかがわからないと、「三角形」は描けないのです。
しかし、携帯型レーザー距離計でも「ピタゴラス機能付」というのがあったのです。つまり高さも、角度もわかるものが。
これはよいかなとメーカーに訊いてみると、やはりゴルフ用だけあって、その場合は最短でも水平距離10mが必要と。それでは身近な崖の計測には利用できない。
探索の果ては、あたりまえだけれど、結局はプロ用、つまり土木・建築用測量である、ピタゴラス機能付レーザー距離計にたどりつきました。
けれども、結構なお値段のそれを、手に取って試す機会には、まだ恵まれていないのです。
そうであれば、やはりアナログ。電気道具に頼らず、昔懐かしいクリノメータ(手作りの職人さんがいなくなっているそうです)や、折尺。歩測(手測や目測、身長測を含む身体測量)、階段測量、そしてピタゴラスの定理からのアバウト計算こそが、崖マニアには相応しいといえるのです。
デジタル(自動)であろうと、マニュアルであろうと、ピタゴラスはピタゴラス。

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