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本年7月2日の本欄で「ハクチョウ、トンデモ大発見」の記事を書いたら何人かから反応があった。
今度の記事はその「続」のようなものだが、「大発見」ではない。
知る人ぞ知る「トンデモ」ではあるのだが、児童(動物)文学の定番で公共図書館の検索ではその作品が収録された書籍は、1館につき10~20種類が楽にひっかかる。
影響力は前例の短歌の比ではない。

椋鳩十(本名久保田彦穂、1905-1987)という児童もの作家の作品である。
鹿児島県立図書館長も務めた人物で、代表作のひとつ「大造じいさんとガン」は小学校5年生の教科書にも掲載された。
それが今回の「話題」である。

基本は前回のハクチョウ同様、「肉食/草食」の誤りとして本欄の「続」なのだが、それだけではなく、物語全体が意図的な感動話としか言いようがないのである。
そうであるにもかかわらず、いやそれであるがゆえに、読者はいとも容易くとりこまれてしまう。

動物擬人化・感動ものとしては新美南吉の「ごん狐」がすぐに思い浮かぶが、近年まで動物物語は結局のところヒト文化の反照にすぎず、イソップ寓話の昔から教訓が主流、近代日本の出版文化においては「泣かせ」や「英雄譚」が売りとなっていた。
いずれにしても自然ないしは野生に生きるもののリアリティは、周到な観察と研究をもとにした動物行動学の成果以前は、ゼロというよりマイナスと言って差支えない。
ディズニーの「ライオンキング」はもちろんのことだが、シートンの『動物記』も、たとえば「オオカミ王ロボ」などは動物に仮託した虚構の人間話ではないかと疑っている。

その動物物語のなかでも、本作は別格の「ウソ話」である。
物語は栗野岳(霧島山地西端部、鹿児島県姶良郡湧水町)の麓に住む老狩人の大造じいさんの話、という設定である。
幸い小峰書店の椋鳩十動物童話集第6巻『大造じいさんとガン』(ほか2作品収録。1990年刊、上掲。表紙画藪内正幸)の巻末に、今泉忠明氏の「この本にでてくる動物たち」という10ページほどの解説がある。
この作品の「矛盾」については、今泉氏は以下のように控え目な「批評」をしている。

「大造じいさんは残雪(ガンのリーダーの仇名)を捕らえるためにタニシを糸で結び、ガンを釣ろうとしていますが、ガンの主食は植物質で、ハクチョウやカモのようにはタニシを食べませんから、ガンをおびき寄せるのはとても難しかったと思います。」

折角の解説だが、「ハクチョウやカモのようには」というところは、「ある種のカモのようには」としなければ正しいとは言えない。
既述のようにハクチョウの主食は植物であり、魚ないしタニシのような巻貝類を食べるのが目撃されたとすれば、それは個体による特異例である。
他方、カモは種によって草食、ないしは雑食、またもっぱら魚類などの肉食と三類があり、一概に「タニシを食べる」などとは言えない。
作中、おとりの餌として「タニシを五ひょうばかり」、挙句の果ては「いきたドジョウをいれたどんぶり」まで登場するのには笑うほかない。

さて、問題のもうひとつはその舞台である。
マガンやヒシクイなどのガン類は渡り鳥の典型だが、九州地方で越冬するかといえばそうではない。
日本列島に飛来するガンの8割が越冬すると言われるのは宮城県北の蕪栗沼などを含む伊豆沼一帯であり、他は各所に少数ずつ、それも本州どまりで九州は現在飛来数ゼロである。
九州も南では歴史的にも珍しく、まして南西諸島で見られることはないのである。
気候の変動要素もあり、過去に鹿児島に飛来したガンは絶無と断言できないまでも、継続的な越冬地は存在せず、仮に飛来した例があったとしても10羽以下、「大(たい)ぐん」(作中の表現)などはあり得ない。
ガンは雁(かり)の別名で小学唱歌でも親しまれているので、全国的にありふれた存在のように思われているが決してそうではない。

