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二枚橋 その5

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本稿その3の最後の写真は、上掲写真の右手の鉄道柵の囲いの中にある「馬頭観音」で、「二枚橋の坂」の標柱は写真の左上、白ライン(車道外側線)がゆるい逆「く」の字に曲がる角に立っている。

この馬頭観音について、『小金井風土記 余聞』(芳須緑、1996年)の「むかし話 二六 捨て場」には次のように書かれている。

「集落が構成されるとごみが出る。(略)人びとが忌み嫌う不浄なものも出てきてさて、それを捨てる場所が必要になる。小金井が(ママ)捨て場と伝えられるのは――。「貫井村 (略。東京学芸大学東門付近)」「二枚橋上 上・下小金井および、小金井新田の三部落の共有捨て場は、東町五丁目、野川付近にあったそうだ。現在は位置をずらして、西(ママ)多摩川線、二枚橋ガードの西側に、二本の松が植わる下に、馬頭観音の石像が、草にうもれてある。」「北関野 (略)」

「人びとが忌み嫌う不浄なもの」とは典型的には人間の死体であるが、近世社会においてはヒトが亡くなれば葬送され墓地に土葬されるのが一般的であった。火葬は近世においては特殊であり、それが一般化するのは近代以降である。だから古典落語「黄金餅」の、火葬場(桐ケ谷)で火葬死体から生前呑み込んでいた黄金の粒をせしめるというブラック・テリングは、江戸時代に仮託した創作である。
もちろんヒトの死体は「ごみ」ではない。ここで言われている「不浄なもの」とは「斃牛馬」(たおれぎゅうば・へいぎゅうば)のことであって、東日本では家畜の主体は馬であった。「馬頭観音」ないし「馬頭観世音」の石造物は馬の供養塔だが、実際には馬をはじめとする家畜の死骸捨所の目印として立てられることが多かったのである。

二枚橋の坂を通る道は、砂利鉄道敷設のための土手建設にあたってそのルートがいささか捻じ曲げられた。だから「馬捨場」の位置も以前とはすこし異なるのである。そして「二本の松」も伐られてしまった。しかしそれが坂の下方、つまり国分寺崖線の裾に位置することに変わりはない。
境界領域でもとりわけ坂下の路傍に設けられた「馬捨場」については、以下のような文章を前提としてはじめて了解が可能である。

「近世日本では、斃牛馬を飼い主が自ら解体することは認められず(多くの所では自ら埋葬することも認められず)、無償で長吏・かわたに渡された。引き取る者は、長吏・かわたの側の仕組み(旦那場の所持)で決まった。飼い主からみれば、渡す相手を選ぶ権利もなかったことになる。その形態は、関東では所定の馬捨場に出される場合が多く、地域を見回る非人がそれを見つけ、権利をもつ長吏に連絡して解体した。」(藤沢靖介『部落・差別の歴史 ―職能・分業、社会的位置、歴史的性格』2013年)

「長吏」や「非人」とは近世の被差別身分の称であるが、関東では問題意識が希薄でその存在が意識されることは稀である。しかし明治期も初めまではその社会構造は厳然として存在し、しかも江戸とその近郊を含む関東では長吏と非人の二重構造が機能していた。そうしてその存在は、多くの場合自然の地形と人為的な村界のふたつの要素の交点に顕在化したのである。

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