いま人口に膾炙した地形用語「国分寺崖線」が誕生したのは、戦後も間もない1952年である(福田理・羽鳥謙三「武蔵野臺地の地形と地質 東京都内の地質Ⅳ」『自然科学と博物館』Vol.19, 1952年)。
その命名の地元となった国分寺市(当時は国分寺町)には、あまり知られてはいないが「池の坂」という名の坂道がある。
現在JR国分寺駅が所在する段丘面(台地)は国分寺崖線を切る二つの谷によって南側に突き出す舌状となっているが、「池の坂」はその舌先を北に上るあるいは南に下る坂道で、現在は京王線府中駅前を発して国分寺駅南口を目指す路線バスがローギアにチェンジして上っていく。

「国分寺崖線」は、若き地質学者の調査と地形図によって「発見」された。図はその「発見」に寄与したと思われる2万5千分の1「立川」(1906年測図之縮図、1923年測図、1937年修正測図、1947年資料修正〈行政区画〉、1947年地理調査所発行)の一部。図歴をみると、行政区画は別として描図の中身は1937年の様相と思われる。
「池の坂」は国分寺駅の南、縦の「こくぶんじ」の文字の下(南)につづく道の一部。「国分寺街道」はその東側、開析谷に沿って迂回して国分寺駅北口(当時改札は北側にしかなかった)に向かっている。その迂回路も新旧二本並行しているのが見える。当然ながら殿ヶ谷戸庭園は存在せず、旗竿式記号の垸工墻(かんこうしょう。コンクリートや石、煉瓦の塀を表す。現在この記号は用いられない)で北と西側を囲われた岩崎別邸が存在するだけである。別邸の敷地は「池の坂」に沿って、坂下まで目いっぱいとられていることに注意されたい。敗戦前の岩崎邸は、現在の殿ヶ谷戸庭園よりずっと広かったのである。
近世までの国分寺村は、この舌先下つまり国分寺崖線下の野川流域にあって、いまJR国分寺駅とその南北商店街があるのはその北側の高位段丘面にあたり、近世には別の村であった。それは玉川上水の分水にたよって享保期(1716~1735年)に開拓された新田のひとつで、本多新田という。本来の国分寺村は現国分寺市の「東元町」と「西元町」にあたる。国分寺市の元となった国分寺村は、1889年(明治22)、市制・町村制施行によって10カ村が合併させられて誕生した。その年は甲武鉄道新宿・立川間が開通した年でもあった。

2万分の1迅速図の原図「神奈川縣武蔵國北多摩郡國分寺村」(1881年・明治14)の一部。甲武鉄道開通以前、府中と国分寺を結ぶ道は、舌状台地の舌先の段丘崖(等高線の束)を少々東に振れて北に上がる。段丘崖にかかる部分が「池の坂」である。
国分寺崖線は国分寺村と本多新田村の自然の境界線で、池の坂は両者を結ぶ道の傾斜部であるが、そこは国分寺村と府中を結んだ国分寺街道の北延長にあたる。
しかし甲武鉄道と停車場(1889年開業)が建設された結果、そのルートは「池の坂」から外れ、現在の都立殿ヶ谷戸庭園東側の開析谷に沿って迂回し、鉄道を踏切で渡った新道に切り替えられた。
そうして、その殿ヶ谷戸庭園のほぼ中央に「馬頭観音」の石塔を見ることができるのである。

2020年10月23日発行(奥付)だが、著者分として今朝10冊が届いた。
初版は2013年7月だから、間に再版はあったものの7年が経過した。
本来は絶版として、自分のところで出すことを考えていたのだが、増補してもいいからとの版元の意向を汲んで今回の「新版」となった。
本文も大分訂正し、増補部と索引計16ページを新しく付した。
脱稿したのが6月だから刊行まで4ヶ月後のリリースだが、このご時世である。
ともあれ拙著のあらたな門出を幸いとしたい。
なお、新版に際してのあとがきは実は重要なことなので、以下に再掲しておく。
「二〇一六年の再版以降、あらたに知り得たことも少なくなく、今般版元のご厚意で増補改訂版が実現できたのはまことに幸いである。江戸図研究は『江戸図の歴史』(飯田・俵、一九八八)でひつつの完成をみたように思われているが、実は最重要の手描き図についてはようやくスタート地点に立った段階である。本文でも触れたように、江戸図にかんするこれまでの定説・通説のたぐいは見直されるべきで、そのことを付け加えて、増補改訂版のあとがきとする。(二〇二〇年六月」
あとがきで言いたかったのは、切絵図や大絵図など、民間発行の版図については研究がすすんでおおよそのことが判明しているが、その元となった幕府系の測量図や手描き図については実はほんの少しのことしかわかっておらず、まして版本もふくめて江戸初期図についての江戸期以来の通説は再考されるべきだ、ということである。
通説の疑問点などについてはあちこちで話もしてきたが、それはこの新版で展開してはいない。
また別の機会もあろうと思っている。
以下は増補部の一部である。