決定的な問題点は、このストーリーの主人公とも言えるガンの群れのリーダー「残雪」と、おとりのガンを襲ったハヤブサとの「戦い」にみられる(注記すれば、山形有朋の号が「含雪」であったことからもわかるように、「雪」は旧日本軍人好みの雅号の一部である)。
そもそも猛禽とは言え中型の鳥であるハヤブサが、体重も異なる大型鳥類のガンを空中で襲うという設定からして眉唾もので、おとりを救おうとして「残雪」がハヤブサに体当たりする行為にいたっては、「肉弾英雄譚」の擬制にすぎないのである。
自然界にもしそうした行為が見られたとすれば、それは群れの生存を最優先すべきリーダーの義務の放棄であり、とっぴょうしもない恣意的逸脱である。
話ではその勇姿に打たれた大造じいさんは、狙っていた鉄砲を下ろし、仇敵であったはずの「残雪」を保護して翌春放鳥する。

以下は作品の末尾近く、大造じいさんの言葉である。
「おーい。ガンのえいゆうよ。おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひきょうなやりかたで、やっつけたかあないぞ、なあおい。ことしの冬も、なかまをつれて沼地へやってこいよ。そうして、おれたちは、また、どうどうと、たたかおうじゃないか。」

この物語は、大造じいさんとガンのリーダー「残雪」の積年の知恵比べないしは戦いと、ハヤブサと「残雪」の戦いと、二重の「戦い」で構成されている。
その戦いのリアリティは人間の「歴史」以前、すなわち自然ないしは野生においてはゼロなのであるが、ストーリーテリングの基層には古色蒼然とした集合的無意識(「武士道」や「騎士道」の類)が横たわっていて、物語は当時そして現在もなお著者と読者が共有するそれによって成り立っているのである。

この作品は泥沼の日中戦争勃発4年後、「日本人」だけで300万人以上の死者を生む太平洋戦争突入1ヶ月前、雑誌『少年倶楽部』(11月号)でリリースされたものである。
そのことを念頭に置くとき、この物語が戦争という舞台の「書割」を利用しつつそれ自身も戦争の書割にすぎなかったことに気が付く。
椋鳩十の、それこそ無垢な動物と児童にことよせた虚構売文の戦争責任は、いまだ問われることはないようである。

それは『声に出して読みたい日本語』(2001年、草思社)が大ベストセラー(250万部)となった明大の齋藤孝が、『齋藤孝のゼッタイこれだけ!名作教室 小学3年下』(2012年、朝日新聞出版)や『小学生のうちに読んでおきたい名作101』(2020年、日本図書センター)をはじめとする数冊の自著で、何の疑念もなくこの作を喧伝していることでも明らかであろう。

こしらえものの安直な感動話でない動物譚の一例として、クレア・キップスの Sold for a Farthing をあげておこう。邦訳は『小雀物語』『ある小さなスズメの記録』と2種類ある。この作品は第二次世界大戦のロンドン空襲下で書かれた物語である。一方、幸田文の少女時代の回想「アカ」は小学校6年生の教科書に採用された犬の話だが、感動動物譚のなかではウソがなく、率直に評価できる作品である。

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潜在自然植生 その2

2020年9月30日の本欄で、宮脇昭編『日本植生誌 7 関東』(1986年)の附図KarteⅡ「関東地方の潜在自然植生図」(縮尺50万分の1)の一部を掲げた。
『武蔵野樹林』No.5(2020、11月)への連載寄稿「武蔵野地図学序説 その1」に引用した図は、さらにその一部であった。

同誌次号は来年2月刊行予定だが、「その2」の原稿は1週間ほど前に仕上げた。
今回は説の展開素材として5万分の1地形図を基図とした『東京都潜在自然植生』(東京都環境保全局、1987年)の一部を使用した。
以下がそれである。
ただしこれは文字などを加筆した手稿の段階である。

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中央線国分寺駅を中心としたエリアをとり上げたが、宮脇図では武蔵野エリアは基本的に「シラカシ群集」のみであったのを、この図では開析谷や窪地、玉川上水および国分寺崖線部を析出し、その部分(小丸付:3)を「シラカシ群集、ケヤキ亜群集」としている。

