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江戸の崖 東京の崖 その27

三軒茶屋の三差路から、世田谷道を500mほど西へくだって、その一本南側の裏道。
そのあたりが、「忍法帖」や「戦中派不戦日記」で名高い作家の山田風太郎が、戦後、昭和32年頃まで住んでいた旧宅跡。
旧住所は世田谷区三軒茶屋町196番地。
三軒茶屋から世田谷通り(旧大山街道)と大山道(玉川通り、国道246)に分れるけれど、世田谷通りは北側の烏山川と南の蛇崩川の間の尾根道。
玉川通りももちろん尾根道。
この2本の尾根道の間を、蛇崩川(じゃくずれがわ)が中目黒まで下って目黒川に注ぐ。
行ってみて、風太郎先生、世田谷道の尾根から南にやや傾斜した、蛇崩の谷側に住んでいたことが判明。
このあたりは小さな崖がちょろちょろつづく。
蛇崩川はその程度だが、北側の烏山川(からすやまがわ)はもうすこし規模が大きい。
国士舘大学の北校舎と南校舎の間を抜ける緑道は、南に7mほどの崖が佇立してつづく。
その崖の途切れるあたり、松陰神社の参道脇の桂太郎の墓はしかし、なんとも恥かしい。
吉田の塾生でもなかった者が、その威を借りるタロギツネ、というかコバンザメタロウの構図を遺憾なく表わす。
なにせ「ニコポン」タロウは冤罪というよりも国家の犯罪「大逆事件」のフレームアップと「韓国併合」の総責任者。
こういう阿世者の「得意がり」を、「日本の歴史」は何時まで許しておくのだろう。

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