本稿その3の最後の写真は、上掲写真の右手の鉄道柵の囲いの中にある「馬頭観音」で、「二枚橋の坂」の標柱は写真の左上、白ライン(車道外側線)がゆるい逆「く」の字に曲がる角に立っている。
この馬頭観音について、『小金井風土記 余聞』(芳須緑、1996年)の「むかし話 二六 捨て場」には次のように書かれている。
「集落が構成されるとごみが出る。(略)人びとが忌み嫌う不浄なものも出てきてさて、それを捨てる場所が必要になる。小金井が(ママ)捨て場と伝えられるのは――。「貫井村 (略。東京学芸大学東門付近)」「二枚橋上 上・下小金井および、小金井新田の三部落の共有捨て場は、東町五丁目、野川付近にあったそうだ。現在は位置をずらして、西(ママ)多摩川線、二枚橋ガードの西側に、二本の松が植わる下に、馬頭観音の石像が、草にうもれてある。」「北関野 (略)」
「人びとが忌み嫌う不浄なもの」とは典型的には人間の死体であるが、近世社会においてはヒトが亡くなれば葬送され墓地に土葬されるのが一般的であった。火葬は近世においては特殊であり、それが一般化するのは近代以降である。だから古典落語「黄金餅」の、火葬場(桐ケ谷)で火葬死体から生前呑み込んでいた黄金の粒をせしめるというブラック・テリングは、江戸時代に仮託した創作である。
もちろんヒトの死体は「ごみ」ではない。ここで言われている「不浄なもの」とは「斃牛馬」(たおれぎゅうば・へいぎゅうば)のことであって、東日本では家畜の主体は馬であった。「馬頭観音」ないし「馬頭観世音」の石造物は馬の供養塔だが、実際には馬をはじめとする家畜の死骸捨所の目印として立てられることが多かったのである。
二枚橋の坂を通る道は、砂利鉄道敷設のための土手建設にあたってそのルートがいささか捻じ曲げられた。だから「馬捨場」の位置も以前とはすこし異なるのである。そして「二本の松」も伐られてしまった。しかしそれが坂の下方、つまり国分寺崖線の裾に位置することに変わりはない。
境界領域でもとりわけ坂下の路傍に設けられた「馬捨場」については、以下のような文章を前提としてはじめて了解が可能である。
「近世日本では、斃牛馬を飼い主が自ら解体することは認められず(多くの所では自ら埋葬することも認められず)、無償で長吏・かわたに渡された。引き取る者は、長吏・かわたの側の仕組み(旦那場の所持)で決まった。飼い主からみれば、渡す相手を選ぶ権利もなかったことになる。その形態は、関東では所定の馬捨場に出される場合が多く、地域を見回る非人がそれを見つけ、権利をもつ長吏に連絡して解体した。」(藤沢靖介『部落・差別の歴史 ―職能・分業、社会的位置、歴史的性格』2013年)
「長吏」や「非人」とは近世の被差別身分の称であるが、関東では問題意識が希薄でその存在が意識されることは稀である。しかし明治期も初めまではその社会構造は厳然として存在し、しかも江戸とその近郊を含む関東では浅草の弾左衛門支配下、長吏と非人の二重構造が機能していた。そうしてその存在は、多くの場合自然の地形と人為的な村界のふたつの要素の交点に顕在化したのである。