自然植生においては武蔵野台地はシラカシが優占するが、崖線や谷地などの斜面ではそれにケヤキが混じる。つまりケヤキは傾斜地を本籍とする樹木なのである。
ケヤキをシンボルとする自治体も多く身近な樹木と思われているが、それは街路樹植栽などの結果であった。
コナラやクヌギなど今日では武蔵野を代表するとみられる樹林も、むしろ近々三百年ほどの人為つまり薪炭原木栽培の残照である。

さて、左半中央に斜めU字ないし「音叉」型をつくる2つの谷に注目されたい。『国分寺市史』(上巻、1986年)によれば、北側の谷をさんや谷、南を恋ヶ窪谷という。また国分寺駅の東側で北につき出しているのは本多谷である。

恋ヶ窪谷とさんや谷が交わるU字の底辺に平たいV字めいた小図形がみえるが、これは日立中央研究所の池をあらわしている。この人工池の植生は凡例では水生植物の「ヒルムシロクラス」とされている。玉川上水や日立の池に見られるように、人為的に改変された地形であっても、当然ながら潜在自然植生に影響を与えるのである。

残念なのは国分寺駅の南側一帯が大雑把にひと括り(小丸付「シラカシ群集、ケヤキ亜群集」:3)とされ、殿ヶ谷戸谷や丸山台(通称)などの重要な起伏が省略されてしまっていることである。
正しくは小丸の付かない薄緑(「シラカシ群集、典型亜群集」:4)の島状エリアが存在しなければならない。
上図ではその部分を赤く着色し、殿ヶ谷戸谷も識別できるようにした。その結果見えてくるのは、さんや谷と恋ヶ窪谷、殿ヶ谷戸谷、本多谷が野川の上流部であった様相である。

つまり中央線国分寺駅付近の約1.1キロメートル間は、国分寺崖線は複雑に途切れた地形をなしている。
「国分寺崖線とは、国分寺に最も良く現れている崖線を意味している」(角田清美『国分寺崖線―その地理的・地質的特徴』2002年)といった俗説があるが、その典型的地形はむしろ小金井市以東に存在するのである。
(以下、詳細は『武蔵野樹林』2021年2月号)

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『武蔵野樹林』vol.5

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昨夕、東所沢の「角川武蔵野ミュージアム」のグランドオープン内覧会があり、招待者に6日発売の『武蔵野樹林』2020年秋号が配布された。
上はその表紙だが、私の名も末尾に挙げられている。
ちょっとした連載を試みて、その第1回目である。
以下、全5ページのうち2ページ分を「ためし読み」用に掲げる。

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二枚橋 その9

話が前後してしまうが、その7で掲載をしておくべきであった地図を以下に掲げる。
その7で挙げた東京都建設局による1953年の都市計画図にほぼ対応する範囲の、「1:2500 東京都地形図 26-15 国分寺」(2015年度版)の一部である。

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約60年の間隔をおく両者を比較すると、旧岩崎別邸の南端部と西北部が切り売りされ、西南部は公園(夜間閉鎖される庭園ではなく、一般開放公園)とされていたことがわかる。
馬頭観音の石塔の位置は、上掲図の「殿ヶ谷戸庭園」という文字の「谷戸」の中間で小径が南側に撓んだ先である。なお、現在は「ヶ谷」の文字が掛かる小径は存在せず、馬頭観音の石塔のところで途切れていて旧本館(現管理事務所)に向かうことはできない。
「谷」の文字の上に丸みを帯びた逆凸型の記号が見えるが、この図の凡例によればそれは「園庭」をあらわす。実際にはここには芝生の広場がひろがっているのであるが、コース入口からそこを横切り次郎弁天池に至る最短経路は、1975年の整備工事の際に廃止されたという(住吉𣳾男『殿ヶ谷戸庭園』)。そうだとすれば、その結果がこの地図に反映されていないのは、園内路については旧図ないし旧資料をそのまま用い、調査や更新がおこなわれなかった可能性がある。

結局のところ馬頭観音は庭園の中央の段丘面上にありながら回遊コースから外され、開析谷の途中から谷壁斜面に設けられた段を上って至る、もっとも奥まった場所とされたのである。

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上の写真は現在の殿ヶ谷戸庭園内馬頭観音石塔への道標と坂道。この道標から、急斜面に設けられた木製土留めの階段51段を上って石塔に至る。身体すなわち目の高さを使った簡易水準測量では、道標と石塔の高低差は約9メートルである。

ネット上などでは、国分寺市の説明をはじめとしてこの庭園を「国分寺崖線の南側斜面を利用し、湧水と植生を巧みに生かした回遊式林泉庭園」と説明しているのがほとんどだが、地形学的にはそれは誤りで、この庭園は国分寺崖線の段丘崖斜面にかかるものではない。

「国分寺崖線」の構造とその形成過程が理解されていないため、誤認が流布している。
段丘崖のあちこちからは湧き水が流れ出るが、それは段丘崖すなわち国分寺崖線が形成されて後のことである。
湧き水のいくつかは湧出口の上層を崩落させ、崖壁の谷頭侵食を開始する。
本来の「ハケ」とは、この段丘崖からの湧水とその初期侵食地形の謂いである。
その多くは段丘崖を直角に切り込む小さな谷となる。さらにいくつかの谷は成長していく。
そのひとつの谷の谷壁斜面を利用したのがこの庭園である。
つまり、形成史的には国分寺崖線と開析谷の間には何万年という時間差が存在し、かつ構造としても傾斜の方位、傾斜角およびその深度(高低差)は異なり、この斜面は段丘崖(国分寺崖線)とはまったく別ものなのである。

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二枚橋 その8

さて舞台は小金井の二枚橋にもどって、その一帯を前回紹介したと同様の大縮尺図で見てみることにしよう。
「三千分一東京西部十二号ノ一 多磨墓地東部」(薄藍:1942年6月空中写真測量、大日本帝国陸地測量部、都市計画東京地方委員会。墨:1953年3月測量、東京都建設局)の一部である。

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前出の図とくらべ容易に見て取れるのは、人家がほとんど存在しないことである。
図中央下寄りの二枚橋直下に等高線の標高数値44が見える。その数値の両側に2点鎖線がぶら下がるように描かれているが、この線は町村界として用いられており、二枚橋に南東で凸型に接するのが調布町(1955年市制施行)、「西武鉄道」の「道」という文字に掛かる2点鎖線の西側(左手)に広がるのが多磨村(1954年、府中町と西府村と合併、府中市となる)である。
図の右手「南梶野」という縦文字の左側の3点鎖線より東側(右手)が三鷹市(1950年市制施行)で、上辺中央に横書きされている「小金井町」(1958年市制施行)と併せ、4市町村の境界領域が複雑に入り組んでいる。
そのなかで二枚橋は境界そのもので、かつ境界を象徴した存在であることがわかる。

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二枚橋 その7

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都立殿ヶ谷戸庭園の中央付近に立っている「馬頭観音」の石塔。表面に「百万遍成就 馬頭観世音」とある。
後ろの説明板の記載は以下の通りである。

「馬頭観音の石碑/建立年代 文政七年(一八二四)七月二十三日/施主 国分寺村 本多氏/ 石柱 福島県産 八目石(やめいし)/市内に現存する馬頭観音十一基の内の一つ 当時の国分寺村は、戸数六十六、男一五七人 女一四九人、馬が二十二頭という状況でした。/これは、江戸幕府が同程度の村に期待した馬の飼育数十五頭を大きく超えています。/馬は農村の大切な担い手でしたが、その他にも、農耕の合い間に江戸へ薪炭、野菜などを運ぶ賃稼ぎにも馬は欠かせないものでした。/国分寺村が府中宿への助郷(すけごう)として馬の供給を負担していたことも、この村に馬が多かった理由のひとつでしょう。/そうした国分寺村の路傍に、/この石碑はひっそりと建っていました。」