「二枚橋」という橋名はすこし調べただけでも、埼玉県戸田市や静岡県御殿場市にも存在し、江戸川区の南小岩にはバス停の名として残されている。
上の写真は川崎市麻生区高石の「二枚橋」で五反田川の支流に架かり、津久井道が走る至近に所在する。
ご覧のように古代末期の義経・弁慶伝説を伴い、町会が独自にそれを公示している。
伝説を「荒唐無稽」や「つくり話」などと言って一方的に否定するのは適切ではない。伝説が言わんとしているのは話の全体ではなく、一片の真実だからである。義経・弁慶はさておき、この場合伝えんとするところは橋が大変に古くからあり、またそれが架かっていた古街道が遠く奥州にもつながるものであった、ということなのである。
柳田国男は「伝説」の特徴として、「必ず一定の土地または事物に固着」し、それを「発生せしむる社會上の原因が無ければなら」ず、「英雄は單にある種の傳説の古さ貴さを確保すべく、次々に招き請ぜられるのが普通であった」と書いている(「傳説」『定本 柳田國男集26』1964年)。ここはそれにあてはまる典型例のひとつである。
そうしてこの川崎二枚橋を通る南北道は、かつては矢野口の渡しで多摩川を渡った「鎌倉道」のひとつで、小金井の二枚橋もその経路の一部であった可能性が示唆されているのである(藤原良章『中世のみちと都市』日本史リブレット、2005年)。
府中の側(南:図の下)からその二枚橋を渡り、多摩川線の下をトンネルでくぐって北上すると、国分寺崖線を上る坂道にかかる。鉄道敷設以前は、二枚橋からまっすぐ北上する坂道であった。
上り口から20~30メートルの右手に「二枚橋の坂」という小金井市の標柱が立っている。標柱の基体はコンクリート製の正方形の柱で、4つの側面にアルミの金属板が取り付けられたものである。しかし下の写真のように、ひとつの側面の説明板のみが無惨に剥がれ、ないし剥がされているのである。

小金井市都市整備部道路管理課に訊ねると、自然剥離の可能性があるという。しかし標柱4面に貼付けられた金属板のうち、この1枚のみがきれいに取れているのは不自然である。仮に剥がれたとしても、その金属板はどうしたのだろう。付近の住人がリサイクリゴミとして処理したのだろうか。
その詮索は措くとして、この説明板は以下のような文言で、それは「小金井市坂と遊歩道マップ」(小金井市都市整備部道路管理課 2009年10月・2016年1月増刷・2019年3月増刷)にも掲載されているという。ネットでみると次のような文言である。
「二枚橋の坂/西武多摩川線沿い。江戸道(連雀街道)から府中下染谷村や深大寺、甲州街道に抜ける道があった。/二枚橋悲恋物語の元となった野川に架かる二枚橋からこの名がついた。」
標柱にもし「西武多摩川線沿い」と書かれていたとしたら、そこは余分である。が、これも措くとして、標柱から坂下へ15メートルほどのところには、以下のような石造物も立てられていたのである。


図は1:10000地形図「東京6号西北部の25 多磨霊園」(1955年地理調査所発行)の一部である。
図の左下に「この図の測量は戦災及び経済復興のため貸与された下記の米国陸軍空中写真を併用」とあり、つづいて1947年10月に撮影された空中写真の番号が記載されている。つまりこの図は、大岡昇平が妻子とともに富永邸に一時寄寓(1948年1月から12月)していた時分の記録である。富永邸は図の左上「製糸工場」の崖下の「400」(地番)の数字のかかる家である。
鉄道には「西武境線」と注記があり、その「西」の字のすぐ右側の二枚橋には名前がないが、図の右上国分寺崖線を上ったところに「二枚橋上」と字名がみえる。
野川河川敷の多くは水田化されている。大岡が言うように二枚橋のところで川幅は急に狭くなり、川の左岸は広葉樹と針葉樹の記号が入り混じる。右端の朱色の四角を擁するエリアは中島飛行機の三鷹研究所跡地で、「国際キリスト教大学」と注記がなされている(図外)。右上に引き込み線がみえ「小金井砕石場」とあるのは、戦災復興特需の多摩川の砂利を適切な建築素材とすべく、ここで盛んに分別し砕石していたのである。