記載責任の記名がないが、数字をしっかり挙げているから、国分寺市の文化財課などが起稿したものかもしれない。この文章中「市内(現国分寺市)」Aと「当時の国分寺村」Bとは、A⊇Bの関係つまりBはAの部分集合である。10の村が合併してできたエリアに、石塔が11基すなわち馬捨場が11箇所所在した、というのも理にかなう。
問題は「路傍」である。
住吉𣳾男著『殿ヶ谷戸庭園』(東京公園文庫47、2007年)は「園内の馬頭観音は、庭園の南西のはずれに馬を捨てる場所があったことが由来で、文政七年(一八二四)に村人が建立したもので、明治の初めまであったようである。岩崎家が園内に祀っていたもの」と書いている。
元来石塔は現在の位置になかったということである。
しからばそれは現殿ヶ谷戸庭園の南西隅にあったのかというと、そうではない。
馬捨場の位置は、村境であり地形の変換点であり、かつ「路傍」でなければならない。
前回述べたように、旧岩崎邸の塀は「池の坂」に接していたのである。
つまり「庭園の南西はずれ」とは、現在の殿ヶ谷戸庭園のそれではなく、戦後切り売りする以前の別邸敷地の南西隅か、あるいはその「外れ」すなわち敷地外に隣接した場所を指したかのいずれかである。
馬体の処理という物理的条件および他所馬捨場の例を併せ考えると限りなく坂下であったろうから、後者の可能性が大きい。

都は三菱の岩崎彦弥太家別荘を1979年に買い上げて庭園としたのだが、そもそもは江口定條(えぐちさだえ。元南満州鉄道副総裁、貴族院議員)が1913年から2年がかりで設けた別邸で、庭園は著名な庭師仙石荘太郎が手掛けたという。
池の坂の傍らにそれこそ捨てられていた石塔を、庭園石としてその中心に据えたのは仙石であったかも知れない。

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「三千分一東京西部十八号ノ三 国分寺」の一部。
この図は1933年空中写真測量による「大日本陸地測量部 都市計画東京地方委員会」発行図を薄藍で印刷し、その上からあらたに墨のインキングで製図し直された東京都建設局の都市計画用原図である。この図には作成年の記載がないが、他図の例から1953年3月に写真測量で作成されたものと思われる。
この大縮尺図からは、さまざまな興味深いことがらが読み取れるが、とりあえず本題に限って言えば、図左側にみえる当時の岩崎別邸の範囲が明白になることである。それは、細い二重線の間に斜線の入った1940年式「石、混凝土、煉瓦壁」の記号から読み取れる。
馬頭観音の石塔は現都立庭園と位置が同じとすると、「岩崎別邸」の「邸」の文字の右側の本館の南南東でギリシャ文字のΨ(プサイ)状に4本の小径が交叉するところに、それは存在したはずである。

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二枚橋 その6

いま人口に膾炙した地形用語「国分寺崖線」が誕生したのは、戦後も間もない1952年である(福田理・羽鳥謙三「武蔵野臺地の地形と地質 東京都内の地質Ⅳ」『自然科学と博物館』Vol.19, 1952年)。
その命名の地元となった国分寺市(当時は国分寺町)には、あまり知られてはいないが「池の坂」という名の坂道がある。
現在JR国分寺駅が所在する段丘面(台地)は国分寺崖線を切る二つの谷によって南側に突き出す舌状となっているが、「池の坂」はその舌先を北に上るあるいは南に下る坂道で、現在は京王線府中駅前を発して国分寺駅南口を目指す路線バスがローギアにチェンジして上っていく。

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「国分寺崖線」は、若き地質学者の調査と地形図によって「発見」された。図はその「発見」に寄与したと思われる2万5千分の1「立川」(1906年測図之縮図、1923年測図、1937年修正測図、1947年資料修正〈行政区画〉、1947年地理調査所発行)の一部。図歴をみると、行政区画は別として描図の中身は1937年の様相と思われる。

「池の坂」は国分寺駅の南、縦の「こくぶんじ」の文字の下(南)につづく道の一部。「国分寺街道」はその東側、開析谷に沿って迂回して国分寺駅北口(当時改札は北側にしかなかった)に向かっている。その迂回路も新旧二本並行しているのが見える。当然ながら殿ヶ谷戸庭園は存在せず、旗竿式記号の垸工墻(かんこうしょう。コンクリートや石、煉瓦の塀を表す。現在この記号は用いられない)で北と西側を囲われた岩崎別邸が存在するだけである。別邸の敷地は「池の坂」に沿って、坂下まで目いっぱいとられていることに注意されたい。敗戦前の岩崎邸は、現在の殿ヶ谷戸庭園よりずっと広かったのである。

近世までの国分寺村は、この舌先下つまり国分寺崖線下の野川流域にあって、いまJR国分寺駅とその南北商店街があるのはその北側の高位段丘面にあたり、近世には別の村であった。それは玉川上水の分水にたよって享保期(1716~1735年)に開拓された新田のひとつで、本多新田という。本来の国分寺村は現国分寺市の「東元町」と「西元町」にあたる。国分寺市の元となった国分寺村は、1889年(明治22)、市制・町村制施行によって10カ村が合併させられて誕生した。その年は甲武鉄道新宿・立川間が開通した年でもあった。

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2万分の1迅速図の原図「神奈川縣武蔵國北多摩郡國分寺村」(1881年・明治14)の一部。甲武鉄道開通以前、府中と国分寺を結ぶ道は、舌状台地の舌先の段丘崖(等高線の束)を少々東に振れて北に上がる。段丘崖にかかる部分が「池の坂」である。

国分寺崖線は国分寺村と本多新田村の自然の境界線で、池の坂は両者を結ぶ道の傾斜部であるが、そこは国分寺村と府中を結んだ国分寺街道の北延長にあたる。
しかし甲武鉄道と停車場(1889年開業)が建設された結果、そのルートは「池の坂」から外れ、現在の都立殿ヶ谷戸庭園東側の開析谷に沿って迂回し、鉄道を踏切で渡った新道に切り替えられた。

そうして、その殿ヶ谷戸庭園のほぼ中央に「馬頭観音」の石塔を見ることができるのである。

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2020年10月23日発行(奥付)だが、著者分として今朝10冊が届いた。
初版は2013年7月だから、間に再版はあったものの7年が経過した。
本来は絶版として、自分のところで出すことを考えていたのだが、増補してもいいからとの版元の意向を汲んで今回の「新版」となった。
本文も大分訂正し、増補部と索引計16ページを新しく付した。
脱稿したのが6月だから刊行まで4ヶ月後のリリースだが、このご時世である。
ともあれ拙著のあらたな門出を幸いとしたい。

なお、新版に際してのあとがきは実は重要なことなので、以下に再掲しておく。

「二〇一六年の再版以降、あらたに知り得たことも少なくなく、今般版元のご厚意で増補改訂版が実現できたのはまことに幸いである。江戸図研究は『江戸図の歴史』(飯田・俵、一九八八)でひつつの完成をみたように思われているが、実は最重要の手描き図についてはようやくスタート地点に立った段階である。本文でも触れたように、江戸図にかんするこれまでの定説・通説のたぐいは見直されるべきで、そのことを付け加えて、増補改訂版のあとがきとする。(二〇二〇年六月」

あとがきで言いたかったのは、切絵図や大絵図など、民間発行の版図については研究がすすんでおおよそのことが判明しているが、その元となった幕府系の測量図や手描き図については実はほんの少しのことしかわかっておらず、まして版本もふくめて江戸初期図についての江戸期以来の通説は再考されるべきだ、ということである。
通説の疑問点などについてはあちこちで話もしてきたが、それはこの新版で展開してはいない。
また別の機会もあろうと思っている。

以下は増補部の一部である。

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二枚橋 その5

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本稿その3の最後の写真は、上掲写真の右手の鉄道柵の囲いの中にある「馬頭観音」で、「二枚橋の坂」の標柱は写真の左上、白ライン(車道外側線)がゆるい逆「く」の字に曲がる角に立っている。

この馬頭観音について、『小金井風土記 余聞』(芳須緑、1996年)の「むかし話 二六 捨て場」には次のように書かれている。

「集落が構成されるとごみが出る。(略)人びとが忌み嫌う不浄なものも出てきてさて、それを捨てる場所が必要になる。小金井が(ママ)捨て場と伝えられるのは――。「貫井村 (略。東京学芸大学東門付近)」「二枚橋上 上・下小金井および、小金井新田の三部落の共有捨て場は、東町五丁目、野川付近にあったそうだ。現在は位置をずらして、西(ママ)多摩川線、二枚橋ガードの西側に、二本の松が植わる下に、馬頭観音の石像が、草にうもれてある。」「北関野 (略)」