こちらは1万分の1地形図「東京6-4-4 小金井」(2003年1月国土地理院発行)の一部で、上掲図とほぼ同範囲である。
橋には「二枚橋」と注記があり、その南側に巨大な「塵芥焼却場」が稼働している。「二枚橋老人福祉センター」とあるのは、焼却場の余熱を利用した浴場や温水プールの施設であろう。
しかしこの図でもっとも注目したいのは、国分寺崖線上の住宅地の拡大や都立公園、運転免許試験場などの施設の展開ではなくて、野川の流路である。
河川改修の結果その形と幅がまったく変容し、さらには常流の水深すら変化したと思われる。
その時は橋も、その構造や躯体素材そして幅も長さなども、以前とは大きく変わってしまったのである。

写真左手は小金井市東町1丁目で野川に架かる二枚橋、右手はかつて是政線と称していた西武多摩川線の土手である。またそれぞれの背後は、右手が都立武蔵野公園、左手が同野川公園である。
中央の奥が明地となっているが、ここには調布市、府中市、小金井市の3市によって1957年に設立、2010年に解散した二枚橋衛生組合の可燃ゴミ焼却施設が存在していた。写真奥は調布市野水2丁目1番地で、リサイクルゴミや粗大ゴミを扱う「調布市クリーンセンター」の建物が見える。
この一帯は府中市、調布市、小金井市、三鷹市と4市の境界が輻輳し、いわゆる迷惑施設が立地しやすいのである。
このはずれの地に、いずれの時ともわからず古くから存在したのは橋であった。その次に古いのは鉄道とその土手で、多摩川で採掘した砂利運搬目的で開設され100年以上の歴史をもつ。それ以外はすべて近年の施設である。
戦後間もなくのベストセラー『武蔵野夫人』(大岡昇平)に描かれたこの一帯は、次のような景観だった。
「道は多摩川から砂利を運ぶ軽便鉄道の土手の下をくぐると、初めて斜面に追従することをやめ、この辺で急に狭くなった野川の流域の湿地を渡って、右の方の陽(ひ)にあぶられた草原に進み入る。二、三尺に足りない灌木の若木が叢(くさむら)をなしている間に、ところどころ赤松が立っている。」
ここで言う「道」とはいわゆる「はけの道」のことであり、主人公の進行方向は鉄道をトンネルでくぐるまでは西側から東に向かっていた。進行方向を南に変え、橋をわたって進み入った「草原」は今の野川公園である。大岡はその戦場体験の故もあって、土地の高低差や川幅の広狭といった地形や景観に敏感であったが、この橋とその名前にとくに留意することはなかった様子である。
摘発の予感におびえ政治の表面からトンズラしたアベの最大の功罪というより罪悪は、意のままになる官僚のみの体制をつくりあげ下僕化させたことだが、それをひきついだアベアバタースガが日本学術会議の下僕化をあらわにした。
学術会議メンバーは公務員だから任免権は政府にあるという論理だ。
バカを言ってはいけない。
首相は企業の社長だと言っているというか思っているのだが、そうだとすれば政治家が政治のイロハを弁えていないということになる。
ソーリダイジンは私企業のトップとは異なる。
公共性のトップでなければならない。
こんなことはプラトンの『国家』を読むまでもない。
学術は科学性以外の下僕であってはならない。
そうして公共性は科学にもとづかねば破綻する。
したがって次の定式のうち、左項が常に上位でなければならない。
科学≧学術>公共性≧国家>首長
権力は、自身の恣(私)意性を束縛されなければならない。
モンテスキューはそれを「三権分立」として定式化した。
それは一種の技術だが、アベ政治のもとでそれすら弁えていない政治家や官僚が近年の列島に叢生した。
「憲法」や「立憲」の意味を知らない選挙民と政治家も叢生した。
式をもっと単純化すれば
客観性>恣(私)意性
となる。
ヒトが歴史的に積み上げてきた英知、これを学術と言い換えてもいいが、その英知が上の二つの定式に込められている。それは、権力は常に恣意の誘惑にさらされていて、権力者は上の式の逆の磁場に存在するからである。
これらもっとも基本的な定式を了解せず、恣意の誘惑に抵抗しない政治は破綻を運命づけられている。
学術をおのれの下僕と見做す国家に未来はない。
「学問の自由」という言葉は「自由のはきちがえ」などといって誤解される。
むしろ「学の独立」こそが適切だが、さてその文句を「校歌」にもつどこぞの大学のトップは、この事態に対してその「精神」を示すのかどうか。
「経営」や「経済」なんぞを理由に逡巡するようなら、そんな「大学」はツブレてしまっていいのである。
わが加盟するいくつかの学術団体が、この事態にどう対処するかも見物である。
ドレイの主人はそれ自身がドレイである。
この格言は永遠である。

神奈川県立東高根森林公園の県指定天然記念物シラカシ樹林。
下から見上げると、木々が互いに光の隙間をつくりだして葉枝の縁がモザイク状になっているのがわかる。英語でcrown shyness(樹冠のはじらい)、日本語では樹冠の譲り合いと呼ばれる現象であるが、実際は風による揺れでぶつかり合うのを避けた結果と見られる。
シラカシがなんらかの理由で独立樹である場合は、以下のような姿を呈する。樹齢40~50年であろうか(同森林公園にて)。

ブナ科コナラ属の常緑広葉樹シラカシは武蔵野地域の潜在自然植生である。
東高根森林公園は自然林に近い貴重な植生を残しているが、実際の極相林は樹齢何百年という巨木で占められていた。林床に届く光は限られ、そこに生育する低木や草本の種も貧弱であった。
まして樹林の生産量は草原のそれに比べて著しく貧しいのである(岩城英夫『草原の生態』1971)。
数千年前、ヒトはこのような単相の大樹林を可能なかぎり多様な資源環境に変えるため、火をもってそれを切り開き、またその豊富な植生を維持するために、定期的な野焼きを行ってきた。
「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」とイメージされる武蔵野の「原風景」は、ヒトがつくりだした人為景観であった。
「縄文人」は決して「森の民」などではなく、ヒトとして生きるべく生きただけであった。
草本卓越を端的に示し「武蔵野屏風」の説明に引用される前掲歌は、『甲子夜話』巻七十に伊達政宗の和歌に関連して「古歌」として出てくるものだが、「武蔵野は月の入るべき峰もなし尾花が末にかかる白雲」(中院通方『続古今和歌集』巻第四)の本歌取りで、江戸時代に流布した俗謡とみられる。

この図は「東京都潜在自然植生」(東京都環境保全局、1987年)の一部で、前の『日本植生誌』の附図が50万分の1であったのにくらべ基図を5万分の1と長さで10倍にし、より詳細である。
中央線国分寺駅を中心としたエリアを切り出したが、前の図では「シラカシ群集」(4)のみであったのを、この図では開析谷斜面や窪地、玉川上水(上辺1本斜線)沿いおよび国分寺崖線部(左端中央から右下へつづく)が析出され「シラカシ群集、ケヤキ亜群集」(3)としている。
”樹の多いこの斜面でも一際(ひときわ)高く聳える欅(けやき)や樫(かし)の大木は古代武蔵原生林の名残りであるが、「はけ」の長作の家もそういう欅の一本を持っていて、遠くからでもすぐわかる。斜面の裾を縫う道からその欅の横を石段で上る小さな高みが、一帯より少し出張っているところから「はけ」とは「鼻」の訛(なまり)だとか、「端(はし)」の意味だとかいう人もあるが、どうやら「はけ」すなわち「峽(はけ)」にほかならず、長作の家よりはむしろ、その西から道に流れ出る水を溯って斜面深く喰い込んだ、一つの窪地を指すものらしい。”(大岡昇平『武蔵野夫人』冒頭近く)
よく指摘されるのは地理や地形についての大岡の観察と知識だが、植生についても本質に迫る記述であることに気づかされる。
図の右上、東北東に向かうのは石神井川上流の谷、図中央から玉川上水の南を東にのびるのが仙川の谷頭部である。
左半中央に細長い斜めU字型をつくる2つの谷がみえる。南側は恋ヶ窪谷、北をさんや谷という。また国分寺駅の東側で北につき出しているのは本多谷である(『国分寺市史』1986)。
国分寺駅の南側一帯は大雑把に「シラカシ群集、ケヤキ亜群集」(3)にくくられ、殿ヶ谷戸谷や丸山台(通称)などの起伏は省略されてしまったが、本来は小金井市中町や前原町付近のように「シラカシ群集」(4)と「シラカシ群集、ケヤキ亜群集」(3)が混じるはずである。
国分寺駅の北に細長い水色部分があるが(18)これは日立中央研究所の池で、その植生は「ヒルムシロクラス」としている。
玉川上水や日立の池もそうであるが、人工的に改変された地形も、当然ながら潜在自然植生に影響を与えるのである。