「人びとが忌み嫌う不浄なもの」とは典型的には人間の死体であるが、近世社会においてはヒトが亡くなれば葬送され墓地に土葬されるのが一般的であった。火葬は近世においては特殊であり、それが一般化するのは近代以降である。だから古典落語「黄金餅」の、火葬場(桐ケ谷)で火葬死体から生前呑み込んでいた黄金の粒をせしめるというブラック・テリングは、江戸時代に仮託した創作である。
もちろんヒトの死体は「ごみ」ではない。ここで言われている「不浄なもの」とは「斃牛馬」(たおれぎゅうば・へいぎゅうば)のことであって、東日本では家畜の主体は馬であった。「馬頭観音」ないし「馬頭観世音」の石造物は馬の供養塔だが、実際には馬をはじめとする家畜の死骸捨所の目印として立てられることが多かったのである。

二枚橋の坂を通る道は、砂利鉄道敷設のための土手建設にあたってそのルートがいささか捻じ曲げられた。だから「馬捨場」の位置も以前とはすこし異なるのである。そして「二本の松」も伐られてしまった。しかしそれが坂の下方、つまり国分寺崖線の裾に位置することに変わりはない。
境界領域でもとりわけ坂下の路傍に設けられた「馬捨場」については、以下のような文章を前提としてはじめて了解が可能である。

「近世日本では、斃牛馬を飼い主が自ら解体することは認められず(多くの所では自ら埋葬することも認められず)、無償で長吏・かわたに渡された。引き取る者は、長吏・かわたの側の仕組み(旦那場の所持)で決まった。飼い主からみれば、渡す相手を選ぶ権利もなかったことになる。その形態は、関東では所定の馬捨場に出される場合が多く、地域を見回る非人がそれを見つけ、権利をもつ長吏に連絡して解体した。」(藤沢靖介『部落・差別の歴史 ―職能・分業、社会的位置、歴史的性格』2013年)

「長吏」や「非人」とは近世の被差別身分の称であるが、関東では問題意識が希薄でその存在が意識されることは稀である。しかし明治期も初めまではその社会構造は厳然として存在し、しかも江戸とその近郊を含む関東では浅草の弾左衛門支配下、長吏と非人の二重構造が機能していた。そうしてその存在は、多くの場合自然の地形と人為的な村界のふたつの要素の交点に顕在化したのである。

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二枚橋 その4

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「二枚橋」という橋名はすこし調べただけでも、埼玉県戸田市や静岡県御殿場市にも存在し、江戸川区の南小岩にはバス停の名として残されている。

上の写真は川崎市麻生区高石の「二枚橋」で五反田川の支流に架かり、津久井道が走る至近に所在する。
ご覧のように古代末期の義経・弁慶伝説を伴い、町会が独自にそれを公示している。

伝説を「荒唐無稽」や「つくり話」などと言って一方的に否定するのは適切ではない。伝説が言わんとしているのは話の全体ではなく、一片の真実だからである。義経・弁慶はさておき、この場合伝えんとするところは橋が大変に古くからあり、またそれが架かっていた古街道が遠く奥州にもつながるものであった、ということなのである。
柳田国男は「伝説」の特徴として、「必ず一定の土地または事物に固着」し、それを「発生せしむる社會上の原因が無ければなら」ず、「英雄は單にある種の傳説の古さ貴さを確保すべく、次々に招き請ぜられるのが普通であった」と書いている(「傳説」『定本 柳田國男集26』1964年)。ここはそれにあてはまる典型例のひとつである。

そうしてこの川崎二枚橋を通る南北道は、かつては矢野口の渡しで多摩川を渡った「鎌倉道」のひとつで、小金井の二枚橋もその経路の一部であった可能性が示唆されているのである(藤原良章『中世のみちと都市』日本史リブレット、2005年)。

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